LOGIN沼底から、また別の沼底へ。
暗かった。 深く。 冷たく。 どこまでも沈んでいくような闇。 でも、遠くで誰かが泣いていた。『……来なくて、いいです』 かすれた声。 アレクシスだった。 崩れた瓦礫、折れた柱。 赤黒く濡れた石畳。 ロンデルの景色が、暗闇の中に浮かび上がる。 倒れた兵士。 誰かを呼ぶ声。 間に合わなかった命。 ヒマリは、息を呑んだ。「……やめて」 声が震える。 見たくない。 もう見たくない。 なのに闇は容赦なく押しつけてくる。 ――もっと早く来ていれば。 ――もっと上手くやれた。 ――助けられたかもしれない。 胸の奥に沈んでいた後悔が、泥のように広がる。「……私の、せい」 その時だった。 空間が、軋んだ。 闇の奥に、一筋の光が走る。 無数の演算式。 幾重にも重なる術式。 見慣れた魔王城の制御光。 それが、悪夢を強引に塗り潰していく。『――見苦しい悪夢だね』 甘く低い声に、どこか呆れた響きが混じる。 ヒマリが顔を上げる。 白い空間の中央。 演算光を背に、一人の男が立っていた。 長い黒髪。 整いすぎた顔立ち。 人間離れした静かな瞳。 クルスだった。 反射的に、ヒマリの顔が歪む。「……ひとりにしてよ」 クルスが、わずかに笑う。『再会の第一声としては辛辣だ』「夢にまで出てこないで」『ここは夢じゃない』 指先が軽く動く。 瞬間、崩れたロンデルの景色が白に塗り替わった。 静かな空間。 無数の演算光が流れ続ける、無機質な思考領域。『精神保護区画。 君の脳が過負荷で壊れかけたから、強制退避させた』「……監禁?」『保護だ』 即答だった。『君、あと少しで死んでた』「死んでない」『三日寝ずに働いて、魔力循環崩壊寸前』『心拍異常。精神負荷危険域。 十分、死にかけだ』 言い返せず、ヒマリは顔を逸らした。 分かっている。 無茶をした。 でも、止まれなかった。 償いが必要だった。 ロンデル公国に、 そして、ロナとアレクシスに。「……私がもっと早く王都を離れていれば」 ぽつりと零れる。「もっと違う選択があった。 あなたになんて任せずに……」『なかった』 静かな声だった。 あまりにも即答で。 ヒマリが顔を上げる。 クルスの瞳は、不気味なくらい冷静だ
ロンデル公国は、静寂を取り戻していた。 それは、泣き声すら、もう尽きてしまった後の沈黙だった。 焼け落ちた城壁、崩れた街路、煤に染まった石畳。 瓦礫の隙間には、未だ回収しきれぬ遺品が埋もれている。 風が吹くたび、灰が舞った。 ヒマリは、一人で歩いてく。 誰も声を掛けられなかった。 護衛兵も、側近も、ただ沈黙のまま彼女の背を見守る。 王が今、何を見ているのか。 誰も、想像したくなかった。 瓦礫の陰から、小さな影が顔を出す。 幼い少女だった。 痩せ細った腕。汚れた頬。 けれど、その目だけは――ヒマリを見ていた。 ゆっくりと頭を下げる。 助けに来てくれた人を見る目だった。 ヒマリの胸が、痛む。(……間に合わなかった) 何度目か分からない言葉が、心の底に沈んでいく。 クルスは言っていた。 王都防衛とロンデル救援の両立は不可能だと。 だから王都を守れ、と。 ヒマリも理解していた。 理解した上で、選んだ。 ――王都を。 その結果が、これだ。「……私の、判断ミスだ」 誰にも聞こえない声が、灰の中へ落ちた。 王である以上、誰かを守る選択は、誰かを切り捨てる決断と同じ。 分かっていた。 だが、分かることと、耐えられることは違う。 ◆ 仮設指揮所は、半壊した議会堂を改修して作られていた。 議事堂に向かう途中に、先程の子供が駆け寄ってきた。「ヒマリ様、これ!」 子供が、焼け焦げた木片を差し出す。「おうちの柱なんだ。 また建てるから、残しておきたいの」「偉いわね。私も頑張るから――」 言い終えた瞬間、ふいに視界が揺れた。 足元が、わずかに沈む。「……ヒマリ様?」 護衛兵が一歩前へ出る。「大丈夫」 即答だった。 けれど、壁に触れた指先が、小さく震えている。 ヒマリは気づかれないよう、そっと手を離した。(まだ、倒れられない) 今、止まれば。 この子たちの目が、絶望に変わる。 そんな気がした。 ヒマリはその日から、休まず復興会議を始めた。「食糧供給路に残っている魔物を殲滅」「浄水施設を最優先。疫病は何よりも危険よ。 あと、孤児保護施設を設立。税は五年間免除で」 矢継ぎ早に飛ぶ指示を飛ばす。 王都直轄予算の切り崩し、仮設住居の建設。 医療班
