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子どもの頃、村の大人たちは本気でそう言っていた。
※「そこのお兄さん、乗っていかない?」
村へと続く林道を歩いていると、横を通り過ぎていったはずの車がバックし、すぐ脇に止まった。
メタリックなカマキリ色。
奇抜な車から顔を出したのは、見覚えのある男だった。「──
ずっこける真似をした
「で、どうする?」
まるで洋画のワンシーンみたいな
「さて、お客さん、どちらまで?」
車に乗り込んだ途端、浩美がからかうように聞いてきた。
どうせ行先など一緒のくせに。「M村まで」
「あいよ。安くしとくよー」その口調は、会っていなかった十年間など、まるで感じさせないものだった。
変わってないな、と小さく笑う。
浩美は、派手な見た目に反して妙に人懐っこい男だった。
村にいた頃も、いつも人に囲まれていたのを覚えている。(……俺とは真逆だ)
この十年で、自分はずいぶん色々なものを削ぎ落としてしまった。
愛想も、言葉も、人との接し方も。「にしても、ホント久しぶりだな。十年ぶりくらいか?」
前方の道路に目を向けたまま、浩美が尋ねてくる。
「まぁ、そのくらい、かな?」
滑るように車が発進する。
それと同時に、浩美のお喋りも調子よく走り出した。「そっか。でもそれなのに、いきなりどうしたんだ? 今まで全然帰ってこなかったくせに。つーか、ここって心霊スポットじゃん。白い服で林道をとぼとぼ歩いてるお前を見たとき、てっきりお化けかと思ったぞ。もうびっくりさせんなよ。ただでさえ変な噂が流れているのに。──それよりお前、今まで何してたの?」
ポンポンと切り替わる浩美の話題に圧倒され、すぐに反応できなかった。
「何って、別にたいしたことしてないけど……」
「ほう。それは無邪気な様子で、浩美が首を傾げた。
「二十──三だよ。そんなことより浩美、お前の方はどうしてるんだよ? こんな平日にプラプラして。人の心配をしている場合か?」
からかうように顔を覗き込むと、幼なじみはにやりと笑った。
「そりゃ、聞き捨てならんお言葉ですな。期待を裏切って申し訳ないが、ブラブラしているように見えても、俺は親父の秘書ってことで立派に働いてるの」
トントンと、指先で軽くハンドルを叩く。
「今だってこうして都内とここを行き来しながら、親父の付き添いしているわけだし。お前とは違うもん」
「もんって子どもかよ。俺よりも三つ年上のくせに。さすが市議会議員の二世様は違いますね。お気楽なこって」嫌味たっぷりに言ったが、浩美は怒るどころか楽しげに笑い出した。
「浩美」という女みたいな名前は、政治家一家である彼の祖父と父が決めたらしい。
将来、浩美が選挙に出る時、目立つ名前の方が有利だから──という理由で。つまり、子どもが生まれる前から、選挙ポスターだけは想定していたわけだ。
今聞いても、ぞっとする。「でも、なんか『二世』って面と向かって言われるのも久しぶりだな」
浩美は、選挙ポスターというよりメンズ雑誌に載っていそうな笑顔を浮かべながら言った。
少し間を置き、独り言みたいに呟く。「昔は
その名前を口にした瞬間だった。
浩美の横顔から、ふっと笑みが消えた。車内から、不意に音が消える。
フロントガラス越しに、交差点の信号が赤へ変わるのが見えた。浩美はブレーキを踏むと、ハンドルに肘を乗せ、助手席へ顔ごと向けた。
「なぁ」
浩美がゆっくり口を開く。
「お前がここに来たのってさ、今日があの日だからか?」
色の薄い瞳が、射抜くようにこちらを見据える。
