LOGINどれほどそうしていたのか、自分でもわからなかった。
「
不意に名を呼ばれる。
ハッと振り返ると、すぐ目の前に知らないうちに、直樹は窓際まで近づいていた。
背中がひやりとガラスに触れる。すっと浩美の手が伸びてくる。
一瞬身構える。
だが、その手は直樹の腕を軽く掴み、もう片方の手でカーテンを閉めただけだった。 まるで森の気配を遮るように。「
浩美は真正面から直樹の顔をじっと見つめてくる。
「……あ、あぁ」
夢から引き戻されたような気分のまま、直樹は小さく頷いた。
短い沈黙のあと、浩美は「そっか」と呟いた。「俺さ、さっき林道でお前を見た時、本気で
あまりに真面目な顔に、直樹は呆れたように息を漏らした。
「〝神隠し〟って……まだそんなこと言ってるんだ。さっきも〝魔〟がどうとか言ってたし」
その反応に、浩美の強張っていた表情が少しだけ和らぐ。
「しょうがないだろ。ここ、年寄りばっかで妙に迷信深いし」
そこで一度言葉を切り、浩美は窓の向こうへ視線を向けた。
閉じたカーテンが、かすかに揺れる。「それに」
浩美がぽつりと漏らす。
「春さん自身、そういう雰囲気あったからな。超然としてるっていうか、周りと少し違う空気を持ってるっていうか」
直樹は視線を落とした。
カーテンの隙間から漏れる淡い光が、床に細長い帯を作っている。「浩美は……兄貴のこと、よく見てたんだな」
「当然だろ」即答だった。
「この村の若い連中、みんな春さんのこと見てたと思うぞ。なんせ村一番の美人だったし」
直樹は誤魔化すように大きく息を吐いた。
胸の奥に、じわりと苦いものが広がる。「……言っとくけど、俺の兄貴、男だからな?」
「知ってるよ。でもこの村、婆さんしかいないし。そりゃ春さんみたいな顔してたら目立つだろ」 「……はぁ」気のない返事を返しながら、直樹はふいに顔を上げた。
「兄貴って、どんな顔だったっけ?」
「は?」浩美が首を傾げた。
大きく見開いた目で、直樹をしげしげと見つめる。「何言ってんだよ。あの人のこと、一番近くで見てたのはお前だろ? いつも春さんの後ろくっついてたくせに」
「だーかーら、周りから見た感じだって。身内だから、そういうのよくわかんなくて」 「あぁ、なるほど」浩美は一歩下がると、改めて直樹の全身をじっと眺めた。
その目には、どこか悪戯っぽい光が宿っている。「今の自分の顔見れば、大体わかると思うけど……」
そこまで言いかけて、浩美はふと口をつぐんだ。
居心地が悪そうに空咳をする。「……でも、ここまで春さんに似るとは思わなかった」
「なんだよ、その不服そうな顔」「いやいや」と、浩美は茶化すように手を振る。
「ただ驚いただけ。昔は、そこまで似てると思わなかったからさ」
「年の差があったからな」直樹の脳裏に、昔の記憶がふっとよぎる。
「母さんも言ってたよ。俺が春樹の成長を追いかけてるみたいだってさ。もし年齢が同じなら、俺たちは双子みたいにそっくりだったかもって」
「ふうん」浩美は少し考え込み、それから呟いた。
「つまり、春さんの過去がお前で、お前の未来が春さんってことか?」
直樹の耳の奥に、懐かしい声がよみがえる。
『春樹、直樹。あんたたちは一人の人間の頭とお尻みたいなものなんだから、ちゃんと助け合いなさいね』
冗談めかして笑っていた母の顔を思い出し、直樹はそっと目を伏せた。
──でもね、母さん。
「まぁ、よくよく見れば違うけどな」
浩美の声に、直樹は我に返った。
浩美はわざとらしく顎に手を当て、神妙そうに言ってのけた。「しいて言うなら、春さんはお前よりもっと儚げな雰囲気だったな。繊細っていうか……春の霞みたいな感じ?」
感慨深げに語る浩美を見て、直樹は「おえっ」と舌を出した。
「きも。浩美って意外とロマンチストなんだな」
冷たい反応にも動じず、浩美は楽しそうに口角を上げる。
「あれ? もしかして拗ねてる? 親友の俺まで春さんびいきで」
