夜会では次々と女性達に話しかけられ、アレシアは帰りの馬車の中で心地よい疲れを感じていた。
ドレスをうまくアピールできたから、きっと明日からモナンジュは良い方向に進むはずだわ。
「アレシア、この後のことだけど、今夜は邸に戻るだろう?
久しぶりにゆっくり話したい。」「えっ、このままモナンジュに戻ろうかと思っていたわ。」
「モナンジュ?
さっきその話をしていたね。」「ええ、モナンジュは、私の経営しているお店よ。
経営していることは秘密にしているから、あなたに迷惑をかけることはないと思うの。 だから、安心して。」モナンジュに戻り、明日朝一でドレスをアピールできたことを、レオニー達に報告するつもりだった。
「いや、今夜はちゃんと話をしよう。
モナンジュへ行くのはダメだ。」トラヴィス様が真剣な眼差しで私を見ている。
「そうね。
話は必要ね。」今後の離縁について、話し合わずはっきりさせないのは、いつまでも中途半端で嫌なのだろう。
「それなら、居室で話そう。」
「わかったわ。」
ついに避けていたこの瞬間が訪れてしまったのね。
二人の終わりの時。「君の支度が整うまでゆっくり待っているよ。」
「ふふ、夜会に行く時もそうであったけれど、あなたが私を待つなんて、邸を出る前にはあり得なかったわね。」
「そうかもしれないな。
僕はいつも忙しすぎた。 とにかく急がなくていいから、僕に時間をくれ。」私は驚きながら頷いた。
普段は忙しくしているトラヴィス様が、私と向き合うために待つと言ってくれている。きっと私達の結婚はこれが最後ね。
もし私が邸を出なければ、彼からこんな言葉は引き出せなかったはずだわ。私は静かに頷いた。
「お待ちどうさま。」
たっぷりの湯に浸かり、久しぶりに侍女達に手伝ってもらいながらの湯あみを終え、浴室から出ると二人の居室に向かう。
トラヴィス様はワインを飲みながら、ソファで寛ぎ、私を待っていた。
「やあ、君も一杯どうだい?」
「えっ、お話をするのにワインですか?
大丈夫かしら。」「リラックスして話すのにいいと思うよ。
嫌なら、果実水でもいいけれど。 侍女に用意させるよ。」「いいわ。
もうこんな夜更けだもの。 みんな休みたいはずだから、ワインをいただくわ。」そう答えると、トラヴィス様は私の前に置いてあったグラスにワインを注いでくれた。
「こうして二人でワインを飲むこともなかったね。」
「そうね。
あなたは夜会の後でも、いつも王宮に戻っていたから。」「そうだったな。
聞いてもいいか? どうしてここを出て行ったんだ?」トラヴィス様の眼差しが鋭くなり、やはり私を責めているようだ。
「私がこの邸にいる必要性を感じなかったからよ。」
「何だって?
妻が邸にいる必要がないだって? そんなはずはないだろう。」「どうして?
あなたもいないのに、私は必要ないでしょう? ヨルダンがこの邸のことをすべてうまくやってくれているわ。」「そうではない。
僕はどうするんだ?」「トラヴィス様?
あなたは王宮で活躍しているわ。 リベルト王子を支える大切な役割なんでしょう? これからも応援しているわ。」「邸にいないのに?」
「ええ。」
離縁した後、時々王宮に行った際に回廊からあなたを見守り続けるなんて、言えないけれど…。
「邸に戻らないのか?」
「ええ。
新しい生活を始めているの。」「男か?」
「まさか。」
「邸を出てどこで何をしている?」
「モナンジュという工房で、経営をしている話は先ほどしたわ。」
「それでも邸から通うことだってできるだろう?」
「しようと思えばできるけれど、さっきも言ったように、この邸に私は必要ないもの。」
「必要だ。」
「どうして?」
「…。
どうしてもだ。」「離縁は?」
「絶対にダメだ。」
「そう?」
「ああ。」
私はトラヴィス様の言葉に首をかしげる。
彼はもう私と別れたいのだと思っていた。離縁は世間体が悪いから嫌なのかしら?