王都を発った頃には、夜は完全に沈んでいた。 飛行魔物ドラムの背で、ヒマリは小さく息を吐く。 肺が痛い。 呼吸をするたび、焼けた魔力回路が軋む。 王都防衛戦。 ノリスとの決戦。 その反動は、まだ身体の奥で暴れていた。 それでも――止まれない。 ヒマリは、ただ北東の空を見続けていた。 ロンデル公国。 アレクシス。 ロナ。(お願い……間に合って) けれど、その祈りが遅すぎることを、心のどこかでは理解していた。 頭の奥に、クルスの声が響く。『現在、ロンデル首都エルドラ城門、突破された』『守備隊、城内へ後退』『魔物は公宮へなだれ込んだ』 淡々とした報告。 だからこそ、現実味があった。 ヒマリの指先が、小さく震える。「……アレクシスは?」『公宮防衛区画にて生存確認』 一瞬だけ、胸が軽くなる。 だが。『継戦能力は低下中』 その一言が、再び心臓を締めつけた。「もっと速く……!」『無理だ』 クルスは即答した。『現状の君はすでに危険域』「でも……!」『君が倒れれば、王都も終わる』 ヒマリは、膝の上で拳を握り締めた。(この間まで、すべて上手くいってたじゃない……) 守りたいものが増えるほど、選択ばかりが増えていく。 ◆ その頃。 ロンデル首都エルドラは、炎に包まれていた。 煙と灰が夜空を覆い、崩れた街路には避難民の悲鳴が響いている。 公宮外郭。 そこでは、ロンデル軍が最後の抵抗を続けていた。「前衛、押し返せ!」「第二列、槍を上げろ!」 怒号と剣戟が飛び交い 爆発音が響く。 だが敵の数が違いすぎた。 黒い濁流のような魔物が、公宮へ押し寄せてくる。 その最前線で ロナ公妃は、血に濡れた剣を振るっていた。 異形の首が飛ぶ。 返す刃で、別の魔物の腕を断ち切る。 軍服は裂け、左腕から血が流れている。 それでも、彼女は一歩も退かなかった。「……まだ、倒れないわ」 その目は、公妃ではない。 かつて戦場を駆けた将軍の目だった。「母上!」 駆け込んできたのは、アレクシスだった。 端正な顔が煤に汚れ、 傷だらけの鎧が、己も前線で戦って来たことを物語っていた。「南区画の避難、完了しました!」「そう」 ロナは、小さく息を吐く。「よくやったわ」「母上は!?」
「言ったでしょ。 異界の指輪があれば、何度でも魔物は召喚できる」 ノリスが歯を食いしばって立ち上がり、右手を掲げる。 上空の裂け目が脈動した。 さらに異界魔物が現れようとした、その瞬間―― ヒマリの光の柱が空から降り注ぐ。 上空で砕けたはずの魔法陣が連結し、ノリスを直撃した。『浄化支配』 悲鳴も漏らさぬ圧倒的な質量の中、 白光はゆっくりと収束していった。 誰も、声を出せない。 そこに立っていた魔王が、崩れ始めていたからだ。 黒紫の装甲が、音もなく剥がれ落ちる。 肩を覆っていた刃翼が砕け、 蛇のように蠢いていた異形の武装は、砂となって風に溶けていく。 異界の気配が、消えていく。 まるで、長い悪夢が終わるように。「……っ」 ヒマリは、荒い呼吸を押さえながら、その中心を見つめた。 全身が重い。 魔王城ブーストの反動で、感覚が鈍い。 少しでも気を抜けば、そのまま意識を失いそうだった。 それでも、目を逸らせなかった。 装甲の奥から現れたのは―― もう、魔王ノリスではなかった。 銀髪だった髪は色を失い、ヒマリと同じ黒へ染まっていた。 だが、完全には同じではない。 光を受けるたび、灰色が微かに滲む。 瞳もまた、狂気を宿した赤紫ではなく、 静かな灰黒へ変わっていた。 