LOGIN小山湊(こやま みなと)の車の後部座席に、白いストッキングが落ちていた。それは、彼の部下の陣内直美(じんない なおみ)のものだと、すぐにわかった。 湊がバックミラー越しに、ちらりと私のことを見た。 「昨日はどしゃ降りだっただろ。残業してた部下を二人、家まで送ったんだ。二人とも全身ずぶぬれで、だから……」 「信じてるよ」 私は湊の言葉をさえぎった。 この色のストッキングは、直美のお気に入りだ。 直美と湊があまりに親密なせいで、私はこれまで何度も泣いて、ケンカをくり返してきた。ついには、「死ぬ」とまで言って、彼を追い詰めたこともある。 最終的に湊が折れてくれて、両家の親の前で誓ったのだ。もう二度と、直美とは個人的に会わない、と。
View More湊は直美と大喧嘩した後、むかし優香と暮らしていた家へと戻った。がらんとした部屋は、優香がもう二度と帰ってこないという事実を、彼に突きつけているようだった。ソファに座っていると、優香と過ごした日々の思い出が、映画のように頭の中を駆け巡った。自分のために、両親と口論してくれた彼女の姿……直美のことで、何度も自分を問い詰めてきたこと……エプロン姿で、いつもキッチンで忙しそうにしていたこと……湊は、力なく髪の毛をかきむしった。この家に引っ越してきたばかりの頃は、優香と二人で、輝かしい未来を夢見ていた。この手で優香を幸せにできると、世間にも、彼女の両親にも、証明したかったんだ。二人の生活はこれからどんどん良くなるはずだった。でも、それも全部、自分がこの手で台無しにしてしまった。ずっと、変わってしまったのは優香の方だと思っていた。異常なまでに束縛して、理不尽に直美を罵るようになった、と。でも今になって気づいた。変わったのは自分の方だったんだ。自分が何度も彼女を責め、何も説明しなかったこと、直美に仕事以上の距離で接してしまったことで、優香の不安をどんどん大きくしていったんだ。優香を傷つけたのは、自分だったんだ。自分を責める気持ちと後悔が、夜になると何度も湊を襲った。そして、次第に夜も眠れなくなっていった。しまいには注意力が散漫になり、仕事でも大きなミスを繰り返すようになった。役員に呼び出され、「素行不良」を理由に、自分から辞めるよう促された。血のにじむような努力をして、やっと手に入れたこの地位。それを見つめながら、湊はぼうぜんとしていた。すっかり気力をなくし、彼は自ら辞職を申し出た。その後、心療内科を訪れると、重いうつ病と不安障害を患っていると診断された。毎日、睡眠薬を飲まなければ眠れない体になっていた。そしてついに、医師の勧めもあって、最後に一度だけ優香に会おうと、湊は家を出た。彼女の生活を邪魔するためじゃない。ただ、元気にしているか、それだけを確かめたかった。そうして、ある日のよく晴れた午後。湊はとある画展で、優香の姿を見つけた。優香は新進気鋭の画家として、壇上でまぶしい笑みを浮かべていた。そして客席には、一人の爽やかな青年がいて、彼女に向かって夢中で拍手を送っていた。青年が優
アトリエに戻ると、隆が話しかけてきた。「話、どうだった?」私は何でもないふりをして、絵筆を握った。「全部ちゃんと話してきた。あとは、彼が早くサインしてくれたらいいんだけど」隆はかすかに口もとをゆるめると、とっておきみたいに、かばんから綺麗なケーキを大事そうに取り出した。「食べてみて。こっちの人は、気分が落ち込んだ時、みんな甘いものを食べるんだよ。最近SNSで話題のお店なんだ。2時間も並んだんだから、ぜんぶ食べてくれよ!しかも、君がいちばん好きなピスタチオ味」一口食べると、とろけるような美味しさに、私は思わずこくりとうなずいていた。隆も、私を見てにっこり笑った。数日後、また直美からメッセージが来た。【ねぇ!なんで社長があなたのところへ行ったあと、私への態度ががらっと変わったわけ?】【しつこい女!私と社長の仲を邪魔できるなんて思わないでよね!】わけがわからずにいると、湊のもう一人の秘書で、私と仲の良かった人からメッセージが届いた。【優香さん、泥棒猫の陣内はバチが当たったみたいだよ】【彼女の父親の会社が潰れた。それに、取引先のすごく大事な商品名を間違えて、みんなの前で社長に怒鳴られて、クビにするって言われてた】私は、二人のバカげた騒動には関わりたくなかった。ただ静かに自分の生活を送りたかっただけ。それからすぐ、湊から離婚に同意するという連絡が来た。私は手続きをするために、東都へ戻ることにした。市役所の入り口で、ヨレヨレの服を着て無精ひげを生やした湊と、また顔を合わせた。彼は、まだ最後のあがきをしようとしているようだった。「優香、もう直美はクビにした。あいつとはもう、本当になんでもないんだ」「入ろう。そろそろ私たちの番のはずだから」湊が本気で後悔しているのはわかった。でも、その気持ちはあまりにも遅すぎた。私たちが市役所から出てくると、外で待ち構えていた直美がいた。その目には隠しきれない喜びが浮かんでいて、有無を言わさず私を脇へと引っ張った。「あなたたち、とうとう離婚したんですね。正直に言うと、この日が来るのをずっと待っていました」「だったら、湊のところへ行けば?私に何の用?」私は、無表情で直美を見た。「ああ、そうそう、ずっと言いたかったんですけど、前に私たち