その気持ちはわかるわ。私だって離縁すれば、お父様に破門されて、お兄様のお荷物になるしかない。
だから、このままの関係でトラヴィス様がいいのなら、この距離感のまま彼のそばにいようかしら。
夜会では、今日のようにエスコートしてくれるだろうし。
そうすれば、少しは彼をそばで感じることができる。でも、今までのようにここに閉じこもる生活だけはしたくない。
彼を思い過ぎてしまう。
「私はモナンジュの仕事を続けて行きたいの。
それは譲らないわ。」「その仕事をやりたいなら、止めはしないよ。
だけど、夜には帰って来てほしいんだ。 約束してくれ。」「あなたがいないのに?」
「もちろん、これからは早く帰るよ。
リベルト王子にも話した。」「えっ、私とのことを?」
「そうだ。
見放されそうだとね。」「そんな、リベルト王子に私のことを話す時間を使わせるなんて恐れ多いわ。」
「いや、彼はむしろ僕に詫びていたよ。
自分のせいだとね。 本当は僕のせいなのだけど。」私が何をしようとトラヴィス様に影響はなく、ましてやリベルト王子にまで気を使わせるなんて、想像すらしなかった。
「トラヴィス様は私のことなど気にしなくていいわ。
もちろんリベルト王子も。」私は彼に気を使わせて早く帰ってほしいと望んだわけではない。
ただ、愛して欲しかったのだ。その気持ちがないなら、大切な仕事まで犠牲にしてくれる必要はない。
「今まで通りなら、アレシアはこの邸に戻らないつもりなんだろう?」
「ええ、まぁ。
でも、それであなたの仕事に悪い影響があるなら、気を使わなくていいの。 私のことは忘れて。」元の生活に戻るなら、覚悟を決めて邸を出た意味がなくなってしまう。
「だったら、こうしよう。
僕は早く帰るし、君も夜には邸に帰るんだ。 君がどうしても帰りたくないと言うのなら、仕方がない。 僕もそこに住もう。」「えっ?
何をおっしゃっているの? トラヴィス様がモナンジュに来ると言うの?」「ああ、僕を甘く見てはいけない。
僕はどこまでも君を追いかけるし、君を手放さない。君が眠れる場所なら、僕だってそこに眠れるさ。」
「…。」
トラヴィス様の言葉に驚いてしまう。
これではまるで、彼が私に執着しているかのようだわ。 そんなはずないのに。手に入れたものは手放さないタイプの人なの?
今まで彼が何かに執着するようすを見たことがなかったけれど。ふふ、そもそも私は彼のほとんどのことを知らないわ。
今や私達は形だけの夫婦だから。「何がおかしい?」
「あなたは謎に満ちていると思って。」
「そうだろうな。」
「トラヴィス様は私と一緒に寝たいの?」
「当たり前だ。
そのことに関しては一歩も譲るつもりはない。」「そう?
別にいいけれど。」「一つだけ聞いておきたいことがある。
正直に答えてほしい。」「何かしら?」
「男はいるのか?」
「えっ?」
「好きな男や夜を共にした男はいるのか?」
トラヴィス様は、顔を顰め、声を捻り出すように問いかける。
「まさか。
そんなことをしないわ。 私達は夫婦なのよ。」「わかった。
それならいい。」そもそも私は彼と別れたかったわけではない。
彼に見向きもされず、一人ぼっちの毎日が耐えがたかっただけだ。だから、私が浮気するはずがない。
彼が離縁を望まないなら、夫婦でいることに異論などないのだ。 ワインを二人で飲んだ後、寝室のベッドに並んで横たわる。久しぶりにこのベッドに寝たけれど、不思議と落ち着く。
まるで、旅行から帰って来たかのようにしっくり来るし、良く眠れそう。
不思議ね。
さっきまではこのまま離縁して、別々の道を歩むものだと思っていたのに、こうしてまた、トラヴィス様と同じベッドで眠ることになるなんて。彼が私と共にベッドに横になるのはいつぶりだったかしら。
思い出せないわ。いつも私が先に寝てしまっていたから、彼がいつベッドに戻ってきたのかさえ知らず、私にとっては一緒に寝ているイメージはないのだ。
それなのに今、隣に彼がいて、同じ時間を過ごしている。
二人でベッドに並ぶなんて、今更ながらなんだか恥ずかしい。彼のことを好きな私は、相変わらず彼を意識し、緊張してしまう。
そんな中、彼がこちらをじっと見ている視線を感じる。
「夜会に行く時、君は僕の顎にキスをしたよね?
