LOGINトイレから戻ってきた胡桃は、ベッドの縁に静かに腰を下ろすと、樹の指先をそっと握り、爪を切り始めた。前はあまり気に留めていなかったけれど、爪が伸びるスピードは意外と早い。一週間に一度は切ってやらなければならないくらいだった。「昔はこれ、あんたが私の爪を切ってくれてたのよね。やってるとき、内心で『手のかかる女だ』って悪態ついてたんじゃないの?ふふん、今は立場が完全に逆転したんだから、せいぜい王様気分でも味わいなさい」切り落とした爪をティッシュに包み、もう片方の手へ持ち替える。「ほんと、絶対に自分が損をしたくない人。昔は、私のこと、我が儘でひどい女だと思ってたでしょ。でも、今はわかったわ。あんたはずっと、私のことを待っていてくれたのよね。いい?いつまでも起きてこないなら、さっちゃんに別の男の人を『パパ』って呼ばせるんだから!」その時、胡桃が「あっ」と短い悲鳴を上げた。すぐに綿棒を取り出し、樹の指先にそっと当てる。切る角度がわずかにずれ、爪の横の皮膚を少しだけ切ってしまったのだ。数分間押さえてから綿棒を離すと、血はもう止まっていた。血のついた綿棒をゴミ箱へ捨てようとして、ふと顔を上げた胡桃は、はっとして視線を樹の手に戻した。――気のせいだろうか。今、樹の指先が、かすかに動いたような気がした。じっと、その手を見つめる。息を潜めてしばらく待ってみたが、何も起きなかった。やっぱり、単なる見間違いだ。でも、その一瞬の期待で、胡桃の目はすでに赤く潤んでいた。綿棒を投げ出し、ぐずりと鼻をすする。「黒崎樹、このバカ!起きてきたら、すぐに出ていってやるから!男の人を十人でも二十人でも……そうよ、いい男をずらっと侍らせてやるわ!私、お金ならいくらでも余ってるんだから!私と結婚したい?寝言言わないでよ!こうやって起きないでいれば、一生私を罪悪感で縛り付けておけると思ってるの?そんなこと、絶対にさせないからね!さっちゃんに新しいパパを作るって言ったの、冗談で言ったんじゃないんだから!もう帰る。あんたの顔見てるとイライラする!」口では憎まれ口を叩きながらも、胡桃は丁寧に布団を引き上げ、樹の肩までしっかりと掛けてやった。腕もしまってやろうと手を伸ばした瞬間――また、彼の指先が動いた。胡桃は大きく目を見開いた。声が震え
啓太が本気で優香を振り向かせようとするなら、それは並大抵の苦労ではないだろう。潤から優香の冷ややかな反応を聞かされた啓太は、静かに言った。「わかってる。俺が何をしても、なかなかあの子の心には届かないかもしれない。でも、何も試さないまま諦めるなんて絶対に嫌なんだ。三ヶ月の約束は、まだ二ヶ月以上も残ってる。その間にどうにもならなかったとしても、『やれるだけのことはすべてやった、もう悔いはない』って自分自身で思えれば、それで十分だよ」そうまで言われては、潤にもこれ以上かけられる言葉はなかった。「……まあ、頑張れよ」ここまで来ると、潤や明里の口添えを頼りにしてもどうにもならない。優香の心を動かせるのは、自分自身の行動しかないのだと、啓太は痛いほどわかっていた。その頃、明里は妊娠の初期症状で少し体調を崩していたが、親友の胡桃に会ってからはずいぶんと元気を取り戻していた。数日後、明里は学校での仕事を終えると、そのまま胡桃のいる病院へと向かった。しばらく彼女の顔を見ていなかったのが、気がかりだったのだ。毎日メッセージは送り合っていても、やはり直接顔を見て無事を確かめないと落ち着かない。「妊婦が気軽に来る場所じゃないでしょ」胡桃は病室に入るなり、明里の顔を見て小言を言った。「ここは病院なのよ?」「ちゃんとマスクしてるから大丈夫よ」「それでもダメなものはダメ」胡桃はきつく言う。「何か用があったら電話してくれればよかったのに、なんでわざわざ来るのよ」「直接顔を見ないと、心配なんだもん」明里は笑って言った。「樹の具合はどう?」「相変わらずよ」胡桃はベッドで眠る夫を見てため息をついた。「寝てるのがよっぽど気に入ったみたいで、まだ目を覚まさないの」「絶対に起きるよ。胡桃をこれ以上待たせすぎたくないって、樹だってきっと心の中で思ってるはずよ」「それが、もう何ヶ月も待たせてるじゃないの」胡桃は唇を噛んだ。「このまま起きなかったら、朔都が『パパ』って呼ぶ相手もいないまま終わっちゃうわ」「さっちゃん、もうおしゃべりできるの?」「無意識にだけど、ときどき『ママ』ってぐずったりはするようになったわ」胡桃はスマホを取り出した。「動画があるんだけど、見る?」胡桃が家を離れて病院につきっきりなため、明里は樹の親族など、よく知らない人た
