Masuk 久我探偵事務所は退屈だった。後輩調査員の
「間遠、今の男を追ってくれ」
依頼人が出ていくと、すぐに久我から指示が出た。 待ってましたとばかりに間遠は席を立つ。 「尾行っすね」 「ああ、詳細はあとでスマホに送る。おそらく彼は偽名であり、兄弟というのも嘘だろう」 「よっしゃ、いってきます!」 間遠は上着を手に取り、駆け足で事務所から出た。階段下にビルから出ていこうとする背中が見えた。よれよれのワイシャツにすりきれたジーンズ、先ほどの依頼人、近藤博だ。
間遠は足音を立てないようにしておりていき、尾行を開始した。 近藤博が向かったのは駅だった。東京メトロ東西線の改札を抜け、間遠も少し距離を取りながら後を追う。 同じ車両のひとつ隣のドアから乗りこみ、あらためて依頼人の様子を確認する。 よれよれの衣服に使い古した黒いかばん、よく見るとスニーカーもボロボロだ。それでも高額な料金を払うことにしたのだから、よほどの理由があるのだろう。 次の駅についた頃、間遠のスマートフォンに久我からのメッセージが届いた。 依頼人および調査内容に関する詳細が記載されており、間遠は一読しただけで頭にすべての情報を入れる。 近藤が降車したのは早稲田駅だった。ホームの壁際できょろきょろと辺りを見回してから、改札口へ向かう。 間遠はできるだけ相手の視界に入らないよう気をつけながら、後をついていく。 地上へ出た近藤は通りを北上した。時々周囲を確認する素振りを見せるため、間遠は距離を取らざるを得ない。 いったいどこへ行くのかと思っていると、角をいくつか曲がってマンションへたどり着いた。 「まさか、住所も嘘か?」 近藤が二階の部屋に入っていくのをスマートフォンで撮影しながら、間遠はこっそりつぶやいた。 扉が閉まってから数分後、間遠は郵便受けをそっとのぞいて舌打ちをした。中に入っていた郵便物には、女性の名前が記されていた。 『男は今、女の部屋にいます。どうしますか?』 送信し、久我からの指示を待つ。 『出てくるまで張り込んでくれ。新情報だが、新都アーキテクチャーで五年前に業務上横領事件があった。 当時の匿名掲示板に社員らしき書きこみがあり、監査部のKとの記載あり。兄かもしれない』 『了解』 しかし、張り込むと言っても住宅街だ。 できるだけ近所の住人から怪しまれず、マンションの様子が見える位置を探して間遠は歩き始めた。事務所へ戻ったのは、とっくに終業時刻を過ぎた頃だった。
「あんなに警戒してるなんて、怪しすぎっすよ」 と、間遠はうんざりして自分の椅子へ座る。 久我は苦笑しつつ返した。 「まさか、信じられる情報が電話番号だけとはな」 「早稲田の女のところに行った後、今度は中井の女っすからね。尾行してんの気づいてて、おちょくってんじゃねぇかと思いました」 むすっとしながら間遠が言うと、久我は話を進めた。 「さすがにそれはないと思うが、裏があるのは確実だ」 「何か分かったんすか?」 「探してほしいと頼まれた人物だが、本名でSNSをやっていた」 「は?」 思わず目を丸くする間遠へ、久我は手を伸ばして書類を渡した。 「容易に連絡がつく相手を、わざわざ探すように依頼しているんだ。おかしいだろう?」 印刷されていたのはSNSのユーザーページだ。 「確信犯って感じすか?」 「誤用だぞ、間遠。そこで気になるのが、五年前の業務上横領事件だ」 久我は別の書類を間遠へ差し出した。 「犯人には四年の実刑判決が出ていた。匿名掲示板で書かれていた監査部のKというのは内部告発者のことらしく、ヒーローとして持ちあげられていた」 「内部告発って、なんか嫌な予感がするんですけど」 間遠が思わず苦笑いを浮かべると、久我も「僕もだ」と軽く笑った。考えていることは同じらしい。 「それで?」 と、間遠は書類をまとめて返す。 「犯人に関する情報はネットに出ていなかったが、弟に聞いたら当時の担当者をあたってくれることになった」 「ああ、久我さんの双子の弟」 以前から話には聞いているが、間遠はまだ顔を見たことがなかった。