あれをもう一度してくれないか。 挨拶で構わないから。」「えっ、あれですか?
もう忘れてください。」あれはもう離縁を覚悟していたから、せめて最後にと勢いでやってしまったのだ。
今更ながら恥ずかしい。 普段の私なら、あんなことは絶対にしないのに。「あの時、思いがけなくて、正直すごく嬉しかったんだ。
君から僕に何かしてくれたのが、初めてだったから。」そうだったかもしれない。
私は最初からトラヴィス様に憧れていて、彼の堂々とした振る舞いに圧倒されていたし、恐縮して自分から何かをするなんて、考えたこともなかった。彼のそばにいるだけで、精一杯だったから。
「私からキスなんてして、嫌じゃなかった?
夫婦だからギリギリ許されるかと思ったの。 ごめんなさい。」「謝らないで、むしろもっとして欲しいんだ。」
その言葉に戸惑いながらも、トラヴィス様が望むのならと、彼にそっと近づき、顎にやさしくキスをする。
これでいいのかしら?「うん、いいね、もう少し続けて。」
「えっ、もっとですか?」
私は驚きつつももう一度そっとキスをすると、トラヴィス様はうっとりするような眼差しで私を見つめて、そのまま静かに抱きしめた。
そして、久しぶりに彼は私を求めるのだった。
今日もアレシアは静かに湖を眺めていた。 水面に降り注ぐ陽の光が反射して、とても綺麗ね。 空も澄み渡って、どこまでも青い。 すべてを失っても、陽の光と青い空、この湖の美しさ、澄んだ空気は変わらないわ。 お兄様が選んだこの場所が、閉ざされた地下ような狭く息苦しい所でないだけ救いかもしれない。 その時、ふと湖に目をやると、湖に浮かぶ小さな船が何隻も見えた。 ここに来てから、船なんて一度も見たことが無かったわ。 その船達はどんどん島に近づいて来るように見える。 もしかしたら、私を助けてくれる船かもしれない。 けれど、同じぐらいの確率で悪意のある人達が襲おうとしているのかも。 怖いわ。 でも、どこにも逃げ場なんて、この島にはないのだ。 考えただけで、体が震えるほどの恐怖に襲われる。 とりあえず、…お兄様。 必死に別邸の中を走り回って探しても、どこにも姿が見えない。 こんな時にお兄様は、一体どこに行ってしまったの? 自分から彼を探すことがないから、どこをどう探せばいいのかすらわからない。 焦りだけが募る中、湖岸に船が着き、剣を手にした男達が、まっすぐ邸へ向かって駆けてくるのが見えた。 不安と焦燥が胸をかき乱す。 玄関の方から、誰かが扉を叩くような音が響いた。 続けざまに、強く、激しく。 ドンドン、ドンドンドン。 私は思わず息を呑み、急いで寝室に入り、ベッドの横に身を潜める。 息を殺して、なるべく小さくなるようにしゃがんだ。 でも、寝室に人が入って来たら、すぐに見つかってしまうだろう。 これではとても隠れたうちに入らない。 バキ、バキバキッ。 ドアが破られる音が聞こえる。 もし、見つかってしまったら、今日が人生最後の日になるかもしれない。 そう思って、寝室で小さくなり震えていると、走る足音がいくつも響き、その一つが近づき、後ろから優しい声が聞こえる。「アレシア、ここにいたんだね。 もう大丈夫だよ。 一緒に帰ろう。」「トラヴィス様なの?」 久しぶりに聞くトラヴィス様の声に、咄嗟に上を向くと、彼が微笑んで、私を見つめている。「そうだよ。 君の夫のトラヴィスだ。 無事で良かった…本当に。 一緒に帰ろう。」「私、お邸に戻ってもいいの?」「もちろん、そのために迎えに来たんだから。」 私は躊躇いがちにトラヴ