潤の前では、啓太はいつも分が悪かった。口喧嘩では到底敵わない。潤はもともと寡黙な男だが、一度口を開いて皮肉を言うときは容赦がないのだ。啓太はそれを身をもってよくわかっているから、あまり彼を刺激しないように気をつけていた。今の潤は仕事も順調で、明里との恋愛も絶好調。すっかり大人の余裕を身につけていた。その余裕を見習いたくて時折話を聞いてはみるものの、二人の置かれている状況はあまりにも違いすぎて、何の参考にもならない。その夜、潤はベッドの中で明里にことの顛末を話した。明里は目を丸くした。「意外ね。増田さんって、そういうことで思い悩むような人には見えなかったわ」「俺もびっくりしたよ」潤は言った。「これで、あいつが優香に本気だってことがよくわかったんじゃないか?」明里は小さく頷いた。「増田さんへの見方は少し変わったかな。でも正直に言うと、昔のことはともかく、優香ちゃんがそういうタイプの男性を好きじゃないのは、どうしようもない事実だと思うわ」「人の好みなんて、一生決まったものじゃないと思うよ」潤は優しく言った。「たとえばお前だって、三年前と今とではずいぶん変わっただろ。俺がもともと好きだったタイプとは違うかもしれないけど、それでも今のお前が愛おしいよ」「私って、そんなに変わった?」「だいぶ変わったな」「まあ……そうかもね」かつての明里は、恋愛という枠に縛られ、ただ黙って潤のそばに寄り添うだけの女性だった。しかし今の明里は違う。晴れやかで、自信に満ち溢れ、自分の仕事をしっかりと持ち、まるで内側から光を纏っているように輝いている。でも、どちらの明里も、潤にとってはかけがえのない、同じように大切な存在だった。「あいつが柄にもなくあんなに必死なんだから、優香に一言くらい、何か言ってやってくれないか?」「言ったじゃない。二人のことには口を出さないって決めてるの」「無理に口添えしろって言ってるんじゃないよ。ただ、あいつがどれだけ真剣かっていう事実を伝えるだけでいい。最後に決めるのは優香自身だからさ」明里はしばらく考えていたが、潤をがっかりさせることができず、やはり優香に電話をかけることにした。「胃がすごく悪くて、昔、出血して倒れたこともあるらしいのよ。それなのに、優香ちゃんと辛いものを一緒に食べようとして、わざわざお医者
「増田さん」優香はきっぱりと言った。「断るって、何度も言ったよね。ほら、こうして食の好みだって全然違うじゃない。もし仮に気が合ったとしても、一緒にいたらご飯のたびに困ることになるわ」「一緒に食べられるよ」「そんな無理しなくていいの。健康が一番大事なんだから、絶対に無理しちゃダメだって昔から両親も兄も言ってたわ」啓太は反論できず、黙り込んだ。「私の付き合いで胃を悪くしたりしたら、あなたのご両親だって心配するでしょ」――どうしよう、ますます彼女のことが好きになってしまった。啓太はかすかに唇を動かしたものの、喉の奥がつかえたように何も言葉が出てこなかった。追加で運ばれてきた辛みのない二品は啓太がひとりでほぼ平らげ、優香はそちらには一切箸を伸ばさなかった。その代わり、自分が頼んだ激辛料理は顔を真っ赤にしながらもしっかりと完食していた。店を出ると、優香は言った。「もう帰っていいわよ。私、家に帰って昼寝するから」「食べてすぐ寝ると胃に悪いよ」「家まで車で二十分かかるし、帰ったら少し歩いてから寝るから平気」「じゃあ午後、練習場所で待ってるから」「午前に会ったんだから、午後は来なくていいわよ。もう自分ひとりでできるし」「優香、俺がそこに行くのは別に――」言いかけて、啓太は言葉を飲み込んだ。