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暗殺者と地味バイト

last update Last Updated: 2025-11-08 12:28:54

「なあフィン。今日だけでいいから、あの香水屋に顔出してくれや」

 朝、店の扉を開けると同時に、店主のムーアさんがパンを片手に言い放った。

「なんでまた俺が……」

「ベルティエ香水店から臨時派遣依頼が来とる。香りに詳しいって紹介しといたぞ」

 香りに詳しいって、俺が? 雑貨店アルバイトの俺が?

 まぁ、わからなくはない程度の知識をあるけどさ。

「それ、単に鼻がいいってだけじゃ……」

「細かいことはいいんだよ。鼻が利くなら十分だろう?」

 ムーアさんは手をひらひらと振った。

「お前はバイトなんだから、言うこと聞いてりゃいいんだ」

 バイト。

 異世界からの流入語で、この世界では「短期雇用労働者」を指す言葉らしい。

 この世界では、そんな風に異世界からの知識や言葉が、あちこちから聞こえてくることがある。

 ここは、王都四区・西側市街の外れ。

 雑多な商店が集まる庶民的なエリアだ。

 そんな場所でひっそり営業してるのが、俺がバイトしてる雑貨屋『ムーア商店』

 店主のムーアさんは、気はいいけど金にはがめつい。

 スキルは魔導具鑑定を持っているらしい。

 壊れた魔導具に手を加えて"準新品"として売る。訳あり品は「今朝仕入れたばかり!」と胸を張って並べる。でも、なんだかんだでこの辺じゃ一番マシな店だ。

 雨風はしのげるし、客に値切られても暴力沙汰にならないだけマシ。まあ、俺にとってはそれで十分なのかもしれない。

 俺はフィン。そこでバイトしてる、ただの地味男。

「……何の罪で売り飛ばされるんですか」

「売り飛ばすって何だ。正当な商取引だ」

 ムーアさんがにやりと笑みを浮かべる。

「しかも今回は特別料金でな」

「特別料金?」

「派遣料が通常の三倍だった。ありがたい話だ」

 俺は頭を抱えた。どうやら商品として値段まで付けられたらしい。しかも三倍って、俺にそんな価値があるとは思えないんだけど。

「店長、俺って商品でしたっけ」

「違うな。レンタル用品だ」

「ひどい」

 でも、まあ、それが俺の現実なんだろう。文句を言ったところで変わるわけじゃないし。

 王都中央通り。

 華やかな高級商店や、貴族向けの専門店が建ち並ぶ王都でも一番賑やかな通りだ。

 そこにそびえ立つは、香りの殿堂『ベルティエ香水店』

 城下最大の香水専門店にして、貴族や大商人、時には王城までもが御用達とする格式を持つ。

 通りに面した白石の外壁は光を反射してまばゆく、扉には月桂樹の意匠が金で刻まれている。

 まさに「香りの神殿」──もう外観からして、俺が入っていい空気じゃない。

 とはいえ、入らない訳にも行かない。だってムーアさんに今日一日売り飛ばされたからね!

 立派な飾り付けがなされたオーク材の扉を開くと──香りが、押し寄せた。

「おお……」

 甘い。渋い。爽やか。……濃い。嗅覚が華やかに水没する感覚。まともに呼吸もできない。

 でも、香りの層が妙に乱れてる。誰かが商品を雑に扱った跡。

「……うん、場違いだよね」

 思わずつぶやいた時。

「あなたが貸し出しの方ね?」

 突然、背筋を伸ばした美人が声をかけてきた。銀髪、灰色の瞳、ピシッと整った制服姿。手の動きに無駄がない。香水を扱い慣れてる人特有の、瓶を守る姿勢。たぶん俺よりも、香水瓶の方が大事だと思ってるタイプだ。