背丈も、輪郭も、驚くほど似ている。 まるで。 ――もう一人の、自分。 ただ一つ違うのは。 その顔に刻まれた、深すぎる絶望だった。「……わたし、は……」 ノリスが、ゆっくり膝をつく。 空洞みたいな声だった。「……何者、だったの……?」 ヒマリは、答えられなかった。 その問いが、自分自身へ向けられたものにも思えたからだ。(もし私が、誰にも必要とされなかったら)(もし全部、諦めていたら)(……こうなってた?) 胸の奥が、冷える。 ノリスは、自分の両手を見つめていた。 呆然と、信じられないものを見るように。「……静か」 ぽつり、と呟く。「頭の中の声が……消えてる……」 ヒマリは、息を呑んだ。 ノリスは続ける。「怒れって、壊せって……ずっと聞こえてたのに……」 指先が、小さく震える。「何も……ない……」 異界魔力。 破壊衝動。 魔王としての力。 全部、剥がれ落ちていた。「欲
夜の王都ブリュードは、灰色に濁っていた。 火災の煙。 砕けた結界の残滓。 空を焦がした魔法の痕。 二度目の夜も何も変わらない。 ただ、戦争だけが続いている。「南門急造バリケードを設置、騎馬隊を迎撃!」「南区避難、第二区画まで完了!」「シュルツ将軍より伝言。我、軽傷なり、援軍不要とのこと!」 参謀部から報告が次々とあがる。 ヒマリは、仮設避難所で 戦況図を睨みながら指示を飛ばし続ける。 休息は、ほとんど取れていない。「城内、再び圧力上昇」 フェルマーが険しい顔で告げる。「ジギスムント軍が再編を終えた。 夜襲を仕掛けてくる可能性が高い」「……まだ来るんだ」「消耗戦だ。完全に君を削るつもりだな」 ヒマリは、小さく息を吐いた。 分かっている。 ジギスムントの狙いは、王都そのものではない。 “女王”を壊すこと。 その時だった。 空気が、凍る。 ぞわりと、背筋が粟立った。 迎撃を終えたばかりの中央広場に 黒い魔力が渦を巻く。 次の瞬間。 一人の女が、静かに姿を現した。 黒翼。 赤紫の瞳。 以前よりも禍々しい魔力。 魔王ノリス。「――久しぶりね」 静かな声だった。 だが、その一言で周囲の空気すべてが支配される。 フェルマーが即座に前へ出る。「捕縛結界展開!」「無駄よ」 ノリスが指を鳴らした。 結界が悲鳴を上げる。「馬鹿力め……」 軋み、ひび割れ。 圧倒的な魔力で二重の捕縛結界を砕く。 だが、ノリスはすぐに攻撃してこなかった。 じっと、ヒマリの様子をうかがう。「ボロボロね」 小さく笑う。「市街地を見捨てれば、そこまで消耗しなかったのに」 ヒマリは、まっすぐ彼女を見返した。「ノリス…… あれほど嫌っていたジギスムントと組むなんて」「あなたには分からないわ」「《異界召喚の指輪》を使ったのね……」「ええ」 ノリスは楽しそうに肩を竦める。「便利だったわ。世界の外から、 いくらでも力を引き出せる」「ジギスムントからの見返りはそれだけ?」 一瞬だけ。 ノリスの瞳が揺れた。「……賢いわね」「そんなことをしても、あなたは救われない」「黙りなさいっ!」 轟音と共に黒い魔力が爆発する。 石床が砕け、壁が軋んだ。
異変は、唐突だった。 南西市街地。 ヒマリが転戦を繰り返し、 辛うじて均衡を保っていた、その時。 王都全域に、耳を裂くような警鐘が響き渡る。『緊急報告!』 魔導通信に、悲鳴のような声が飛び込んだ。『王城内! 中央広場に――』 激しい雑音。 誰かの絶叫。 そして。『異界魔物が出現しました!!』 一瞬。 時間が止まった。「……え?」 ヒマリの声が、掠れる。 城内? 防衛線の――内側? ありえない。 外周結界は生きている。 転移阻害も展開済み。 それなのに。 なぜ、王城内部に。 フェルマーの表情が変わった。「……ノリスが直接入り込んだか!?」 次の瞬間。 遠く。 王城中心部から、黒煙が上がった。 閃光が走り、僅かに遅れ爆音が響く。 そして――子供の泣き声。 ヒマリの呼吸が止まる。(……中心部に、入った) 終わる。 王城に魔物が溢れれば、避難民が壊滅する。 