「アホか。そんな訳あるか!」 「えぇ~? 本当にぃ?」ケラケラ笑う男の肩を、直樹は拳で思いきり叩いた。
だが浩美はまったく堪えた様子もなく、うんうんと頷く。「ごめんなぁ。あの頃のお前、まだ鼻垂れ小僧だったし。穏やかで大人っぽい春さんと比べると、月とスッポンっていうか、蝶と毛虫っていうか」
「おい、言い過ぎだろ。俺だって子どもの頃は天使みたいって言われてたし」不満げに反論する直樹を見て、浩美は吹き出した。
「顔だけはな。でも中身は最悪だっただろ、お前。春さん以外にはずっとツンツンしててさ。春さんに近づく奴がいたら、すぐ喧嘩売るし」
したり顔の浩美に、直樹はじとりとした視線を返す。
「そんなガキとつるんでたの、どこの誰だよ」
「さぁ? 忘れたなぁ。そんなに怒ってたら、春さん似のお顔が台無しですよ」へらへら笑いながら、浩美は軽く直樹の頬を叩いた。
直樹はむっとして、もう一発殴ろうとしたが、その拳は寸前で大きな掌に包まれる。触れた場所から、浩美の体温がじわりと伝わってきた。
「……でも、お前、本当に直樹なんだな」
ぽつりと浩美の声が降ってくる。
「その短気なところとか、変わらない」
懐かしむような視線に耐えきれず、直樹は顔を逸らした。
この村にいた頃、浩美は直樹にとって唯一の遊び相手だった。
三つ年上で、都会育ち。
浩美は、直樹には〝兄貴分〟みたいな存在だった。普段は春樹にべったりだった直樹も、浩美が来ると兄のそばを離れ、彼と夢中になって遊び回った。
浩美と過ごす時間は刺激的で、退屈な村の中で唯一息苦しさを忘れられる時間だった。
二人でいる時だけは、何も怖くなかった。
大人たちから『近付くな』と言われていた、あの森でさえも。「……直樹?」
急に黙り込んだ直樹を不審に思ったのか、浩美が顔を覗き込んでくる。
直樹は慌てて笑みを貼り付けた。「ん? どうした?」
「……いや」浩美はどこか落ち着かなげに頭をかいた。
視線が宙を「悪い。なんか、その顔見てると時々わかんなくなるんだよ」
その言葉に、直樹は腹の奥が焼けつくような感覚を覚えた。
「だから言ってるだろ。俺は兄貴じゃない。勘違いされるこっちが迷惑だ」
強く言い返した瞬間、浩美がふいに身を屈めた。
逃げ場を塞ぐように、間近から顔を覗き込んでくる。陽気な彼には似合わない、ひどく疑わしげな目だった。
「本当に……」
浩美の声は、いつになく静かだった。
「本当にお前は直樹なんだよな? ──直樹の、方なんだよな?」
その瞬間、閉じたカーテンの向こうで、森がざわりと囁いた。
「で、今日はどうするんだ?」浩美の問いに、直樹は少し考えてから答えた。「んー……とりあえず、森の外を回ってみるよ。昔行ったところを見れば、何か思い出すかもしれないし」 「……あの日のこと、やっぱりまだ何も思い出せないのか?」自然と声が低くなった。直樹の笑顔も硬くなる。「兄貴が消えた日のこと、だよね」 「ああ」 「そうだな。そこだけは、さっぱり」直樹はしばらく黙り込んだ。 やがて何かを思い出したように、わずかに眉を寄せる。「……でも、一つだけある」浩美が首を傾げると、直樹は小さく頷いた。「兄貴のことで、妙に記憶に残ってること」その表情に緊張が滲む。「……兄貴の目が」 「……目?」 「そう」直樹は窓の向こうへ視線を向けた。差し込む朝の陽ざしは燦々と明るく、暗い森の影など、一片も見当たらなかった。直樹がゆっくりと口を開く。「あの頃の春樹、時々変な目をしてたんだ」窓の外で葉が擦れ合う。 その音に呼応するように、直樹のまつ毛がかすかに揺れた。「普段の兄貴なら、絶対に見せないような目」しばしの沈黙。「まるで──誰かを憎んでるみたいな」浩美は眉をひそめた。「憎むって、あの春さんが? 一体、誰を」 「それがわかれば苦労しないよ」直樹は肩をすくめ、マグカップを持って席を立った。 浩美もそれに続こうとする。その瞬間だった。 ぐらり、と視界が揺れた。「……あれ?」反射的にテーブルへ手をつく。 急激な眠気が、頭の芯まで一気に押し寄せてきた。 身体から力が抜ける。「なんだ、これ……?」どうにか踏ん張ろうとしたが、膝が言うことをきかない。 そのまま床へ膝をついた。頭が重い。 視界が滲む。
