やりたくない仕事を、しなくてはならない日というのは、呆気なく来てしまうモノである。
今日がその一日目。
一人目の国民は、若い女性だった。
国民番号:三千四十八番 三枝 箕郷(さえぐさ みさと) 二十歳
昼間は大学に通いながら、夜はアルバイトとして飲食店で働いている。
それ以外には、コレと言った特徴があるわけでもない。
いたって普通の学生である彼女のことを、在籍している大学の事務に尋ねてみたりもしたが、二ヶ月程前から、講義に出席していないという情報以外、手掛かりらしいそれらは、残念ながら得ることは出来なかった。
だから俺は、彼女がアルバイトとして在籍している飲食店へ、足を運ぶことにした。
時刻は二十時を少し回った辺り。
店の住所を見て、少しばかり覚悟はしていた。
煌びやかな灯りが彩る表の通りを、少しばかり外れて、しかしそこから深く路地裏の方へと続く道を、しばらく歩いて数十分。
「ココか......」
目の前に現れたその店は、飲食店というよりも、廃墟の様な風貌だった。
周りの景色も相まってか、少しばかり空気が重い。
一見すると、その建物が店をやっているのかわからなくなるような、そういう佇まいだ。
ほんとうに、ココであってるのだろうか......
そう思いながら、やはりすぐには尋ねる気になれなくて、その建物の前で少しばかり、立ち往生してしまう。
そして、しばらく経ったくらいだろうか......
「あんた、入らないのかい?」
「えっ......」
振り返ると、そこには背の高くて線の細い男が立っていた。
いつからそこに居たのかは、わからないけれど......
男は俺の方を見て、溜め息混じりに言い放つ。
「客じゃないなら、悪いけれど帰ってくれないか?いつも大して客が居るわけでもないが、今日は特に酷いんだ......」
そう言いながら、男は俺から視線を逸らして、店の中に入ろうと、すぐ近くを歩く。
けれどそんな男に向かって、俺はさらに尋ねる。
「失礼ですが、アナタは......?」
「俺はココの店主だよ。そういうアンタこそ一体何者なんだい?いつもこんな所に来る様な人には見えないけれど?もしかして......行政の人間かい?」
言い当てられて、俺は些か、動揺してしまう。
そしてその動揺を隠せないまま、俺は返答する。
「......はい、そうです。よく......わかりましたね......」
「まぁ......そろそろ来る頃だろうと、思っていたからね......」
「......それは、どういう......」
「聞きに来たんだろ?箕郷のこと......」
そう言いながら、男は俺を、店の中に促した。
店の中は、思っていた以上に綺麗だった。黒を基調としたカウンターに合わせて、静けさを彩る間接照明は、先ほど見た外観からは想像できないような、そんな印象だった。
しかしこの店主の言う様に、たしかに客入りは好ましくはないようだ。
なんせ今店内には、俺とこの店主しかいない。
「何にするんだい......?」
カウンターの中に入り、店主は俺に尋ねる。
その姿を見て、俺はまた、少しばかり戸惑いながら、視線を逸らして言葉を返す。
「酒は......あまり強くはないんですけれど......」
「それなら、スクリュードライバーなんかはどうだい?」
「いや......ウォッカはちょっと......」
「だが柑橘系で飲みやすい。それに丁度、いいオレンジがあったのを、厨房に入るまで忘れていたんだ。薄めに作るから、どうだい?」
「......わかりました。じゃあそれで......」
俺がそう言うと、店主は「はいよ」と機嫌良く言いながら、カクテルを作り始めた。
けれど俺は、自分でも言う様に、あまり酒が強くない。
しかも今は、一応業務中だ。
あまり、呑まれるわけにはいかないな......
そんな風に少しだけ、俺はこれから出て来るカクテルに対して、警戒心を強めていた。
すると、そんな俺を見かねた店主は、静かに笑いながら、声を掛ける。
「おいおい、そんな風に見つめられても、俺は男にはサービスしない主義なんだ。変な期待はよしてくれ」
「なっ......べつに、そんなつもりは......」
「ハハッ......冗談だよ。だがココは、酒と会話を楽しむ所だ。そんな所で、そんな風に強い視線を向けるのは、些か場違いだと、そうは思わないかい?」
言いながら、コチラの視線を覗く様に、しかし口元には笑みを添えている。
その店主の表情を見て、自分も少しは、冷静さを取り戻さなくてはいけないと、そう思う。
普段は来ない様な店だから、少々浮足立っているのだろう。
そう思い直して、俺は彼に謝罪する。
「......たしかに、失礼しました......」
「素直だな。良いことだ......」
そう言った後に、店主は俺の手元に、ずっと作っていたカクテルと、沢山のナッツが盛られた皿を、差し出した。
「あの、これは......」
「初回限定だ、次はない」
そう言いながら、こちらに笑い掛ける店主の顔は、とてもやさしいそれだった。
まだ出会ってそこまで時間が経っていないはずなのに、何故かとても懐かしい様な、そんな気さえしてしまう。
「......ありがとう、ございます......」
そう言いながら俺は、出されたそのカクテルに、口を付けた。
出されたカクテルは、後味がスッキリしていて、とても飲みやすかった。だから口からは、自分でも驚くほどに、素直な言葉が出てしまう。
「美味しいです。それに飲みやすい......」
「それはよかった......」
そう言いながら店主は、口元に火を点けて、煙を吐く。
「......っ」
「ん?あぁ、コレか......?」
まだこんなモノを使っている人が、この国に居ることに、俺は少し驚いた。
「タバコ......ですか......?」
「......今では吸っている奴なんて、いないだろうけれどなぁ......」
