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「おかあさまー!」
元気いっぱいの声とともに、小さな女の子が芝生を駆けてくる。 私は両手を広げ、その小さな身体を抱きとめた。 「お帰りなさい、リリア」 「ただいま! 今日はね、剣のおけいこで先生にほめられたの!」 「まあ、それはすごいわ」 頭を撫でると、娘は得意げに胸を張る。 その隣に、銀髪の青年が静かに歩み寄った。 「お嬢様。お疲れではありませんか?」 「もう、お嬢様じゃないでしょう? 結婚したのは何年前のことだと思ってるの?」 「人生の大半を、あなたにお仕えして過ごして来ましたから」 昔と変わらない穏やかな笑みに、思わず苦笑がこぼれる。 そのやり取りを見ていた娘が、不思議そうに首を傾げた。 「ねえ、おかあさま」 「なあに?」 「パパって、どうしていつもおかあさまのそばにいるの?」 「え?」 「だって、おうちでも、お仕事でも、いつもいっしょ!」 私は思わず吹き出した。 「それはね……昔、お母様が失敗しちゃったからなのよ」 「しっぱい?」 「そう。本当は、この人を『負け幼馴染』にする予定だったの」 「まけ、おさななじみ?」 聞き慣れない言葉に、娘はきょとんと目を丸くする。 「主人公のことが大好きなのに、最後には別の人に恋人を取られちゃう人のことよ」 「えぇ!? かわいそう!」 「今にして思うと、そうだったんだけど……。この人、勝っちゃったのよね」 「勝っちゃった……?」 「そうよ。負け幼馴染になるどころか、私と結婚しちゃったの」 「あなたの言うことは、いつもよくわかりませんけれど。私は、あなたの夫になれて幸せでしたよ」 「もう、過去形で言わないで。私を手放す気でもあるの?」 「まさか。……逃がしませんよ、絶対に」 キョトンとした顔の娘を私の腕から片腕で奪い返して、そうして、メイナードは代わりに自分が空いた隙間に収まってきた。 まったく、この独占欲は昔から変わらない。 ……どうやら、私は修正する方向を少し間違えてしまったらしい。 だから――気づけば私は、この人に誰よりも深く愛され、誰よりも強く執着されることになっていた。 そう、これは、ヤンデレヒーローを負け幼馴染に修正しようとしたはずが、なぜか推しの執着をさらに深めてしまった、一人の転生公爵令嬢のお話である。 ――すべては、私がこの世界に転生した日から始まったのだ。「次は君たち自身の罪について、詳しく聞かせてもらおう」 エドワード公爵様の言葉に、マルコとベアトリスは揃って青ざめた。「ま、待ってください!」 先に声を上げたのはベアトリスだった。「確かに、寄付された品を売ったことは認めます!」「ですが、すべて私たちが使ったわけではございません!」「では、何に使った?」「孤児院の維持費です!」 必死に訴える。「建物の修繕にもお金が必要ですし、薪も買わなければなりません。子どもが三十六人もいれば、いくらあっても足りないのです!」 私は思わず黙り込んだ。 それだけを聞けば、少しだけ分かる気もする。 孤児院を維持するのにお金が必要なのは当然だ。 でも――。「ならば」 ヴィクター殿下が口を開く。「なぜ寄付金の額を書き換えた?」「……っ」 ベアトリスが言葉を失う。「必要な支出なら、帳簿に記せばいい」「隠す必要はない」「それは……」 何も答えられない。 エドワード公爵様は騎士へ視線を向けられた。「引き続き帳簿を調べろ。孤児院の職員からも一人ずつ話を聞きなさい」「はっ」「売却先の商人についてもだ」 騎士が一礼する。 これで終わりではない。 むしろ、ここからが本当の調査なのだろう。 私たちが今日一日見ただけでは、何年も続いていたことのすべてなんて分かるはずがない。◇◇◇「それから」 エドワード公爵様がベアトリスへ向き直る。「子どもたちは、当面こちらで保護する」「えっ?」 ベアトリスが顔を上げる。「そんな! この孤児院はどうなるのです!」