「はい、どうぞ」 「ん、ありがとう」差し出されたカップを受け取ると、浩美はダイニングテーブルの向かいに座る直樹をちらりと見た。 ぼんやりとコーヒーを啜る姿は、一見いつも通りだ。 けれど、首筋に点々と残った赤い痕が、昨夜ベッドの中で起きたことをありありと物語っている。そこから色々と思い出してしまい、浩美は慌てて手元のコーヒーに口をつけた。「あ、うまい。……あれ? でも、ここってインスタントしかなかったよな?」何気なく聞くと、直樹は少し居心地悪そうに視線を逸らした。「ああ。置いてあるやつ使った。インスタントでも、それなりに美味しく淹れる方法があるんだよ」 「へえ」 「俺、一応バリスタの資格持ってるから」 「えっ!?」危うくカップを取り落としそうになった。「お前、そんなにコーヒー好きだったっけ?」こくりと頷いた直樹は、照れくさいのか、妙にかしこまった顔で答えた。「大学受験の勉強してた頃にハマったんだ。それで結局、大学には行かずに専門学校へ通って、店で見習いしながら資格を取った。将来はマイスターの資格も取りたいと思ってる」その口調には、静かながらも確かな意思があった。 浩美は、なんだか不思議な気持ちで直樹を見つめた。──そうか。 当たり前のことなのに、今さら気づいた。 こいつは、昔の直樹でもなければ、春樹でもない。十年という時間を生きてきた、今の直樹なのだ。 いくら幼なじみとはいえ、浩美は村を去ってからの彼を何も知らない。 誰と出会い、どんな場所で暮らし、何を好きになって、何を目指して生きてきたのか。自分の知らない十年間が、直樹にはある。 それなのに浩美は、目の前の彼を十年前の直樹や春樹に当てはめようとしていた。それなのに今の彼を、昔の春樹や直樹に当てはめようとしていた自分が恥ずかしかった。そう思うと、少し恥ずかしくなる。 同時に、嬉しくもあった。彼は森の〝魔〟でも
「は?」直樹は小首を傾げた。「だって結局、お前──」浩美が楽しそうに目を細める。「俺が春さんばっかり頼るのを見て、嫉妬してたんだろ?」 「なっ……!」図星を突かれ、直樹は反射的に立ち上がろうとした。 だが、その前に浩美の腕が伸びる。 逃げようとする身体をソファの背へ追い込み、そのまま覆いかぶさるように抱きしめられた。「直樹。直樹、直樹、直樹──」 「おい、名前連呼するなよっ! この二世! ヒロミちゃんめ!」直樹がバンバンと背中を叩くと、浩美は堪えきれないように笑い始めた。「あはははっ! ついに直樹の本領発揮だな。俺、お前にそれ言われるの、意外と好きかも」 「わ、わ、変態!」 「ほーら、変態だぞ」慌てて身を引いた直樹を、大きく腕を広げた浩美が捕まえる。「直樹──」今度はふざけた響きではなかった。 顎をそっと持ち上げられ、そのまま唇が重なる。 最初は、啄むような軽い口づけだった。 一度離れて、また触れる。 それを繰り返すうちに、キスは少しずつ深くなっていった。先ほどとは違う熱に戸惑いながらも、直樹はもう逃げなかった。 触れてきた舌に、おずおずと応える。絡み合った熱が、唇から身体の奥へゆっくり溶けていく。「んっ……ふ……」息が苦しい。 それなのに離れたくないと思っている自分が、どうしようもなく恥ずかしかった。浩美の指が、直樹のシャツのボタンに触れる。 一つ。また一つ。 ゆっくりと外され、開いた胸元から滑り込んだ手が、骨の形を確かめるように肌を辿った。「あっ……浩美、ちょっと、待っ」直樹はとっさに、その手首を掴んだ。 すると浩美はすぐに動きを止めた。 一瞬だけ直樹を見つめ、それ以上何もせずに身体を離す。 「……ごめん」そして、さっき自分で外したボタンを一つずつ丁寧に留め始めた。