「そりゃ、そうでしょう。CORDの運用が始まって、真っ先に姿を消したのはそれです。有害なだけで、身体には何一つ、良いことがない......」
「......そうかもなぁ」
そう言いながら、店主は煙を深く吸い込んで......そして吐き出す。
吐き出された煙は照明に照らされて、半透明なそれらから、多少は白けて見えたりもする。
そしてそんな煙を吐いた後に、店主は続けて、言葉を紡ぐ。
「だが......悪いことばかりでもない......嗜好品を口にして、灰にしてすり潰す。そんなことが許される財力を、自分はまだ持ち合わせているということの確認は、俺みたいな奴からすれば、必要だったりするモノだ......」
そう言いながら、店主はもう一度、タバコに口を付ける。
そんな彼の姿を見て、俺の口からは、溜め息混じりに言葉が漏れる。
「そんな......身体の健康と引き換えにするようなモノですかね......」
そう言いながら、俺は手元にあるカクテルを口にする。
そんな俺の姿を見て、彼の口からは、煙混じり言葉が飛ぶ。
「それにアンタだって、酒は嗜むんだろ?違うとは言わせないぜ?」
「......まぁ、そうですね......」
そう言いながら、俺はまたもう一度、カクテルに口を付ける。
この時の言葉で、俺はこの店主が、何を言いたいのかが、すぐに理解できたのだ。
酒とタバコ......要は、嗜好品には変わらない。
そんでもって結局、どちらも健康には、害悪でしかないのだ。
嗜好品は、時に思考を鈍らせる。
ほんとうに、恐ろしいほどに......
そんな風に思いながら、俺はカクテルの最後の一口を飲み終える。
すると店主は、そんな俺に対して言う。
「一番いいのは、敵にタバコの箱をプレゼントすることだ」
「はい......?」
「大昔の、誰かの言葉だよ。まぁもっとも、今回は酒だったがな......」
その店主の言葉から後、俺の記憶は、途絶えたのだ。
目を覚まして驚いたことは、少なくとも二つあった。一つは、見ず知らずの場所で、見ず知らずの人間が作った酒を、何の警戒もせずに口を付けてしまった、そんな自分の無防備さ。
そしてそしてもう一つは、その後......
意識を失っていた俺を、どこか別の場所に連れ出して、拉致監禁でもするのかと思っていたら、どうやらそういうわけでも、ないということだ。
「......っ」
恐らく、ソファーにでも寝転がされているのだろう。
ぼやけた視界越しに見える景色は、さっきまでと変わらない。
間接照明と、黒を基調としたカウンターテーブルがあるその店の内装。
そしてそこに、店主の男が一人。
それと......もう一人......
視界の先には、さっきまでと同様、カウンター越しに立つ店主。
それともう一人、若い女が、その店主と相対する様にして、座っていた。
そしてコチラに気が付いたその女は、俺の方を振り返りながら、言う。
「あっ、気がつきましたか、新堂浩一さん」
「はっ......?」
俺はその時、目の前に居るその女に対して、理解が追い付かなかった。
なぜならその女は、俺が今日、足取りを追っていた人物。
三枝 箕郷(さえぐさ みさと) その人だったからだ。
「もう、意識がハッキリする頃ですよね?大丈夫ですか?」
そう言いながらその女は、酒が入ったグラスをテーブルに置いて、椅子から立ち上がり、俺の方に近付いて来る。
ゆっくりと歩きながら、ゆったりとした口調で、からかう様な声色で、その女はさらに続ける。
「私のこと、聞きに来たんですよね?いいですよ?訊かれた事には何でも答えます。つつがなく、包み隠さず。何でも......」
そう言いながら、未だ立ち上がれずに横になっている俺に対して、女は顔を近づける。
ほうとうに、わざとらしく、からかう様に......
そんな女に、冷静を装いながら、少しだけ起こして、俺は言う。
「まるで、俺が何を訊くのかを、予め知っている様な物言いだな......」
「そうだとしたら......?」
「俺のこと、誰から訊いた?それにアンタは、一体何を知っている?」
そう俺が尋ねると、女は適切な距離感に戻った後に、笑いを含ませながら言う。
「......べつにアナタのことを、誰から訊いたわけでもないです。ただ単に、流れて来ただけ。それに私は、実はまだ、何も知りません......」
「話にならないな......」
言い返しながら、俺は女から、視線を外した。
しかし女は、そんな俺に対して、そのままの口調で話を続ける。「でも、そんなことはどうでもいいの。重要じゃないわ。まったく......」
そう言いながら、女は俺の視界に入る様に、また身体を近づける。
甘い匂いが、俺の鼻に届く程、女は近くに居るのだ。
そしてそうなると、どんなに身体を起こそうと、どんなに避けようとしても、俺の視界の中心には、その女が居る。
女は、続ける。
「......だって私の中には常に、
言いながら、明らかに常軌を逸しているその女は、俺の身体に触れようと、徐に手を伸ばす。
しかし俺は、その手を払いのけて、言葉を返す。
「......一体、何を言っているんだ?あの人?それは誰だ?流れ込む?どういう意味だ?」
「意味なんてないのよ。意味なんてない......ただあるのは、繋がりだけ......この国に居る限り、誰もそれを断ち切る方法を知らないの。いいえ、違うわ。教えないのよ。誰も......それを知っている人でさえ、みんなと同じ様に、口を噤むの。だから誰も知らない。この社会で、声を挙げる方法を......」
そう言いながら、女は俺の身体に、馬乗りになる。
払いのけて、離れればいい筈なのに、俺の身体は動かない。
恐怖で、動かないのだ。
「......っ」
もしもこの女が、ただの酔っぱらいなら、ここまでの恐怖心を、この女に対して感じることはないだろう。
アルコールや薬物の様な、そういう類の臭いも、この女からは感じない。
けれどそれが、ハッキリ言って、不気味なのだ。
この女は、正常だ......