アレシアは今日も変わらず、湖のほとりをどうすることもできずに歩いていた。 泳いで渡るには大き過ぎるし、いかだを作ったこともなければ、そのための技術もない。 それなら、小さな空き瓶にお手紙を入れて流してみるのはどうかしら? いつか誰かがそれに気づいて、手紙を読んで、この湖を渡って助けに来てくれるかもしれない…。 わかっている。 その可能性はほぼないに等しい。 けれど、このまま何もしないよりは、できる事を試してみよう。 そうして、お手紙をしたためる。 「私がこの島に閉じ込められていること。」 「オフリー公爵へこのお手紙を渡してほしいこと。 私は彼を心から想っていて、きっと彼はこの手紙を読んだら、届けてくれたあなたを邪険にすることはないこと。」 トラヴィス様は、私のことを過去だと思っても、私の救出のために動いてくれる。 そんな優しさは、短い結婚生活で感じていた。 だから、嫌われているとわかっていても最後に頼りたいのは、やはりトラヴィス様だったし、想い浮かべるのもやはり彼だった。 離縁したいと一方的に姿を消すことで、彼の人生に傷をつけ、失望させたのもわかっている。 それでも、変わらず彼のことが好きだった。 「もし、彼が無理ならばせめて、モナンジュにお願いしたいこと。」 「願いが叶ったならば、報酬もお渡ししたいこと。」 それらを丁寧にしたため、署名した。 そのお手紙の入った瓶を十ほど流してみたけれど、時間をかけてそのほとんどが波に押し戻され、再び湖畔に戻って来てしまった。 私は落胆しながら、再びその瓶を湖に流し、穏やかな湖を見つめる。 お兄様の計画は完璧で、どんなに私が足掻こうとしても、湖を渡る方法は見つかりそうにない。 そんな私とは対照的に、彼はいつもと変わりなく、湖へ行くという私を優しく送り出し、成果がなく、夕方になりしょんぼりと帰る私に、食事を作ってくれている。 一見すれば、穏やかな兄妹の生活だけど、私はお兄様の内に潜む狂気が怖い。 今だトラヴィス様から、離縁状のサインがもらえず、私達はかろうじて兄妹のままだ。 でも、もしトラヴィス様がサインをしてしまったら、きっとお兄様は私と無理矢理結婚するだろう。 その時、ここに囚われたままの私に逃げ場などないし、助けを求めれる相手すら誰もいない。 けれど私は、どんな理由があ
「夜遅くにすまない。 入れてもらえないだろうか?」 トラヴィス達がモナンジュを訪れると、困惑した顔のレオニーと言う店の女性と、あまり会いたくないと思っていたカーライルが、僕らを迎え入れた。「オフリー公爵様、お久しぶりです。 どうかなさいましたか?」「こちらにアレシアが来ているかい?」「いえ、オフリー公爵様と離縁することになったと言って、一度顔を出したきりです。」「やはり、こちらにもいないか。」「公爵様、アレシア様は落ち着いたら、また来ると言っていました。 でも、こんなに長く来ないなんて、何かあったのではないかと心配しているところでした。 ところで、そちらの方は?」 「こちらは私の友人のリベロと言う男です。 彼はアレシアの兄が気にかかると、一緒に来てくれたのです。」 リベルト王子は軽く会釈するが、カツラを被っているため、レオニー達は彼が王子だと気づかない。 彼は時々、こうして王都の街を自由に歩き回っている。 その時、ずっと黙っていたカーライルが重い口を開ける。「オフリー公爵様、僕のことを快く思っておられないのは承知しておりますが、お話してもよろしいでしょうか?」「ああ。」「では奥にいらしてください。」 アレシアがカーライルのところにいないのなら、彼よりホリック卿が中心となっている可能性が高い。 だが、それは彼とじっくり話をしてみないとわからない。 本来であれば、彼に助けを求めるなど絶対にしたくなかったが、今はそうも言っていられない。 彼女を取り戻すためには、どんな手段も惜しまない。 その中には嫌いなこの男と協力することも含まれている。 屈辱ではあるが、その覚悟はすでにできていた。 