Masuk墨霞邸の火災は、またたく間に大騒ぎとなった。夏目陽子の豪邸が全焼した直後に、冴島家の次男の結婚新居までが炎に包まれたのだ。誰もが、ここ最近の星歌と飛鳥の間で起きている異常なまでの衝突と結びつけずにはいられなかった。亜季の耳にも、すぐにその知らせは届いた。彼女は今、病院で夏蓮の付き添いをしているところだった。電話を受けた瞬間、亜季はヒステリックに叫んだ。「なんで急に火事になんてなるのよ!?まさか、星歌の仕業じゃないでしょうね!?」星歌の名前を口にした途端、亜季の脳裏に、電話で星歌に言われた言葉が鮮明に蘇った。『返さなくてもいいわよ。どっちみち、あなたがそこに住むことはできないんだから』あの時、星歌は信じられないほど冷ややかで、嘲るようにそう言い放ったのだ。瞬間、亜季は頭をハンマーで殴られたかのような衝撃を受け、耳の奥でキーンと嫌な音が鳴った。星歌だ。あいつだ。絶対に、あいつがやったに決まってる!怒りで頭が沸騰した亜季は、その場ですぐに星歌の番号へ電話をかけた。しかし、何度かけても着信拒否されているのか全く繋がらない。結局、他人の電話を借りてようやく繋がった。星歌が電話に出る。彼女が何か言うよりも早く、亜季は電話口で怒鳴り散らした。「あんたがやったんでしょう!?」「……何のこと?」電話越しに聞こえる声は、苛立つほど落ち着き払っていた。「とぼけないでよ!墨霞邸に火をつけたのはあんたでしょ!?星歌、あんた狂ったの!?」夏目陽子の豪邸の件だって、亜季は星歌の仕業だと疑っていた。そして今度は墨霞邸だ。亜季の中の疑念は、もはや絶対的な確信へと変わっていた。「よくもそんな恐ろしい真似ができたわね!そうやって私に喧嘩を売ってるつもり!?」「一体どこからそんな度胸が湧いてくるわけ?何度もこんなマネをして!兄様が守ってくれるとでも思ってるの!?」「言っておくけどね、こんなことをして、陽子様があんたを許すはずがないわ!兄様だって、もうあんたを庇いきれないんだからね!」亜季は完全に理性を失い、まくし立てた。もちろん、亜季自身も墨霞邸のことは本気で気に入っていた。だが、星歌の要求を突っぱねて家を返さなかったのは、ただ単にあの女を悔しがらせて惨めな思いをさせてやりたかったからだ。だが、今のこの惨状はどうだ
だが、一体いつからだろうか。かつて実家にいた頃の飛鳥なら、夏蓮や都子が何を言おうと黙って従っていたというのに。今の彼は、『翼』という名前で呼ばれることを――特に夏蓮の口からそう呼ばれることを、異常なまでに忌み嫌うようになっていた。その眼差しには、隠しきれない嫌悪の色がくっきりと浮かんでいる。今のこの瞬間もそうだった。飛鳥は、冷ややかで軽蔑に満ちた視線を夏蓮へと突き刺した。「子供に本当に必要なのは、強く、そして善良な母親だ。夏蓮さん、くれぐれも変な『悪知惠』など働かせないことだな」「……っ」都子が息を呑む。「……」夏蓮の顔色から、サッと血の気が引いた。『悪知恵』という言葉に、明らかに顔がこわばっている。「翼さん……?どうしてそんなひどいことを言うの?私が悪知恵を働かせる?私が善良じゃないって言うの……!?私……っ!」夏蓮が悲痛な声を張り上げるが、飛鳥は彼女の言葉を最後まで聞くことすらなく、あっさりと視線を外した。そのまま振り返り、傍らに立つ医師たちに向かって事務的に言い放つ。「子供の治療には、全力を尽くしてくれ」飛鳥のあまりにも冷酷な態度は、夏蓮の胸をえぐるように深く突き刺さった。息が詰まるほど苦しく、ただ絶望だけが広がっていく。そんな息子の態度を見て、都子も怒りで震えていた。これもすべて、あの星歌のせいだ!忌々しい……あの女、一体いつからあんなに生意気に図に乗るようになったのか。何より腹立たしいのは、星歌がどれだけ傍若無人に振る舞おうと、飛鳥が絶対に離婚しようとしないことだ。それどころか、ますますあの女を甘やかし、執着を深めているではないか!院長は深く頷いた。「もちろんです。お子様の治療には病院を挙げて全力を尽くします。ただ……」そこで言葉を濁し、院長は困惑したような顔でチラリと夏蓮の方へ視線をやった。どうやら、子供の病状は極めて思わしくないらしい。それに加え、まだ生まれたばかりの小さな体だ。手術や治療に耐えられるかどうかも未知数なのだろう。「やれ!」飛鳥は短く言い放った。院長が何を危惧しているかなど、大体想像はつく。体が小さすぎると言いたいのだろうが……それがどうしたというのだ。どんな手を使ってでも生かすこと、それこそが夏蓮と母がどうしても望んでいることではないか。
