ログイン二日後の午後一時過ぎ、事務所に電話がかかってきた。
事務員の近藤博は中央・総武線で新宿へ移動した。平日でも人が多いため、間遠は見失わないように注意する。
改札を抜けたところで近藤博が振り返った。一瞬、目が合った気がしたが、すぐに歩き始めた。 間遠はほっと息をつく。おそらくセーフだろうと判断し、距離に気をつけながら尾行を続けた。 駅を出て少し歩き、近藤博はホームセンターへ入っていった。 間遠も後を追い、エスカレーターで上の階へ向かう。どこへ向かっているのかと思っていると、キッチン用品の売り場で足を止めた。 商品を見る振りをして、離れたところから慎重に様子をうかがう。 近藤博が見ていたのは包丁だった。 どこか思いつめたような横顔に、間遠は胸の中で嫌な予感を急速にふくらませる。久我に向けて『包丁を購入』とだけ送った。 会計を終えた近藤博は他のホームセンターへ行き、今度はビニール手袋を買った。「おいおい、マジかよ……」 思わずつぶやかずにはいられなかった。 久我も間遠の報告を受けて同じように考えたのだろう。戻ってきた久我は相楽の姿を見て目を丸くした。「相楽、来てたのか」「はい。明日から復帰しますので、よろしくお願いします」 と、相楽は立ち上がって律儀に頭を下げる。「そうだったな。ちょうどいいから、今後について話そう」 久我は自分のデスクに着き、まず確認をした。「僕たちが今進めている調査について、もう聞いたか?」「はい、怪しい依頼人のことですよね」「ああ、そうだ」 と、久我は三人へ顔を向ける。「弟から聞いた話では、ネットに書かれていた監査部のKというのは、依頼人が探すように言った近藤敬一だと分かった。犯人には四年の実刑がくだされ、予定通りであれば、もう刑期を終えて出てきていることもな」「業務上横領罪って、そんなに軽いんすね」 と、間遠が感想を述べると、久我は返した。「初犯だったからな。依頼人が犯人である可能性は俄然濃くなった」 外はすでに暗くなっており、事務所内の空気が一瞬だけ沈む。クーラーの稼働音がやけに耳についた。「だが、そう仮定すると妙なんだ。自ら居場所を教えておいて、尾行させた先で包丁と手袋を買っている。あまりにも怪しすぎて、逆に何か計画があるのではないかということになった」「じゃあ、怪しいのはわざとってことですか?」 相楽の問いに久我は言う。「おそらくはな。だが、何の目的があってうちに依頼してきたのかが分からない。言い換えれば、本当に殺人を計画している可能性も否定できないというわけだ」「厄介ですね」 神崎がつぶやくように言い、久我もため息をつく。「もし殺人を計画しているのであれば、それだけで逮捕できる。弟は警察として見過ごせないと判断し、協力してくれることになった」「具体的には何をするんすか?」「兄が見つかったと連絡を入れて、再会の場をセッティングするんだ。その場には私服警官を複数名つかせて、万が一に備える」 理解した間遠は「よっしゃ」と、気合を入れた。「あの男が何を企んでいるのか、見せてもらおうじゃねぇですか」 久我は「
二日後の午後一時過ぎ、事務所に電話がかかってきた。 事務員の神崎寿直が固定電話の受話器を取り、落ち着いた声で「久我探偵事務所です」と言う。 間遠は事務作業をぼちぼち進めながら、神崎の様子を見ていた。「所長、近藤博様からお電話です。依頼について、いくつか聞きたいことがあるとか」 久我はすぐに電話を受けた。「お電話変わりました、所長の久我です。今日はどうされましたか?」 事務所は静かだが電話の内容までは聞き取れない。間遠は気になってしまい、キーボードに置いた手を止めていた。 久我がちらりと間遠に目をやってから言う。「あっ、ちょうど今、調査員が戻ってまいりました。進捗の方を聞いてきますので、少々お待ちいただけますか?」 そして電話を保留にし、久我はささっとメモを書いてよこしてきた。「間遠、追ってくれ」「はい」 受け取った間遠はすぐに立ち上がった。近藤博が中野駅にいる、という情報だった。 近藤博は中央・総武線で新宿へ移動した。平日でも人が多いため、間遠は見失わないように注意する。 改札を抜けたところで近藤博が振り返った。一瞬、目が合った気がしたが、すぐに歩き始めた。 