「わかった、じゃあ、午後また」来ると言われれば、優香にそれを力ずくで止める権利はない。彼女は何も言わず、不満げに車へと乗り込んだ。啓太はすぐさま親戚に電話をかけた。「俺のこの胃、どうすれば辛いものが食べられるようになると思う?」その親戚は、現役の医者だった。「辛いもの?いっそ胃袋ごと取り替えるしかないわね」親戚は呆れ果てた声で言った。「自分の胃がどんな状態か、まったくわかってないの?実年齢は三十歳でも、胃袋は八十歳のおじいちゃん並みなのよ。今からちゃんと養生しないと、後で取り返しのつかないことになるわよ」「肝移植も腎移植も心臓移植もあるっていうのに、胃袋の移植手術があればいいのにな」親戚は鼻で笑った。「じゃあ、全身丸ごと取り替える?」「本当に手立てはないのか?」「胃潰瘍で出血歴まであって、おまけに慢性胃炎も抱えてる。これでどうしろと?」どれもこれも、すべて不摂生のツケだった。毎日の夜更かし、不規則な生活、何より
「足、痛くないの?」「平気よ」優香は弾む声で答えた。「なんか、けっこういい感じじゃない?あと二日くらい練習すれば、試験受けられそう」「じゃあ、午後も続ける?」優香は勢いよく頷いた。「午後も、明日の午前も練習するわ」「明日の午後は教習所に行って、そっちのコースでも試してみよう」優香の心の中に、じんわりとした喜びが広がっていた。ずっと自分には運転の才能など欠片もないと諦めていたのに。兄の隆も「教えてやる」と言ってはくれていたが、なんだかんだと理由をつけて実現しないままだった。まさか、啓太がここまで根気よく付き合ってくれるとは。すっかり上機嫌になった優香は、自分のバッグをぱっと掴み取って言った。「お昼、私が奢ってあげる」啓太にとっては、思いがけない提案だった。「何が食べたい?」彼は期待を込めて尋ねた。「お昼は君が奢ってくれるなら、夜は俺がご馳走しようか?」優香はふんと鼻を鳴らした。「お昼につきあってあげるからって、夜もつきあうと思ってるの?いい気になりすぎよ」啓太はばつが悪そうに鼻の頭をさすり、それ以上は何も言わなかった。優香が選んで入ったのは、本格的な激辛料理の店だった。優香は普段、家では薄味の料理ばかりを食べている。専属の料理人が健康に気を遣い、こってりとした味付けのものはほとんど作らないからだ。だが、以前同級生に連れられてきてから激辛料理にすっかりハマってしまい、時折こうしてこっそり抜け出しては食べに来ていたのだ。店に入った瞬間、啓太は内心でひどく尻込みした。ここ数年、酒の飲みすぎで胃をすっかり悪くしていた。激辛料理など、怖くてとても口にできない。食べれば胃が焼けるように痛み出し、後から胃薬を飲んでも到底追いつかないだろう。だが、優香が子供のように目を輝かせて嬉しそうにしているのを見ると、たとえ付き合いだとしても「やめよう」などと水を差すことはできなかった。腹をくくるしかなかった。メニューをめくり、優香が手早く二品を選んでから啓太に渡した。「何が食べたい?」メニューを覗き込めば、よだれ鶏に麻辣鍋――どちらも啓太の胃には到底耐えられない、厳しいメニューだった。とはいえ、せっかく激辛料理の店に来て、湯通ししただけの味気ない野菜を頼むわけにもいかない。啓太は無難な野菜料理を二品注文した
もともとの計画では、啓太とここで数日基礎を固めてから、教習所へ移るつもりだった。あちらのほうが設備もコースも本格的だし、どうせ彼が会いたがってつきまとうなら、教習所で会えばいい。自分が練習に集中していれば、彼に構う余裕もないのだから、一石二鳥だとすら思っていた。今日は啓太がわざわざ家まで迎えに来ることもなく、こそこそと後をつけてくることもなかった。それはそれで気楽でよかった。ところが昨日の練習場所に着いてみると、その光景は昨日とはまるで別物になっていた。一瞬、間違えて指定自動車教習所に迷い込んでしまったのかと錯覚したほどだ。広大な敷地にはくっきりと白線が引かれ、S字にクランク、縦列駐車に方向変換――まさに、技能試験の課題コースそのものが再現されていた。ただの空き地が、一夜にして立派な「場内コース」へと様変わりしていたのだ。