身体に何かしらの障害があるわけでも、外傷があるわけでもない。
それに最初の会話。
俺が目を覚ました時は、もっとちゃんと、成立していた。
そうなるとこの女は、少なくともその時までは、正常だったのだ。
それなのに、こんな短い間で......
しかも何の前触れもなく、おかしくなるなんて......
そんな風に、目の前の視界を占めるその女に対して俺は、哀れみに似た。
けれどそれでいて、やはり不気味な化け物を見る様な、そんな心情だった。
しかしその女は、そんな俺に対して、言い放つのだ。
「いいや、
まるで違う口調で、しかしさっきと同じ質感と色合いで、彼女の口はたしかに、そう言った。
目の前の景色は何一つ、変わってはいなかった。たださっきまでと違うのは、その女の身体から出る言葉が、もう既に、三枝箕郷のモノではなくなっていたのだ。
そしてその代わりに、その女の身体から出たのは、紛れもなく、奴のそれだった。
「......おい、悪い冗談だろ......」
あまりにも唐突に、突き付けられた、ありえない筈の現実に、俺の口からは、言葉が漏れる。
しかしそんな俺に対して、奴は穏やかな口調で言葉を返すのだ。
「ひどいな......十年ぶりの再会だというのに......けれどまぁ、驚くのも無理はないか......」
その言葉で、やはりもう、それらは三枝箕郷のモノではないということが、明確になったのだ。
そしてそのまま、その女の身体は、奴の言葉を続ける。
まるでそれが、当たり前であるかのように......
「久しぶりだね、浩一......」
そう言いながら、女の身体を使いながら、奴は俺に触れようと手を伸ばす。
けれど俺は、それを強く拒絶しながら、狼狽する。
「......いい加減にしろ、何が、どうなっている......」
「そんな風に言うなんて、ほんとうに君は、酷い奴だ......」
そう言いながら、女はジッと、俺の方を見る。
虚ろな視線で、俺を見る。
「......お前が砂城だって......そう言うのか......お前は......?」
「そうだとしたら......君はどうする......?」
言いながら、微笑を浮かべる女の顔は、もう誰のモノなのか、わからなくなる。
だから俺は、一度それから視線を逸らして、記憶を整理する。
「でもお前は、あの時、俺の目の前で......」
そう俺が呟くと、目の前の女は静かに笑う。
まるで何かを思いついたかのように......
まるで何かを、思い出したかのように......
「あぁ、そうか......そうだったね......」
そう言うと、その女の身体は徐に、近くに飾られていた拳銃に手を伸ばす。
そして女は、その拳銃の撃鉄を引き起こして、銃口を自分の頭に向ける。
そして引き鉄を指に掛けたまま、女は言うのだ。
「たしか、こんな風だったかな......」
そう言いながら、拳銃を構える女の瞳は、虚ろだった。
もはやもう、その身体の、本当の所有者が一体誰なのか、そんな簡単なことすらわからなくなるような......
しかしそれでいて、引き鉄に掛け慣れたその指は、身体は違えど、もう次の瞬間には、黒鉄を紅く染めたのだ。
「......っ」
ほんとうに、意図も簡単に......
目の前で吹き飛んだ三枝箕郷の顔は、途轍もない勢いで肉片と血液を、銃弾が通過した風穴から零れ落して......その零れ出た多量のそれらは、確実にその女の身体の生命活動を、終わりへと近付ける。
その身体は、もう何も話さない。
動くこともなく、体温を伴うこともない。
生きるという行為に繋がる全ての事柄を、その身体はたった今、俺の目の前で、断ち切られたのだ。
「いや、断ち切られたというよりも、解き放ったという表現の方が、正しいのかもしれない......」
そう言ったのは、カウンター越しに立って居る店主である。
そういえばこの男はずっと、最初からそこにいた。
こんな惨状でも、この男はそこから離れていなかった。
そんな男がまるで、俺の思考に対して、答えを提示するようにしながら、口を開いたのだ。
「......アンタ、何言ってんだ......?」
俺はそんな風に、店主に対して、言葉を返す。しかし言いながら、俺はその店主の違和感に気が付いて、さらに後ろに身をたじろがせて......
いつのまにか店内の壁に、背中を着ける。
そんな風にしている俺に対して、店主はさらに、言葉を続ける。
「もう、いい加減に気が付いただろ?そこでそうしている死体も、そしてこの男も、今はもう、僕が入り込むための、ただの箱でしかないんだよ......」
そう言いながら、店主はカウンターの中にあるのであろう、ココからは見えない椅子に座って、俺の方を見る。
さっきの女と同じ様な、虚ろな視線で、俺の方をジッと見るのだ。
そしてそのままの状態で、さらにその店主は......