「それを今、君が心配する必要はない」 きっぱりとした言葉だった。「少なくとも、調査が終わるまで君たちに子どもを預けることはできない」 ベアトリスは何か言おうとしたけれど、騎士に促されて黙り込んだ。 私は食堂へ目を向けた。 子どもたちはまだ、温かい食事を少しずつ口にしている。 事情なんて何も分かっていないのだろう。 ただ、今日はご飯がある。 それだけで嬉しそうにしている子もいる。 その姿を見ていると、また胸が苦しくなった。「……シェリル」 隣から声がする。 メイナードだった。「大丈夫?」「うん」 私は頷いた。「ちょっと、悲しくなっただけ」 するとメイナードはしばらく私を見つめたあと、小さく呟いた。「シェリル
本当に裁かれるべきなのは、ミアだったのだろうか。 その答えは、もう分かっている気がした。「ヴィクター皇太子殿下」 私は隣に立つヴィクター殿下を見上げる。「昨日のお話を、覚えていらっしゃいますか?」「ああ」 ヴィクター殿下は短く答えた。「盗みの罰についてだろう」「はい」 私は頷く。 昨日、ヴィクター殿下はおっしゃった。 厳しい罰があるからこそ、人は罪を思いとどまるのだと。 その考え方が間違っているとは、今でも思わない。 でも。「ミアは、罰が怖くなかったのでしょうか」「……何?」「盗みをすれば、手を切り落とされる」「きっと、ミアも知っていたと思います」 家庭教師から教わるような難しい法律を知らなくても、大人たちが何度も口にする罰なら、子どもだって知っているだろう。「それでも、ミアは薬草園へ来ました」 ヴィクター殿下が黙り込む。「厳しい罰があっても、命令された子どもには盗みをやめることができなかった」 私はマルコを見る。 男は俯いたままだ。「だったら……」 少しだけ迷ってから、言葉を続ける。「罰を重くするだけでは、こういう盗みはなくならないのではないでしょうか」 部屋が静まり返った。◇◇◇ ヴィクター殿下はすぐには答えなかった。 十歳の少年とは思えないほど真剣な表情で、何かを考えている。 やがて、マルコへ視線を向けた。「お前は、自分で盗みに行かなかった」「……はい」「なぜだ」 マルコは答えない。「捕まれば、自分の手を失うからか」「……」 沈黙。
マルコが燃やそうとしていた書類は、孤児院の応接室へ運び込まれた。 端が焦げてしまったものもあるけれど、ほとんどはまだ読むことができる。「これは……」 エドワード公爵様が一枚ずつ確認される。 私たちも少し離れたところから、その様子を見守っていた。「寄付の記録ですね」 騎士が答える。「先ほど確認した帳簿とは、金額が違います」「どのくらい?」 ヴィクター殿下が尋ねる。「こちらが本物であれば、帳簿に記載されている額の倍近くございます」「倍……」 思わず声が漏れた。 つまり。 もらったお金を、最初から少なく書いていたということ? それだけじゃない。 子どもたちへ贈られた食料や日用品まで売っていた。「随分長く続けていたようだな」 ヴィクター殿下の声が低くなる。「はい。残っているものだけでも、数年分ございます」 私は言葉を失った。 数年。 あの子たちは、そんなに長い間――。◇◇◇「マルコを連れてこい」 エドワード公爵様が命じられる。 しばらくすると、両脇を騎士に挟まれたマルコが入ってきた。 昨日とはまるで別人のようだった。 顔は青ざめ、額には汗が浮かんでいる。「これは君が燃やそうとしていたそうだな」 エドワード公爵様が焦げた紙を見せる。「……」「なぜ燃やした?」「……知りません」「知らない?」「俺は……院長に言われただけです」 その言葉に、ベアトリスが勢いよく顔を上げた。「嘘をつかないで!」「あなたが勝手にやったことでしょう!」
