結婚式の開始まで、あと三十分というときだった。控室に置いていた私のウェディングドレスが、何者かによって無惨に破られていた。 スカートの裾はズタズタに裂かれ、ビジューはすべて剥がされていた。さらに、ドレス全体に赤いペンキと汚水がぶちまけられていた。 ドレスが届いてから控え室に入ったのは、メイク係として来ていた義妹――綾瀬美夜(あやせ みよ)だけ。 我慢の限界を超えた私は、思わず彼女に平手打ちを食らわせた。 だが、婚約者と両親は私を責め、汚れたドレスを着て美夜に土下座で謝れと強要してきた。 「たかがドレス一枚じゃないか。式はまたやればいい。人を殴るなんて、まるでヒステリックな女じゃないか。さっさと謝れ。さもないと婚約は破棄だ!」 婚約者の黒江奏真(くろえ そうま)が大事そうに妹をなだめる姿を見て、私は涙をこらえながら静かにその場を後にした。 そして、ずっと保存してあった連絡先に電話をかけた。 「すみません、無人島の居住権と、恋人・家族カスタムサービスを購入したいのですが」 電話の向こうからは、耳に心地よい女性の声が返ってきた。 「ご購入ありがとうございます。10日後のご入島をお待ちしております」
View More私は不思議そうに首をかしげた。「じゃあ、あなたと結婚するってこと?昔はチャンスがあったのに」彼はまっすぐ私を見つめ、その瞳には必死の懇願が宿っていた。そして、静かに片膝をついた。「そうだ。もう一度、君にプロポーズさせてくれ。許してほしい……本当に好きだったのは君だけだった。あの頃の気持ちを、俺は裏切ってしまった」私は長いため息を吐いた。まるで少し面倒に感じているように。彼らは、私が考え込んでいるのを見て、希望に満ちた目で私を見つめていた。「帰って。もう二度と顔を見たくないの」「父」と「母」は私を庇いながらその場を離れようとしたが、彼ら三人は取り乱し、泣き叫びながら私に縋りつこうとした。私は振り払うように彼らの手を払い、冷たく言い放った。「帰ってきたとき、何度もあなたたちに受け入れてほしいと懇願した。でも全部無駄だった。今になって、私が必要なくなったあなたたちが、私にすがってる。あなたたちには新しい娘ができた。私は新しい家族を得た。これで平等でしょ?」そのとき、横で縛られていた美夜がふと目を覚まし、泣きながら謝った。「ごめんなさい、お姉ちゃん。私、ただ……お姉ちゃんが羨ましかっただけなの。お姉ちゃんが戻ってきて、お父さんとお母さんの愛を奪うんじゃないかって怖くて……だから、ずっと意地悪してしまったの……」私の目は虚空を彷徨い、一瞬、どっと疲れが押し寄せてきた。私が失踪していた数年間、両親は疲弊しきり、祖母も早くに亡くなった。やっとのことで家に戻って、両親を救った「小さな女の子」がいたと聞いたとき、私は感謝していた。でも、その後の度重なるえこひいきが、私に憎しみを植えつけた。どうして父と母は、もう少しだけ私を待ってくれなかったのか。どうしてあんなにも急いで、新しい娘を迎え入れたのか。その問いが、何度も何度も私の夢に出てきて、私を蝕み、心を壊した。でも今、もうすべてを手放せた。私は、泣きじゃくる美夜を見下ろしながら、静かに言った。「あなたの愛なんて奪わないわ。全部あげる。消えて」彼らが去ってから数日後、ローズが悲しい知らせを持ってきた。「彼らはあの日、密航船に乗って帰る途中で、美夜が勝手に縄を解いて……警察に渡されたくなかったようで、そのまま国外へ逃げようとしたみたいです。でも、操