今回、彼女がどうして飛鳥とここまで決定的に決裂するに至ったのか、詳しい経緯は神崎にも分からない。だが、今の状況を見る限り、彼女の覚悟は本物だ。飛鳥は以前のように、彼女を飼い慣らした小鳥のように手元に置いておきたいようだが……今、星歌が見せているこの激烈な気性からして、もう昔のように大人しく従うことは絶対にないだろう。啓介はふと尋ねた。「彼女に怪我はなかったか?」「はい。うちの者の報告によれば、星歌様はグロに付き添われて無事に脱出したとのことです。無傷でした」神崎は首を横に振って答えた。啓介はそれ以上は何も言わず、視線を落として、たった今運ばれてきた書類にペンを走らせ始めた。沈黙した彼が今、何を考えているのか――神崎には、先ほどよりもさらに主の胸の内が読み取れなくなっていた。......その頃、飛鳥は急行した病院の一室にいた。院長や担当医を交え、子供の容態について緊急のカンファレンスが開かれており、そこには夏蓮本人と、駆けつけた飛鳥の母・都子も同席していた。額と首筋に冷却シートを貼った夏蓮は、いかにも力なく、見るからに病み上がりの憔悴しきった姿だった。部屋に入ってきた飛鳥の姿を認めるなり、彼女は真っ赤に腫らした目を潤ませ、すがるような声を上げた。「……翼さん」亡き兄の名を呼ばれ、飛鳥の顔にサッと不機嫌な影が落ちる。彼は冷ややかな声でそれを打ち消そうとした。「前にも言ったはずだ。俺は……」「飛鳥、それ以上は言わないで!」飛鳥の言葉は、横から割り込んだ都子によって強引に遮られた。都子は飛鳥を険しい目つきで睨み、同時に「お願いだから今は話を合わせてやって」とでも言うように、懇願の眼差しで小さく首を振る。都子にしてみれば、今の夏蓮はこれ以上ないほど可哀想な境遇にいるのだ。彼女が目の前にいる男を飛鳥だと思おうが翼だと思おうが、大した問題ではない。どうせ今の状態の夏蓮と飛鳥の間に、何らかの間違いが起こるはずもないのだから、と。一方の飛鳥は、胸の内で静かに苛立ちを募らせていた。世間の世論がこれほど激しく夏蓮を標的にして燃え上がっているというのに、彼女はいまだに現実から目を背け、俺を『翼』だと錯覚し続けようとしている。俺が病室の前にボディガードを配置してやらなかったら、今のこの平穏が保てている
スマートフォンが『ブーッ』と短く振動した。見知らぬ番号からのショートメッセージだ。しかし、その文面を見れば、送り主が誰なのかは一目瞭然だった。【高峰さんに二度と近づかないって約束するなら、墨霞邸も含めて、あんたから奪ったものは全部返してあげる】また墨霞邸の話か。これほど皮肉な話はない。飛鳥は『君との結婚の証だ』と言ってこの家を買ったくせに、実際の所有権はずっと妹の亜季名義になっていたのだ。飛鳥にとっては実の妹の家だから何も問題ないのだろうが、こうして亜季が「高峰さんから離れるなら、家をくれてやる」と交渉材料に使ってくること自体が、星歌にとっては反吐が出るほど不愉快だった。星歌は冷ややかに眉を上げると、スマートフォンをポケットにしまい、そのまま物置部屋へと歩き出した。そこには――芝刈り機用のガソリンが入った赤い携行缶が、いくつも並んでいるのだ。......墨霞邸を後にしてからというもの、牧野の胸には得体の知れない嫌な予感が渦巻いていた。星歌の様子がどうにもおかしい。その異常を知らせようと飛鳥に電話をかけてみたものの、呼び出し音が虚しく響くだけで一向に繋がる気配がない。仕方なく、牧野は足早にスーパーへと向かった。お酢の買い出しなど早々に済ませて、一刻も早く屋敷へ戻ろうと気が急いていた。その頃、飛鳥は夏蓮のいる病院へ向かう車中にいた。