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朝7時52分。
そのクロワッサンは、最後の1個だった。
焼きたて。
表面はつやつやで、端は少しだけ焦げている。
ガラス越しでも分かる。
絶対においしい。
私はトングを伸ばした。
同時に、反対側から別のトングが伸びてきた。
カチン。
先端同士がぶつかる。
「……あ」
聞き覚えのない低い声。
顔を上げる。
背の高い男が立っていた。
白いシャツの上にネイビーのカーディガン。
寝起きなのか、髪は少し乱れている。
でもそれが妙に似合っていた。
私はクロワッサンを見る。
男も見る。
最後の1個。
譲るべきだろうか。
大人だし。
でも。
私は今日、このクロワッサンを食べるために、いつもより15分早く家を出た。
「どうぞ」
彼が先にトングを引いた。
一瞬、心が揺れた。
「いや、大丈夫です」
「でも取りたかったんですよね?」
「まあ」
「顔に出てます」
失礼だ。
「そんなに?」
「かなり」
彼が笑った。
ちょっと腹が立つ。
でも笑うと目尻が下がって、思ったより柔らかい顔になる。
「じゃあ」
私はクロワッサンを取った。
「遠慮なく」
「本当に取るんですね」
「譲ってくれたので」
「普通、1回くらい譲り返しません?」
「しました」
「1回だけ?」
「十分です」
彼が声を立てずに笑った。
朝から知らない男と、何をやってるんだろう。
私はクロワッサンをトレーに乗せた。
勝った。
なぜか少し嬉しい。
そのままレジへ向かおうとしたとき。
「あ」
彼が私のトレーを見る。
「それ、チョコ入ってるやつですよ」
「え?」
「プレーンじゃなくて」
札を見る。
【ショコラクロワッサン】
本当だ。
私はチョコが苦手だった。
朝から甘いものを食べると、少し気持ち悪くなる。
「……最悪」
思わず呟く。
彼が吹き出した。
「笑いました?」
「いや」
「笑いましたよね?」
「ちょっとだけ」
「失礼」
「でも、そんな顔するほど?」
「これを食べるために早起きしたんです」
「そこまで?」
「そこまでです」
彼は少し考えてから、自分のトレーを差し出した。
プレーンのクロワッサンが乗っていた。
「交換します?」
私は目を丸くした。
「持ってるじゃないですか」
「さっき取ったやつじゃないです。奥にもう1個ありました」
見ると、本当にある。
私が最後だと思っていただけだった。
なんだ。
「じゃあ普通にそれください」
「それだと面白くないので」
「何が?」
「さっき僕が譲った意味がなくなる」
意味なんて必要なんだろうか。
「じゃあ、交換」
「はい」
彼が私のトレーからショコラクロワッサンを取る。
そのとき、指が触れた。
ほんの少し。
指先だけ。
なのに。
朝はこういうのに弱い。
まだ頭がちゃんと起きていないからだろうか。
何でもない接触なのに、妙に意識してしまう。
彼の手は大きかった。
さっきトングを持っていたときより、近くで見ると指が長い。
親指の付け根に小さな傷がある。
そんなところまで目に入る。
「はい」
彼がプレーンのクロワッサンを私のトレーに置いた。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
「優しいですね」
「今さら気づきました?」
「そこまで自信ある?」
「朝なので」
「関係あります?」
「朝は少しくらい自分を高く評価してもいいかなって」
変な人だ。
でも嫌いじゃない。
私たちはそのまま並んでレジへ向かった。
彼が前。
私は後ろ。
白いシャツの背中。
肩幅が広い。
細身に見えたのに、意外としっかりしている。
朝から知らない男の背中を観察している自分に気づいて、視線を逸らす。
その瞬間。
彼が振り返った。
目が合った。