私は正面から答えず、静かに言った。「私の子どもの頃からの持ち物を全部揃えてここに送って。そうしたら、許すかどうか考えてもいい。その間は、もう連絡してこないで」彼らはまだ何か言いたそうだったが、私は容赦なく扉を閉めた。これで最低でも三年、いや五年は時間を稼げると思っていた。なにせ、私の持ち物のほとんどは彼らに捨てられるか、焼かれてしまっていたのだから。ところが、彼らは周辺のゴミ捨て場をくまなく探し、捨てられた物をひとつずつ拾い集めた。焼けてしまった物は、父が一から彫刻を学んで再現を試みた。若い頃のように器用ではなく、彫刻刀でよく指を切っては血をにじませた。それでも、彼の胸には「澪を取り戻さなきゃ」という強い思いが残っていた。その過程で、彼らは偶然、美夜がかつて私の田舎の養父母に宛てて書いた手紙を見つけた。そのときになってようやく、私の「行方不明」が、ただの偶然なんかじゃなかったと気づいたのだ。かつて、美夜と私は同じ小学校に通っていた。奏真とも幼馴染だった。だが、私と奏真が子どもの頃に親同士の取り決めで婚約していたと知ると、家に帰って母親に激しく食ってかかった。だが、彼女の母はただ溜息をついて、「うちはどうせ貧乏な家の運命だよ。金持ちに嫁ぐなんて無理に決まってる」と言った。その言葉に納得できなかった美夜は、ある春の遠足で私を山に連れ出し、眠らせて崖から突き落とした。たまたま通りかかった猟師に助けられた私は、その後、山村に売られ、ある家の養女として暮らすことになった。その家の人が私の両親の捜索記事を目にしたときも、美夜は先手を打った。「毎年、金を払うから、この子を外に出さないで」と口止めしたのだ。一方、彼女は私の両親が悲しみに暮れている隙を突いて、毎日優しい言葉をかけ、従順なふりをして近づいていった。さらには、自分を女手一つで育ててくれた実の母親の喘息薬をこっそり持ち出し――その母親は、発作の際に救急処置が間に合わず、そのまま帰らぬ人となった。そうして、美夜は私の両親に引き取られ、「養女」として家族になった。そして奏真との結婚を目前にしていたところに、私が戻ってきた。彼女の完璧な計画は、すべて崩れ去った。だから結婚式の日、逆上して私を嵌め、家から追い出そうとしたのだ。奏真はこの十年以上にも渡る
ローズは申し訳なさそうに、彼らが「信託財産を騙し取られた」と主張したため同行したのだと説明した。私は肩をすくめた。「追い返していいよ。あのお金はおばあちゃんが私に残したもの。公証済みの書類なら後で渡すわ」抑えていた感情が限界に達したのか、母が泣きながら叫んだ。「この人たち、一体誰なの?」私は母を見つめながらも、その目に浮かぶのはどこか他人を見るような冷めた色だった。隣にいる「母」が、そっと私の肩に手を添えて落ち着かせてくれる。心が落ち着いたところで、私は静かに告げた。「私を愛してくれる家族よ。私の財産は全部、この人たちに使ったの」ずっと冷静だった父の表情がついに崩れ、私のもとへ駆け寄ってきて、手を強く握りしめた。まるで今すぐにでも私を連れ戻そうとするかのように。「澪、騙されてるんだ! 本当の家族は俺たちだろ? 一緒に帰ろう、もう絶対に寂しい思いはさせない」私の瞳が揺れ、一瞬にじんだ涙を瞬きでそっと隠した。「ローズ、説明してあげて」ローズはプロらしい笑みを浮かべ、丁寧に説明を始めた。「こちらは弊社が提供している『家族・恋人カスタマイズサービス』です。実の家族に受け入れてもらえなかったお客様向けに開発された、愛情を提供するバイオロイドとなっております。私たちは高級カスタムのテクノロジー企業であって、詐欺師ではありませんよ」この「家族たち」が、私の幼少期の記憶から再現された仮生体であると知ったとき、父は呆然とした様子で問い返した。「記憶をもとに……?」「はい。脳波を解析したところ、彼女の家族との記憶の大半は『痛み』に分類され、8歳以前のみ『幸福』と判定されました」その言葉を聞いた母は、激しく泣き崩れ、床に膝をついて嗚咽した。