無意識に、喉がごくりと鳴った。浩美は気づかないまま、話を続ける。
「俺はいつも、この日になると村へ帰ることにしてるんだ。昔、この森であんなことがあってから、ずっと」
ふっと浩美の声に影が差し、視線が窓の外へ逸れる。
「だからなんとなく、お前が今日帰ってきたのも、そういう理由なんじゃないかって思った」
一人で納得したように話す浩美を見て、思わず口を挟んだ。
「ちょっと待てよ、浩美。勝手に話を作るなよ。俺が今日ここに来たのはただの偶然だ。それに、お前が言ってる『あの日』って──……」
ハンドルを握りながら、浩美が
「お前、何言ってるんだよ?」
浩美の口元が、わずかに歪んだ。
「あの日って言ったら、一つしかないだろ」
一瞬、すべての音がなくなった気がした。
浩美の声だけが、車内に響く。「──お前たち兄弟が、村から消えた日だ」
信号が青に変わると同時に、車が勢いよく発進した。
ほんの数分しか話していないはずなのに、妙に長い時間を過ごした気がした。浩美は前方をきつく見据えたまま、続ける。
「十年前、お前たちは村からいなくなった。兄の
浩美の抑揚のない声を聞きながら、背中に冷たい汗が伝い落ちる。
「その一年後、直樹も家族とともに行方をくらました。以来どちらとも音信不通。そしてお前は──」
首筋に浩美の鋭い視線を感じた。
「お前はどっちの方だ? 兄の春樹か? 弟の直樹か?」
浩美の声が、低く掠れる。
「一体、どっちなんだ?」
「で、今日はどうするんだ?」浩美の問いに、直樹は少し考えてから答えた。「んー……とりあえず、森の外を回ってみるよ。昔行ったところを見れば、何か思い出すかもしれないし」 「……あの日のこと、やっぱりまだ何も思い出せないのか?」自然と声が低くなった。直樹の笑顔も硬くなる。「兄貴が消えた日のこと、だよね」 「ああ」 「そうだな。そこだけは、さっぱり」直樹はしばらく黙り込んだ。 やがて何かを思い出したように、わずかに眉を寄せる。「……でも、一つだけある」浩美が首を傾げると、直樹は小さく頷いた。「兄貴のことで、妙に記憶に残ってること」その表情に緊張が滲む。「……兄貴の目が」 「……目?」 「そう」直樹は窓の向こうへ視線を向けた。差し込む朝の陽ざしは燦々と明るく、暗い森の影など、一片も見当たらなかった。直樹がゆっくりと口を開く。「あの頃の春樹、時々変な目をしてたんだ」窓の外で葉が擦れ合う。 その音に呼応するように、直樹のまつ毛がかすかに揺れた。「普段の兄貴なら、絶対に見せないような目」しばしの沈黙。「まるで──誰かを憎んでるみたいな」浩美は眉をひそめた。「憎むって、あの春さんが? 一体、誰を」 「それがわかれば苦労しないよ」直樹は肩をすくめ、マグカップを持って席を立った。 浩美もそれに続こうとする。その瞬間だった。 ぐらり、と視界が揺れた。「……あれ?」反射的にテーブルへ手をつく。 急激な眠気が、頭の芯まで一気に押し寄せてきた。 身体から力が抜ける。「なんだ、これ……?」どうにか踏ん張ろうとしたが、膝が言うことをきかない。 そのまま床へ膝をついた。頭が重い。 視界が滲む。