「何です?」
「いや」
「見てました?」
「見てません」
「即答ですね」
「見てません」
「2回言うと怪しい」
うるさい。
前向いててほしい。
彼は笑って、また前を向いた。
その拍子にカーディガンの襟が少しずれて、首の後ろが見えた。
なんとなく。
その首筋に指を這わせたら、どんな反応をするんだろう。
そんな考えが一瞬浮かんだ。
自分で自分に引いた。
何を考えてるんだ。
パン屋で。
朝8時前に。
「次の方どうぞ」
店員の声で現実に戻る。
彼が会計をする。
私はその後ろで、何事もなかった顔をした。
できているかは知らない。
会計を終えて店を出る。
外は少し風が冷たかった。
彼も同じ方向へ歩いていく。
少し前。
別れるなら今だろう。
知らない男。
名前も知らない。
クロワッサンを交換しただけ。
それで終わり。
その方が自然だ。
なのに。
「さっき」
彼が振り返った。
「本当に見てなかったんですか?」
「まだ言うんですか?」
「気になって」
「見てません」
「残念」
「何が?」
彼が歩幅を少し緩めた。
私と並ぶ。
近い。
肩が触れそうなくらい。
「見てたなら、ちょっと嬉しかったんで」
そういうことを、さらっと言う。
ずるい。
私は黙った。
彼が横から顔を覗き込む。
「今、顔赤いですよ」
「寒いから」
「耳まで?」
「体質です」
「便利ですね、その体質」
本当にうるさい。
私はクロワッサンの紙袋を胸元で持ち直した。
すると彼が、その袋を指さした。
「潰れますよ」
「え?」
「そんなに抱えたら」
「別に」
「せっかく僕が譲ったのに」
「交換しただけでしょ」
「じゃあ返してください」
「嫌です」
「気に入ってるじゃないですか」
クロワッサンの話なのか。
それとも。
一瞬だけ、分からなくなった。
彼が笑う。
絶対、分かって言ってる。
「じゃあ」
彼が少し身をかがめた。
耳元に顔が近づく。
「明日も来たら、今度はちゃんと最後の1個、譲ります」
声が近い。
朝の空気より少し低くて、少し温かい。
耳に息がかかった気がした。
身体が一瞬だけ固まる。
近い。
この距離なら、横を向いたら頬が触れる。
もう少しだけ彼が近づけば、唇だって。
……いや。
朝から何を考えてる。
「来るかどうか分かりません」
やっと言う。
「じゃあ、来なかったら僕が食べます」
「どうぞ」
「来たら?」
「考えます」
「クロワッサンを?」
「何を期待してるんですか」
彼がまた笑った。
名前を聞こうか迷った。
でも、今日は聞かなかった。
明日会えたら、そのときでいい。
私は曲がり角で足を止めた。
「私、こっちなので」
「僕はまっすぐ」
「じゃあ」
「はい」
2歩進んでから、彼が振り返る。
「ちなみに」
「まだ何か?」
「さっき、僕の背中見てましたよね」
私は無言で歩き出した。
後ろで笑い声がした。
朝8時6分。
紙袋の中には、ちゃんとプレーンのクロワッサン。
少しだけ温かい。
そして、なぜか耳もまだ熱かった。
明日。
15分早く起きる理由くらいには、なったかもしれない。
***
朝から人の背中を見て余計な想像をしたそこのあなた、大丈夫。私もです。
じゃあ、クロワッサン1個分くらい機嫌よく、今日も行ってらっしゃい。朝7時41分。私は知らない男のシャツを抱いていた。白いシャツ。大きめ。まだ少し温かい。そして、困ったことに、いい匂いがした。「……誰の?」朝のコインランドリー。乾燥機から洗濯物を取り出していたら、私の黒いニットと一緒に出てきた。当然、私のではない。一人暮らし歴8年。部屋に男物のシャツが紛れ込むような華やかな生活は、一度も送っていない。私はシャツを広げた。きれいに洗われている。襟元も袖口も傷んでいない。柔軟剤の香りだろうか。清潔で、少しだけ甘い。……こういう匂いの男なら悪くない。