Masuk無事に出産を終えた、その直後のことだ。 夫・西園寺翔太(さいおんじ しょうた)と、私・高嶺美月(たかみね みつき)が学費を支援している女子学生・春日莉乃(かすが りの)が、私の病室の外で抱き合い、キスをしていた。 赤ん坊の火がついたような泣き声が響き、二人は弾かれたように体を離した。 慌てて病室に飛び込んできた翔太。その首筋には、くっきりと生々しいキスマークが残っている。 私はそれを見ても、あえて何も言わなかった。 遅れて顔を見せた女子学生の唇は、赤く腫れている。彼女は私に向け、挑発的な笑みを浮かべてみせた。 後日。 私は彼女のSNSの投稿を目にした。 動画の中で、彼女は笑顔で我が子をあやしながら、自分を「ママ」と呼ばせようとしている。 「ほら〜、ママって呼んでごらん?ママだよ〜」 翔太は苦笑しながら、彼女をたしなめる。 「こら。俺の奥さんは一人だけだぞ。少しは弁えろよ」 すると彼女は甘えた声を出し、彼に抱きつくと、そのまま唇を重ねた。 私の指先が一瞬、止まる。 ……すぐに画面収録ボタンを押した。 これらはすべて、証拠になる。 離婚裁判で、私がより多くのものを勝ち取るための、決定的なカードとして。
Lihat lebih banyakそこまで思い出し、私はハッと我に返った。陽太はお座りから寝返り、ハイハイ、そして歩けるようになり……瞬く間に時が過ぎていたのだ。もう、あれから一年が経っていたのか。私を宝物のように扱っていた男は、約束を守れなかった。私を裏切った。それなのに、彼はまだあの約束を覚えていたのだ。私は薫の背中をさすった。「お母さん、落ち着いて……彼の容体は?」薫は涙を拭い、声を絞り出した。「……両足とも、骨が砕けて……もう二度と元には戻らないって」その言葉に、私は息を飲んだ。「俺が裏切ったら、俺の足をへし折って、二度とバスケができなくしていいよ」少年時代の翔太が口にした冗談が、脳裏に蘇る。皮肉な運命の悪戯か。あの呪いが、本当に現実になってしまったのだ。私は陽太をシッターに預け、薫と共に病院へ急行した。病室のベッドには、翔太が意識を失ったまま横たわっていた。その目は固く閉じられ、顔は土気色で生気がない。薫は失神しそうなほど泣き崩れている。彼女を支えながら、私はベッドの上の人物を見つめた。気配を感じたのか、彼がゆっくりと目を開けた。私を見た瞬間、瞳に微かな光が宿ったが、それはすぐに絶望的な暗い色へと塗り替えられた。長い付き合いだ。彼が何を考えているのか、一目でわかった。彼は、諦めたのだ。復縁を、諦めた。以前ならまだ縋ることもできただろう。けれど両足が動かなくなった今、自分はもう私に相応しくないと思い知ったのだ。私は安堵すべきだった。これでようやく彼の執着から解放されるのだから。けれど、笑うことはできなかった。薫は私が彼に会いたくないことを察してくれた。最初の数日こそ付き添ったが、その後、彼女は私に「もう来なくていい」と言ってくれた。薫は道理のわかる人だ。「あの子があなたにしたことは消えないわ。無理しなくていいの……あなたも、私の娘なんだから」その時、陽太がトコトコと走ってきて、薫の足にしがみつき「ばあば」と甘えた。薫は寂しげに微笑んだ。「ふふ、そうね。美月は陽太と一緒にいてあげて」去っていく彼女の背中は、以前よりもずいぶん小さく、老け込んで見えた。私はしゃがみ込み、陽太に言い聞かせた。「陽太。おばあちゃんのこと、大切にするのよ。わかった?」「はーい」
私への挑発行為が露見してから、翔太は二度と彼女に会いに行かなかったらしい。生活費も学費も、完全に断たれた。彼女は外へ出てアルバイトを探すしかなくなった。けれど、そう簡単に良い仕事など見つからない。ようやく見つけたバイト先も、なぜかすぐに様々な理由で解雇されてしまう。後になって莉乃は知ったようだ。それらすべてが、翔太の手回しによるものだったと。翔太なりの、彼女への報復だったのだ。彼女は翔太に助けを求めようとしたが、今の彼には全く相手にされなかった。万策尽きた彼女は、夜の店で働くようになった。しかし、その清楚で人目を引く容姿が災いし、ある男に目をつけられてしまった。ホテルに連れ込まれ、一夜を共にした後……莉乃は完全に壊れてしまった。彼女には理解できなかったのだろう。どうしてこんなことになってしまったのか。翔太は「一番愛してるのは君だ、君だけだ」と言っていたのに。結局は妻である私を捨てきれず、彼女と肉体関係を持った事実だけが残った。莉乃は思っていたはずだ。少なくとも翔太の心の中に、自分の居場所はあるのだと。彼が少しは自分を愛してくれているのだと。翔太が後ろ盾になってくれたからこそ、私を挑発する度胸も持てたのに、なぜ最後にはこんな結末になってしまったのか。私は地面に突っ伏して泣いている莉乃を見下ろした。痛快だとは思わなかった。ただ、哀れだと感じた。地方から出てきて、ここまで来るのは大変だったはずだ。私が提供したチャンスを活かせば、もっと高い場所へ行けたかもしれないのに。彼女は自ら堕落することを選んだ。男に寄生して生きることを望み、恩を仇で返したのだ。この末路は、まさに自業自得と言うほかない。翔太は私を抱きしめて慰めようと手を伸ばしてきた。けれど、私の拒絶するような眼差しを見て、彼は手を下ろし、ため息をついた。「君の代わりに報復してやったよ。彼女は相応の報いを受けた……これで、少しは気が晴れたか?」私は腕の中の陽太を見つめたまま、彼に視線すら向けずに答えた。「彼女には罪があるわ……でも、あなたには罪がないとでも?彼女への報いは来たわね。じゃあ、あなたへの報いは?」その言葉に、翔太は長い間沈黙した。彼は、名誉の負傷をしたことを口実に、私の関心や優しさを引こ