間遠はほっと息をつく。おそらくセーフだろうと判断し、距離に気をつけながら尾行を続けた。 駅を出て少し歩き、近藤博はホームセンターへ入っていった。 間遠も後を追い、エスカレーターで上の階へ向かう。どこへ向かっているのかと思っていると、キッチン用品の売り場で足を止めた。 商品を見る振りをして、離れたところから慎重に様子をうかがう。 近藤博が見ていたのは包丁だった。 どこか思いつめたような横顔に、間遠は胸の中で嫌な予感を急速にふくらませる。久我に向けて『包丁を購入』とだけ送った。 会計を終えた近藤博は他のホームセンターへ行き、今度はビニール手袋を買った。「おいおい、マジかよ……」 思わずつぶやかずにはいられなかった。 久我も間遠の報告を受けて同じように考えたのだろう。
久我探偵事務所は退屈だった。後輩調査員の相楽浩介は腕の怪我のため、有給休暇を取得している。 抜糸後に戻ってくるそうだが、調査員は自分だけになってしまった。 間遠桜はデスクに頬杖をつき、木目調のパーテーションをじっと見ていた。 向こう側は応接スペースになっており、今は所長の久我健人が客の対応をしていた。「私は近藤博といいます。数年前に音信不通になった兄を探してほしいんです」 声の感じからして三十代から四十代くらいだろうか。緊張しているのか、少々早口だ。 落ち着いた調子で久我が返す。「人探しですね。お兄さんのお名前や情報を聞かせてください」「はい。名前は近藤敬一。私が把握しているところでは、五年前まで株式会社新都アーキテクチャーの監査部にいました」「連絡が取れなくなったのはいつ頃ですか?」「その、元々あまり頻繁に連絡をしていたわけではないんです。なので、えーと……一昨年の十一月だったでしょうか。父が亡くなったので連絡をしたんですが、通じなかったんです」「携帯電話の番号が、ということですね」「ええ、そうです。しかたないので放置したんですが、母が最近亡くなったので、今度ばかりは行方を知りたいと思いまして」 何だか妙な話だ。調査員歴五年になる間遠の勘が働いた。「警察には知らせましたか?」「えっ、いや……」「お兄さんを知っている知人をあたったりは?」「だから、その……あまり、そういうことは知らなくて。お恥ずかしいことに、仲がよくないんです」 しどろもどろな返答は怪しいだけだ。こういう時、たいてい依頼人には他の思惑がある。 久我も間遠と同じように考えているはずだが、穏やかに言った。「分かりました。お受けいたしましょう」「あ、ありがとうございます。それで、料金はどれくらいになるでしょうか?」 最近は不景気のせいで、金額を聞いて依頼をキャンセルする人も少なくない。ここからが久我の腕
相楽がドアノブに手をかけ、ゆっくりと扉を開く。 中に電気はついておらず、神崎は扉を開けたままにしておこうと手で押さえる。 慎重に相楽が部屋の電気をつけた。「どこに隠れてるんだ? さっさと出てきやがれ!」 挑発する相楽を、神崎ははらはらと見守っていた。今にも部屋のどこかからストーカーが飛び出してきて、彼に危害を加えるのではないかと怖くてならない。「どこだ!? おい!」 相楽が声を張り上げ、奥の部屋へ足を踏み入れた時だった。「っ!?」 突如、背後から腕が伸びてきて神崎は首を絞められた。「相楽く……っ!」 後ろへ引きずられ、無情にも扉が閉まる。鍵が開けられていたのは罠だったのだ、神崎と相楽を引き離すための。「抵抗するな。綺麗な顔に傷をつけたくない」 ねっとりとした声とともに、目の前にナイフを見せられたが、かまわずに神崎は思い切り肘鉄を食らわせた。 隙ができたのを見逃さず、前方へと駆け出す。頬に一瞬、鋭い痛みが走ったが、気にする余裕などなかった。 部屋から飛び出てきた相楽にたまらず抱きついて叫ぶ。「ナイフ持ってる!」「神崎さんは離れて、警察に連絡を」「うんっ」 震える手でポケットからスマートフォンを取り出し、神崎は警察へ通報する。「助けて、ナイフを持った男が……!」 と、状況を説明する間にストーカー男は逃げ出していた。相楽が全力で追いかけていくのが見える。「待て!」 距離が縮んだかと思うと、ストーカー男が振り向きざまにナイフを振り下ろした。「うわっ」 相楽の叫び声にはっとして、神崎は慌てて後を追いかけた。「相楽くん!?」 何が起きたのか状況を把握する間もなく、相楽はストーカー男の手からナイフを叩き落としていた。ひるんだ隙に腕をつかみ、勢いよく背負い投げを決める。「ぎゃっ」 そしてうつぶせにさせると、素早く上に乗って腕をひねり上げた。「確保ォ!」 相楽の声が近
