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7.話し合い

Author: 月山 歩
last update Last Updated: 2025-05-29 09:47:01

 夜会では次々と女性達に話しかけられ、アレシアは帰りの馬車の中で心地よい疲れを感じていた。

 ドレスをうまくアピールできたから、きっと明日からモナンジュは良い方向に進むはずだわ。

「アレシア、この後のことだけど、今夜は邸に戻るだろう?

 久しぶりにゆっくり話したい。」

「えっ、このままモナンジュに戻ろうかと思っていたわ。」

「モナンジュ?

 さっきその話をしていたね。」

「ええ、モナンジュは、私の経営しているお店よ。

 経営していることは秘密にしているから、あなたに迷惑をかけることはないと思うの。

 だから、安心して。」

 モナンジュに戻り、明日朝一でドレスをアピールできたことを、レオニー達に報告するつもりだった。

「いや、今夜はちゃんと話をしよう。

 モナンジュへ行くのはダメだ。」

 トラヴィス様が真剣な眼差しで私を見ている。

「そうね。

 話は必要ね。」

 今後の離縁について、話し合わずはっきりさせないのは、いつまでも中途半端で嫌なのだろう。

「それなら、居室で話そう。」

「わかったわ。」

 ついに避けていたこの瞬間が訪れてしまったのね。

 二人の終わりの時。

「君の支度が整うまでゆっくり待っているよ。」

「ふふ、夜会に行く時もそうであったけれど、あなたが私を待つなんて、邸を出る前にはあり得なかったわね。」

「そうかもしれないな。

 僕はいつも忙しすぎた。

 とにかく急がなくていいから、僕に時間をくれ。」

 私は驚きながら頷いた。

 普段は忙しくしているトラヴィス様が、私と向き合うために待つと言ってくれている。

 きっと私達の結婚はこれが最後ね。

 もし私が邸を出なければ、彼からこんな言葉は引き出せなかったはずだわ。

 私は静かに頷いた。

「お待ちどうさま。」

 たっぷりの湯に浸かり、久しぶりに侍女達に手伝ってもらいながらの湯あみを終え、浴室から出ると二人の居室に向かう。

 トラヴィス様はワインを飲みながら、ソファで寛ぎ、私を待っていた。

「やあ、君も一杯どうだい?」

「えっ、お話をするのにワインですか?

 大丈夫かしら。」

「リラックスして話すのにいいと思うよ。

 嫌なら、果実水でもいいけれど。

 侍女に用意させるよ。」

「いいわ。

 もうこんな夜更けだもの。

 みんな休みたいはずだから、ワインをいただくわ。」

 そう答えると、トラヴィス様は私の前に置いてあったグラスにワインを注いでくれた。

「こうして二人でワインを飲むこともなかったね。」

「そうね。

 あなたは夜会の後でも、いつも王宮に戻っていたから。」

「そうだったな。

 聞いてもいいか?

 どうしてここを出て行ったんだ?」

 トラヴィス様の眼差しが鋭くなり、やはり私を責めているようだ。

「私がこの邸にいる必要性を感じなかったからよ。」

「何だって?

 妻が邸にいる必要がないだって?

 そんなはずはないだろう。」

「どうして?

 あなたもいないのに、私は必要ないでしょう?

 ヨルダンがこの邸のことをすべてうまくやってくれているわ。」

「そうではない。

 僕はどうするんだ?」

「トラヴィス様?

 あなたは王宮で活躍しているわ。

 リベルト王子を支える大切な役割なんでしょう?

 これからも応援しているわ。」

「邸にいないのに?」

「ええ。」

 離縁した後、時々王宮に行った際に回廊からあなたを見守り続けるなんて、言えないけれど…。

「邸に戻らないのか?」

「ええ。

 新しい生活を始めているの。」

「男か?」

「まさか。」

「邸を出てどこで何をしている?」

「モナンジュという工房で、経営をしている話は先ほどしたわ。」

「それでも邸から通うことだってできるだろう?」

「しようと思えばできるけれど、さっきも言ったように、この邸に私は必要ないもの。」

「必要だ。」

「どうして?」

「…。

 どうしてもだ。」

「離縁は?」

「絶対にダメだ。」

「そう?」

「ああ。」

 私はトラヴィス様の言葉に首をかしげる。

 彼はもう私と別れたいのだと思っていた。

 離縁は世間体が悪いから嫌なのかしら?

