LOGIN「そう、あなたのお母さま、咲子さんでしょ?私のことは綾子さんって呼んでくれるようになったわ。穏やかで優しくて繊細で……私にないものをすべて持ってる素晴らしい方ね?」「はぁ、それは……ありがとうございます」母親を褒められるのは嬉しいものだ。つい頬を緩める紅を見て、義母も笑った。「それであの、病院に飾る貼り絵って……」「咲子さんに頼んだのよ。京香さんに聞いたら楽しめる手作業は彼女の病気にもいいって」人が変わったような明るい母の笑顔を思い出した。まさか義母がそんな手助けをしてくれたなんて……感謝の気持ちを伝えながら、話を戻した。「あの、それで病室の変更にかかったお金を入金したいのですが」「いやだ……!だから咲子さんに仕事を頼んだって言ったでしょ?病室の変更にかかったお金は、彼女がきちんと支払ってくれたのよ」「そんな……それじゃ、お義母さまが」損をしてしまう。……そう言おうと思ったとき、義母がうっとりした表情になったことに気づいた。「あなた、彼女の貼り絵を見たことがある?それはそれは美しいグラデーションで花を表現してて、素晴らしいのよ?」「お義母さま……」不意に涙が浮かんできた。ずっと父につらい思いをさせられていた母が、誰かに認められて役割を与えられ、輝きを取り戻し始めている。あんな笑顔を見せるようになったのは、ちゃんと評価して認めてくれた義母のおかげ……「ほら!」指先で涙を拭う紅に、テーブルの向こうから、ハンカチを放る義母。「別に泣きやまなくていいわよ。泣きたい時は泣けばいい。だけど、メイクが落ちるのは嫌だと思うから渡しただけ!」「……わーんっ!!お義母さま〜っカッコよすぎますぅ〜……!」生まれて初めて、声を上げて泣いた。まさかそれが、神楽の母親の前でだなんて、予想もしなかった。会う前はどれだけ身勝手な人かと思ったけれど、実は正直でいることしかできない、ある意味不器用な人なのかもしれない。紅に、もう一人の母親ができた瞬間だった。「主治医も一緒なので、安心して連れ出せるわよ?」その後しばらくして、紅と神楽の結婚を前に、家族の顔合わせが行われることになった。神楽の両親と颯真と京香、紅の母と当事者の2人、合計7人で集まれる場所を選ぶのは、紅と京香だ。「それなら……母が好きな和食のお店に連れて行ってあげたい。病院から車で、10
「……え、最上階に?」「はい。数日前に病室を変更されました」専属クラークゆえ、神楽の多忙に合わせるように、ここしばらく忙しくしていた紅。それでも時間を見て母を見舞っていたが、この数日は来ることができずにいた。……その間に病室が変更されていると案内されたのだが、つい心配になってしまう。「あの、母は慣れない部屋で大丈夫なんでしょうか?病院の都合もあると思いますが……」「大丈夫ですよ。とても快適にお過ごしです」「そうですか……」母が入院する分院、絆ハートメディカル病院は7階建てだ。そんなに高い建物だったかしらと上を見上げてみる。 「7階のナースステーションで、もう一度担当看護師に声をかけてくださいね」紅はエレベーターに乗せられ、7階を押してくれたスタッフに見送られた。「わ……さすが二階堂総合病院だわ」エレベーターを降りればそこは、病院であることを忘れさせる空間。ゆったりした革張りのソファと磨かれたガラステーブル。誰が活けたのか、大きな花が印象的な姿になって鎮座していた。「片桐さまですね。病室は一番奥になります」「……はい、ありがとうございます」ちょっと待ってよ。……エレベーターを降りてこの状態って、部屋はいったいどれだけ立派なんだろ?まさか、特別室なわけないよね……「こちらでございます」看護師が案内してくれた病室のドアは、病室のよくあるドアではなく……高級マンションのドアと同じそれ。しかも両開きって……思わず、失礼しますと言いながら中に入った。「紅……来てくれたのね?」驚いた。ひと目で高級品とわかるガウンを着て、リクライニング式のベッドの背に体を預ける母が優雅に微笑むから。「お母さん……不自由は、してないみたいだね」「もちろん……!とても快適よ?ここは広いからか静かで、夜もよく眠れるの。タブレットで看護師さんといつも繋がってるし、安心できてありがたいわ」ガウンのせいだけではなく、明らかに顔色がいい。しばらく歓談していると、母は病室内を軽やかに歩き回り、コーヒーまで淹れてくれた。……何年ぶりだろう。母にコーヒーを淹れてもらうなんて。けれどここは、確実にセレブ専用の病室だ。いったいいくらの割増料金が必要なんだろう。まだ、母を引き取って一緒に暮らす準備は整っていない。それに、私は神楽との結婚を控えていて……「紅、あ