朝から何を考えているんだ。私はシャツを畳もうとした。そのとき。「あ、それ僕のです」後ろから声がした。振り返る。黒いパーカーにスウェットパンツ。片手に缶コーヒー。髪は完全に寝起き。しかも右側だけ妙に跳ねている。さっきシャツから想像した「清潔感あふれる大人の男」とは、かなり違った。「これ?」「はい」彼が笑う。「すみません。隣の乾燥機に入れたつもりだったんですけど」「1枚だけこっちに?」「たぶん」私はシャツを渡した。「どうぞ」「あ、ありがとうございます」彼が受け取る。そのまま着るのかと思ったら、しばらくシャツを見る。「……なんか、すごい丁寧に畳まれてますね」「途中までね」「僕、自分でやるとこうならない」「どうなるの?」彼がシャツを適当に丸める仕草をした。「こう」「最低」「着れば伸びます」「そういう問題?」彼が笑った。30歳前後だろうか。顔立ちは整っているのに、寝癖のせいで全然格好がついていない。でも、それが妙に親しみやすかった。私は自分の洗濯物をバッグに入れ始めた。「朝から洗濯するんですね」彼が言う。「夜、洗濯機回したら寝落ちして」「ああ」「朝起きたら、洗濯機の中で全部冷たくなってた」「分かります」「分かるんだ」「僕は昨日、洗濯機回そうとして洗剤入れたところで寝ました」「そこまでいったら回しなよ」「ベッドが呼んでたので」馬鹿だ。でも少し笑った。彼は隣の椅子に座って、シャツを膝の上に置いた。「それ、仕事用?」何気なく聞く。「いや」「じゃあ何用?」「デート用」私は手を止めた。なぜか。本当に、なぜか。ほんの少しだけ面白くなかった。「へえ」我ながら、感じ
朝7時52分。そのクロワッサンは、最後の1個だった。焼きたて。表面はつやつやで、端は少しだけ焦げている。ガラス越しでも分かる。絶対においしい。私はトングを伸ばした。同時に、反対側から別のトングが伸びてきた。カチン。先端同士がぶつかる。「……あ」聞き覚えのない低い声。顔を上げる。背の高い男が立っていた。白いシャツの上にネイビーのカーディガン。寝起きなのか、髪は少し乱れている。でもそれが妙に似合っていた。私はクロワッサンを見る。男も見る。最後の1個。譲るべきだろうか。大人だし。でも。私は今日、このクロワッサンを食べるために、いつもより15分早く家を出た。「どうぞ」彼が先にトングを引いた。一瞬、心が揺れた。「いや、大丈夫です」「でも取りたかったんですよね?」「まあ」「顔に出てます」失礼だ。「そんなに?」「かなり」彼が笑った。ちょっと腹が立つ。でも笑うと目尻が下がって、思ったより柔らかい顔になる。「じゃあ」私はクロワッサンを取った。「遠慮なく」「本当に取るんですね」「譲ってくれたので」「普通、1回くらい譲り返しません?」「しました」「1回だけ?」「十分です」彼が声を立てずに笑った。朝から知らない男と、何をやってるんだろう。私はクロワッサンをトレーに乗せた。勝った。なぜか少し嬉しい。そのままレジへ向かおうとしたとき。「あ」彼が私のトレーを見る。「それ、チョコ入ってるやつですよ」「え?」「プレーンじゃなくて」札を見る。【ショコラクロワッサン】本当だ。私はチョコが苦手だった。朝から甘いものを食べると、少し気持ち悪くなる。「……最悪」思わず呟く。彼が吹き出した。「笑いました?」「いや」「笑いましたよね?」「ちょっとだけ」「失礼」「でも、そんな顔するほど?」「これを食べるために早起きしたんです」「そこまで?」「そこまでです」彼は少し考えてから、自分のトレーを差し出した。プレーンのクロワッサンが乗っていた。「交換します?」私は目を丸くした。「持ってるじゃないですか」「さっき取ったやつじゃないです。奥にもう1個ありました」見ると、本当にある。私が最後だと思っていただけだった。なんだ。「じゃあ普通にそれください」「それだと