久我が言うには、弟は現役の警察官として働いているらしい。 「現時点で嫌な予感はするが、思いこみで調査をするのは厳禁だ。事実だけを見て判断するのを忘れないようにな」 久我がにこりと笑い、間遠は少しだけ唇をとがらせた。 「分かってますよ」 自覚があるのかないのか知らないが、久我の向けてくる笑顔は間遠にとって凶器に等しかった。否応なく心臓を高鳴らせてくるからだ。 「それじゃあ、飯でも食いに行くか」 久我が立ちあがり、間遠はわざとむっとした顔でうなずいた。 「久我さんのおごりっすよ」 「それは無理だな、金が無い」「は?」 久我の目がまん丸になり、神崎と相楽も話すのをやめて間遠を見る。「オレはただ、久我さんが毎日何を食べてるのか知りたくて、昼食をチェックしてたんです。 その……実はオレ、久我さんに一目惚れしてまして」 間遠がすべて告白すると、めずらしく久我は頬を紅潮させた。「な、何だそれは。初めて聞いたぞ」「初めて言いましたもん。オレ、出会った時からずっと、久我さんが好きなんです!」 間遠にとって、一生に一度あるかないかの大胆な告白だった。 一方、久我は上ずった声で言う。「ま、待て待て。落ち着け、間遠」「動揺してるのは所長じゃないですか?」 と、神崎の冷静な声が飛んできて、久我はあわてて咳払いをする。 しかし、それで気持ちが落ち着くはずもなく。「間遠、ちょっと二人で話そうか」「は、はいっ」 久我の後をついていき、間遠は給湯室へと入っていった。 扉が閉ざされたところで、相楽は思わず笑いだしてしまった。「まさか間遠さんが、ゴミを……ストーカーじゃないですか、それ」「しかも一目惚れっていうのも、ストーカーによくあるパターンっていうか」 と、神崎が呆れまじりに言い、相楽は彼を見た。「寿直さんは間遠さんみたいに変なこと、してませんよね?」 神崎は茶目っ気たっぷりに返す。「してないよ。でも、浩介の寝顔コレクションならしてる」「あっ、勝手に撮るのやめてって言ったのに!」「だって可愛いんだもん。おれの寝顔も撮っていいよ」「そういう問題じゃないですよ、もう」 言いながらも相楽は穏やかな顔をしており、神崎も微笑みながらぎゅっと抱きついてくる。「おれね、寂しかったんだ。体を売ってたのは、お金が欲しかったんじゃなくて、愛されたかっただけ」「寿直さん……」「誰でもいいから、必要とされたかった。ひどいことされても、家にいるよりはマシだった。 セックスしてると、そ
事務所に戻った頃には、すでに六時を過ぎていた。「お疲れ様です」 いつものように声を出したつもりだったが、明らかに元気がない。 如月零から知らされた事実は、相楽を確実に打ちのめしていた。「お疲れ様。レイは現れたか?」 と、久我がたずね、相楽はこらえきれずに息をついた。「ええ、現れました。写真も撮りましたけど、別の人でした」 そう言って相楽はデジタルカメラをかばんから取り出し、久我の机の上へ置く。「また人を雇っていたのか」「そうみたいですね」 元気のないまま返し、相楽は自分の机へ向かう。「浩介、大丈夫? 濡れたでしょ、ストーブついてるから温まって」 と、神崎寿直に声をかけられて足が止まった。「あ、いや……」「どうかした?」 心配げな神崎の視線が突き刺すように痛い。 彼を見ないようにしながら上着を脱ぎ、ストーブの前へしゃがみこんだ。「……」 無言のうちに、仲間たちが会話をかわしたのが分かる。 元気のない相楽は、相楽らしくない。それは自分が一番よく分かっている。 しかし、どうしても神崎を見られなかった。 すると間遠桜が寄ってきて、横にしゃがんだ。「何か言われたのか」「……バカにされました。自分は普通の学校に通って、普通の大学を卒業したから」「何だよ、それ。っつーか、レイの言うことなんて気にすんな」 優しく間遠は言ってくれたが、相楽は我慢できずに返した。「間遠さん、難関中学に合格したんでしょう? そのまま高校はエスカレーターで、大学はスポーツ推薦で」 自分で口にしておきながら悔しかった。「自分なんかとは、全然違うじゃないですかっ」 涙がこぼれた。凡人であることを思い知らされるのは、これが二度目だ。「お、おい……何でそんなこと」 間遠が戸惑い、久我が割りこむ