王都防衛の意味、そのものが崩れる。『魔導士部隊、接触開始!』『早いぞっ!』 通信が悲鳴で埋まる。 ヒマリは、考えるより先に動いていた。「ドラム、急いで!」 王城中央広場。 そこは、地獄だった。 城門から溢れ出る異形。 家屋が崩れ、炎が燃え広がる。 逃げ遅れた民間人。 子供を抱えた母親。 剣を構える兵士達。 辛うじて――持ち堪えている。「女王様だ!!」 誰かが叫ぶ。 振り返った兵士たちの目に、安堵が宿る。 その視線が、重い。(……守らなきゃ) 息を吸うと身体が軋む。 もう限界に近い。 それでも。「全員、下がって!」 ヒマリは、前へ出た。 両手を広げ、白光が球体となって弾ける。「――浄化領域、最大展開!」 轟音。 街路を埋め尽くしていた異界魔物が、まとめて崩壊した。 大気そのものが悲鳴を上げる。 魔王城の力を制御せず展開させた 強引すぎる出力。 だが、止める暇はない。 第四波。 裂け目から、なお異界魔物が這い出てくる。「ノリスっ!どこから……召喚しているの!」 膝が震える。 呼吸が荒い。 視界が、暗く滲む。 その時。 魔導通信が、再び鳴った。『南門、防衛線限界!』『シュルツ将軍が後退を開始!』『重装歩兵、城門に破壊槌を投入!!』「……っ
王都ブリュード、王城最上階。 重厚な扉の向こう、執務室には静かな緊張が満ちていた。 机いっぱいに広げられた地図。 その前に座る男は、 まるで大理石から削り出された彫像のようだった。 長い睫毛の影が白い頬に落ち、 整いすぎた輪郭は感情を拒む刃のように鋭い。 淡い銀の髪が光を受け、静かに揺れる。「……遅いな」 ぽつりと漏れた声には、苛立ちが滲んでいる。 本来なら、とっくに報告が届いているはずだった。 ゴミ捨て場――処分したはずの異世界人の痕跡について。「フェルマーめ……」 蒼い瞳がゆるやかに細まる。 あの男は有能だ。 天才で、合理的で、感情に左右されない。
魔王城の玉座は、今も空いている。 かつて、この場所に座っていた者の名は ――前魔王クルス。 中層から撤退したヒマリに魔物達の失望が広がる。 クルスの治世は冷酷で無慈悲だったが、 均衡は保たれ、争いは最小限に抑えられていた。「……あの方なら、こうはならなかった」 誰かの呟きが、静まり返った広間に溶ける。 その言葉は祈りであり、同時に今を否定する呪いでもあった。 だが、玉座の前に立つ少女 ――ヒマリは、その名に縛られない。「知らないよ。その魔王がどれだけ立派だったかなんて」 そう言って、ヒマリは小さく息を吸い、一歩だけ前へ出た。 玉座に落ちた影が、ゆっく
魔王城の最下層を制したヒマリは、 浄化された魔物たちを率いて、さらに上を目指していた。 ゴブリンたちが先行して索敵し、骸骨兵が重い扉を押し開く。 ゴーストたちは地図を広げ、進路や危険箇所を静かに分析していた。「ヒマリ様。中層はこれまでと違います」 一体の骸骨兵が告げる。「ここには、現魔王ノリス様に仕えている 上位の配下が出てまいります。 悪魔族と呼ばれるサキュバスや、デーモンたち…」 ヒマリは小さく頷いた。「これまで通り下層で配下を集めた方がよろしいのでは?」「後戻りは出来ないのよ」 魔物達には言えてないが、ここでの食事は劣悪だ。 ゴミ捨て場からゴーストが拾
王都ブリューテ。 王城最奥、ジギスムント王の執務室。 重厚な机の上には、広げられた一枚の地図。 他国の国境線に、赤い矢印が何本も引かれている。「西方ロンデル公国は、抵抗が激しい」 ジギスムントは淡々と告げた。「だが、魔王ノリスの軍を先鋒に出せば、一週間で落ちる」 周囲に控える貴族たちは、揃って恭しく頷く。 その表情の裏にあるのは忠誠ではない。 戦後の領地、褒賞、利権―― 誰もが腹の中で計算していた。「初戦を魔導士の結界ごと吹き飛ばしたとか、 さすがは魔王ノリス様ですな」 先月まで若い王に陰口を叩いていた 老臣が媚びるように笑う。「かつて大陸を震え上が







