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二重の裏切りの果てに

二重の裏切りの果てに

By:  江ノ島 しおりCompleted
Language: Japanese
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ダイニングの空気が一変したのは、夫の友人が突如イタリア語で口を開いた瞬間だった—— 「三年前、お前は紗耶のために、澪に示談書を書かせようとして、あえて結婚まで利用したんじゃないのか? ここ数年、澪はお前にどんどん心を傾けていたのに、お前はまだ彼女を欺いてる。避妊薬を抗うつ剤だと偽ってまで……その真実を澪が知ったら、壊れてしまうとは思わなかったのか?」 夫は沈んだ表情で苦く笑い、「父親に望まれない子どもなんて、生まれてこなくていい。澪のことも……紗耶の幸せを邪魔しなければ、俺は彼女に一生、責任を果たすつもりだ」と答えた。 誰も知らなかった。 私は、彼に少しでも近づきたくて、すでにイタリア語を習得していたことを。 リビングに立ち尽くしたまま、私は首元に残る新しいキスマークを指先で隠しながら、抗うつ剤とされた薬の瓶を握っていた。 体の芯まで冷えきっていた。 そうか……彼の優しさも、眼差しも、全部嘘だったんだ。 私が信じていた救いなんて、最初から綿密に仕組まれた罠だった。 ならば、もういい。 私は、彼ら全員の幸せを、心から「祝福」してあげることにする。

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Chapter 1

第1話

ダイニングの空気が一変したのは、夫の友人が突如イタリア語で口を開いた瞬間だった——

「三年前、お前は紗耶のために、澪に示談書を書かせようとして、あえて結婚まで利用したんじゃないのか?

ここ数年、澪はお前にどんどん心を傾けていたのに、お前はまだ彼女を欺いてる。避妊薬を抗うつ剤だと偽ってまで……その真実を澪が知ったら、壊れてしまうとは思わなかったのか?」

夫・神原祈矢(かんばらきや)は沈んだ表情で苦く笑い、「父親に望まれない子どもなんて、生まれてこなくていい。澪のことも……紗耶の幸せを邪魔しなければ、俺は彼女に一生、責任を果たすつもりだ」と答えた。

誰も知らなかった。

私は、彼に少しでも近づきたくて、すでにイタリア語を習得していたことを。

リビングに立ち尽くしたまま、私は首元に残る新しいキスマークを指先で隠しながら、抗うつ剤とされた薬の瓶を握っていた。

体の芯まで冷えきっていた。

そうか……彼の優しさも、眼差しも、全部嘘だったんだ。

私が信じていた救いなんて、最初から綿密に仕組まれた罠だった。

ならば、もういい。

私は、彼ら全員の幸せを、心から「祝福」してあげることにしよう。

迷いなく、私は手にした薬をそのまま口に運び、苦味に顔をしかめた。

今までで一番、苦く感じた。

ダイニングではまだ会話が続いていた。

夫の友人・五十嵐諒((いがらしりょう)が言いにくそうに口を開いた——

「妊娠のことは置いといて……三年前、紗耶が川に飛び込んだ時、澪の母親が助けに入って命を落としたろ?でも、紗耶は水中でもがいてただけじゃない。動画を見たら誰だって、彼女がわざと澪の母親を沈めたと思う。澪が彼女を訴えたのも当然だよ」

「でもお前は、紗耶が収監されないように、わざわざ澪の後見人になって、本人に隠れて示談書を出した。おかげで紗耶は無傷、でも澪は重度のうつ病になったんだ。毎日、自分を責め続けて……いつか真実を知ったら、本当に壊れちまうぞ」

祈矢は不機嫌そうに眉をしかめながらも、低い声で毅然と言った——

「紗耶に悪気はなかった。あのとき溺れていて、無意識のうちにやったことだ。澪の母さんが犠牲になったことは紗耶も深く後悔してる。

示談書は俺が完璧に隠してある。澪が真実を知ることはない。これからも彼女を大切にする。家族として、一生をかけて償っていくつもりだ。きっと彼女も、いつか痛みを忘れて、幸せになってくれる」

