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2話

last update publish date: 2026-05-29 10:58:09

沈黙が車内を支配する。

「……俺は直樹なおきだよ」

そう言ったあと、直樹はたまらず吹き出した。

こんな質問をされるとは思わなかった。

「当たり前だろ。兄貴──春樹はるきは、あの日からずっと行方不明なんだから。残ってるのは俺しかいない」

はははと笑うと、浩美ひろみもつられるように笑った。

「そう、だよな……」

けれど、その声はどこか弱々しかった。

「それより、ちょっと仮眠していい? ここまで歩いてきたから、もうへとへとなんだ」

答えを待たず、直樹は窓に頭を預ける。

どこまで行っても変わり映えのしない森が、車窓の向こうを流れていった。

故郷の村は、市街地から車で一時間ほど走った、深い森の入り口にある。

湖と山々に三方を囲まれた広大な原生林。

──迷い込んだら、二度と出られない。

そう恐れられる森の縁に、百人にも満たない小さな集落が張りついていた。

かつては林業で栄えた村も、時代の流れに取り残され、今は廃村寸前だ。

直樹は、森の合間に見え始めた村を車窓越しにぼんやり眺めていた。

直樹たち高谷たかや家がこの村へ来たのは、十三年前だった。

木工職人の父。教師だった母。

そして十八歳の春樹と、十歳の直樹。

村人たちは兄弟を溺愛した。

子どもの少ない集落にとって、二人は共有の孫のような存在だった。

外へ出れば、老人たちのくれる菓子でポケットがいっぱいになった。

村人たちは信じていた。

これだけ多くの目に守られている子どもたちに、災厄など起こるはずがないと。

しかし、起こるべきことは起こった。

ある日、兄の春樹が森へ入ったきり帰ってこなかった。

村人が総出で探し、警察が山狩りをかけたが、何の手がかりも得られなかった。

そして、その一年後。

いまだ行方知れずの春樹を残したまま、高谷家は逃げるように村を去った。

以来十年。

村人たちも、ようやく高谷家のことを忘れ始めていた。

──兄弟の一人が、こうして帰ってきたこともまだ知らず……。

直樹は目を閉じた。

わずかに開いた車の窓から、湿った森の匂いが流れ込んでくる。

「へぇ、随分と綺麗なコテージだね。廃屋って言うから、どんなあばら家かと思った」

思わず足を止めた直樹を追い越し、浩美が小さなポーチを抜けて玄関扉を開ける。

「一応、手入れだけはしてあるけど、今は全然使ってないから。好きに使って構わないぞ」

そう言って、浩美は中へ招き入れた。

リビングのドアを開けた瞬間、木の香りが鼻腔いっぱいに広がる。

外見と同様、室内はそこまで広くない。

だが、丸木の壁に囲まれたリビングは温かみがあり、天井も高かった。

片隅にはロフトへ続く梯子も立てかけられている。

野宿まで覚悟していた身には、あり余るほどの幸運だった。

「ホントにここ、俺が使っちゃっていいの?」

尋ねてから、ふと疑問がよぎる。

「浩美の方はどうする訳さ? まだ村にいる予定なんだろう? 西原にしはらさん──浩美のお父さんも忙しいみたいだし」

「あぁ、だから俺は親父の実家に行くよ。お前の昔の家はもうないし、しょうがないだろ」

労わるような浩美の視線に、直樹は苦笑いを返した。

「……じゃあ、遠慮なく。ありがとう」

「いえいえ、どーいたしまして」

浩美はおどけて手を振る。

「ついでに何か必要なものがあったら、ウチから持ってきてやるよ。だいたいの物はここに揃ってると思うけど……一応、高校の時までは俺が住んでた訳だし」

「住んでた? ……あぁ、そうだったね。なら、なんで今は使ってないんだ?」

何気なく尋ねた瞬間、浩美の顔が強張った。

一拍の沈黙。

それから、ひどく低い声が返ってくる。

「森が──」

「森?」

「そうだ。ここは森が近いからな」

浩美の視線が窓へ向けられる。

換気のために開け放たれた窓の向こうには、鬱蒼とした森の一部が見えていた。

コテージの一歩先は、もう森だ。

まるで人間の領域と森の領域、その境界に建てられているように──。

その時、風が吹いた。

木々の葉や枝が、一斉にざわざわと揺れ始める。

その光景は、まるで森という巨大な生き物が手足を蠢かせ、こちらへ迫ってきているようだった。

「村の人たちは皆、この森を恐れている」

ぽつりと浩美が呟く。

「村が林業で栄えていた頃、この森ではよく人がいなくなってたらしい。森は昼間でも暗いし、足場も悪い。真っ直ぐ進んでるつもりでも、いつの間にか迷って出られなくなることがある。それを村の年寄りたちは、森の〝魔〟が人を誑かしてるせいだって言うんだ」

「〝魔〟ぁ?」

直樹は乾いた笑みを漏らした。

「なんじゃそれ。まさか浩美は信じてる訳?」

「まさか。そんな訳ないだろ」

浩美は軽く肩をすくめてみせた。

だが、すぐに視線を逸らす。

「──って、昔なら言えたはずだけどな。でも今は違う」

浩美の視線が、森の奥の一点へ吸い寄せられる。

「俺はこの森が怖い。あの時から──はるさんがいなくなった、あの日からずっと……」

滲むような声。

その後ろで森が呼応するように揺れる。

葉を擦り合わせる音が、人の囁き声みたいに聞こえた。

『ここにきて、直樹』

森は鳴く。

兄とそっくりな声で。

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