電話を終えた久我健人が戻ってきて、相楽浩介に声をかけた。「相楽、これから張り込みに行ってもらえるか?」「どこですか?」「新宿だ。僕の弟、康人のアパートに行ってもらいたい」 思いがけない言葉に相楽は目を丸くした。「何かあったんですか?」「先週から毎日、郵便受けにミニカーが入れられているらしい。康人の使っているのと同じ車種、同じ色のミニカーだ」 相楽はぎょっとしてしまった。悪質な嫌がらせではないか。 久我もそうしたことを理解した上で話を続ける。「ついこの前、壁にこすってつけた傷も忠実に再現されていたことから、十中八九、如月零の仕業だろう」 レイこと如月零が、標的を久我から弟へ変えたらしいことは聞いていた。 しかし、今度はミニカーを投函するなんて。あいかわらず理解しがたい相手だ。 久我も困惑のような、呆れたような顔をして言う。「そこで現場を押さえて、証拠写真を撮ってほしいんだ。頼めるか?」「分かりました、さっそく行ってきます」 と、相楽は立ちあがった。 今日は朝からやることがなく、ずっと退屈していたところだ。 一月も下旬に入り、依然として厳しい寒さが続いている。特に今日は北風が強いため、体感温度が低い。 相楽は右腕をさすりつつ、康人が住んでいるというアパートへやってきた。 まずは郵便受けの中をのぞき見て、まだミニカーが入っていないことを確認する。 次に張り込む場所として、歩道をはさんだ向かいにある小さな公園へ入った。 康人の郵便受けが見える位置を探し、空いていたベンチに腰かける。真冬の公園で一人、長時間過ごすのは大変だ。 小さなすべり台とブランコがあるだけで、相楽の他には誰もいない。 空もどんよりとくもっており、もしも雨が降り出したら雪になるかもしれない。 近所の住人たちから怪しい人物だと思われないよう、一度立ちあがると、近くの自動販売機で温かい缶コーヒーを買った。 これを飲みながらベンチに座ってい
もなかの質問は極端だったが、璃久は不快になった様子もなく肯定した。「うん、そういうこと。でも、ボクはあんまり恋愛経験がないから、実際にどうなるかは分からないよ? でもね、だからこそ、わくわくするんだ」 そう言って、璃久は大きな目を輝かせた。「どんな人と恋に落ちて、二人でどんな風に過ごすのか。 ボクには可能性にあふれた未来が待ってるから、毎日が楽しいんだよ」 もなかは呆けたように息をつき、神崎は頬杖をついて璃久を見つめた。「やっぱり、璃久ちゃんはすごいね。その前向きさ、おれにも分けてほしいくらいだよ」「あたしも、ほしい」 ぽつりともなかも言い、璃久はすかさず返す。「もなかちゃんだって同じだよ。可能性にあふれた未来が待ってるんだから、楽観的に行けばいいんだよ。 もしかしたら明日、運命の人と出会っちゃうかもしれないよ?」「そうかな……?」「分からない。でも、それが可能性ってこと」 そして璃久は神崎にも視線を向ける。「神崎さんだって、可能性にあふれた未来が待ってるはずです。これからいくらでも変わっていけるし、成長だってできますよ」 心のうちを見透かされたような気がして、はっとした。 神崎はゆっくりと笑みを返す。「そうだよね。ありがとう、璃久ちゃん」「どういたしまして」 にこりと璃久が笑い、神崎は胸が温かくなった。 璃久が前向きなのは未来を信じているからだ。必ずいいことがあるはずだと、信じて期待しているからだった。「っていうことがあったんだ。すごいよね、璃久ちゃんって」 帰宅した神崎は、キッチンで夕食を作ってくれている相楽浩介の広い背中を見ながら言った。「そうなんですよね。璃久ちゃんさん、男性客に絡まれても平気な顔してますからね。 オーナーは何かある度に心配してますが、璃久ちゃんさんは常に前向きで強い人なんですよ」 と、相楽がどこか楽しげに返す。「うん、かっこいいなって思った。すごく肝が座ってたし、