諒は深くため息をついた。

「怒らないでくれ。俺はただ、澪が気の毒で仕方ないんだ。あの子が一番辛いときにお前が現れて、少しずつ心を開いて……でも、お前が愛してるのはずっと紗耶だけだった。それだけさ。

まあ、嘘を貫き通す覚悟があるなら、そうしてくれ。後悔しないことを願うよ」

祈矢はグラスを持ち上げ、一言ずつ噛み締めるように言った——

「俺は後悔しない」

その言葉で、もう限界だった。

私は立ち上がり、この救いだと信じてきた家から、逃げるように飛び出した。

明日は大晦日。

街には祝いの雰囲気があふれ、幸せそうな笑顔で満ちていた。

朝になるまで、祈矢は私を離さず、愛を囁きながら何度も身体を重ねた。

酔うほどに甘く、夢のような時間だった。

でも今では、そのすべてが、私の心を切り裂く刃となって突き刺さってくる。

一つ一つが深く、鮮血が止まらない。

私は公園のベンチに崩れ落ち、堪えていた涙が堰を切ったようにあふれ出した。

そして——

封じ込めていた記憶までが、愛の崩壊とともに一気に押し寄せてきた。

早瀬悠輝(はやせゆうき)と婚約したあの日。

綾瀬紗耶(あやせさや)は受け入れられず、遺書を残して川に身を投げた。

彼女は水泳が得意だった。しかも……私の父の隠し子。

それでも母は、自ら川に飛び込んで彼女を助けようとした。

多くの人がその瞬間を撮影していた。

私は映像の中で、母が紗耶を水面へ押し上げようとする姿を見た。

なのに紗耶は、母の肩を手で押さえ、頭を足で踏みつけ、水中へと強く蹴りつけた。

そのまま——

母は水底に沈んでいった。

現場に駆けつけた私に、紗耶は涙を流して訴えた——

「一瞬の気の迷いだったの……お姉ちゃん、お願い、責めないで……お母さんが私を助けてくれたのは、私に生きてほしいと思ったから……そうでしょう?」

私は崩れ落ち、問い詰めた。

「泳げるくせに、なぜ母を水に沈めたの?」

でも彼女は、ただ泣くだけで「故意じゃない」と繰り返すだけだった。

私は彼女を故意の殺人未遂で訴えた。

なのに、悠輝は突然私との婚約を破棄し、彼女と婚姻届を出したのだった。

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第1話
ダイニングの空気が一変したのは、夫の友人が突如イタリア語で口を開いた瞬間だった——「三年前、お前は紗耶のために、澪に示談書を書かせようとして、あえて結婚まで利用したんじゃないのか?ここ数年、澪はお前にどんどん心を傾けていたのに、お前はまだ彼女を欺いてる。避妊薬を抗うつ剤だと偽ってまで……その真実を澪が知ったら、壊れてしまうとは思わなかったのか?」夫・神原祈矢(かんばらきや)は沈んだ表情で苦く笑い、「父親に望まれない子どもなんて、生まれてこなくていい。澪のことも……紗耶の幸せを邪魔しなければ、俺は彼女に一生、責任を果たすつもりだ」と答えた。誰も知らなかった。私は、彼に少しでも近づきたくて、すでにイタリア語を習得していたことを。リビングに立ち尽くしたまま、私は首元に残る新しいキスマークを指先で隠しながら、抗うつ剤とされた薬の瓶を握っていた。体の芯まで冷えきっていた。そうか……彼の優しさも、眼差しも、全部嘘だったんだ。私が信じていた救いなんて、最初から綿密に仕組まれた罠だった。ならば、もういい。私は、彼ら全員の幸せを、心から「祝福」してあげることにしよう。迷いなく、私は手にした薬をそのまま口に運び、苦味に顔をしかめた。今までで一番、苦く感じた。ダイニングではまだ会話が続いていた。夫の友人・五十嵐諒((いがらしりょう)が言いにくそうに口を開いた——「妊娠のことは置いといて……三年前、紗耶が川に飛び込んだ時、澪の母親が助けに入って命を落としたろ?でも、紗耶は水中でもがいてただけじゃない。動画を見たら誰だって、彼女がわざと澪の母親を沈めたと思う。