LOGIN「こ、これは」莉沙さんの声は震えていた。自分の行動が壱馬さんを怒らせてしまったことに気づいたのか、言葉は途切れ途切れで、必死に言い訳を探している。まさかここに壱馬さんが現れるとは夢にも思わなかったのだろう。だからこそ、彼女は安心して私を追い詰めようとした。けれどその計算は壱馬さんの登場で崩れ去った。「壱馬さん、背中が…」背中にコーヒーを浴びた壱馬さんの姿は痛々しく、心臓が苦しくなるほどだった。守ってくれたことへの感謝と、私を庇ったせいで負わせてしまった傷への罪悪感が入り混じる。涙が滲み、手を伸ばしたくても触れることができない。「俺のことはどうでもいい」低く落ち着いた声が響く。その言葉には揺るぎない決意が込められていて、自分の痛みよりも私を守ることを優先しているのが伝わる。「いいわけないです」思わず声を張り上げる。壱馬さんの痛みを軽んじることなんてできない。莉沙さんと話すよりも先に、壱馬さんの背中を水で冷やすべきなのに。「花澄が無事ならそれでいいんだよ」優しい声が耳に届き、胸が震える。「か、かずくん」「黙れ。お前に名前を呼ばれる筋合いはない」鋭い声が空気を切り裂く。壱馬さんは今、どんな顔をしているのだろう。その声の鋭さから想像するに、眉間には深い皺が寄り、目は鋭く細められているのかもしれない。冷静さを保ちながらも、内側に燃える怒りを隠しきれない顔。あるいは、静かな怒りを湛えた瞳で莉沙さんを見据えているのだろう。「き、聞いて、私はただ、」 必死に言葉を紡ごうとする彼女の声は震えていて、説得力を失っていた。私は壱馬さんの背中に守られながら、その声をただ聞いていた。心の奥では冷静に考えてしまう。ただ、どうしたかったのだろう。もし壱馬さんが庇ってくれなかったら、私は顔に火傷を負っていたかもしれない。その痛みと傷跡を抱え
「え…?」耳に飛び込んできた莉沙さんの言葉に、思わず声が漏れた。恐怖に似たざわめきが同時に広がっていく。「どうしてあんたなんかにかずくんを譲らないといけないのよ」「全部嘘…」さっき私にかけてくれた優しい言葉も、壱馬さんを諦めると言ったことも、全部。信じかけていた心が一瞬で崩れ落ちる。「当たり前でしょ。むしろあんただから諦められないの」私の存在そのものが彼女の執着を強めてしまったのだ。彼女の目に宿る光は狂気に近く、逃げ場を失ったような圧迫感に押し潰されそうになる。「そんな、」心の中では、彼女がそう思っているだろうと分かっていた。私が壱馬さんの隣にいることを、決して認められないのだろうと。けれど、それでも諦めると言った彼女の言葉を信じたくなった。それなのに、嘘だった。「今すぐ別れて」突きつけられた命令に、胸が締め付けられる。「不釣り合いなことくらい、分かってます」必死に絞り出した言葉。自分でも痛いほど分かっている。けれど、それでも壱馬さんの隣にいたい。声は震え、指先は冷たくなっていた。「でも、私は─────」胸の奥で燃える想いが、言葉になる前に押し潰される。「でもとかいらないから。さっさと別れて…!」その叫びと同時に、莉沙さんの手が乱暴にカップを振り上げた。次の瞬間、コーヒーが宙に舞い、茶色の液体が光を反射して飛び散る。熱い液体が迫ってくる瞬間、世界がスローモーションになったように感じた。時間が止まり、音が遠のき、心臓が凍りつく。恐怖で体は硬直し、逃げることも防ぐこともできない。ただ目を閉じて、いたみを受け入れるしかなかった。けれど、いつまで経っても熱さは訪れなかった。恐る恐るまぶたを開けると、「…こんな事だと思った」