「えっと、フィンって言います。雑貨屋の……」

「ああ、雑貨屋さんの。……聞いてますわ。糸目の地味な男が手伝いに来るって。私はレイヴィスといいます。調香師の」

 前に一度店で会ったことがある。調香のスキル持ち。王都じゃ有名人だ。

 でも糸目の地味な男、はないんじゃないですか、ムーア店長。

 まぁ、事実ではあるんだけどさ。

「……」

 ――彼女の視線が俺の手に向いてる。瓶を割らないか心配してるんだろう。

「香りに敏感だそうですね。今陳列棚が少し混乱しているので整理をお願いできます?」

「わかりました。ムーアさんに手伝ってこいといわれてますので」

「瓶の持ち方くらいは大丈夫ですのよね?」

 あ、割ると思われてるな、これ。

「それでは、瓶を割らないでくださいね?」

 予想通りのひと言。

 差し出された制服と名札。

 フィンの文字が小さくて、すぐに忘れられそうだよ。

 ……で、棚整理。

 壁一面に並べられた香水の、瓶の群れ。

 高級店だから当然なんだろうけど、きれいに整頓はされてる。でも香水の並びが結構雑だ。いや、なんでこんなに種類あるんだよ。香水って。

「ラフェルトNo.3の隣に、No.4……これ香り干渉するんだけどな」

 香水は香りの層で分けて並べるのが基本なんだよね。でもそれを本気で理解して並べてる奴、案外いないんだよな。

 瓶の位置、重さ、開封の跡。観察してれば、だいたいのことはわかる。誰がいつ、どれを手に取って、どれを買ったか。

 左から三番目の瓶、指紋が二セット。店員と、昨日の午後三時十七分頃の客。右端の瓶、埃の積もり方から二十三日間は動いてない。

 何も考えず、ただ見るだけ。いつものクセなんだよな。

 俺は臆病だ。怖がりだ。だから『見る』んだよ。観察する。危険を事前に察知して、避ける。まあ、そういう生き方してるからさ。

 ――店内はお上品なお客さんたちがゆったりしてて、店員さんも静かに接客してる。高級店らしい雰囲気が続いてるんだけど。

 ――でも、なにかおかしい。

 背中のあたり。肩甲骨の間。ぞわ、っとした感覚。これは……まずいな。何か厄介なことが起きる前兆だ。

 空気の流れが変わった。扉の向こう、誰かが立ち止まってる。普通の客じゃない。息遣いが計算されてるのが聞き取れる。

「変な客、来るな」

 思わず、そんな独り言が漏れた。そして、来た。

 まさしく変な客が。

 店の扉が音もなく開き、ひとりの女性が入ってきた。

 空気が、一瞬止まった。

 俺の中で、何かが切り替わる。

 いつもの臆病な俺じゃない——観察者としての俺だ。

 俺は目を見開き、入ってきた女性を見始めた。

 蜂蜜色の照明に照らされたその姿は、まるで舞踏会帰りの貴婦人のようだった。肌は白磁、漆黒の髪は艶やかに結われ、ドレスの裾は上品に揺れている。

 香水の匂いはない。だが、香水の層が彼女のまわりを満たしていた。甘さでも苦さでもない──完成された静けさの香り。

 客も、店員も、誰もが一度は彼女に目を留め、だが次の瞬間には「関係ない」と視線を逸らしていた。それすら、彼女の気配の制御なのだと気づくまでに、時間はかからなかった。