初日は何事もなく終わった。翌日は午前十時半に相楽が迎えに来てくれて、一緒に家を出た。「朝はいないんだよね。いつも駅で待ってて、同じ電車に乗ってくる」「じゃあ、電車に乗ったら警戒すればいいんですね」 と、相楽。「うん、そうだね。相手はおれが一度、隣に座ったことがあるだけなんだけど、何を勘違いしたのか、つきまとうようになったんだ」「厄介ですね。特に言葉をかわしたわけでもないんでしょう?」「当然だよ。まさか、それだけでストーカーされるとは思わなかったし、最初はまったく知らない人だと思って怖かった」 神崎はため息をついた。またかと辟易したのと同時に、この手のトラブルに慣れてしまった自分が嫌だった。「どうして、隣に座ってた人だって分かったんですか?」「あっちからそう告白してきたんだよ」「ああ……マジめんどくせーってやつですね」 と、相楽がため息をつき、神崎もうんざりして言った。「女だと思われてストーカーされた時は、交番の近くで男だと知らせて、即逮捕してもらったんだけど」「え?」「わざと暴れさせて、事件にしてさ。あの頃は若かったから無謀なこともできたけど、今はやろうと思わないよ。あの後、警察官の一人にしつこくされたしね」「……神崎さん、本当に苦労してるんですね」 相楽が苦笑いをし、神崎は言った。「だから外に出たくなくて、事務員になったんだ」 所長の久我は神崎の事情を汲んでくれるため、今の職場はありがたかった。この場所を失うことになったら、神崎には大きな損失だ。 もしかしたら立ち直れないかもしれないと思うほどには、久我探偵事務所を気に入っていた。 出勤すると、すでに来ていた間遠桜が声をかけてきた。「おはよう、神崎、相楽。ストーカーどうだった?」 神崎はいつものように「おはようございます。特に何もありませんよ」と、自分のデスクへ向かう。 相楽はそんな彼を気にしつつ、間遠へ歩み寄った。「おはようございます、間遠さん。
「まただ……」 郵便受けを見て、神崎寿直は息をついた。 取り出したのは何枚ものメモ書きである。書かれているのは「シャンプー変えた? 髪の匂い、いつもと違ってたね」「今日から長袖にしたんだね。白い肌が見えなくなって残念だよ」といった類のものだ。 神崎は胸にムカムカしたものを感じながら、郵便受けを閉じて部屋へ向かった。 どこからか視線を感じるが、不快感を表情に出すことなく冷静に努める。神崎は経験から、反応すると相手を喜ばせるだけだと知っていた。「所長、相談したいことがあります」 翌日の始業前、神崎は耐えかねて久我健人へ告げた。「相談? 何かあったのか?」「実は三ヶ月前から、ストーカー被害にあってるんです」 久我の目が鋭くなり、神崎はストーカーからの手紙を取り出してみせた。「毎日、こんなものが大量に郵便受けに入れられているんです。帰り道は確実に尾行されていますし、おそらく職場もバレています」「それは困るな」 久我は手紙の一つを手に取りながら言い、様子を見ていた相楽浩介へ視線を向けた。「相楽もこっちに来てくれるか? 事務所も巻き込まれかねない事態だ」「はいっ」 すぐに相楽が席を立ち、神崎の隣へ並ぶ。そして机に置かれた手紙を見て、心底嫌そうな顔をした。「うわ、エグい……ガチでストーカーじゃないですか」「だから困ってるんだ。しかも相手は、おれが男だって分かっててやってる」「ああ……神崎さん、美人だから」 と、相楽は視線をやり、神崎はむっとする。外見についてとやかく言われるのは好きじゃない。 不快な気持ちはさておいて、神崎は言う。「引っ越しも考えていますが、すぐにとはいきません。なので、もし所長たちに迷惑がかかったら、その時は申し訳ありません」「事が起こる前から謝るな。むしろストーカーの場合、エスカレートさせた方が警察は動きやすい。もちろん危ないことはさせられないが、ストー