澪が彼女を訴えたのも当然だよ」「でもお前は、紗耶が収監されないように、わざわざ澪の後見人になって、本人に隠れて示談書を出した。おかげで紗耶は無傷、でも澪は重度のうつ病になったんだ。毎日、自分を責め続けて……いつか真実を知ったら、本当に壊れちまうぞ」祈矢は不機嫌そうに眉をしかめながらも、低い声で毅然と言った——「紗耶に悪気はなかった。あのとき溺れていて、無意識のうちにやったことだ。澪の母さんが犠牲になったことは紗耶も深く後悔してる。示談書は俺が完璧に隠してある。澪が真実を知ることはない。これからも彼女を大切にする。家族として、一生をかけて償っていくつもりだ。き
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第2話
「紗耶に傷をつけさせるわけにはいかない」彼は、そう言った。そして、ネット上にはすぐに陰謀論が飛び交った。【母親の死を利用して同情を買い、注目を集めて金儲けしている】【ネット上の孝行娘を演じてるだけ】【異母妹への嫉妬で婚約者に捨てられた女】そんな誹謗中傷が私の喉元に突きつけられ、息をするのも苦しくなった。精神は崩壊寸前で、重度のうつ病と診断された。それでも——私は、母のために真実を求めることを、決して諦めなかった。二十三年間、私を守り、支え、育ててくれた母を、私はどうして簡単に見殺しにできるだろう。そんなときだった。祈矢が、私に猛烈なアプローチを始めたのは。優しくて、繊細で、どこまでも私を気遣ってくれて——私は、彼の愛を救いだと信じた。プロポーズを受け入れ、彼と結婚した。そして、裁判の結果——紗耶は無罪となった。私は過去を手放す努力をし、心を癒そうとした。祈矢との子どもを望み、ふたりの家庭を築こうとした。幸せを信じたかった。けれど。彼の「愛」は、すべて紗耶への執着の裏返しだった。私の目の前に、傘をさした祈矢が立っていた。いつからそこにいたのか、わからない。私の姿を見るなり、彼の険しかった眉間が少し緩み、目に一瞬、哀しみの色が走った。「黙って出て行かないでくれよ。すごく心配したんだ。最近、寒くなってきたし、年末で仕事も立て込んでる。君が風邪でもひいたら、俺、ちゃんと看病できるかな」祈矢が私のスマホに位置情報アプリを仕込んでいたのは、知っている。「うつが再発したら怖いから、いつでも君を守れるようにしたい」そう言っていた。私は、その言葉を信じていた。でも今なら、わかる。彼はきっと、私が紗耶に何かしないか、監視していたのだ。私は瞬きをした。もう涙は枯れ果てていて、ただ空から舞い降りる雪を、じっと見上げていた。「初雪の日に願いごとをすると叶うって聞いて、来ただけだよ」そう呟いた。最初の願い。祈矢と無事に離婚できますように。次の願い。離婚したあとは、二度と祈矢と会いませんように。最後の願い。……お母さん、私を、どうか……恨まないで。殺人犯をかばった人を、愛してしまった私を。その人の子どもを望んだ、私を。祈矢
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第3話
机の上には、精巧なギフトボックスが置かれていた。中には、一目でわかるほど高級なサファイアのネックレス。市場には出回らず、金を積んでも手に入らない——まさに、幻の逸品。私は昔から、サファイアの静かで孤高な美しさが好きだった。けれど、祈矢はいつも私に金のアクセサリーばかりを贈った。「ジュエリーは資産価値があるかが大事だよ。君はきれいだから、何をつけても似合う」そう言っていた。私は、その甘い言葉を信じていた。でも今、私はその箱の中からサファイアのネックレスを取り出した。とても美しい。中心にあるサファイアはうずらの卵ほどの大きさで、周囲には小さなダイヤが散りばめられ、少し揺れるだけで眩しく輝いた。その裏側に、刻まれていた文字——「Saya」Saya——紗耶呼吸が止まった。