「なんて図々しいのかしら」背後から聞こえるひそひそ話に、私の顔色はみるみる青ざめていった。我慢できなくなった一人が私の目の前に立ちはだかり、軽蔑したように言い放つ。「よくもまあ、平気な顔して外を歩けるわね。人の家庭を壊しておいて、恥ずかしくないの?」彼女は陽太を見下ろし、さらに罵った。「この、愛人の子め!」これには、私も我慢の限界だった。数歩距離を取り、彼女を睨み据える。「デマを流すのが犯罪だってこと、ご存知ですか?」彼女は鼻で笑った。「デマ?やったことの報いでしょうが!」周囲を見渡すと、明らかに他の人たちも彼女と同じ目で私を見ていた。その野次馬の群れの中に、私は見覚えのある顔を見つけた。莉乃だ。すべてのからくりが理解できた。私は迷わず彼女の名前を呼んだ。「莉乃。あなたが皆にそう吹き込んだのね?」ほんの数日会わなかっただけなのに、莉乃は別人のように変わり果てていた。身につけていた高価なアクセサリーやブランド服はすべて没収され、その姿はずいぶんとやつれている。私に名指しされ、彼女は慌てて逃げようとしたが、正義感に燃える奥様方に腕を掴まれた。「逃げることないわよ!愛人なんかに負けるんじゃない、私たちがついてるから!」その言葉を聞いて、莉乃は引きつった笑みを浮かべた。私は呆れて乾いた笑いが出た。ベビーカーを押して進み出ると、皆に守られるように立っている莉乃を見据え、もう一度問いかけた。「あなたが彼女たちに嘘を吹き込んだのよね?」莉乃は顔を背け、私を見ようとしない。私はポケットからスマホを取り出し、莉乃とのチャット履歴を表示させて、目の前の女性の一人に突きつけた。「証拠ならいくらでもあります。皆さん、よく見てください……本当の『愛人』は、どっちなのかを」莉乃の顔色が凍りつく。それでも彼女は往生際悪く叫んだ。「相手が誰かなんてわからないじゃない!捏造よ、私を陥れようとしてるだけだわ!」私は冷ややかに笑った。「なら、あなたのスマホを出してみて?チャット履歴は消せても、銀行の入出金記録までは消せないわ。ここ数年、私があなたに学費を振り込み続けた記録、全部残ってるんだから」その場の全員の顔色が変わった。疑いの眼差しが、一斉に莉乃へと向けられる。「私
乾いた音が響いた。翔太は莉乃の髪を掴み、引きずり出すようにして部屋から連れ出した。「美月に謝りに来い!」莉乃の泣き声がさらに大きくなる。陽太がまた目を覚ましてしまった。義父母が陽太をあやしながら、深くため息をつき、首を振っている。遅れて、私がリビングへ入った。ソファに座り、膝の上に置いた手を強く握りしめ、また開く。冷たい涙が頬を伝い落ちる。「お義父さん、お義母さん……」私は声を詰まらせながら言った。「もし私をまだ嫁だと思ってくださるなら、彼に離婚協議書にサインするよう説得してください……私は陽太を連れて出て行きます」涙を拭い、顔を上げて二人を見る。「でも、お二人が陽太に会いに来ることは、いつでも歓迎しますから」薫が痛ましげな目で私を見た。彼女は私の大学時代の恩師でもある。学生時代から私を買ってくれていて、翔太との結婚が決まった時も、誰よりも喜んでくれた人だ。私もずっと、彼女を尊敬してきた。彼女なら、きっとわかってくれる。「……わかったわ」案の定だった。彼女は優しく私の頭を撫でた。「私も手伝うから、荷物をまとめましょう」彼女の手助けのおかげで、荷造りは驚くほど早く終わった。家を出る時、薫は名残惜しそうに私の手を握りしめたまま、言葉にならずにいた。厳はまだ翔太を怒鳴りつけていたが、私には「安心して」と言ってくれた。「西園寺家の敷居は、あの女には絶対に跨がせないからな!」私は力なく微笑んだ。陽太を連れて、ホテルにチェックインした。スマホには翔太からのメッセージが嵐のように届いていたが、私は電源を切った。翌朝早く、私はすぐに新しいマンションを購入し、陽太を連れて引っ越した。小さな息子は大きな目をぱちくりさせ、見慣れない景色を不思議そうに眺めている。引越し業者が慌ただしく行き交う。片付けがすべて終わる頃には、もう夜になっていた。陽太にミルクを作り、自分の夕食を作ろうとしたその時、インターホンが鳴った。ドアスコープを覗く。翔太だ。時間を計算する。丸一日。彼がここを突き止めるには十分な時間だ。私はドアを開け、一歩下がって彼を招き入れた。彼は入ってくるなり、私をきつく抱きしめた。荒い息遣い。私の首筋に落ちる熱い涙が、襟元を濡らし