「え?」直樹は瞬きを繰り返した。「俺は直樹がいいって言ったんだ。好きな方で呼んでいいなら、俺は直樹の方を選ぶ」浩美に耳元で囁かれ、直樹は動揺を隠せなかった。「な、なんで? 春樹じゃなくていいの? あんなに『春さんの方じゃないのか』って、しつこいくらい聞いてたのに」 「もちろん、春さんのことは好きだよ。今でも尊敬してる。あの人からもらった〝言葉〟は、今だって俺の救いになってる」浩美はそこで一度、言葉を切った。「でも今になって、ようやく認められたんだ。春さんの言う通り、俺はあの人を通して、ずっと別の誰かを見てた。春さんはそれに気づいてたからこそ、俺の気持ちを否定しなかったんだと思う」そう言うと、浩美は抱擁を緩めた。 そして当惑したままの直樹の頬へ、そっと手を添える。「直樹。たとえお前が本当は誰であったとしても──今だけは、直樹でいてくれ」色の薄い瞳が、真っ直ぐ直樹を見つめる。「俺は直樹に、ここにいてほしい」再び強く抱きしめられ、直樹は息をするのもやっとだった。「浩、美……」何と言えばいいのかわからない。 頭の中はぐちゃぐちゃなのに、何かを返さなければという気持ちだけはあった。迷った末、直樹はおずおずと浩美の背中へ腕を回した。 その瞬間、浩美の身体がわずかに緩む。「直樹。これでやっと、本当のことが言える」浩美は直樹の耳元へ顔を寄せると、低い声で囁いた。「俺はずっと──子供の頃から、お前のことが好きだったんだ」 「……⁉」意味を理解するより先に、唇を塞がれた。頭の中が真っ白になる。 逃げることも、押し返すこともできないまま、直樹はされるがまま浩美の唇を受け入れた。首筋に回された手が、襟足の髪を優しく梳く。 それだけで、どうにかなってしまいそうな甘い不安が身体の奥から込み上げた。「……っ、ふ……」 「直、樹」名
後悔は、棘のように胸の奥に刺さったままだ。 十年経った今も、抜ける気配はない。だからこそ、春樹そっくりの〝彼〟を見つけた時、浩美は怖いと思った。 自分がしでかした罪のせいだけではない。 直樹を守ると約束したのに、自分の不幸ばかりに囚われて、何もできなかった。でも、今は違う。 浩美は一度、深く息を吸った。 もう、怖くて逃げるだけの無力な子供じゃない。立ち向かう力くらいはあるはずだ。 今度こそ、守りたいものから目を逸らしてはいけない。「──直。俺は、何があってもお前を守るから」浩美は直樹から目を逸らさず、そう言った。 しかし向かい合った直樹は、小さく首を振った。 そして静かに、浩美の手を取る。「もういい。いいんだ、浩美。そんな約束、果たさなくていい」 「直……?」 「お前は十分やってくれたよ。俺、知ってるから」直樹は浩美の手を包んだまま、ゆっくりと言葉を続けた。 「このコテージを見ればわかる。ここがずっと使われてないなんて、嘘だろ。浩美、今でも頻繁にここへ来てるよな? それで森に入って、春樹を探してる。そうだろ?」浩美は何も答えられなかった。 錆びついたようなざらつきが、喉の奥に引っかかっている。「春樹がいなくなってから、俺たちが村を出るまでの一年もそうだった。お前、毎日森に入って、暗くなるまで帰ってこなかった」遠い記憶を辿るように、直樹の声が静かになる。「帰ってくると、そのままウチに来るんだ。寝込んでた俺の枕元で、『春さん、今日も見つからなかった。ごめん』って……泣きながら」 「……」 「そんなお前を見かねて、おじさんがお前を全寮制の学校に入れるまで、ずっと毎日。それでも長期休みになるたび村へ戻ってきて、また森へ入った」直樹の指先が、浩美の手をきゅっと握る。「それを今も続けてる。十年間ずっと」胸の奥が、鈍く痛んだ。自分ではとうに慣れたつもりでいた。