「いえ……お義母さまは、引っ込んでてください」紅は義母を見もせずに冷たく言い放った。この言い方に驚いて目を見開き、義母は牙を剥いて噛み付く。「……あなたねぇ、これが韓国ドラマだったらどうなってると思う?ボコボコに殴られて、親不孝だって叫ばれて、とんでもない目に合うんだから!」「……お義母さまってことは、お前……結婚するのか?」やり取りを聞いていた父が、無遠慮に楓の間へと足を踏み入れる。「……こっちは別室ですから、遠慮してください」「まぁそう言わずに、少し話を聞けよ」出ていかない父に腹を立て、紅も立ち上がった。すると華やぎの間で見ていた芹沢が近づいてくる。「海外進出が決まってな?」「……あなたの話を聞くつもりはありません」「芹沢さんのアドバイスもあって、向こうでは現地の食材を使ってさらに高級志向の和菓子を製造販売するつもりだ。……それを逆輸入する話を今していたんだよ」「……片桐社長、何処でライバルが聞いているかわかりませんから、話はそれくらいに」出店に続き、海外へ事業を展開していく話を聞き、芹沢が父と昨日今日の付き合いではないとわかった。父の横に立つ芹沢を、つい強い視線で見つめる紅。「すまない。片桐さんは、出口と間違えてこの襖を開けてしまったんだ」「……あなたはどちら様なの?」父を連れて行きかけた芹沢に、あろうことが義母が声をかけてしまった。「お義母さま!」……黙れ、というひと言を、なんとか飲み込んで振り返った。すると事業の話がまとまって気分がいいのか、父が珍しく話に混ざる。「この人かい?……この人はミューゼルホールディングスの専務だよ。娘のかつての上司で、恋人だったんだってなぁ?」「「はぁ?恋人??」」思わず義母とハモってしまった。「本当なの?紅さん。……それにあなた、この方……お父さまなんじゃないの?!」「いえ、お義母さま……」義母はしずしずと立ち上がり、襟元の合わせを整えつつ、紅の横に並んだ。「はじめまして、私……」「芹沢専務のこと、好きだったんです。結婚も考えたくらいに。でもお付き合いというところまでいってません」二階堂総合病院の名前を出して欲しくなくて、つい口からの出任せを言ってしまった。義母は複雑な表情で紅を見ている。「……というわけで、さぁお義母さま、すき焼きの続きをお願いします。いいお肉の脂
「……紅さん?ちょっと聞いてるの?」腕をゆすられ、ハッとわれに返る紅。今日は神楽は仕事で、自分だけの休日。専任クラークなのでそういう休日は珍しいのだが、突然やってきた神楽の母親に連れ出された。ここしばらく、先日聞いた亮子の話が頭にこびりついて離れずにいた。神楽に話そうかと思ったが、相変わらず激務の彼に話す時間は見つからず、迎えた休日。今日は従兄弟の片桐光世に連絡してみようと思っていたのだが。そんな休日の朝、突然やって来た神楽の母親。……勝手に鍵を開けて入ってくるのは以前と同じだ。「はい、これ返しに来たわ」おはようもなく、たった今開けるのに使った神楽邸の鍵を差し出される。「……いいんですか?」「いいわよ。恋人ができたら返そうと思ってたんだから」「そういえはこれ、神楽さんが契約結婚している間も持ってたんですね……」自分の時もそうだが、その前の2人の時も。……神楽は合鍵の存在を知っているのか。それとも知ってて忘れているのか。挨拶なく始まる会話は、朝からディープだ。「神楽が家を出て、長い間交流はなかったから。でも今回は鳳凰総合病院の娘との結婚があったから、迷わず使わせててもらっただけよ。……ほら、行くわよ」「……は」まだパジャマ姿で家事の途中の紅に、義母は早く着替えるよう追い立て、その間に残りの家事を済ませてしまった。