そして、崩れるように笑いながら泣いた。全てがつながった。全てが、理解できた。でも、だからといって心が救われるわけじゃない。私は、極限の痛みを堪えながら、彼が築いた「愛」という名の牢獄から逃げ出した。もう、十分だ。本当に……もう、いい。私は、遠くへ行くべきなのだ。この場所から、彼ら全員から。すでに「偽装死亡」サービスに連絡し、すべての準備は整えてある。あとは、警察が祈矢が三年前から隠していた示談書を開示してくれるのを待つだけ——その夜、祈矢は帰ってこなかった。翌朝、彼は何事もなかったように帰宅し、笑顔で言った。「澪、明日は紗耶の誕生日だし、大晦日でもある。家族で一緒に過ごそう。君の名前で、紗耶を年越しディナーに招待しておいたんだ。長い間、姉妹の間に溝があったけど……俺のためだと思って、会ってくれないか?」私は祈矢を見つめた。彼は低く穏やかな声で私をなだめ、その黒い瞳には誠実さと深い愛情が滲んでいた。そう、それはあの最も絶望していた年にも見せていた表情だった。私が自殺未遂を起こしたあの夜、彼は同じ目をして、私の手からナイフを取り上げ、私を救った。「わかった。行くよ」彼が望むなら、叶えてあげる。これまで、うつで何度も苦しんできた私を救ってくれた恩返しだと思えばいい。大晦日。祈矢はレストランを貸し切った。そして、紗耶は白いワンピース姿で、ゆっくりと現れた。祈矢は
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第4話
紗耶は私の手を振りほどきながら、狂ったように笑った。「殺人?証拠でもあるの?あんたの元カレも、今の夫も、みーんな私の味方よ。みんな私の無実と優しさを信じてくれてるの。あんたに何ができるの?」怒りで視界が真っ赤になった。けれど、長年のうつと虚弱体質に苦しんできた私の体では、彼女の首を締め上げることすらできなかった。むしろ、彼女の力に押されて思い切り突き飛ばされた。「お姉ちゃん、そんなに私のこと嫌いなの?私、反省してるのに……お願い、もう叩かないで……」そのとき——「紗耶!大丈夫か?」騒ぎを聞きつけたのか、祈矢が飛び込んできた。私を見るなり、彼は容赦なく私の頬を平手で打ちつけた。ビンタの音が、レストランに響いた。「澪……彼女は君の妹だぞ!?首を絞めるなんて……君、正気か!?」紗耶は小さく首を振り、泣きそうな顔を作った。「祈矢さん、お姉ちゃんを責めないで。全部、私のせいなの。私がおばさんを……」私は頬の痛みも忘れ、涙に滲んだ視界の中で祈矢を睨みつけた。「お母さんのお墓の場所、知ってるのは、あなたと私だけ。教えて。紗耶に掘り返すよう仕向けたのは、あなたなの?」「何を馬鹿なこと言ってるんだ!紗耶はただ、お母さんの墓前に手を合わせたかっただけだろ。どうしてそんな……そんな悪意で妹を疑うんだ!?」そう、祈矢は前に言っていた。「君の前では、紗耶への気持ちは隠す」と。だけど、こうして彼女が少しでも泣けば、全てが露呈する。彼自身は、それにさえ気づいていない。私は震える声で、唇を噛みながら笑った。「神原祈矢、そんなに彼女を庇うなら、ずっとそうしていて。私が今夜、ここで死んでも、決して後悔しないでね。そうじゃないと、私、あなたが一生後悔する気がしてならないの」祈矢の顔から、余裕が消えた。紗耶の腕を放し、私の肩に手を添える。「澪、お願い、そんな怖いこと言わないで。俺は、心から君を大事に思ってる。さっきのは本当に、君が怖かっただけなんだ。君のお母さんは紗耶の命の恩人だよ。だからこそ、彼女は手を合わせたんだ。墓を掘るなんて、そんなこと……疑うなんて君が辛いだけだろ?俺が手を挙げたのも、ほんとに……ほんとに衝動的だった。ごめん。今日はもう帰って、薬を飲んで、ちゃんと休んで
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第5話