ふと考えを巡らせ、意を決して啓介の番号を呼び出す。今度はあっさりと電話が繋がった。飛鳥は開口一番、電話越しの啓介に向けて言い放つ。「あいつはしばらく会社を休む。家でゆっくり休ませて、妊活に専念させるからな!」『妊活』という言葉を、飛鳥はことさら強調するように強く噛み締めて言った。電話の向こうの啓介は、飛鳥がまだ平然とそんな言葉を口にできることに呆れ果てていた。普段は冷静沈着でめったに感情を表に出さない男が、思わず鼻で笑う。「お前、まだ彼女が自分の子供を産むとでも思っているのか?」「俺の妻だぞ!俺以外の誰の子供を産むって言うんだ!」ただでさえ星歌と啓介が親しくしていることに、飛鳥の不満はとうに限界を超えていた。ギリッと歯軋りするような声で凄む。そうやって露骨に所有権を主張することで、啓介を自分たち夫婦の世界から徹底的に締め出そうとしていた。「お前たちは離
そもそも『婚家の顔色を窺って生きてきた』などと、どの口が言うのか。冴島飛鳥と結婚してすぐに本家を出て別居していたのは百歩譲るとしても、この数日間、彼女が引き起こした暴挙の数々を見れば一目瞭然だ。今の彼女のこの傲慢な態度のどこが、他人の顔色を窺う人間のそれだというのか。事実、あの冴島家ですら、彼女ひとりのせいで完全に崩壊寸前まで掻き回されているではないか。宗大は心の中で盛大に毒づきながらも、ぐっと堪えて表情を取り繕った。いくら不満があろうと、今は交渉の場だ。彼は再び感情を押し殺し、努めて冷静な声を作った。「星歌様。陽子様は、この件を穏便に解決したいと望んでおります」「あなたが望む条件を、何なりとお申し付けください。陽子様は必ず、あなたのすべての要求にお応えいたしますので」「へえ、今になって『穏便に解決したい』って?」星歌は冷ややかに鼻で笑った。「娘に私の夫を寝取らせようと必死になっていたあの頃の勢いで、私を潰しにくればいいじゃない!」その言葉に、宗大の顔色がさらに悪くなった。確かに、長男の翼が亡くなって以来、陽子は娘の夏蓮を次男である飛鳥とくっつけようと画策し続けてきた。これまで冴島家から引き出してきた莫大な利益のパイプを、絶対に手放したくなかったからだ。だが、その事実を星歌の口から直接、ここまで露骨な皮肉として突きつけられると、あまりにも耳が痛かった。宗大の声も、次第に険を帯びていく。「……そのご態度では、歩み寄る気はないと受け取ってよろしいのですか?」「あの女が私を潰したい時は好き勝手に攻撃してきて、自分が追い詰められたら『穏便に』ですって?ふざけないで」星歌は氷のように冷たい声で吐き捨てた。「寝言は寝て言いなさい」その最後の一言が決定打となり、宗大の顔は怒りで完全にどす黒く沈み込んだ。「……左様ですか。それならば、これ以上星歌様とお話しすることはありませんね」常に政財界の大物たちと渡り合ってきた宗大にとって、これほどまでにあからさまな侮蔑と拒絶を受けたのは久しくないことだった。プライドをズタズタにされ、彼の忍耐もついに限界に達した。乱暴に立ち上がり、わずかにシワの寄ったスーツをバンッと音を立てて払う。そして、警告を含んだ鋭い視線で星歌を一度だけ睨みつけると、踵を返
牧野が小走りで玄関へ向かい、モニターを覗き込んだ。「星歌様。夏目陽子様のところの、柴田という方がいらしています」「……」陽子の側近が来た。星歌は冷ややかな目を細めた。「通してちょうだい」こんな時間に直接乗り込んでくるとは。どうやら陽子のほうは、もうこれ以上耐えきれなくなったらしい。何年もかけてあれほど強固な地盤を築き上げてきたのだから、もう少し持ちこたえるかと思ったが。正午に制裁を下してから、まだ数時間しか経っていないというのに。牧野がドアを開け、宗大がリビングへ通された。星歌はソファにゆったりと腰掛けたまま、入ってきた男を氷のような視線で見据えた。「星歌様。何度お電話しても、お出になられなかったので……」宗大の口調は、以前とは打って変わって恭しくなっていた。やはり、向こうは完全に白旗を上げているらしい。星歌は何も答えず、ただ無言で彼を見下ろした。