「はい、どうぞ」 「ん、ありがとう」差し出されたカップを受け取ると、浩美はダイニングテーブルの向かいに座る直樹をちらりと見た。 ぼんやりとコーヒーを啜る姿は、一見いつも通りだ。 けれど、首筋に点々と残った赤い痕が、昨夜ベッドの中で起きたことをありありと物語っている。そこから色々と思い出してしまい、浩美は慌てて手元のコーヒーに口をつけた。「あ、うまい。……あれ? でも、ここってインスタントしかなかったよな?」何気なく聞くと、直樹は少し居心地悪そうに視線を逸らした。「ああ。置いてあるやつ使った。インスタントでも、それなりに美味しく淹れる方法があるんだよ」 「へえ」 「俺、一応バリスタの資格持ってるから」 「えっ!?」危うくカップを取り落としそうになった。「お前、そんなにコーヒー好きだったっけ?」こくりと頷いた直樹は、照れくさいのか、妙にかしこまった顔で答えた。「大学受験の勉強してた頃にハマったんだ。それで結局、大学には行かずに専門学校へ通って、店で見習いしながら資格を取った。将来はマイスターの資格も取りたいと思ってる」その口調には、静かながらも確かな意思があった。 浩美は、なんだか不思議な気持ちで直樹を見つめた。──そうか。 当たり前のことなのに、今さら気づいた。 こいつは、昔の直樹でもなければ、春樹でもない。十年という時間を生きてきた、今の直樹なのだ。 いくら幼なじみとはいえ、浩美は村を去ってからの彼を何も知らない。 誰と出会い、どんな場所で暮らし、何を好きになって、何を目指して生きてきたのか。自分の知らない十年間が、直樹にはある。 それなのに浩美は、目の前の彼を十年前の直樹や春樹に当てはめようとしていた。それなのに今の彼を、昔の春樹や直樹に当てはめようとしていた自分が恥ずかしかった。そう思うと、少し恥ずかしくなる。 同時に、嬉しくもあった。彼は森の〝魔〟でも
「は?」直樹は小首を傾げた。「だって結局、お前──」浩美が楽しそうに目を細める。「俺が春さんばっかり頼るのを見て、嫉妬してたんだろ?」 「なっ……!」図星を突かれ、直樹は反射的に立ち上がろうとした。 だが、その前に浩美の腕が伸びる。 逃げようとする身体をソファの背へ追い込み、そのまま覆いかぶさるように抱きしめられた。「直樹。直樹、直樹、直樹──」 「おい、名前連呼するなよっ! この二世! ヒロミちゃんめ!」直樹がバンバンと背中を叩くと、浩美は堪えきれないように笑い始めた。「あはははっ! ついに直樹の本領発揮だな。俺、お前にそれ言われるの、意外と好きかも」 「わ、わ、変態!」 「ほーら、変態だぞ」慌てて身を引いた直樹を、大きく腕を広げた浩美が捕まえる。「直樹──」今度はふざけた響きではなかった。 顎をそっと持ち上げられ、そのまま唇が重なる。 最初は、啄むような軽い口づけだった。 一度離れて、また触れる。 それを繰り返すうちに、キスは少しずつ深くなっていった。先ほどとは違う熱に戸惑いながらも、直樹はもう逃げなかった。 触れてきた舌に、おずおずと応える。絡み合った熱が、唇から身体の奥へゆっくり溶けていく。「んっ……ふ……」息が苦しい。 それなのに離れたくないと思っている自分が、どうしようもなく恥ずかしかった。浩美の指が、直樹のシャツのボタンに触れる。 一つ。また一つ。 ゆっくりと外され、開いた胸元から滑り込んだ手が、骨の形を確かめるように肌を辿った。「あっ……浩美、ちょっと、待っ」直樹はとっさに、その手首を掴んだ。 すると浩美はすぐに動きを止めた。 一瞬だけ直樹を見つめ、それ以上何もせずに身体を離す。 「……ごめん」そして、さっき自分で外したボタンを一つずつ丁寧に留め始めた。