イヤ......店主
続けて言葉を、俺に対して、紡ぐ。
「君はココに来るまで、こう考えていただろ?今回のこの事件は、十年前に僕が引き起こしたアレに、酷似している。だからきっと模倣犯が居る筈だ」
「......っ」
「しかし優先して確認するべきは、被害者たちの安否だ。だからまず君は、三枝箕郷の足取りを追った。けれどまぁ、有力な情報を得ることは、残念ながら出来なかったようだね......」
そう言いながら、男は店の中にあるウイスキーを開けて、それを小さなグラスに注ぐ。
そしてそのグラスに注がれたウイスキーを、男は一口で飲み干す。
そして飲み干した後に、さらに続ける。
「この身体は、酒に強すぎる。まったく、うらやましいよ......」
そう言うと男は、もう一つ、同じグラスを取り出して、そこに同じウイスキーを注ぐ。
そして注いだ後に、男は俺の方を見て言うのだ。
「君もどうだい?浩一」
気が付くと俺は、そのグラスの前に座っていた。えっ......
アレ......?
なんで......?
目の前に置かれた、小さなグラス。
けれど俺には、その小さなグラスの前に座るまでの記憶がなかった。
まったく、俺はその席に座ったことを、覚えていない......
「......っというよりも君は、僕がどんなに促したとしても、決して座りはしないだろ?それなのに言葉で君に誘い掛けるなんて、そんなのは時間の無駄じゃないか」
「......さっきから」
「ん?」
「さっきからやたらと、俺の思考に対して、返答をしている様に思えるが、それれは俺が無意識のウチに、口でそう話しているからなのか?それとも......」
「それとも?」
「......それともお前は、どういう仕組みかは知らないが、相手の思考がリアルタイムでわかるっていうのか......?」
そう尋ねた俺の言葉に対して、肯定が返ってくることは、わかっていた。
間違いなく、後者の方で......
そう思っていると、目の前の男は小さく静かに笑いながら、俺が尋ねた言葉に対して、返答する。
「わかりきったことを、聴くじゃないか......そうだよ、僕には君の思考が分かる......っというよりも、流れ込んで来るという方が、正しいのかもしれないね......」
そう言いながら、目の前の男は、小さなグラスに注がれた液体をもう一度、一口で飲み干す。
そしてまた、その空いたグラスに自ら、同じ液体を注ぎ入れる。
注ぎながら、男は続ける。
「まぁ、こんな状態になってしまえば、当然のことだよ。今の僕は謂わば、『意識だけがデータ化した存在』だ」
「意識......だけ......?」
「あぁ、しかしその意識という言葉は、単に人体の生命活動を維持するそれらとは、意味が違う。どちらかと言えば、記憶や思想、もっと大きな括りで言うならば、人格......いや、魂かな......」
そう言いながら、目の前の男は不敵に笑って、視線を外す。
視線を外しながら、液体を注いだグラスの淵を、指でなぞりながら、男は続ける。
「僕の魂は今、この国の電子の海の中に在る。二十一グラムの質量すら持たないこの魂は、質量を有する肉体に、無条件に入り込むことが出来るのさ」
そう言いながら、得意気に笑うその男の顔に対して、俺は言う。
「つまりお前は、CORDを介して、他人の意識をのっとることが出来るようになったと、そういう言いたいのか......」
「あぁ、それも、あの時を境にね......」
そう言いいながら目の前の男は、自らの指で、自らの頭に、銃口を向ける様な仕草をして、俺の方を見ながら笑う。
十年前に死んだ筈だった男は、今俺の目の前で、俺のことを、嘲笑うのだ。
「......っ」男の言葉と態度は、俺の目の前で起きている事柄を、とうとう確定的にしてしまった。
しかしそれらに対して、俺はもう、たじろいではいけないのだ。
もしもたじろいでしまえば、それすらも奴に気付かれる。
それすらも奴に気付かれれば、もうどうすることも出来ない。
そんな風に思いながら、俺は目の前の奴に対しては何も言わず、しかし視線はカウンター越しに、鋭く向ける。
けれども、店主の身体に身を扮した友人は、嘲笑の態度を崩さぬまま、言葉を続けるのだ。
「......まったく、怖い顔をする」
「......悪いな、元から、こういう顔なんだ......」
そう言いながら、俺は目の前に在るグラスに手を伸ばして、注がれていた液体を一口で飲み干す。
そんな俺に対して、わざとらしく間をおいて、友人は話し出す。
「......仕組みは、そこまで難しい話ではないよ......さっきも言った通り、僕の意識は質量を持たない。そしてそれ故に、CORDのネットワークを通じて、他人の意識にすり替わることが出来る」
言いながら、目の前の男は自らの頭を指差して、そして言い放つ。
「君たちが何の意識もしないまま、頭の中に埋め込んだその機械は、僕の意識を快く受け入れる。それだけのことさ......」
言い切った後に、彼はまた、グラスを空にする。
そして再度、彼はまたグラスに、同じ酒を注ぐのだ。
そして俺は、そんな彼に対して、言葉を返す。
「......つまりお前は、十年前のあの時から既に、こんな化け物みたいな状態だっただと、そういうことなのか......?」
言うと彼は、また少しだけ、口元に微笑を浮かべて、返答する。
「いいや......それは少し違うな。あの時の僕は間違いなく、人としての身体を最初から持ち合わせた、ただの人間だったよ」
「それなら......」
「でももう既に、あの時からこれらのことは全て、計画されていた。国のネットワークに、そのヒト特有の情報を全て投影する。そうすれば自ずと、人は身体という箱から自由になる。そんなことを、考えていたのさ......」
そこで話を切って、彼はまた、グラスに手を伸ばす。
けれど俺は、そんな彼の言葉に対して、問い掛ける。
「計画......