「え……すごいですね」早いだけではない美しい家事に脱帽する紅。その手を引き、義母はなぜか外へと彼女を連れ出した。「ちょっと待ってなさい。今うちと契約してるタクシーを呼ぶから」「え、今からですか?だったら中で座って待ってればいいのに。意外と段取り悪いですね?」「あなた……私みたいに毒舌ね?」まぁ見てなさい、という義母。どこかに電話をかけ、無理難題をふっかけた。「二階堂です。長男の自宅前。2分で来なさい」広い通りから入り組んだ道を入ったところにある神楽邸……2分で到着はまず無理だ。ところが……明らかにスピード違反の黒塗りのタクシーが、家の前に到着したのは5秒前。ドライバーが慌てて運転席から出てきて、2人を後部座席に乗せる。金持ちのわがままにつき合わされて気の毒に。「……それで、どこへ行くんですか?」「決まってるじゃない。式場の下見よ」さらわれるように連れ出された紅は、義母に手を引かれ、都内のラグジュアリー
「あ……神楽さん」「紅、帰るぞ」いつから後ろにいたんだろう……いつになく不穏な雰囲気に息を呑んだ。「ちょっと待って、話はまだ終わってないんだけど」大人しくついていこうとする紅を見て立ち上がる芹沢。その手が彼女の腕にかかるのを目ざとく見つけた神楽は、次の瞬間拳を振り上げた。……ゴフッという鈍い音と同時に吹っ飛ぶ芹沢。紅は声にならない声を上げ、目を見開いて両手で口元を押さえる。「汚い手で触るな。俺の妻になる女性だ」こんなに怖い顔をした神楽は初めてだ……さっき芹沢に言った言葉には理由があったが、何も知らずに聞けば怒っても仕方ない。「ごめんなさい、神楽さん。これには理由があって……」「どんな理由があったとしても……」神楽は紅に顔を向けながら、頭にそっと手をやる。「誰かが君に触られるのを冷静に見ていられない」その表情があまりにせつなく歪んでいるので、どれほど傷つけたかとギュっと拳を握る。「……ちょっと待てよ」店内は混んではいないが人の目はある。殴られて床に転んだ芹沢を、スタッフが助け起こした。「いくら妻になるって言っても、まだ妻じゃないんだから……」「ごめんなさい芹沢専務。今の話は亮子に頼まれて、カマをかけたんです」「……カマ?」神楽が殴り返されたら大変だ。紅はとっさに彼の前に出て、自分よりずいぶん大きい男を背中に隠す。「結果は……亮子に伝えます」「……ちょっと待って、さっきの話は嘘ってこと?他の男も知りたいって……」「嘘です。……私は神楽さんだけ知れたらもう満足です」後ろで神楽がピクリと動いた。「携帯番号も変えると思うので、もう連絡はお控えください。……これまでいろいろと、ありがとうございました」ペコリと頭を下げ、神楽を押して出ていこうとする紅に、芹沢は呆れたような笑い声で送った。「そういえば言おうと思ってたんだが……」振り向くと、さっき一緒に座っていたテーブルに1人で座り直し、芹沢は残っていたワインを自分でグラスに注いでいる。「トオキ屋本店、続々と出店が決まったぞ」「……え、」「銀座松白屋を皮切りに、都内の主要デパート、東京駅のビル、店舗も出店するらしいな」それは、紅がミューゼルホールディングスに所属していた時から囁かれていた話だ。担当を私にするとか……それを気にしながらも、商社であるうちに関係ある話で
「クズは私が矯正してやりましたから。問題なしです」笑って赤ワインに口をつける紅に、芹沢専務は一瞬言葉を失った。「……さすが紅だ。それを聞いて安心したよ。でも、」グラスを片手に、笑顔のまま小首をかしげる……でも、のあとに続く言葉を催促しているつもり。「何かあったら相談に乗る。浮気の予感がしたり、不安なことかあれば、遠慮なく相談して」「はい。ありがとうございます」素直にお礼を言う紅。テーブルに置いた携帯をいじったのは照れ隠しかと思ったのか……笑顔になる芹沢。「俺の携帯から、紅の番号はずっと消さないから」「どうしてですか?」投げキッスでもしてきそうな甘い雰囲気で言われた言葉に、紅は一刀両断、バッサリやってやる。一変して、芹沢は驚いた表情になった。「それはだから……紅が困ったら、連絡して来やすいようにって配慮だよ」ゴニョゴニョ言いながら、目線を外して白ワインを飲む芹沢。