「澪、ごめんなさい。帰ってきてからずっとあなたを無視してた。心を傷つけてたなんて、気づきもしなかったわ。一緒に帰ろう。今度こそ、ちゃんと償うから」「父」と「母」が私の前に立ち、まるで本当の両親が美夜を庇うように腕を広げた。私は静かに言った。「戻るつもりはないよ。あそこには、私との思い出なんて、全部あなたたちが捨ててしまったから」父は恥じ入るようにうつむき、なおも未練がましく抗おうとしていた。「オルゴールのことか? もう一度作り直す。いくらでも作る!」私は皮肉
団子を頬張ると、とろりとした甘じょっぱいタレが口いっぱいに広がった。とても幸せな味がした。不思議だ。以前なら、彼女がこんな風に私にマウントを取ってきた時、胸の奥がチクチクと痛んでた。両親が彼女に優しくする姿を見ては、やりきれない思いでいっぱいになり、つい比べてしまっていた。でも、もう違う。そんな思いは、今はどこにもない。そして、美夜は話題を変え、信託財産の話を持ち出してきた。「お姉ちゃん、私、奏真お兄ちゃんとハネムーンに行きたいの。前におばあちゃんが残してくれたお金、あるでしょ?」「もう全部使い切ったよ」私がそう返すと、彼女はすぐに猫なで声で責めてきた。「えぇ〜、お姉ちゃん、嘘つかないでよ〜そのお金はおばあちゃんが孫にくれたものなんだよ?私だって孫なんだから!」私は無言で電話を切った。しばらくして、母からも電話がかかってきた。開口一番、怒鳴り声。「美夜に何を言ったの!?また心臓発作が出たわよ!私たちは苦労してあなたを探して、美夜の結婚式に出てもらおうと思ってたのに……あなたのその態度は何?私たちの真心を踏みにじって、本当に犬にでもくれてやった気分よ!」私はもう何も答えず、家族全員の番号を着信拒否に設定した。そしてスマホを高く振り上げ、そのまま遠く海へ投げ捨てた。数日後――彼らは怒りに満ちた顔で、島にやってきた。だが、島に足を踏み入れた瞬間から、彼らの表情には戸惑いの色が浮かんだ。島の中央に建つヴィラは、実家を1:1で再現したものだった。そして、その横には、先日彼らに壊されたはずの祖母の家がそっくりそのまま再現されていた。彼らは無言のまま進み、大きなガラス窓の向こうを覗いた。そこには、私が「母」の膝に頭を乗せて、子守唄を聴いている姿があった。母が驚いて声を上げようとしたその時、美夜が手で制した。「お姉ちゃん、また何か企んでるのかも。様子を見てからにしようよ」ヴィラの中では、「母」が私の耳元を優しく撫でながら話しかけていた。「澪ちゃん、昨日の夜は、もう怖い夢を見なかったでしょう?」母はその呼び名を耳にして、ふと動きを止めた。それは幼い頃、彼女が私を呼ぶときにいつも使っていた名前だった。そして流れてくるあの歌が、長い間胸の奥にしまい込んでいた記憶を呼び覚ました。蝉の声が響く
島に着くと、ローズの言ったとおりだった。私の家族が、歓迎の準備を整えて待っていてくれた。「奏真」が真っ先に私の手を取り、プライベートヨットから優しく引き下ろしてくれた。私は彼の顔を見て、あまりのリアルさに驚いた。彼は私の指先にそっとキスし、穏やかな微笑を浮かべた。「澪、ずっと君を待ってたんだよ」ローズは島を一通り案内したあと、気を利かせて静かに姿を消した。帰る間際に「何かあればいつでもご連絡ください」とだけ残していった。私は「家族」に囲まれ、ダイニングテーブルに案内された。テーブルには私の大好物がずらりと並び、真ん中には精巧なフルーツケーキが置かれていた。「母」はエプロンで手を拭いながら、ろうそくに火を灯した。「澪ちゃん、お誕生日おめでとう! 24歳、素敵な一年にしようね!」揺れるキャンドルの灯りを見つめながら、私の目からぽたぽたと涙がこぼれ落ちた。