「あぁ......」
「その言い方だとまるで、お前以外の人間も、そんな馬鹿げた計画に関わっていて、そしてそいつ等こそが実は黒幕だと......お前はそう言うのか.....?」
尋ねた俺の言葉に対して、友人は静かに、肯定した。
その彼の肯定の態度を見た瞬間、俺は反射的に立ち上がった。そして、何故か手を伸ばせば、すぐに届く距離にあった拳銃を手に取って、そしてそれを彼に向けた。
扱ったことがない筈のその黒鉄は、どうしてなのだろうか......
嫌に、手に馴染む......
「銃口を向けるなら、気を散らさない方がいい。そんなことを気にする必要はないよ。大丈夫、セーフティーは外してある。もっとも、残弾は一発だけだけれどね......」
「......っ」
言いながら、微笑を浮かべなるその男の表情は、俺の知っている砂城の、それだった。
身体が違うが故に、顔も違う筈なのに、どういう訳か、やはりその言葉と表情には、既視感を覚えるのだ。
しかしそれらを振り払い、俺は奴に、強い口調で問い掛ける。
「誰なんだ......」
「ん?」
「一体誰が......お前に協力している?」
「フフッ......」
「何がおかしい?」
「イヤ......この状況とは裏腹に、あまりにも、怯えている様な目をしているからね......それが少しだけ、面白かっただけさ......」
男はそう言いながら立ち上がり、向けられた銃口に額を着ける。
体重を預ける様に、前のめりになりながら......
「......っ」
思っていた以上の重さが、俺の腕を押し返す。
そしてその重さの先の、奴の瞳が、コチラを見つめる。
見つめながら、ゆっくりと奴は、言葉を紡ぐ。
「慣れないことはしない方がいい。けれどしなくてはならない時は、より注意深く動かなくてはならない。なぜなら、足元を掬われるのはいつだって、そういう時だから......」
言い終えると、その男はニヤリと口元を動かして、しかしそれでも、視線は静かに変わらずに、コチラを見据える。
だから俺も、その視線に対して逸らさずに、言葉を返す。
「一体、誰の話をしている?」
そう俺が言うと、彼は俺の背中の向こうに在る死体に視線を移して、しかし言葉の先は俺に向けながら、口を開く。
「もう、なんとなくは気が付いているだろう......そこで死体になっている三枝箕郷。彼女を見た時から、既に君の中には、その疑念があった筈だ」
「何が......言いたい......?」
俺が問い掛ける。
彼は変わらずに、こちらを見つめる。
変わらずに、ゆっくりと言葉を話すのだ。
「......言った筈だよ、彼女は僕の良き理解者だと......そしてそれは、彼女だけではない......」
「......どういう、意味だ......?」
その俺の問いに、彼は静かに笑いながら、また言葉を続ける。
「行政府が、被害者として把握している、その十人。その全員が、彼女と同じなのさ......」
そう言った後に、関係者たちの心証を、彼は語り始めた。
変わらない、瞳のままで......
「そもそも君は......いや、君達は、問題の解決方法を、根本から見誤っている......」男はそう言いながら、銃口から額を離して、そして少しだけ距離を置く様に後退る。
しかし変わらずに、俺の目を見つめたままの状態で、彼はさらに言葉を続ける。
「君達が確認しているそのリストの中の人物たち......そこにある者たちの足取りを追うことに、一体どれほどの意味があるんだい?」
その彼の問い掛けに、俺は間誤付きながら、言葉を返す。
「......意味って......そんなの......モニタリングしていたバイタルデータが消えれば、その原因を探るのは当然だろ......それにその消えたデータの国民達の安全を確認するのは......」
そう俺が言い掛けたところで、彼の視線は厳しくなる。
そしてその俺の言葉を待たずに、彼は俺に言い放つ
「安全。それは一体、どういう意味を指すのかな?」
「えっ......」
「肉体の生命活動が続いているだけの状態を、ただ生きている状態をそう定義するならば、それはあまりにも不用意だ。そこから先の状態を、状況を、君達は見ようとすらしていない......」
「......何の話をしている......」
言いながら、彼に突き付けている拳銃を持ち直す。
しかし、それなのに、そこから先の言葉が出ない。
おかしな状況だ。
銃弾が装填されている拳銃を、突き付けているのは俺なのに、まるでそうは感じない。
それどころか、俺の方こそ奴から拳銃を、突き付けられているみたいだった。
そう錯覚してしまう程に、奴の視線は厳しく、冷たく......
しかしその目に光はなく、虚ろなままなのだ。
その目のまま、奴は言う。
「人間が『生きている』だけの状態が『安全』だという解釈をするべきではないと、そう言っているんだ。なぜなら、その生きている人間が必ずしも、君達が考える様な国民ではないからだ。事実、僕の行動を理解してくれている関係者は、まだモニタリングデータを消去していない者もいる。君等から見れば反乱分子になりえる存在が、まだこの国の中には居る状態だ。それを君達は、本当に安全だと、定義出来るのかい?」
言いながら、その目のままで、奴は俺の方を変わらずに見ている。
しかし俺は、その時の奴のその言葉で、視線を外した。
そして静かに、俺は奴に言葉を紡ぐ。
「......つまりお前は、モニタリングデータが消去された被害者は皆、お前がやろうとしているコトの関係者だと、そう言いたいのか......?」
その俺の問いに対して、目の前の男は笑みを浮かべながら、肯定した。
奴のその答えを聴いて、俺は狙いを定めていた銃口を、力なく下に向けた。ここまで話を聞いてしまえば、もう自ずと、理解してしまう。
奴に銃口を突き付けるこの行為には、何も意味がないと......