「血の匂いがする」 メイナードの一言で、地下室の空気が凍り付いた。「血?」 私は思わず聞き返す。「うん」 メイナードは棚の向こうを見つめたまま頷いた。「古いのと、新しいの」 エドワード公爵様の表情が険しくなる。「確認しろ」「はっ」 騎士たちが棚の奥へ向かう。 私も後を追おうとしたけれど、メイナードに腕を掴まれた。「シェリルはここ」「でも……」「何があるか分からない」 そう言われてしまうと、何も返せない。 私はその場に残り、騎士たちの背中を見つめた。 やがて。「公爵様」 低い声が聞こえた。「こちらへ」 エドワード公爵様とヴィクター殿下が奥へ向かう。 少しして、エドワード公爵様の声が響いた。「……これは何だ」 今まで聞いたことのないほど冷たい声だった。◇◇◇「ベアトリス」 呼ばれた院長の顔が真っ青になる。「来なさい」「……」「聞こえなかったか」「は、はい……」 ベアトリスは震えながら奥へ歩いていく。 私も気になって仕方がなかった。「メイナード」「だめ」「まだ何も言ってないよ」「行きたいって顔してる」「……」 どうやら全部分かってしまうらしい。 そのとき、奥からヴィクター殿下が戻ってきた。「シェリル」「はい」「来ない方がいい」 ヴィクター殿下までそう言う。 いったい何があるのだろう。 不安になっていると、騎
「地下へ続く階段が見つかりました」「地下?」「はい。しかし、扉に鍵が掛かっております」 私は思わず孤児院を振り返った。 まだ何か隠されているの……?「案内しろ」 エドワード公爵様の声に、ベアトリスが青ざめる。「お待ちください!」 今度は隠そうともしなかった。「地下には何もございません!」「ならば、見られて困ることもないだろう」「ですが――」「鍵を」 短い言葉だった。 ベアトリスは動かない。 エドワード公爵様の表情が変わる。「ベアトリス」「二度は言わない」「……っ」 とうとうベアトリスは震える手で鍵束を差し出した。 騎士がそれを受け取り、私たちは孤児院の中へ戻った。◇◇◇ 地下へ続く階段は、厨房の奥にあった。 狭い階段を下りていくと、ひんやりとした空気が肌に触れる。 先頭を歩く騎士がランプを掲げた。 その先には、頑丈そうな扉がある。 何度か鍵を試し、やがて。 カチャリ。 重い音を立てて鍵が開いた。「開けます」 騎士がゆっくりと扉を押す。 中を照らした瞬間、私は目を見開いた。「……薬草?」 棚いっぱいに、乾燥させた薬草が並べられていた。 一束や二束じゃない。 木箱にも大量に詰め込まれている。 サイラスがすぐに棚へ近付いた。「これ」 一つを手に取る。「昨日のと同じ」「ミアが持っていたもの?」「うん」 私は息をのんだ。 薬草園から盗まれたものと同じ薬草が、どうしてここにこんなにあるの?「購入した
「関係がないのなら」 エドワード公爵様が静かにベアトリスを見る。「なぜ、君が止める?」「それは……」 ベアトリスは口を開いたまま、何も答えられなかった。「確認すれば分かることだ」 エドワード公爵様が騎士へ視線を向ける。「行こう」「はっ」 私たちも公爵様のあとを追い、孤児院の裏手へ向かった。 そこには、一台の荷車が止められていた。 荷台には、大きな木箱がいくつも積まれている。 御者台に座っていた男は、騎士たちに囲まれて青ざめていた。「開けろ」 エドワード公爵様の命令を受け、騎士が木箱の蓋を外す。 中に入っていたのは――。「食べ物……?」 私は思わず呟いた。 小麦。 豆。 干した肉。 ほかの箱には、石鹸や布まで入っている。 どれも孤児院で必要になりそうなものばかりだった。「これは何だ」 エドワード公爵様がベアトリスへ尋ねる。「そ、それは……」「古くなったものを処分するために……」「これが?」 ヴィクター殿下が小麦の袋を見る。 どう見ても腐ってはいない。 布も汚れておらず、まだ十分に使えそうだった。「どこへ運ぶつもりだった」「……」 ベアトリスは答えない。 代わりに、荷車の男が慌てて頭を下げた。「わ、私は頼まれて運んでいるだけです!」「どこへ?」 エドワード公爵様が尋ねる。「町の商人のところです!」「いつも孤児院から品物を受け取って、代金を――」「黙りなさい!」 ベアトリスの鋭い声が響