しかもそこには一台の車が停まっており、それは教習車とまったく同じ仕様。違うのは、ナンバープレートがついていないことだけだった。「ちゃんと免許を取るつもりなら、自己流の感覚頼みじゃダメだよ」啓太が向こうから歩み寄ってきた。「今日からは、きちんと教本通りの正規のやり方で練習しよう」「これ、あなたがやったの?」優香は尋ねてから、自分でも間抜けな質問だと思った。「一晩で、これを全部……?」それもまた、ひどく間抜けな質問だった。「業者に頼んだんだよ。お金で解決できることなんて、大したことじゃないさ」それでも、そこまでしてやろうという「気持ち」があることには違いない。「この土地って、そもそも……」「俺が買った土地だよ。もともと開発計画があったんだけど、まだ着工してなかったんだ」啓太は優香を見つめた。「君の免許が取れたら、工事を始めるつもりだ」ビジネスの世界では、「時は金なり」だ。これだけ広大な土地の工事を、たかが自分の運転練習のためにストップしてもらうなんて。一日あたりどれほどの莫大な損失が出るのか、想像するだけで気が遠くなった。「やっぱり教習所に行くわ」優香は言った。「工事を止めるわけにはいかないもの。あなたはあなたの仕事をして」「大丈夫だよ」啓太は穏やかに言った。「俺の土地なんだから、どう使うかは俺が決める」優香がなおも迷っていると、啓太は困ったように続けた。「せっかく
「独身のうちは好きにすればいい。だが、もし結婚してからもその様子だったら、俺はお前と縁を切る」潤の冷徹な言葉に、啓太は訊き返した。「それより、お前の方はどうなんだ?例の『アプローチ』は?」潤が明里を愛していると知った時の啓太の驚きは相当なものだった。ずっと、潤が愛しているのは陽菜か、あるいは怜衣のどちらかだと思い込んでいたからだ。まさか、あの明里だったとは。潤はかつて言った。「好きでもない女と、なぜ結婚などする?」と。彼には、その言葉を裏付けるだけの圧倒的な力と資本がある。政略結婚で事業を固める必要などない彼が選んだのは、紛れもなくその人だったのだ。それなのに一度は
いつの間にか、潤は明里をその腕の中に固く抱きしめていた。それは、これまで交わしてきたどの抱擁とも違う、切実で、胸を締め付けるようなものだった。彼は深く腰を屈め、震える頬を明里の首筋に押し当てている。その両腕は、二度と離さないと言わんばかりに彼女の腰に回されていた。二人が別れて以来、これほどまでに肌の温もりを近くに感じたのは、初めてのことだった。明里は最初、冷たく彼を突き放そうとした。けれど、首筋に落ちた熱い雫に、その手が止まった。ただの涙のはずなのに、首筋に落ちたそれは、火傷しそうなほどに熱く感じられた。この男が、彼女に多くの「初めて」をくれたのだ。初めての抱擁、初
潤は明里を見下ろしたまま、迷いなく答えた。「なら、贈らない」かつて、彼女は「尊重されていない」と泣いた。同じ過ちを繰り返すわけにはいかない。けれど、何一つ受け取ってもらえないという現実は、彼に焦燥を募らせた。どうすればこの距離を縮められるのか、その手がかりさえ、掴めずにいた。人を追いかけることが、これほどまでに困難なことだとは知らなかった。「贈らない」という言葉を聞いた瞬間、明里の胸に、微かなざわめきが走った。かつての結婚生活で最も悲しかったのは、潤が別の誰かを愛していると思い込んだことと、彼が自分の感情を一切顧みなかったことだ。今の彼は、独りよがりな行動をする代わりに
「……ええっ、あの方に?」誘った同僚が驚愕の声を上げる。「この大学の、最大のパトロンよ。とんでもない資産家なんだから」同僚は複雑な表情で、去りゆく明里の背中を見つめた。明里が駐車場に向かうと、いつもの車を運転席で待つ潤の姿があった。だが、その車の窓辺には一人の女子学生が立っており、何やら潤と親しげに話し込んでいた。明里は邪魔をするのも気が引け、少し離れた場所で様子を見守った。女子学生が携帯を取り出している。どうやら連絡先でも交換しようとしているのか、そんな様子が見て取れた。その女子学生は若く、歩いているだけで目を引くような、若さと美しさが溢れる少女だった。明里は見覚