追及はしなかったが、もちろんこれで解放してやるつもりはなかった。その後、頼んだ料理が続々と運ばれてきた。「このパスタはに使われているゴルゴンゾーラチーズは、イタリアの代表的なチーズで、三大ブルーチーズとして有名だな」「へー……。ではこのサラダに使われている葉物野菜の名前を教えてください」「それは……」紅が指さす野菜を皿に取り分け、フォークで器用に広げながら、芹沢はしげしげと観察する。「レッドロメインだろう。普通ロメインレタスといえばグリーンだが、赤くなる遺伝子を持つレタスは太陽の光を受けて、こうして……」「ざんねーん!おなじみのサニーレタスでした!」「あ……」美味しいドレッシングをかけてサラダをいただく紅を、唖然として見つめる芹沢。何度か、そんなふうに質問をしては説明をさせてみた。ふんふんと大人しく聞いてやれば、どこか得意げなのは何故なのだろう。「このボロネーゼはラムを使ってるね」「ラム、ですか?ラム酒?」はてなを浮かべる紅に、芹沢は楽しそうに笑った。「肉の種類だよ。ラムとは、生後1年以内の子羊の肉を指すが、ボロネーゼのような煮込み料理ならマトンでもいいと思うがな……」一口ボロネーゼを口に入れ、目を閉じて味わう芹沢に、紅はメニューを眺めながら言った。「ボロネーゼはビーフ100%ですって」「……あ、そう」しゅん……と落ちるまなざし。紅は笑いを噛
先に部屋を出た紅は、冷蔵庫を開け、冷えたミネラルウォーターをグラスに注ぐ。飲みきって息をつく紅の後ろに、部屋から出てきた神楽が近づいた。こういう時は……どんな態度を取ったらいいか。「あの、神楽さんも飲みますか?ミネラルウォーター……」「いや、いらない」肩からふわりと薄いショールがかけられた。「夜は少し冷えるからね」グラスをシンクに置いた紅の唇を、親指でひと撫でしてから手を取った神楽。……キスを拒んだのに、機嫌を損ねなかった?いや、面白くはないはず。寝室で見せた獣のような目を思い出し、紅はそっと笑った。「悪いな、遅くなった」「いいよ!神楽が最後に現れるのはいつものことだ
「英語は大丈夫だけど……」『じゃあ歌ってみる?ラバークラブMiAってガールズバーなんだけど』「うん。期間は?」『まずは一晩、2回ステージ。バラードを歌ってほしいみたいよ』亮子はクラブやBARの起ち上げやプロデュースをする仕事をしている。その関係で、こういうバイトの情報が早い。亮子が関わった店なら大丈夫だろう……その日の夕方、紹介された店に行ってみた。「亮子さんに聞いてます!まずは一曲、聞かせてもらえますか?」面接は歌のみ。難なく合格をもらった。手渡された衣装はシルバーグレーのシンプルなドレス。ヘアメイクはプロが入ってやってくれた。呼ばれるまで待機するよう言われ、若い女の子た
「契約期間は1年。親への挨拶はしなくていい。新築した家が都内にあるから引っ越してきてくれ。契約結婚にかかわるすべての経費はこちらで持つ」車の中で行われた話はとてもスムーズで、簡潔だった。「仕事関係者や交友関係に君を紹介することはない。ただ、結婚した事実だけが欲しい。婚姻届は出し、同居することで、実態を伴った結婚だったと後になって周りが認めればいい」「……わかりました。私も両親とは距離を置いていますので、挨拶などの心配はいりません。ひとりっ子ですし」「それは助かる。……あの料亭で働けるということは、それなりに信用のおける人物だと理解しているが、一応身分証を見せてくれるか」求められるま
「今夜の料理も美味いな」「本当ですか?嬉し……」「玉ねぎが入ってなきゃね。言わなかったっけ?俺、玉ねぎが苦手だって」ピリっと張りつめる空気……とても仲良し夫婦の夕食風景には見えない。射抜くように向けられた視線から逃れたくて、反射的に下を向いた。ガラスのダイニングテーブルは透明で……夫が足を組み替えたのが見える。「そうでしたね。……ごめんなさい」「いやいいよ。普通の男なら満足する味だ。……普通の男ならね?」頬杖をついて私に向ける視線は……確実に不愉快だと伝えている。「明日は必ず……満足していただけるように頑張ります。私、料理は得意なので、今度こそ」リベンジを誓う私を見つめ返