電話の向こうから聞こえた言葉に、祈矢は珍しく一瞬、呆然とした。警察の言っていることが、すぐには理解できなかった。長い沈黙のあと、ようやく彼は口を開いた。「自殺?何を言ってるんですか?妻が自殺だなんて……そんな馬鹿なこと……詐欺の電話じゃないですよね?示談書って、確かに昔書いたことはあります。でも、それが妻の手に渡るはずなんてない!」電話口の警察官も、そんな反応が返ってくるとは予想していなかったのか、少し間を置き、改めて冷静に説明を始めた。「今夜、午後九時過ぎに通報がありました。女性が橋から川に飛び込んだという内容です。監視カメラの映像では、白いシャツにジーンズ姿の20代女性と確認されました。現場には、遺書と脱いだ靴が残されており、その三時間後、下流でご遺体を発見しました。奥様です」ブレーキが急激に踏み込まれ、車は道路脇に止まった。「そんなはずない。今日、年越しを一緒に過ごしたばかりなんだ。彼女には、家で待っててって言ったばかりなんだ。なんで、なんで自殺なんて……」警察官は淡々と言った。「ご自分の目で確かめてください。そうすれば、すべてわかるはずです」その瞬間、助手席にいた紗耶の目に、わずかな勝ち誇ったような光が走った。だがすぐに、彼女は悲しそうな顔を作り、心配そうに声をかけた。「祈矢さん……どうしたの?お姉ちゃんに、何かあったの?警察に行って、ちゃんと確認してきて。私は大丈夫、一人で帰れるから」祈矢は、無言でドアを開けた。そして、何も言わずに手で「降りろ」と合図をした。「ごめん、紗耶……澪に何かあったみたいだ。俺、警察に行ってくる。悪いけど、自分でタクシー拾って帰ってくれ」紗耶は、驚いたように目を見開いたが、すぐにうるんだ瞳で弱々しく頷いた。「うん、わかった。祈矢さん、心配しないで。私は平気だから。ただ……年越しの夜、私の誕生日にお姉ちゃんが自殺を選ぶなんて、まるで私を責めてるみたい……私がおばさんを死なせたって、恨んでるのかな……本当は、仲良くしたかっただけなのに、お姉ちゃんの嫉妬がこんな形になるなんて……祈矢さん、どうか、私を嫌いにならないでね……」祈矢はハンドルを握りながら、無言だった。心に広がっていく、妙なざわめき。どうしてだろう。今初めて
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第6話
【人生でずっと探し求めてきた幸せは、結局、儚い夢でしかなかった。ひとつの、滑稽な笑い話だった。あなたの書いた示談書、読ませてもらったわ。よくできていた。あまりにも皮肉で、私たちの完璧な結婚生活を見事に否定してくれていたわね。永別】わかっていた。この結婚が、最初から綿密に仕組まれた嘘だということは。遺書を読み終えた瞬間、彼の顔は真っ青になっていた。「永別」の二文字は、祈矢の胸に、鋭利な刃のように突き刺さった。脳裏に焼き付いて離れない。目が熱くなり、堪えきれない涙が一気にこぼれ落ちた。身体を支えきれず、彼はその場に崩れ落ちた。膝をつきながら、懇願するように警察に尋ねる。「妻の遺体は、どこに……」警察は彼を霊安室へと案内した。そこに横たわっていたのは、すでに腐敗し、原形を失った女性の遺体。だが、着ていた服は——まぎれもなく、私が年越しの夜に着ていたものだった。祈矢は顔面蒼白になり、その場で嘔吐した。何度も繰り返される記憶の断片。生前の私の笑顔、怒り、涙……そして今、目の前にある死んだ私の顔。目の前が真っ暗になり、そのまま気を失った。警察たちは急いで彼を病院へ運んだ。病院で目を覚ました祈矢は、ふらつきながらも飛び出し、私の母親の墓へと駆け出した。そこは、もはや墓とは呼べないほど、無残に荒らされていた。骨壺は破壊され、道端に無造作に置かれており、中身の遺灰は跡形もなく、風に消えた。そのとき、彼はようやく気づいた。「澪が言っていた全部は、本当だったんだ」でも——彼は、一度たりとも信じようとしなかった。