「父」が私を抱きしめ、優しく言った。「澪ちゃん……パパがそばにいてやれなかったこの十数年、本当に辛かったな」こらえきれず、私はわんわん泣いた。その言葉は、私がずっと家族から聞きたかったものだった。あの時行方不明になったのは彼らのせいじゃないし、彼らが養女を迎えたことも理解できる。だけど――十数年ぶりに帰った家には、もう私の居場所はなかった。どんなに辛くても、私は決して文句を言わなかった。少しでも声を上げれば、「昔と違ってわがままになった」と突き返されるだけだった。今、目の前の「家族」は何度も私への愛を語ってくれる。私は涙を浮かべながら、次々と温かな抱擁を受け取った。「パパ、ママ、澪もうどこにも行かない。ここにいる」「うん」この無人島は四季が春のように穏やかで、今は冬なのに花々が咲き乱れ、夢のように美しかった。「母」は野の花で花冠を編んで、私の頭にそっとのせた。そして、私の手を取って痛ましげに眉をひそめた。そこには、壊れたオルゴールでできた傷跡がまだ残っていた。熱い涙が、私の手のひらに落ちる。私の心もまた、焼けるように震えた。私は目を合わせて、そっと言った。「ママ、もう大丈夫。全部、もう過ぎたことだから。ただ、ちょっと怖い夢を見ただけ。夢の中で、パパとママが私を捨てて、別の娘を迎えてたの」ここにいるのは、本当の私の家族。
祖母が私に残してくれた言葉は、こうだった。「大好きな孫へ。どうか、いつまでも幸せでいてね」夕暮れの風が、頬についた涙を優しく乾かしてくれた。私はゆっくりと祖母がかつて住んでいた小さな庭の家に向かった。そこは、昔と何も変わっていなかった。あの、今や美夜好みに作り変えられた家とはまるで違っていた。私は無人島のカスタム・ホットラインに電話をかけ、自分が望む家族の条件を一つずつ伝えた。「優しいお母さん、私を愛してくれるお父さん……祖母は不要です、そう、祖母は私の心の中で唯一無二の存在だから」残された数日間、私は祖母の庭を丁寧に修繕し直した。ときおり、庭に座って空をぼんやり見つめる時間もあった。島へ向かう前日のことだった――門の前に、ガヤガヤとうるさく何人もの人が押しかけてきた。彼らは何も言わず、重機で庭の塀を一気に壊し始めた。私は慌てて止めようとしたが、「どけ」と怒鳴られた。「ここは綾瀬家のお嬢様が建て直す予定の場所だ。お前、誰だ?」私が何も答えないうちに、両親が美夜を連れてやって来た。美夜は驚いたように言った。「お姉ちゃん、ここにいたんだ? もしかして行くところなかったの?戻ってくる?」母は美夜を抱き寄せながら、警戒するように私を睨みつけた。「出て行くときはあんなにきっぱりしてたくせに、まさかこんなとこに隠れてたなんてね。でも、ここにはもう住めないわよ。この家、元々おばあちゃんが残してくれたものだけど、もう美夜に譲ったから」私は破壊された庭を見て、声を震わせて叫んだ。「ここは……おばあちゃんが私に残してくれた家よ!」父は冷たく鼻で笑い、権利書を突きつけた。「お前が行方不明になったとき、死亡認定されたんだ。その後はこの家、俺の名義になってる。それに、お前、あれだけ啖呵切ったじゃないか。『一つも持っていかない』ってな」私が一歩近づこうとしたそのとき、美夜は怯えたふりをして父の背後に隠れた。「お姉ちゃん、お願いだから怒らないで……叩かないで……」父は即座に私を押し返した。「ちゃんと話せ!また妹に手を出す気か?」私は瓦礫の上に足を踏み出し、やっと治った足の傷が再び裂けた。目の前では、美夜が施工業者に指示を出し、庭に残された思い出の品々が次々と壊されていく。私は必死に止めよう
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