「まさか莉沙さんからそんな風に言ってもらえるなんて、思っていなかったので…」正直、耳を疑った。あの莉沙さんが、こんなふうに柔らかい言葉を私に向けてくれるなんて。驚きが胸を突き上げるけれど、それ以上に心の奥がじんわり温かくなる。これまで彼女から浴びた言葉は鋭くて、どこか拒絶の壁を感じていた。だからこそ、今の一言は私にとって信じられないほど大きな意味を持っていた。「初印象最悪でしたよね。すみません」その言葉に胸が少し痛んだ。確かに最初は…。"あんたみたいな女が、かずくんと"あの記憶は鮮明に残っている。でも、事実だから。私はまだ壱馬さんの隣に並べるほど、素敵な人じゃない。今思えば、それも彼女なりの不器用な防衛だったのだろう。謝罪の言葉を口にする莉沙さんの姿に胸が締め付けられるような思いを抱いた。「い、いえ。謝らないでください」慌てて首を振った。謝る必要なんてない。彼女の言葉に込められた不安や後悔を感じ取りながら、少しでもその重さを軽くしてあげたいと願った。「私が、一方的に好きだったんです。それなのに、勝手に勘違いして」その声は震えていた。自分の想いが一方通行だったことを認めるのは、どれほど苦しいことだろう。「…誰かを好きになる気持ちは、決して間違いじゃないです。むしろ、真っ直ぐで素敵だと思います」静かに言葉を紡ぐ。私にこんな事を言う資格があるかは分からないけれど、彼女の痛みを少しでも和らげたい一心で、私は優しく微笑みながらその言葉を伝えた。誰かを好きになる気持ちは、純粋で尊いものだと思うから。「ずっと、自分の気持ちが重くて迷惑なんじゃないかって思ってたんです」その告白は、長い間抱えてきた不安の吐露だった。「それだけ真剣だったってことですから」「どれだけ努力しても、結局一度も振り向いてもらえなかった」
「お待たせいたしました」店員の声が耳に届いた瞬間、張り詰めていた空気が少し緩んだ。テーブルに置かれたタルトと、コーヒーの香りがふわりと広がる。「ありがとうございます」礼儀正しく声を添え、軽く会釈する。自分の緊張を誤魔化すために、丁寧な仕草を意識する。「美味しそう!」莉沙さんの明るい声に、場の空気が一気に華やぐ。その笑顔に少し羨ましさを覚えながらも、私は同じように微笑みを返した。「そうですね」短い返事をしながら、私はタルトの鮮やかな色合いに視線を落とした。表面にきらめく果実の艶やかさと、ふわりと漂う甘い香りが、ほんの一瞬だけ心を和らげてくれる。けれど、その安らぎはすぐに消えてしまう。彼女のように素直に「美味しそう!」と言えたなら…。私は、素直になることが怖い。何をしても否定される世界で生きてきたから、心の奥に染みついた恐れが、言葉を閉ざしてしまう。「ところで花澄さんは、かずくんといつ結婚するんですか?」思いもよらぬ言葉に、心臓が喉までせり上がるような感覚が走り、呼吸が乱れる。「ゴホッ…、ゴホッ、」驚きでコーヒーを飲み込むタイミングを誤り、咳き込んでしまう。頬が熱くなり、視線を合わせられずに俯く。自分の反応があまりに露骨で、恥ずかしさが込み上げる。「花澄さん、大丈夫ですか!?」莉沙さんの慌てる声が聞こえ、私は咳き込みながらも顔を上げた。視線の先には心配そうに眉を寄せた彼女がいて、その手にはおしぼりが握られていた。差し出されたおしぼりを受け取ると、指先にひんやりとした感触が伝わり、胸の奥のざわめきが少し落ち着く。私は慌てて口元を覆い、軽く押さえるようにして拭った。「すみません、大丈夫です」声はまだ少し震えていたが、必死に笑みを添える。「そんなに驚かなくても」莉沙さんはそう言
「今日は私の我儘に付き合ってくれて、ありがとうございます」莉沙さんの言葉に、胸が少し温かくなる。自分から誘ったことに対して我儘と表現するその姿勢に、彼女の気遣いが感じられた。私は両手を膝の上で重ね、少し背筋を伸ばした。緊張はまだ残っているけれど、こうして感謝を伝えてくれることで、場の空気が柔らかくなる。「そんな。私もこうやって外に出てゆっくり話すなんて久しぶりなので、嬉しいです」実家にいた頃は環境がそうさせていた。家族の目や生活のリズムに縛られて、自由に自分の時間を持つことが難しかった。樹と付き合っていた時さえ、デートなんてほとんど出来なかった。そして、壱馬さんの家に来てからも…。壱馬さんは働いているのに、自分だけが休んでいることが許されないように感じてしまう。彼の家に身を寄せている以上、少しでも役に立ちたい、負担を減らしたいという思いが常に胸にあった。「それなら良かったです。かずくんは元気ですか?」壱馬さんの名前が出た瞬間、胸がきゅっと締め付けられる。彼のことを聞かれるのは当然なのに、どこかで心がざわめく。「あ、はい」言葉を探そうとした結果、短い返事になってしまった。