ただの嫉妬、ただの被害妄想。そうやって片づけて、私の悲鳴を、何度も踏みつけてきた。彼はその場に膝をつき、泣きながら、崩れた墓地を掃除し続けた。口から、掠れた声が漏れた。「ごめん……ごめんなさい……本当に……」そのとき、不意にスマホが鳴った。「神原さん、大晦日にレストランに設置していた防犯カメラに、ある映像が映っていました。ご自分の目で、ご確認ください」送られてきた映像には、私が紗耶を問い詰める場面がしっかりと映っていた。母親の形見のブレスレットについて追及する私。それに対して、あざ笑い、挑発し、墓を冒涜したことを誇らしげに語
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第7話
その日を境に——さまざまな噂と憶測が、ネット上を駆け巡った。誰もが口を揃えて言った。私を追い詰め、うつ病に陥れ、自殺へと追いやったのは、私のすぐ傍にいた獣たちだったのだと。私が海外でそのニュースを知った頃、国内ではすでに新年が明けていた。そう。私は、死んでなんかいない。離婚を決意したその日から、偽装死亡の手続きを進めていたのだ。あの騒動を報じる記事を見たときも、私はただ、静かに画面を眺めていただけだった。もう、祈矢への愛情なんて残っていない。今、私が見たいのは——彼が、彼らが、どこまでも堕ちていく様子だけ。できることなら、奈落の底へ沈み切ればいい。母の死が、もう二度と覆ることがないとしても——私は、道徳と世論という名の裁きで、彼らの人生を永遠に蝕んでやる。私は今、アイスランドにいる。四季を通して厳しい寒さと、長く続く暗闇。人影はまばらで、孤独が染みついたような土地。だけど、私はこの場所が、不思議としっくり来る。現地での生活に早く馴染むため、語学学校に入学し、英語とアイスランド語を学び始めた。離れることは、思ったよりも簡単だった。むしろ、体が軽くなったような気さえした。一方その頃——祈矢は、まるで別人のようになっていた。部屋に閉じこもり、昼夜を問わず酒に溺れ、仕事にも手をつけず、ただ朦朧とした目で天井を見つめていた。けれど、彼がいくら酔っても、一度たりとも私の夢には現れなかった。そんなある夜——彼の手をそっと取る人影があった。「祈矢さん……もう、お酒やめて。人は死んだら戻ってこないよ。前を向こうよ……」そう語りかけたのは、紗耶だった。だが、次の瞬間。祈矢はその手を振り払い、赤く濁った目を見開いた。その目に宿っていたのは、かつてないほどの、憎しみだった。彼はそのまま、紗耶の首を掴み上げた。「なんで……なんで、俺を騙した!なんで澪の母さんの墓を掘り返した!?お前って女は、どこまで腐ってるんだ!」紗耶は床に叩きつけられ、よろけながら見上げた。「祈矢さん、どうしちゃったの?私は、あなたが一番大切にしてくれた紗耶だよ」彼は冷たく彼女を見下ろした。その目には、かつての溺愛など一片も残っていなかった。「まだとぼけるのか?俺が真実を知
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第8話
ネット上の炎は、さらに激しく燃え上がった。怒り狂ったユーザーたちは、神原グループのすべての商品を不買リストに挙げ、株価は連日暴落。資金繰りも限界に達しようとしていた。あの「全世界に愛を宣言した」恋は結局のところ——もう一人の女を隠すための見せかけだったのだと。一時代を築いた企業も、ついには崩壊寸前。株主たちは緊急会議を開き、ついに祈矢を代表取締役の座から罷免。この一連の騒動は、ようやく一段落を見せた。けれど、紗耶には、そんな幕引きは用意されていなかった。彼女が自殺を図った当時の動画が再び検証され、1フレームずつ分析されていく中で明らかになったのは——彼女が水泳に長けていたという事実。溺れていたはずの彼女は、水面を泳ぐように漂い、周囲に助けがいない状況でも慌てる様子すらなかった。