僕達四人は店を閉めて、奥の部屋で腰を据えて話をすることにした。「アレシア様が最後にここに来た時、とても沈んだ様子でした。 オフリー公爵様に、肌を美しくする薬を飲んでいたことを咎められたと。 そして、嫌われたまま邸にいるのはつらいから、もう離縁するつもりだと。 けれど、その時ふと思ったのです。 肌が綺麗になる程度の薬を飲むだけで、両家やその親族、さらには貴族社会全体の力関係にすら影響を与えるような結婚を、それだけで蔑ろにする男などいない。 きっと根本的な何か、別の重要な理由があるはずに違いないと思いました。 だから僕は、このまま
「まだいたのか? 浮かない顔をしているな。 夫人と何かあったのか?」 トラヴィスが王宮で急ぎもしない執務を片付けていると、リベルト王子が現れて、早速触れてほしくない話題を口にする。「リベルト様、お耳汚しになりますので気になさらず。」「そんなことを言っても、私にも関わることだから、ちゃんと話してもらうぞ。」 観念した僕は、リベルト王子に従い、彼の私室で、強めの酒を酌み交わしながら口を開く。「ここに僕を連れて来た時は、どんな尋問よりも隠しごとを許さないですよね?」 ここは完全な私室で、近衛兵が入り口を警備し、限られた者しか近づくことさえできない。 だから、ごく個人的な話でも人に聞かれることなく話せるのだ。「で、何があったんだ?」「妻が再び出て行きました。 僕はアレシアには好きに生きていいなんて言いながら、実は隠しごとをせず、僕に本当の気持ちを話して欲しかったんです。 そして、彼女は今でも心を開くつもりがないと知った時、気持ちを抑えきれず、ついに彼女を突き放してしまいました。 それからは、彼女と向き合うことができず、顔を見るのを避けていたんです。 それでも朝方になると彼女のいるベッドに入り、彼女を抱きしめてわずかに眠りつく、そんな日々を送っていました。 けれども、彼女は僕を許せなかったのでしょう。 ついに使用人達の静止を振り切って、邸を出て行ったそうです。」「でも、いつものモナンジュというドレス工房にいるんじゃないのか?」「おそらく、そちらにはいないでしょう。 今回はアレシアの兄のホリック卿と出て行ったと、邸の者が話していたので。 それに、アレシアからの代理で、そのホリック卿から離縁状が送られてきております。 つまり、アレシアは本気で僕と別れたいと思ったのでしょう。 今はもう後悔しかありません。 どうして僕はあの時、子供は諦めるから、そばにいてほしいと言わなかったのかと。」「その話は、初めて聞いたよ。 夫人は子供が欲しくなかったのかい?」「はい、アレシアは僕が気づいていないと思って、最初から避妊薬を飲んでいました。 結婚したばかりの頃はまだ、彼女の妊娠したくないと言う気持ちを尊重して、深く詮索するつもりはありませんでした。 けれども、一年が経っても全くやめようとしないその姿に絶望したのです。 アレシアは、一生僕
目が覚めるとアレシアは、湖を見渡せる別邸のベッドに横たわっていた。 白く可愛らしい寝室には、自分が寝ている大きなベッドがあり、目の前には陽の光に照らされてキラキラ輝く湖が広がっている。「やあ、目覚めたかい? 僕の眠り姫。 何をしても起きないから、驚いたよ。 眠りが深いのは、相変わらずなんだね。」 お兄様がベッドサイドの椅子に腰掛けて、微笑んでいる。「最近、トラヴィス様を想って眠れなかったから、余計に寝てしまったのね。 でも、眠りが深いのは変わらずなの。 それに良く寝たから、元気が出て来たわ。 ここがお兄様の言っていた湖の見える別邸なのね。 とても綺麗だわ。」「そうだよ。 この別邸を初めて見た時から、アレシアをずっとここに連れて来たかったんだ。」「嬉しいわ。 ありがとう。」