もなかはシールをたくさんかごの中へ入れていた。 さらに着せ替えマスコットと衣装も入れており、「ずっと欲しかったやつなの」と、はにかんだ。 神崎は限定衣装を着たマスコットとタオルハンカチ、クリアファイルにマルチポーチをかごに入れた。 璃久は手当たり次第にかごへ商品を入れており、ざっと見ただけでも総額は一万円を軽く超えている。 買うものを決めた三人はレジへ並び、会計を待ったのだが。「どういうこと!? ちゃんと三千円以上買ったじゃない!」 急に甲高い怒鳴り声が聞こえて、神崎はびくっとしてしまった。 声のした方を見ると、三台あるレジのうち、一台の前で客と店員がもめている様子だ。「ですから、セール品は除外なんです」 と、若い女性店員が説明するが、女性客の怒りは収まらない。 神崎は心臓がばくばくと高鳴り、頭の中が真っ白になる。――怒鳴り声は嫌いだ。特に女性の怒鳴り声は。 店内もざわつき始めたところで、前にいた璃久が振り返った。「神崎さん、持っててもらえますか?」「あ、うん」 神崎が彼のかごを受け取ると、璃久はもめている二人の方へ近づいていった。「あのー、ちょっとボク見てたんですけど、お姉さんの買ったもの、確かめさせてもらえますか?」「はあ? 何よ、あんた」 と、三十代らしき女性客がにらみつける。 しかし、璃久は少しも怖気づくことなく返した。「ボクはウカポン推しの者です!」 とびっきりの笑顔がまぶしく、女性客がひるんだのが神崎にも分かった。「お姉さんも、缶バッジが欲しくて買いに来たんでしょう? 可愛いですよね、あの缶バッジ」 にこにこと笑顔で璃久は言い、女性客が戸惑っている隙に、彼女の手にした袋をそっと取りあげた。「というわけなので、確認させてもらいますねー。店員さんも、ちゃんと見ててくださいね」「あ、はいっ」 呆然としていた店員がはっとし、璃久はカウンターに商品をひとつずつ出し始めた。「まずはスマホケースですね。これはいくらでしたっけ?」
「神崎さーん!」 一月も半ばに入り、寒さがより厳しくなった頃。 久我探偵事務所に名城璃久がやってきた。 神崎寿直は手を止めて顔をあげる。「どうしたの、璃久ちゃん」「明日って、空いてますか?」 神崎の机へまっすぐに寄ってきて、可愛い顔をした青年はそう言った。 中性的なショートボブにぱっちりとした目、色白で小柄な背丈から、一見すると女の子のようだ。「うん、特に予定はないけど」「じゃあ、一緒に原宿行きませんか? 実は明日、親戚の子とウカポンショップに行くんです」「え、ウカポンショップ!?」 神崎のテンションが自然とあがり、璃久はにこりと笑った。「三千円以上買うと、限定缶バッジがもらえるキャンペーン中なんです。もしよかったら、神崎さんも一緒にどうですか?」「ああ、SNSで見かけたやつか。あの缶バッジ、いいなって思ってたんだよね」「それじゃあ、ぜひ一緒に行きましょう!」「いいの?」「もちろんです。そのために誘いに来たんですから」 璃久の人懐こい笑顔に、神崎はつられるようにして頬をゆるめた。「それじゃあ、行こうかな」「やったー! じゃあ、明日は十時に原宿駅の改札前でお願いします。お買い物の後、ランチしましょう」「うん、分かった。楽しみにしてるね」「はい!」 そして璃久はにこやかに「お仕事中、失礼しましたー」と、足取り軽く去っていった。 様子を見ていた所長の久我健人は言う。「あいかわらず、元気な子だな」「鯉川さんに限らず、あの笑顔を向けられたら好きになっちゃいますよね」 と、神崎は穏やかに返した。 一階にある「Cafe in the Pocket.」で働く名城璃久は、オーナー・長島透子の甥であり、看板娘ならぬ看板息子として人気だった。 中性的かつ可愛いに全振りした容姿は、男性客の多くを無自覚のうちに虜にしてしまう。 そのためにトラブルも少なくないが、璃久はあまり気にして