逆に、母が彼女を助けようと飛び込んだ瞬間から——彼女は突然、必死に取り乱したふりを始めた。母の救命胴衣を無理やり引き剝がし、周囲の浮き輪を遠くへ押しやり、何度も何度も、母の頭を水中に沈め続けたのだ。さらに暴かれたのは、彼女が使っていた裏アカウントの投稿内容だった。【あの女、毎日私の前でうろついてマジうざい。水鬼でも出てきて引きずってほしいわ】【人を殺しても罪に問われない方法、思いついちゃった。助けに来た時に死んでもらえばいいだけ】【明日、自殺します☆みんな見ててね♡】これらすべてが、殺意があった証拠だった。世論の圧力のもと、警察も事件の再捜査を開始。ついに、紗耶は取り調べ中に全てを自供した。そう、彼女は故意だったのだ。その後、裁判の結果、彼女は懲役35年の実刑判決を受けた。そのニュースを目にしたとき、私はてっきり——「胸がすく」ような快感があると思っていた。あれほど私を傷つけ、裏切った二人だったのだから。でも、なぜだろう。心には、まったく波風が立たなかった。まるで、あの綾瀬澪はもうとっくに死んでしまっていたみたいに。私はスマホの画面を閉じ、明日の授業の予習に戻った。深夜、眠気が訪れるまで。静かに、静かに、灯りを落とした。一年後。私はアイスランドで、ささやかなカフェを開いた。時々、近所の人たちを呼んで、実家の料理をふるまったりもしている。飼っているハスキー犬
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第9話
私の言葉を聞いた瞬間、祈矢は、まるで思考が止まったかのようにその場に立ち尽くした。そして次の瞬間、彼は私の手首を乱暴に掴み、強引にそのまま胸の中へと抱き寄せてきた。「澪、俺たちは、まだやり直せる……君は、ずっと俺を愛してるって言ってくれただろ?子どもだって作れる。三人で幸せになれるって」その言葉に、私は堪えきれず、ふっと笑ってしまった。「祈矢、覚えてる?父親に望まれない子どもなんて、生まれてこなくていいって、あなたが言ったのよ。それがどうして今さら、子どもが欲しいなんて言えるの?私がどれだけ子どもを望んでいたか知ってたくせに。私の抗うつ剤を勝手に避妊薬にすり替えたくせに……あなたの書斎の机いっぱいに、彼女の名前を書いてたよね?あのとき、私の心がどれだけ裂けたと思うの?ごめんで済むと思ってるなら、本気で甘いよ」私の言葉に、祈矢の表情が歪んだ。顔色は青ざめ、目の奥に何かが崩れていく音がした。彼は一歩一歩と私に迫りながら、絶望と懇願の入り混じった声で問いかけてきた。「俺が、どんなに罪を犯したとしても、君は死んだふりまでしなくてもよかったじゃないか!」私が何も言わずに冷たい目を向けると、祈矢はまるで錯乱したように、一人で言葉を続けた。「澪、俺がこの数ヶ月……どれだけ苦しんできたか知ってるか?罪悪感で、後悔で、息ができなかった。もう一歩で、俺も君を追って川に飛び込むところだったんだ!」そう言って彼は、腕や胸、あちこちに残る傷痕を見せつけてきた。だが私は、鼻で笑った。「何?道徳で私を縛るつもり?それ、全部あなた自身が選んだこと。私には一切関係ないわ。真実を調べるチャンスなんて、何度もあったのに、あなたは彼女を信じ続けた。私を見ていなかった。子どもがいらないなら、そう言えばよかった。それでも私は、何度も薬を飲んで、通院して……あなたの冷たい沈黙に耐えてきた。結果が痛いなら、選んだ責任くらい、あなた自身が背負いなさい」私はもう、この人と語る時間すら惜しいと思っていた。ただ、一言だけ。「祈矢。せめて別れくらい、綺麗に終わらせましょう。さよならは、もう言ったでしょう?」それだけ言って、私はカフェの中へと入った。彼は、雪の中に立ち尽くしていた。どれだけの時間
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