「ここで二人で暮らそう。」「よろしくお願いします。 あれ? このベッドの頭の所に掛かっている大きな絵は私?」 ベッドの頭側の壁に、両手を広げるほどの絵画が飾られていて、そこには椅子に座り微笑んでいる私が、描かれている。 おそらく、私の結婚前の頃の絵ね。 どうしてここにあるのかしら。「そうだよ。 綺麗だろ?」「こんな絵をいつ書いてもらったのかしら? 全然覚えていないわ。」「邸にいた者で絵の才能があるやつがいたんだ。 その者に書かせたよ。 それよりお腹が空いただろう? 食事にしよう。」「はい。」 二人は湖の見える庭で、朝食を食べる。 テーブルには、パン、スープ、果実水が並ぶが、どこか違和感がある。 何だろう?「美味しいかい?」「ええ、自然の中だと食欲が湧くわ。 最近、食事が喉を通らなかったから。」「だったら、もう少し運んで来ようか?」「いいえ、これだけで十分よ。 近くで湖を見てもいいかしら?」「もちろんだよ。 一緒に行こう。」 二人は並んで静かな湖の景色を眺めている。「とっても綺麗、水が透き通っているのね。」「そうだ。 湖はとても深いことを知っているかい?」「そうなの? 知らなかったわ。」「湖はね、深いし、広いから泳いで渡ることは不可能なんだ。」「ふふ、向こうの岸さえ微かに見える程度なのよ。 ここを泳ごうとする人なんていないわ。」「そうだね。」 邸に戻ると、寝室のベッドは乱れたままだった。「あ
もうどれくらいの間、トラヴィス様のお顔を見ていないかしら。 アレシアは、昼間はモナンジュで仕事に集中し気を紛らわせていたが、夜一人になると静まりかえる寝室で、ただトラヴィス様の帰りを待つ日々が続いている。 もしかしたら、今日こそ彼が寝室を訪れ、もう一度やり直す機会を与えてくれるかもしれないと淡い期待を捨てきれずにいた。 私が元々美人で、肌の美しさにこだわったりしなければ、トラヴィス様は私を嫌わずにいてくれたのかしら? それとも、二人の間に秘密を持たずに、お薬のことを打ち明けていれば、許してくれたのかもしれない。 反対に、もっと早くトラヴィス様が、「薬を飲む私が嫌だ。」と言ってくれたなら、どれほど肌が荒れようとやめたのに。 いいえ、違うわ。 私は嫌だと言われるのがわかっていたから、内緒で続けていたんだわ。 だから、どこまでも私が悪い。 結果的に私は、彼の思いを裏切ってしまい、今となってはもう手遅れね。 きっと彼は二度と私に微笑んでくれることはないだろう。 昨日、お兄様にお手紙を書いた。 もう、トラヴィス様を諦める潮時なのだろうと思ったから。 彼には、私を避けるのではなく、もっと身体を休めるために寝室を使ってほしい。 私達がこうなる前のトラヴィス様は、以前より元気そうで溌剌としていた。 きっと彼は、私を避けないで生活すれば、いくら忙しいとはいえ、もう少し健やかに暮らせるのだろう。 私がここに居座ると、トラヴィス様の穏やかな生活の妨げになってしまう。 それも、避けたかった。 でも、一番は私に再び心を向けてくれたトラヴィス様が、また背を向けてしまったことに、もう耐えられなくなったからだと思う。 結婚三年目のお祝いの時も苦しかったけれど、今の苦しみは重くて、深い。 彼の口から、私を拒絶する言葉を聞いてしまったのだから。 あれから何度も思い返し、そのたびに悲しみに沈む。 まるで身体から全ての血が失われたように、抜け殻で、考えることも、感じることも息を奪う。 なんとか浅く息を繰り返すだけで、精一杯だった。-------------------------------------------------------------------------------------「やあ、アレシア、随分と塞いでいるじゃないか?」「お兄