 ――彼女を観察する。

 呼吸のリズム、4秒吸って6秒吐く。意図的に整えてる。でも鼻孔が0.8ミリ開く。何かを探してる。

 指先の動き、獲物を狙う猫みたいだ。人差し指が1秒間に2.3回微動してる。

 そして心音──速い。通常より5拍上昇。緊張してる。

 ――更に観察する。

 手のひらの汗腺反応、平均値比で約1.8倍。微かだけど、光の反射角度でわかる。

 香りに金属臭が混じってる。鉄分濃度が通常の1.4倍。何かを隠してる匂い。

 この人は、プロだ。

 恐らくは暗殺者。香りを使う暗殺者だ。

 彼女の視線が動く。棚を流し見してるふりをして、実は一点を狙ってる。

 視線の軌道、瞬きのタイミング0.3秒間隔、呼吸が0.7秒止まった。

 ──ラフェルトNo.4。

 次の瞬間、彼女の右手が動く。人差し指と中指で瓶を掴む動作、角度は43度。

 でも、その瓶には何かある。製造番号が削られてる。蓋の内側に0.2ミリの変色。

 この女性がその瓶に触れたら、何か厄介なことが起きる。

 俺にはわかる。観察してきた経験が、警鐘を鳴らしてる。

 見えてしまったものは、見なかったことにできない。

 地味に生きることとは相反する、それが俺にかけられた呪縛にも似た衝動だ。

 だから──先に動いた。

 彼女の手が伸びる、その一瞬前。

 俺の手は既に瓶を掴んでいた。

 彼女の指が、空を切る。

 一瞬、視線が交錯した。

 彼女の瞳に、驚愕が走る。

 『読まれた』という理解。

 『阻止された』という現実。

 そして俺は、静かに瓶を胸元に引き寄せた。

「申し訳ありません。こちら、陳列を調整中でして」

 平坦な声。感情を殺した声。

 でも、意志は込めた。

 『これには触らせない』という、静かな圧力。

 女の睫毛が、わずかに震える。

 0.3秒の逡巡。瞳孔が1.2ミリ収縮。計算してる。次の手を。

「……そう」

 彼女の気配が変わる。

 獲物を狙う猫から、尻尾を巻いた猫へ。

 香りの波が引いていく。

 それは、『敗北』の気配だった。

「……あなたの名前は?」

 妙に静かな声だった。

 でも、記憶に刻もうとしてる声。覚えておこうとしてる。

「フィンです」

 それきり、彼女は何も言わずに店を出ていった。

 ――そして、瞼を閉じ、目を伏せる。

「……変な客だったな」

 ふと気づくと、手が震えてる。心臓がバクバクしてる。瓶を抱えた腕に、変な汗をかいてるし。

 全く何をしてるんだろうね、あんな危険そうな客には絶対近づきたくないのに。

 彼女の香りが残っている。棚の奥。わずかにずれた瓶の蓋。彼女が通った道筋に、微かな温度の違い。

 俺は臆病だからさ。だから、わかるんだよ。

 あの女性とは、きっとまた会う。そして次は、もっと厄介なことになる。危険は、避けたつもりでも、向こうから追いかけてくることがあるからね。

「……やれやれ」

 思わずため息が出た。地味に生きたいだけなのになあ。

……ちょっと待って、なんなのあのバイト!

 香水一本で完璧な動線潰してくる!?

 香りの干渉計算まで読まれた!?

 棚の配置変えただけで毒仕込み無効化された!?

 これまで百戦百勝だったわたしが、まさかの初黒星!?

 ……相手、バイトなのに。

 わたしの名前は、ハクア。

 そう呼ばれるようになって、もう15年になる。

 顔立ちは——まあ、整ってる方だと思う。白い肌に、黒曜石のような瞳、艶のある漆黒の髪。かつて宮廷舞踏会に潜入したときには、『第二王妃候補』と間違われて暗殺対象にプロポーズされたこともある。

 ……もちろん、その翌朝、彼は心臓を止めたけど。

 顔が整ってると、何かと便利。でも感情が顔に出ないのはもっと便利。

 美しい仮面と、沈黙と、香り。この3つがあれば、誰でも殺せる。

 そう思っていた。

 『今日までは』

 今日の任務は準備作業。標的の使う香水——1瓶しか残っていなかったラフェルトNo.4に、非致死性の毒を仕込むだけ。

 簡単な仕事。毒は微細、香りは変質しないよう調整済み。店舗の動線、香気流れ、温度管理、全部把握済み。

 あとは瓶に触れるだけで——終わるはずだった。

「申し訳ありません。そちらの品は現在、陳列を調整中でして」

 バイト。明らかに、この店の正規店員ではないバイト。

 制服の着方が雑、姿勢猫背、声はくぐもってて聞き取りづらい。前髪が伸びていて、半ば目が隠れている。

 パッと見は『地味な男子』だった。

 でも、その動き。

 棚との距離感。視線の配り方。指の軌道。

 わたしの手が動く『前』に、それを止める準備が整っていた。

 そして、あの瞬間。

 視線が交錯した時、わたしは理解した。

 彼は知っていた。わたしが何者で、何をしようとしているか、正確にはわからなくても。

 『この女は危険だ』と。

 『この瓶に触らせてはいけない』と。

 殺気はなかった。魔力もなかった。

 でも、意志があった。静かで、揺るがない、鋼のような意志。

 あのまま強行していたら——

 いや、強行なんてできなかった。あの瞬間、わたしは完全に『負けて』いた。

 心理戦で、読み合いで、そして意志の強さで。

 だから、思わず訊いてしまった。

「……あなたの名前は?」

 妨害対象に名を訊くなんて、暗殺者としては2流以下のムーブ。でも、聞かずにはいられなかった。

 彼は、簡潔に答えた。

「フィンです」

 短い。それだけ。なのに、耳に残った。指に残った。

 存在を消す技術を持つわたしに、焼き付いた。

 報告書にはこう書いた。

「香水棚に予想外の変動あり。毒仕込み未遂に終わる」

「担当店員、要注意人物の可能性あり」

「再調査必須。成功率100→99%」

 ……99%。

 人生初の、100%じゃない数字。

 あのバイトがいる限り、この1%が埋まる気がしない。

 でも、そんなこと書けるわけがない。地味なバイトに完封されたなんて。

 机に突っ伏す。

 香りで殺す女、ハクア。100戦100勝の暗殺者。

 その手を止めたのは、猫背の地味バイト。

 記録する。

 フィン・アルバ=スヴァイン。

 観察による危険察知の使い手。

 今のところ、唯一。

 わたしに敗北を教えた名前。

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