CORDを介して、他人と意識をすり替えることが出来る。
そしてそれらの行為の真意を、理解することの出来る関係者。
そんな狂気染みた手札を持つこの男に対しては、こんな拳銃ではあまりにも、非力過ぎるのだ。
そんな風に考えながら、俺は奴から視線を外す。
そしてそんな俺の思考が、恐らく奴に知れたのだろう。
男は視線を、俺から扉の方へ移す。
「さて、そろそろ君との再会も、一区切りを着けるべきかな......本来こういう店は、あまり長居をするモノでもないからね......」
そう言いながら、男は出入り口の扉の方へ、ゆっくりと歩き始める。
「待てよ......一つ、確認させろ......」
俺は言葉で、奴の行為を遮った。
けれど遮られた側の男の声色は、変わらずに静かで、穏やかだった。
その声のまま、奴は俺に聞き返す。
「なんだい?」
「残りの関係者は、皆無事なんだろうな......?」
その俺の問い掛けに、奴は静かに微笑を浮かべながら、言葉を返す。
「......僕だって、無闇な殺しをすることを、望んでいるわけではない......十年前のあの時だって、そうせざるを得なかったから、そうしたんだ......」
「だがお前は......簡単に三枝箕郷を殺しただろ......今、目の前で......それは......」
「では彼女の身体が、もう余命幾ばくも無い、そんな状態だったとしたら......?」
「......っ」
言い掛ける俺の言葉に、声色は同じでも鋭く、奴は言葉を刺し込んだ。
そしてそのまま、言葉を続ける。
「CORDでは測りきれない傷が、彼女の身体にはいくつもあった。だから三枝箕郷は、僕の行為を、僕の意識を受け入れたんだ......」
その言葉の後に、奴はもう一度俺の方に視線を戻す。
「それに、それらの情報は彼女のモノだ。彼女が何を食し、何を得て、何を捨てるのか、そしてそれによって、この先の道筋をどう歩むのか、それらは本来、君も僕も、許可なしに土足で踏み込んで、覗き込むことなど許されない。それらを無意識で行えてしまうこの国の仕組みは、常軌を逸している......」
静かに、けれど淡々とそう言った後、奴は俺の耳元に自分の口を近づけて、小声で最後に、言い放つのだ。
「それらが当たり前だと、そんな風に勘違いしない方がいい、それはあまりにも傲慢だから......」
警告の様な、その言葉を......
この病院に配属されて、もうすぐ一年近くになる。 研修医として、目が回る様な思いをしながら熟す仕事に、少しずつ慣れてきた。 幸いなことに、同じ患者さんを担当する先輩は、仕事が出来て、その上性格もいい。 だから仕事のことで相談した内容に関しては、いつでも適格な助言をくれるのだ。 しかし今日に限っては、僕も先輩も、初めて対応するこの患者さん達に、やはり戸惑いは隠せない。 僕と先輩の目の前に居る患者さんたちは、様々だった。 明らかな未成年も居れば、若い青年、中年や老人。 それでいて男女関係なく、同じ病室のベットで横になっている。 その光景を見ながら、僕は横に立つ先輩に向けて、静かに口にする。「年齢はともかく、男女同じ病室なんて、初めて見ました......」 その光景を見ながら、先輩も同じように、口にする。「そうだな、この病院では俺も初めて見たよ」「えっ、前の所では普通だったんですか?」 そう俺が先輩に尋ねると、先輩は何かを言い掛けようとする。 しかしそのタイミングで後ろから、僕等二人に話し掛ける人がいた。「いや~ほんと、ヘルプ助かるよ。急に申し訳ないねぇ......」 声がする方向に振り向くと、立って居たのは、中年の医者だった。「お疲れさまです。あの先生、この患者さん方って......」 そう僕が言い掛けたところで、先生は僕が、一体何を訊きたいのかを察した様で、先生は言葉を返す。「あぁ、この人達は皆同じ症状だよ。どこにも異常はない。ただ眠っているだけだ。強いていうなら、ずっと長く夢を見ている」「えっ、それって......」 そう僕が言い掛けた所で、看護婦の方が先生を呼んでしまう。 そして先生は、ゆっくりとした足取りで、その看護婦の方へ行く。 その姿を見送りながら、僕は訊きたかったことを、飲み込んだ。 しかし隣の先輩は、そんな僕に向けて言う。「とりあえず、点滴チェックと体温だな。反対側から任せていいか?」「えっ、あぁ......はい」 どうやら先輩は、勝手を知っているようだった。 体温と点滴のチェックを終えた後、僕と先輩は自販機で飲み物を買って、少しの休憩をとっていた。 口を飲み物から離した後に、先輩は僕に尋ねる。「お前、ゲームはする方?」 唐突に尋ねられたその言葉に、僕は少しだけ考えながら、返答した。「えぇ