「実は、うちの陽子様が、一度星歌様とお話ししたいと申しておりまして。いかがでしょうか……」「話し合い?いいわよ。陽子さんに、この墨霞邸まで直接出向くように伝えて」「……」その言葉を聞いた瞬間、宗大の顔が引き攣った。陽子は今日、ここ墨霞邸で凄惨な暴行を受け、現在は病院のベッドから一歩も動けない状態だ。しかも、彼女にそんな重傷を負わせたのは、他ならぬ目の前の星歌自身なのだ。それを分かっていながら「ここへ来い」と言い放つ。明らかに意図的な嫌がらせだった。宗大は内心の不快感をぐっと押し殺し、なんとか表情を取り繕った。「どうしたの?彼女から話し合いを求めてきたのに、私にわざわざ病院まで足を運べとでも言う気?」星歌は冷笑を浮かべた。「私には、あの女に頭を下げてまで頼み込むようなことなんて一つもないのよ。どうして私からわざわざ出向かなければならないの?」宗大の顔がさらに硬直する。確かに、今の星歌には陽子に頼むことなど何もない。だが、陽子にはある。絶対に引けない事情が。星歌は陽子が動けないほどの重傷を負っていることを百も承知で、わざとこんな要求をしているのだ。宗大は苛立ちを必死に抑え込み、苦渋の表情で訴えた。「……陽子様は現在、お体を動かせる状態ではございません」「へえ。それじゃあやっぱり、私からわざわざ病院へ出向いて、彼女様の
飛鳥の怒りは、もはや沸点に達していた。荒々しくスマートフォンを掴み取り、直通の番号を叩く。コール音が数回鳴ったところで、相手が恐縮したように出た。「はい、お電話ありがとうございます」「江里子と星歌がどこにいるか、今すぐ調べろ」秘書の葛城一真(かつらぎ かずま)が、一瞬虚を突かれたように沈黙した。「……承知いたしました」「早くしろ!」飛鳥の怒声が響く。この大雨の中、あいつは一体何を考えている。自分たちの思い出が詰まった品々をすべて焼き払うなど、これまでのわがままとは次元が違う。どれほど激しい口論になっても、今日のような真似をしたことは一度もなかった。苛立ちの奥底で
江里子は自分の家へ連れて帰るつもりだったが、星歌は頑なにそれを拒んだ。向かった先は、三ヶ月前に彼女が密かに購入していたマンション、星河レジデンスだった。この半年、彼女がどれほどの覚悟で飛鳥との別れを準備してきたかが、その決断から痛いほど伝わってきた。「私の家に来ればいいのに。今は誰かに付き添ってもらうべきよ。で、この部屋はいつ買ったの?」江里子は愚痴をこぼしながらも、手際よく毛布を持ってきて星歌の肩に掛けた。そのまま台所へ向かい、粥を作り始める。星歌は毛布の端を握りしめ、体を小さく丸めた。「翼さんが亡くなって、二ヶ月経った頃よ」「そんなに早くから?じゃあ、その時には
二人の間に流れる空気は一瞬にして凍りつき、静寂が痛いほど肌を刺した。一触即発の緊張が部屋を満たしていく。星歌は逃げようとする飛鳥の背中に向けて、足元の椅子を思い切り蹴り飛ばした。激しい衝撃音が、静まり返ったリビングに響き渡る。全身から剣呑な覇気を立ち昇らせ、星歌は飛鳥を鋭く射抜いた。「お義母様に教えなさいよ。私がいつ、潮汁なんて作れるようになったのかを」言葉の一つひとつが、研ぎ澄まされた刃のように飛鳥に突き刺さる。「夏蓮さんが私の作ったものを飲みたいですって?そんな見え透いた嫌がらせ、あなたには分からないの?それとも、私が料理なんて一度もしたことがないことすら、もう忘れたの
病院独特の、鼻をつく薬液の臭い。それが胃の腑を締め上げ、こみ上げる吐き気をこらえるだけで精一杯だった。冴島星歌(さえじま せいか)は、蒼白な顔でベッドに横たわり、浅い呼吸を繰り返している。スマートフォンの呼び出し音が途切れ、通話がつながった。星歌は乾ききった唇を、ようやく開く。「……流産の手術、同意書にサインが必要なの。病院に来てちょうだい」受話器の向こうで、一瞬の沈黙が落ちた。やがて響いたのは、夫である冴島飛鳥(さえじま あすか)の低く、不機嫌な声だった。「妊娠?いったいいつの話だ。俺が知らないはずがないだろう。星歌、気を引きたいからって、嘘や芝居も大概にしろよ」「……来