もっと自然に話せばいいのに、緊張で声が硬くなる。「昔は週一で会いに行ってたな〜」その言葉に胸が痛む。彼女と壱馬の過去の時間が、鮮やかに浮かび上がる。私は笑顔を保とうとするが、罪悪感が広がる。「そう…なんですね」声は小さく、少し間が空いた。無理に笑みを添えながら、相手を否定しないように気をつけた。「家で映画見たりして」その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に小さなざわめきが広がった。壱馬さんの家で見たロマンス映画がふと頭に浮かぶ。あの時、壱馬さんがこんなDVD持ってたかなって言っていたから、もしかするとそれは莉沙さんのものだったのかもしれない。彼女が壱馬さんの家に通っていた頃に置いていったのか、
「まさか男?」壱馬さんの声が低く落ちた瞬間、胸の奥がぎゅっと縮んだ。どう答えれば安心してもらえるのか、頭の中で必死に言葉を探しながらも、喉が乾いて声が出にくい。心臓の鼓動が早まり、呼吸が浅くなるのを自覚しながら、ただ必死に否定しようとした。「違います!女の子です」ようやく絞り出した声は少し震えていた。必死に否定しながらも、壱馬さんの表情を伺う勇気はなく、視線は床に落ちたまま。「本当に?」疑いがまだ消えていないことが伝わり、唇を噛みしめる。どうすれば安心してもらえるだろうか。「本当です」壱馬さんを安心させたい一心で、勇気を振り絞って顔を上げた。彼の目をまっすぐ見つめる。そこに込めたのは、嘘じゃない、誠実な気持ちだという必死の訴えだった。「二人で?」「はい」「そっか。カフェまで送ろうか?」意外な言葉に、思わず目を見開いた。「明日お仕事じゃ…」平日だし、壱馬さんは忙しいはず。なのに私のために送ろうとしてくれるなんて、嬉しいけど胸が苦しくなる。「…休む」その一言に、心臓が跳ねた。休む?私をカフェに送るためだけに?驚きと、ほんの少しの嬉しさが同時に押し寄せる。でもすぐに罪悪感が勝った。壱馬さんの大事な仕事を休ませてまで、私のために時間を使わせるなんて間違ってる。「だ、駄目です。お仕事はちゃんと行ってください」慌てて声を上げる。壱馬の優しさを否定したいわけじゃない。むしろ、彼を思っての言葉だった。そもそも、会社を休んでまですることじゃない。「でも…」壱馬さんの声には迷いがあった。最初は軽い冗談だと思っていたのに、その響きは次第に真剣さを帯びていく。胸の奥がざわついて、嫌な予感が広がった。もしこのままでは、本当に会社を休んで
「ピンク、です」 言った瞬間、胸がきゅっと締めつけられた。 私がずっと好きだった色。 柔らかくて、優しくて、見ているだけで心が落ち着く。 でも、どこかで子供っぽいと、笑われるかもしれないと、心の奥にしまい込んでいた色でもあった。 壱馬さんは少しだけ目を見開いて、すぐにふわりと笑った。 「なんか、花澄の雰囲気に合ってる気がする」 その言葉に、私は思わず息を止めた。
「え?」 驚きと戸惑いが混ざった声が、自然と漏れる。 「俺に、少しでも心開いてくれてるのかな。なんて思えるから」 それは……私にとって怖いことだった。 誰かに見られること。触れられること。拒まれること。 全部が怖かった。 でも、壱馬さんは違った。 「開いて…ます」
「俺は、花澄の優しいところが好きだよ」 その言葉が落ちた瞬間、胸の奥がじんと熱くなった。 まるで誰にも見せたことのない部分を、そっと撫でられたような気がした。 誰にも見せたことのない、見せる必要もないと思っていた部分。むしろ、気を遣いすぎて疲れてしまう自分を、ずっと否定してきた。 それを、壱馬さんは好きと言った。 「なに言って、」 照れ隠しのように言葉を返したけれど、声が少しだけ震えていた。
「こんなに人のこと好きになったことないから、どうすればいいのか分からないんだよ」 壱馬さんの声は、少しだけ震えていた。 それは、怒りでも苛立ちでもなくて、戸惑いだった。不安だった。 そして、切実な想いだった。 「私は…いえ、なんでもないです」 言いかけた言葉を、飲み込んだ。 壱馬さんの気持ちに、どう応えればいいのか分からなかった。 「困らせてごめんね。花澄が振り向いてくれるま