「......しかし僕は、思うんだ。この国の人間は本当に、人としての本懐を、遂げているのだろうかと......」 そう言いながら、俺から視線を逸らして、辺りを見回す。 新人の身体を借りながら砂城は、まるで何かを探す様にしながら、しかしその泳いでいた視線は、少し経てば俺の所に、戻ってくる。 その彼の姿を見て、俺は砂城に言う。「そんな風に話を明後日の方向に持って行って、お前は一体、何がしたいんだ?」 その俺の問い掛けに、砂城は答える。「べつに......ただ単にこういう話を君と楽しみたい。それだけだよ......」 言いながら砂城は、俺を見る。 口元に余裕を添えて、俺を見る。 そんな砂城に、俺はまた、言葉を紡ぐ。「雑談がしたいなら、もっと他の方法があった筈だ......わざわざ他人の身体に潜り込んで、意識をすり替えて、やりたいことがただの雑談なら、それは馬鹿げている......異常だ......」 そう俺が言うと、砂城は視線を下げて、小さく笑う。「フフッ......」「なんだよ......?」「いいや、こんな姿になっても君は、僕のことをそうやって、正常な誰かに当てはめようとしてくれるんだね......こんなことをしている時点で、こんなことになっている時点で、もう既に、僕は異常だよ......」「......そんなこと、とっくに知っている......」「......」「だが、わからないこともある......」「何がだい?」「どうしてわざわざ、潜り込む対象のバイタルデータを消すような、そんな危険な行為をした?」「......」「今お前がしている様に、そんなことをしなくてもお前は、その対象者の意識に潜り込めるんだろ?」「それは、この子のバイタルデータは消えていないと、そう断言出来てから出る言葉だよ......そんなのはまだ、わからないんじゃないのかい......?」「いや......わかるんだよ。だってそいつは、昨日の店主の様な、ただのアウトローな国民とは違う。正真正銘、行政府の人間。管理している側の人間だ。そんな奴のバイタルデータが消えたら、俺等の端末には間違いなく、それらについての連絡が来るはずだ......だが今は、それはない......」 そう言いながら、核心的なことをそのまま、俺は砂城に言うつもりでいた。 しかし砂
店の中は、こうだった...... 言葉を一つ残して、男は立ち去った。 誰もいない、死体だけが一つ転がる店に、俺は置き去りにされたのだ。 店には誰も居なかった。 もともとあの男しか、この店には居なかった。 しかしカクテルを飲んでから、意識を飛ばした後、気がつくと一人増えていた。 ヒトが一人、増えていた。 その女は、今日行方を追っていたヒトだった。 三枝箕郷という、若い女だ。 しかしその女は、喋りながら正常に狂い始めて、その果てに意識をすり替えられて、最後は自殺した。 女は死体になった。 狂った女は、死体になった。 しかしその後に、今度は初めから店に居た男が、狂い始めた。 狂った男は、異常な酒の飲み方をしながら、ゆっくり俺と会話をした。 会話をしながら、次第に熱を帯びる男の思想は、俺を睨みつけた。 睨みつけられた俺は、その男に銃口を向けていた。 銃口を向けながら、俺と男はまた、会話を続けた。 男が考えていることの詳細を......いや、もしかしたら概要を、俺は彼から告げられた。 告げられた俺は、それらを理解出来なかった。 しかし理解できない俺に対して、男はさらに、思想を語った。 頭に銃口を突き付けられている筈の男は、その銃口に額を着けて、思想を語った。 一頻り話した後に、最後に言い残していた言葉を言い切って、男は俺の前から、姿を消したのだ。 そして今、やはり俺はこの店に、一人で置き去りにされている。 しばらくその場に立ち尽くして、さっきまでの出来事を粗方、思い出す。 そしてその後に、他の誰でもない自分に言い聞かせる様にして、俺は自分の足をゆっくりと、扉の方へ進ませる。「あぁ......帰らない......とな......」 誰もいない、死体だけが転がる店を、俺は出て行った。 そこから先の記憶は、正直なところ、朧気だった。 意識を失ったわけではなく、ちゃんと自分の足で歩いて、その店から立ち去ったが、歩いている最中も、頭の中には、最後に砂城に言われた台詞が貼り着いて、離れない。 傲慢という、そういう言葉を使いながら、俺達の居る世界を一括りに否定した彼の台詞が、どうしても...... どうしても離れては、くれない。 その足取りのまま、俺は自宅への帰路についた。 上司への報告は、明日でいいだろう。 なんて
やりたくない仕事を、しなくてはならない日というのは、呆気なく来てしまうモノである。 今日がその一日目。 一人目の国民は、若い女性だった。 国民番号:三千四十八番 三枝 箕郷(さえぐさ みさと) 二十歳 昼間は大学に通いながら、夜はアルバイトとして飲食店で働いている。 それ以外には、コレと言った特徴があるわけでもない。 いたって普通の学生である彼女のことを、在籍している大学の事務に尋ねてみたりもしたが、二ヶ月程前から、講義に出席していないという情報以外、手掛かりらしいそれらは、残念ながら得ることは出来なかった。 だから俺は、彼女がアルバイトとして在籍している飲食店へ、足を運ぶことにした。 時刻は二十時を少し回った辺り。 店の住所を見て、少しばかり覚悟はしていた。 煌びやかな灯りが彩る表の通りを、少しばかり外れて、しかしそこから深く路地裏の方へと続く道を、しばらく歩いて数十分。「ココか......」 目の前に現れたその店は、飲食店というよりも、廃墟の様な風貌だった。 周りの景色も相まってか、少しばかり空気が重い。 一見すると、その建物が店をやっているのかわからなくなるような、そういう佇まいだ。 ほんとうに、ココであってるのだろうか...... そう思いながら、やはりすぐには尋ねる気になれなくて、その建物の前で少しばかり、立ち往生してしまう。 そして、しばらく経ったくらいだろうか......「あんた、入らないのかい?」「えっ......」 振り返ると、そこには背の高くて線の細い男が立っていた。 いつからそこに居たのかは、わからないけれど...... 男は俺の方を見て、溜め息混じりに言い放つ。「客じゃないなら、悪いけれど帰ってくれないか?いつも大して客が居るわけでもないが、今日は特に酷いんだ......」 そう言いながら、男は俺から視線を逸らして、店の中に入ろうと、すぐ近くを歩く。 けれどそんな男に向かって、俺はさらに尋ねる。「失礼ですが、アナタは......?」「俺はココの店主だよ。そういうアンタこそ一体何者なんだい?いつもこんな所に来る様な人には見えないけれど?もしかして......行政の人間かい?」 言い当てられて、俺は些か、動揺してしまう。 そしてその動揺を隠せないまま、俺は返答する。「......はい