 その気持ちはわかるわ。

 私だって離縁すれば、お父様に破門されて、お兄様のお荷物になるしかない。

 だから、このままの関係でトラヴィス様がいいのなら、この距離感のまま彼のそばにいようかしら。

 夜会では、今日のようにエスコートしてくれるだろうし。

 そうすれば、少しは彼をそばで感じることができる。

 でも、今までのようにここに閉じこもる生活だけはしたくない。

 彼を思い過ぎてしまう。

「私はモナンジュの仕事を続けて行きたいの。

 それは譲らないわ。」

「その仕事をやりたいなら、止めはしないよ。

 だけど、夜には帰って来てほしいんだ。

 約束してくれ。」

「あなたがいないのに?」

「もちろん、これからは早く帰るよ。

 リベルト王子にも話した。」

「えっ、私とのことを?」

「そうだ。

 見放されそうだとね。」

「そんな、リベルト王子に私のことを話す時間を使わせるなんて恐れ多いわ。」

「いや、彼はむしろ僕に詫びていたよ。

 自分のせいだとね。

 本当は僕のせいなのだけど。」

 私が何をしようとトラヴィス様に影響はなく、ましてやリベルト王子にまで気を使わせるなんて、想像すらしなかった。

「トラヴィス様は私のことなど気にしなくていいわ。

 もちろんリベルト王子も。」

 私は彼に気を使わせて早く帰ってほしいと望んだわけではない。

 ただ、愛して欲しかったのだ。

 その気持ちがないなら、大切な仕事まで犠牲にしてくれる必要はない。

「今まで通りなら、アレシアはこの邸に戻らないつもりなんだろう?」

「ええ、まぁ。

 でも、それであなたの仕事に悪い影響があるなら、気を使わなくていいの。

 私のことは忘れて。」

 元の生活に戻るなら、覚悟を決めて邸を出た意味がなくなってしまう。

「だったら、こうしよう。

 僕は早く帰るし、君も夜には邸に帰るんだ。

 君がどうしても帰りたくないと言うのなら、仕方がない。

 僕もそこに住もう。」

「えっ?

 何をおっしゃっているの?

 トラヴィス様がモナンジュに来ると言うの?」

「ああ、僕を甘く見てはいけない。

 僕はどこまでも君を追いかけるし、君を手放さない。

 君が眠れる場所なら、僕だってそこに眠れるさ。」

「…。」

 トラヴィス様の言葉に驚いてしまう。

 これではまるで、彼が私に執着しているかのようだわ。

 そんなはずないのに。

 手に入れたものは手放さないタイプの人なの?

 今まで彼が何かに執着するようすを見たことがなかったけれど。

 ふふ、そもそも私は彼のほとんどのことを知らないわ。

 今や私達は形だけの夫婦だから。

「何がおかしい?」

「あなたは謎に満ちていると思って。」

「そうだろうな。」

「トラヴィス様は私と一緒に寝たいの?」

「当たり前だ。

 そのことに関しては一歩も譲るつもりはない。」

「そう?

 別にいいけれど。」

「一つだけ聞いておきたいことがある。

 正直に答えてほしい。」

「何かしら?」

「男はいるのか?」

「えっ?」

「好きな男や夜を共にした男はいるのか?」

 トラヴィス様は、顔を顰め、声を捻り出すように問いかける。

「まさか。

 そんなことをしないわ。

 私達は夫婦なのよ。」

「わかった。

 それならいい。」

 そもそも私は彼と別れたかったわけではない。

 彼に見向きもされず、一人ぼっちの毎日が耐えがたかっただけだ。

 だから、私が浮気するはずがない。

 彼が離縁を望まないなら、夫婦でいることに異論などないのだ。

 ワインを二人で飲んだ後、寝室のベッドに並んで横たわる。

 久しぶりにこのベッドに寝たけれど、不思議と落ち着く。

 まるで、旅行から帰って来たかのようにしっくり来るし、良く眠れそう。

 不思議ね。

 さっきまではこのまま離縁して、別々の道を歩むものだと思っていたのに、こうしてまた、トラヴィス様と同じベッドで眠ることになるなんて。

 彼が私と共にベッドに横になるのはいつぶりだったかしら。

 思い出せないわ。

 いつも私が先に寝てしまっていたから、彼がいつベッドに戻ってきたのかさえ知らず、私にとっては一緒に寝ているイメージはないのだ。

 それなのに今、隣に彼がいて、同じ時間を過ごしている。

 二人でベッドに並ぶなんて、今更ながらなんだか恥ずかしい。

 彼のことを好きな私は、相変わらず彼を意識し、緊張してしまう。

 そんな中、彼がこちらをじっと見ている視線を感じる。

「夜会に行く時、君は僕の顎にキスをしたよね?

 あれをもう一度してくれないか。

 挨拶で構わないから。」

「えっ、あれですか?

 もう忘れてください。」

 あれはもう離縁を覚悟していたから、せめて最後にと勢いでやってしまったのだ。

 今更ながら恥ずかしい。

 普段の私なら、あんなことは絶対にしないのに。

「あの時、思いがけなくて、正直すごく嬉しかったんだ。

 君から僕に何かしてくれたのが、初めてだったから。」

 そうだったかもしれない。

 私は最初からトラヴィス様に憧れていて、彼の堂々とした振る舞いに圧倒されていたし、恐縮して自分から何かをするなんて、考えたこともなかった。

 彼のそばにいるだけで、精一杯だったから。

「私からキスなんてして、嫌じゃなかった?

 夫婦だからギリギリ許されるかと思ったの。

 ごめんなさい。」

「謝らないで、むしろもっとして欲しいんだ。」

 その言葉に戸惑いながらも、トラヴィス様が望むのならと、彼にそっと近づき、顎にやさしくキスをする。

 これでいいのかしら?

「うん、いいね、もう少し続けて。」

「えっ、もっとですか?」

 私は驚きつつももう一度そっとキスをすると、トラヴィス様はうっとりするような眼差しで私を見つめて、そのまま静かに抱きしめた。

 そして、久しぶりに彼は私を求めるのだった。

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