言い切ると、浩美は正面の直樹を見据えた。 直樹は眉をひそめ、信じられないものを見るように浩美を見返した。「は? 守る? 浩美、何言ってるの?」直樹の喉の奥から、かすれた笑いが漏れた。「俺はそんなこと望んでない。さっきだって、助けてほしいなんて一言も──」 「お前がどう思おうと、俺には関係ないんだよ」浩美は肩をすくめ、直樹の言葉を遮った。「俺は、春さんとの約束を果たしたいだけだ。それが、あの人への償いになるなら……」直樹の表情がわずかに強張った。「約束? 償い?」 「そうだ。昔、俺は春さんと約束したんだ」胸につかえていたものを呑み込むように、浩美の喉仏が大きく動いた。「お前を守るって」握りしめた拳に力がこもる。「だから俺は、その約束を果たす。お前が何を言おうとな」浩美はそこで言葉を切った。 これ以上口を開けば、抑え込んでいた感情まで溢れ出しそうだった。脳裏に、あの日の春樹の声が蘇る。『浩美、直樹を守ってやって。これは、君だから頼むんだ』春樹を抱いた、あの時。 彼は確かに、そう言った。※当時の浩美は、厳格で神経質な父親とうまくいっていなかった。 家の空気が耐え難くなるたび、都心の家を抜け出しては、この村へ戻ってきていた。どうしても、あの家にはいたくなかった。 家族はいるはずなのに、屋敷の中はいつもひっそりと静まり返っていた。誰も、必要なこと以外は口にしない。 誰かが余計な一言をこぼせば、かろうじて保たれていた均衡が崩れ、家中に怒声が響いた。浩美はいつも、その張りつめた空気を背中に感じていた。 まるで、薄いガラスに今にもひびが入りそうな、危うい気配。 そして、その気配を察するたび、浩美は都内の家を飛び出し、父親の実家がある村へ逃げ込んだ。家族と向き合う勇気などなかった。 そもそも、家族の誰もが
直樹は思わず足を止めた。 振り返った影の顔は、兄にしては幼すぎた。(あれは──)「……直、樹?」足を緩めた隙に、子どもは木立の奥へ消えていた。 葉をかき分ける音だけが、徐々に小さくなっていく。自分の粗い呼吸音だけが鼓膜に響く。あの子は誰だ? なぜ、昔の自分と同じ顔をしていた?直樹は、泥と血で汚れた手で髪を掻きむしる。──じゃあ、ここにいる俺は誰なんだ?叫びが喉元までせり上がった、その時だった。「おいっ!」
夢を見る。 いつもの夢だ。森の中を、ひたすら走っている。 暗く、深い森を。視界の端を、白いものがよぎった。 白いシャツの華奢な背中が、木々の間をすり抜けていく。 風のように軽やかに。──あれは。「兄貴っ!」影がふっと振り返った。 だが、風に乱れた髪が顔を覆い、その表情までは見えない。白い影はそのまま森の奥へ駆けていく。 枯葉を踏み砕く音だけが、やけに大きく響いた。その時だった。「待ってっ! 兄貴っ!」
沈黙が車内を支配する。「……俺は直樹だよ」そう言ったあと、直樹はたまらず吹き出した。 こんな質問をされるとは思わなかった。「当たり前だろ。兄貴──春樹は、あの日からずっと行方不明なんだから。残ってるのは俺しかいない」はははと笑うと、浩美もつられるように笑った。「そう、だよな……」けれど、その声はどこか弱々しかった。「それより、ちょっと仮眠していい? ここまで歩いてきたから、もうへとへとなんだ」答えを待たず、直樹は窓に頭を預ける。 どこまで行っても変わり映えのしない森が、車窓の向こうを流れていった。故郷の村は、市街地から車で一時間ほど走
──暗い森には悪魔が住んでいる。子どもの頃、村の大人たちは本気でそう言っていた。 ※「そこのお兄さん、乗っていかない?」村へと続く林道を歩いていると、横を通り過ぎていったはずの車がバックし、すぐ脇に止まった。メタリックなカマキリ色。 奇抜な車から顔を出したのは、見覚えのある男だった。「──浩美ちゃん」 「おい。いい加減、その呼び方やめろ」ずっこける真似をした西原浩美は、気を取り直したようにサングラスを鼻先までずらした。「で、どうする?」まるで洋画のワンシーンみたいな気障な仕草。 だが華やかな顔立ちの浩美がやると、不思議