「失礼します」と言いながら足を踏み入れた会議室には、普通なら絶対に、御目に掛かることが出来ないであろう偉いさん方達が、会議室の席の約八割を占めていた。 そして残った二割は、俺と上司の二人が座るために空席となっていて、そんな普段の会議では有り得ない様な異質の情景が、息苦しさに似た空気感を作り上げていた。 そしてそんな空気の中、俺達が座り、会議が始まるや否や、向かいに座る一人の偉いさんが、コチラ側に尋ねるべきことを、淡々と口にした。「さて、早速本題に入るが......突如としてバイタルデータが消去されるなど、前代未聞のこの状況を、君達はどう対処するつもりかね......?」 言いながら、コチラ側をジッと見つめるその人の視線は、気持ちの良いモノではなかった。 そして、そんな視線に耐えかねたのか、それとも単に、その言葉に対しての答えを、予め持ち合わせていたのだろうか......もしくは、その両方か...... 俺の隣に座る上司は、前に座るその人に対して、言葉を返す。「はい、その件につきましては、担当者である彼に直接、そのバイタルデータの持ち主の所に行ってもらい、現地調査してもらいます」 そう言いながら上司は、一度コチラの方にチラリと視線を向け、さらにその勢いのまま、言葉を続ける。「またそれと並行して、今回起きた事象についての原因究明を、私自ら主導して、行います」 その続けた言葉に対して、もう一人のお偉いさんが口を挟む。「ほぅ......具体的には、一体どうするつもりかね......?」「まずは一度、一週間分のCORDの全ログを洗い出します。この作業自体は、そこまで時間が掛からないでしょう。二、三日程度で行えます。その後は、必要であるなら、システム管理課と共同で、CORDの再調整を行いたいと考えております」 そう上司が言い切ったところで、数人の偉いさん方は、一瞬だけ動揺した。 そしてその動揺した偉いさんの一人が、上司に対して言う。「再調整を行うということは、君は一時的なCORDの運用停止をも視野に入れていると、そういうことかね......?」「はい、そのつもりです」 その肯定の上司の返答に、また会議室内は、先程と同様か、それ以上に重苦しい空気に飲み込まれた。 そしてその空気の中、先程上司に質問を投げ掛けたお偉いさんが、ため息交じり吐き出す
事務室に入り、午後の業務のためにPCを起動する。 そして隣に座っている新人も、業務を行うために、同じ動きでPCの電源を入れて、さっきと同じ様な口調で、しかしさっきとはまるで別の話題を「あっ、そういえば新堂さん」という言葉を皮切りに、俺に促す。 そしてそこからは、本当にただの雑談だ。 休日に昔ながらのカフェやバーに行くことを趣味にしているこの新人は、そこで食べた料理や飲み物、その店の雰囲気や、そこで会った初対面の女性と過ごした一夜なんかも、よく話題にして俺に話す。 まったく...... 無駄に顔が良い新人のその話題は、後半の方は特に、危うい気もするのだが...... 休日は家に居ることが多い俺にとっては、週初めの月曜日に話されるその話題が、些か鬱陶しいと思う反面、自分だとそういう所には出向かないし、もちろん初対面の女性なんかとも、そういうことになることはない。 だから彼のそんな話は、聞いている分には、まるでチープな深夜ドラマでも見ている様な、そういう感覚になって、少しだけ面白かったりする。 だからまぁ飽きもせず、毎週そんな話を、俺は彼から聞いている。 矛盾していると、自分でも思いながら。「さぁ、そろそろ仕事をしよう」 そう言うと、新人は少しだけ、不満そうな表情をする。 どうせまた明日も、同じ話をする癖に。 そんな風に思いながら、PCの画面を確認して、そして午後の業務を行う。「......えっ?」「ん?どうしたんですか、新堂さん」 そう言いながら、新人は俺のPCの画面を覗き込む。 そしてその画面を見て、新人も俺と同じような、表情になる。「これ......どういう、状態ですか......?」「いや、俺もわからん......」 そう......そこに映されているのは、モニタリングされたデータと、そのデータの対象とされている国民の顔写真と名前が、細かく列記されていた。 ある数名を除いて......「こんなの、はじめて見ましたよ。モニタリングされたデータだけが、綺麗に空白にされているなんて......何かのバグ......ですかね......?」 そう言いながら、俺の方を見る新人に、言葉を返す。「どうなんだろうな......もしバグなら、お前の方でも、同じことが起きているんじゃないのか......?」「そ