あの電話のあと、湊から連絡がくることは、しばらくなかった。私も海外で新しい生活を始めて、絵を描くのが好きになった。そんなある日、直美からメッセージが届いた。【あなたのせいで、社長は仕事に集中できず、ミスを連発しています。とうとう人事にも呼ばれたんですよ!】【はっきり言って、社長みたいな素敵な旦那さんがいるのに、大事にしないなんて信じられません。みんなそう言ってますよ!】【そんなんだったら、さっさときっぱり別れて、思わせぶりな態度はもうやめてください!】あまりに馬鹿馬鹿しくて、直美に返信する気にもなかった。でも、隣にいた葛城隆(かつらぎ たかし)が、興味深そうに私のスマホをのぞき込んできた。「へぇ、こいつが例の、君の元夫にちょっかいかけてた女?」私は彼をじろりと睨みつけた。隆は同じ絵画教室の生徒で、偶然にも、国内にいたころは高校の同級生だった。海外に来たばかりの私を、彼がよく美味しいお店や景色のいい場所に連れて行ってくれた。そんなこともあって、私たちはだんだん親しくなっていった。「それにしても、こんなあからさまな下心があるのに、気づかない男なんているわけないだろ?」隆の言葉に、絵筆を握る手がぴたりと止まった。そうだよね。湊が気づかないわけない。それなのに彼は、私の考えが汚れてるって責めてきた、自分の気持ちをごまかすために。私はふっと笑って、また絵を描き始めた。それから一週間後、湊が海外まで私を訪ねてきた。マンションの前で待っていた彼はひどくやつれていて、真剣に話がしたいと言った。私たちはカフェで向かい合って座った。目の前の湊は目の下がくぼんでいて、とても疲れているように見えた。「優香、こっちでの生活はどう?」「元気にやってるよ」私は湊ににっこり笑った。長い沈黙のあと、彼がやっと口を開いた。「もう一度……もう一度だけ、チャンスをくれないか?俺たちの今までの時間を無駄にしたくないんだ。今度こそ、会社を辞めて、直美とはきっぱり縁を切るから」私はコーヒーを一口飲んで、目の前の湊を見た。「もう遅いよ、湊、あなたは私と陣内さんの間で、いつも彼女を選んできたじゃない。あなたは、自分の気持ちが揺らいでいるのを隠すために、陣内さんへの特別扱いを当然のことだと言った。そして、私が
メッセージを送ると、私はふーっと長いため息をついた。でも、スマホはひっきりなしに震えつづけた。最初は無視しようと思った。でも、鳴りやまない振動にイライラしてきて、私はしかたなく電話に出た。「もしもし?」「優香、子供みたいに意地を張るのはやめてくれないか?戻ってきて、ちゃんと話し合おう」湊の声は、どこか焦っているようだった。「もし直美のせいなら、約束する。もう二度と……」「彼女のせいじゃない」私は湊の言葉を、冷たくさえぎった。「あなたと一緒にいたくないの。もう愛していない、ただそれだけ」電話の向こうは、長い間沈黙していた。私が通話を切ろうとした、ちょうどそのとき、受話器から湊の震える声が聞こえてきた。「ありえない……嘘だろ、優香!俺のこと、愛してないなんて、そんなわけないだろ!」そうよね、どうして急に愛せなくなったんだろう。かつての私は湊のために、会社との約束を破って、大事なキャリアも将来も全部捨てた。ただ一緒にいたかったから。彼を両親に認めてもらうために必死だった。しまいには、縁を切るとまで言って脅したこともあった。お金に困ったことなんて一度もなかった私が、湊との結婚のためのお金を、一緒に貯めてあげていたのに。日当たりの悪い安いアパートで一緒に暮らした。食べるのはいつもカップラーメンで、服はセール品ばかり。湊は、仕事の邪魔をされるのが嫌いだった。だから私は、彼のやり方を尊重していた。でも、直美が現れた。彼女は仕事の報告をしながら、平気で湊に冗談を言ったり甘えたりできた。湊のデスクには、もともと私の写真が飾ってあった。でもその場所はいつのまにか、直美が贈った置物に変わっていた。夜中に、報告書の数字がひとつわからないだけで、湊を呼び出す。彼は何十キロも車を飛ばして、わざわざ直美に教えに行った。それはどれも、私が一度もしてもらったことのない、特別な扱いだったのだ。湊の直美への特別扱いは、鋭いナイフになった。とっくに傷だらけだった私の心を何度も刺して、私を心身ともに疲れ果てさせた。そしてついに、湊への愛は私の中から消えてしまった。彼と直美が楽しそうにしていても、私の心にはもう、何の波も立たなくなった。私は、きゅっと眉間を揉んだ。「湊、本当に、もう愛してないの。役所の手続き