「え?」直樹は瞬きを繰り返した。「俺は直樹がいいって言ったんだ。好きな方で呼んでいいなら、俺は直樹の方を選ぶ」浩美に耳元で囁かれ、直樹は動揺を隠せなかった。「な、なんで? 春樹じゃなくていいの? あんなに『春さんの方じゃないのか』って、しつこいくらい聞いてたのに」 「もちろん、春さんのことは好きだよ。今でも尊敬してる。あの人からもらった〝言葉〟は、今だって俺の救いになってる」浩美はそこで一度、言葉を切った。「でも今になって、ようやく認められたんだ。春さんの言う通り、俺はあの人を通して、ずっと別の誰かを見てた。春さんはそれに気づいてたからこそ、俺の気持ちを否定しなかったんだと思う」そう言うと、浩美は抱擁を緩めた。 そして当惑したままの直樹の頬へ、そっと手を添える。「直樹。たとえお前が本当は誰であったとしても──今だけは、直樹でいてくれ」色の薄い瞳が、真っ直ぐ直樹を見つめる。「俺は直樹に、ここにいてほしい」再び強く抱きしめられ、直樹は息をするのもやっとだった。「浩、美……」何と言えばいいのかわからない。 頭の中はぐちゃぐちゃなのに、何かを返さなければという気持ちだけはあった。迷った末、直樹はおずおずと浩美の背中へ腕を回した。 その瞬間、浩美の身体がわずかに緩む。「直樹。これでやっと、本当のことが言える」浩美は直樹の耳元へ顔を寄せると、低い声で囁いた。「俺はずっと──子供の頃から、お前のことが好きだったんだ」 「……⁉」意味を理解するより先に、唇を塞がれた。頭の中が真っ白になる。 逃げることも、押し返すこともできないまま、直樹はされるがまま浩美の唇を受け入れた。首筋に回された手が、襟足の髪を優しく梳く。 それだけで、どうにかなってしまいそうな甘い不安が身体の奥から込み上げた。「……っ、ふ……」 「直、樹」名
後悔は、棘のように胸の奥に刺さったままだ。 十年経った今も、抜ける気配はない。だからこそ、春樹そっくりの〝彼〟を見つけた時、浩美は怖いと思った。 自分がしでかした罪のせいだけではない。 直樹を守ると約束したのに、自分の不幸ばかりに囚われて、何もできなかった。でも、今は違う。 浩美は一度、深く息を吸った。 もう、怖くて逃げるだけの無力な子供じゃない。立ち向かう力くらいはあるはずだ。 今度こそ、守りたいものから目を逸らしてはいけない。「──直。俺は、何があってもお前を守るから」浩美は直樹から目を逸らさず、そう言った。 しかし向かい合った直樹は、小さく首を振った。 そして静かに、浩美の手を取る。「もういい。いいんだ、浩美。そんな約束、果たさなくていい」 「直……?」 「お前は十分やってくれたよ。俺、知ってるから」直樹は浩美の手を包んだまま、ゆっくりと言葉を続けた。 「このコテージを見ればわかる。ここがずっと使われてないなんて、嘘だろ。浩美、今でも頻繁にここへ来てるよな? それで森に入って、春樹を探してる。そうだろ?」浩美は何も答えられなかった。 錆びついたようなざらつきが、喉の奥に引っかかっている。「春樹がいなくなってから、俺たちが村を出るまでの一年もそうだった。お前、毎日森に入って、暗くなるまで帰ってこなかった」遠い記憶を辿るように、直樹の声が静かになる。「帰ってくると、そのままウチに来るんだ。寝込んでた俺の枕元で、『春さん、今日も見つからなかった。ごめん』って……泣きながら」 「……」 「そんなお前を見かねて、おじさんがお前を全寮制の学校に入れるまで、ずっと毎日。それでも長期休みになるたび村へ戻ってきて、また森へ入った」直樹の指先が、浩美の手をきゅっと握る。「それを今も続けてる。十年間ずっと」胸の奥が、鈍く痛んだ。自分ではとうに慣れたつもりでいた。
言い切ると、浩美は正面の直樹を見据えた。 直樹は眉をひそめ、信じられないものを見るように浩美を見返した。「は? 守る? 浩美、何言ってるの?」直樹の喉の奥から、かすれた笑いが漏れた。「俺はそんなこと望んでない。さっきだって、助けてほしいなんて一言も──」 「お前がどう思おうと、俺には関係ないんだよ」浩美は肩をすくめ、直樹の言葉を遮った。「俺は、春さんとの約束を果たしたいだけだ。それが、あの人への償いになるなら……」直樹の表情がわずかに強張った。「約束? 償い?」 「そうだ。昔、俺は春さんと約束したんだ」胸につかえていたものを呑み込むように、浩美の喉仏が大きく動いた。「お前を守るって」握りしめた拳に力がこもる。「だから俺は、その約束を果たす。お前が何を言おうとな」浩美はそこで言葉を切った。 これ以上口を開けば、抑え込んでいた感情まで溢れ出しそうだった。脳裏に、あの日の春樹の声が蘇る。『浩美、直樹を守ってやって。これは、君だから頼むんだ』春樹を抱いた、あの時。 彼は確かに、そう言った。※当時の浩美は、厳格で神経質な父親とうまくいっていなかった。 家の空気が耐え難くなるたび、都心の家を抜け出しては、この村へ戻ってきていた。どうしても、あの家にはいたくなかった。 家族はいるはずなのに、屋敷の中はいつもひっそりと静まり返っていた。誰も、必要なこと以外は口にしない。 誰かが余計な一言をこぼせば、かろうじて保たれていた均衡が崩れ、家中に怒声が響いた。浩美はいつも、その張りつめた空気を背中に感じていた。 まるで、薄いガラスに今にもひびが入りそうな、危うい気配。 そして、その気配を察するたび、浩美は都内の家を飛び出し、父親の実家がある村へ逃げ込んだ。家族と向き合う勇気などなかった。 そもそも、家族の誰もが
どれほどそうしていたのか、自分でもわからなかった。「直樹」不意に名を呼ばれる。 ハッと振り返ると、すぐ目の前に浩美がいた。知らないうちに、直樹は窓際まで近づいていた。 背中がひやりとガラスに触れる。すっと浩美の手が伸びてくる。一瞬身構える。 だが、その手は直樹の腕を軽く掴み、もう片方の手でカーテンを閉めただけだった。 まるで森の気配を遮るように。「直、って呼んでいいんだよな? お前はちゃんと直樹──高谷家の弟の方なんだよな?」浩美は真正面から直樹の顔をじっと見つめてくる。「……あ、あぁ」夢から引き戻されたような気分のまま
沈黙が車内を支配する。「……俺は直樹だよ」そう言ったあと、直樹はたまらず吹き出した。 こんな質問をされるとは思わなかった。「当たり前だろ。兄貴──春樹は、あの日からずっと行方不明なんだから。残ってるのは俺しかいない」はははと笑うと、浩美もつられるように笑った。「そう、だよな……」けれど、その声はどこか弱々しかった。「それより、ちょっと仮眠していい? ここまで歩いてきたから、もうへとへとなんだ」答えを待たず、直樹は窓に頭を預ける。 どこまで行っても変わり映えのしない森が、車窓の向こうを流れていった。故郷の村は、市街地から車で一時間ほど走
直樹は思わず足を止めた。 振り返った影の顔は、兄にしては幼すぎた。(あれは──)「……直、樹?」足を緩めた隙に、子どもは木立の奥へ消えていた。 葉をかき分ける音だけが、徐々に小さくなっていく。自分の粗い呼吸音だけが鼓膜に響く。あの子は誰だ? なぜ、昔の自分と同じ顔をしていた?直樹は、泥と血で汚れた手で髪を掻きむしる。──じゃあ、ここにいる俺は誰なんだ?叫びが喉元までせり上がった、その時だった。「おいっ!」
夢を見る。 いつもの夢だ。森の中を、ひたすら走っている。 暗く、深い森を。視界の端を、白いものがよぎった。 白いシャツの華奢な背中が、木々の間をすり抜けていく。 風のように軽やかに。──あれは。「兄貴っ!」影がふっと振り返った。 だが、風に乱れた髪が顔を覆い、その表情までは見えない。白い影はそのまま森の奥へ駆けていく。 枯葉を踏み砕く音だけが、やけに大きく響いた。その時だった。「待ってっ! 兄貴っ!」