そして彼はそのまま車に戻った。渡辺裕也は戸惑ったまま運転席に座った。あの人達は……誰だ?まさか塚原悟がつけたのか?未知の恐怖が裕也の心の中を支配した。子供達と長澤真由はともかく、入江紀美子もきっと無事だろう。でないとあんなに沢山のボディーガードを付ける必要はないはずだ。しかし分からないのは、なぜ彼らがそこを守っているのかということだ。警察に通報するべきだろうか?暫く考えてから、裕也はまず森川晋太郎目の前の状況について相談してみると決めた。彼は携帯を出して、晋太郎に電話をかけようとしたが、相手の携帯は電源が切られているようだった。裕也は眉を寄せ、この間とっておいた杉本肇の携帯番号を探し出した。今回はちゃんと電話に出てくれた。裕也は不思議に思った。「渡辺さん……?」「杉本さん、晋太郎さんは傍にいますか?」裕也は単刀直入に尋ねた。肇は暫く黙り込んでから、A国での出来事を全部裕也に説明した。裕也は彼の説明を聞くと、しばらく沈黙した。塚原悟……まさかここまで無残なことをしてくれるとは!彼は誰のことも許すつもりはないのか?「分かった」裕也は心の中の怒りを抑えながら答えた。「ところで、渡辺さん、電話してくるなんて何かあったのですか?」裕也は先ほど見た状況を肇に伝えた。「もし渡辺さんがよければ、田中晴さんと鈴木隆一さんに助けを求めましょうか?」肇は暫く沈黙してから答えた。「晋様は今国内の会社も安定させないといけませんし、私もA国で……暫くは身動きが取れません……」「では、その2人の連絡先を教えてください」「分かりました」電話を切り、肇はすぐに晴と隆一の電話番号を裕也に送った。裕也はすぐに晴に電話をかけた。随分経ってから、晴はやっと電話に出た。「もしもし?」「渡辺裕也です。紀美子のおじです」「あっ、裕也さん、ニュースで見ましたが、翔太さんは見つかったのでしょうか?」渡辺翔太のことを聞かれると、裕也は胸が締め付けられ、息が止まりそうになった。「今時間はあるか?」裕也は無理やり気持ちを抑えながら尋ねた。「会って話したいことがあるんだ」20分後。2人は病院の近くの喫茶店で会った。裕也が見えた時、晴は一瞬誰なのか分からなかった
そのまま暫く、田中晴の表情はぼんやりとしており虚ろな目のままであった。悲しみが彼の心を支配した。「晴くん、どうか助けてくれ」渡辺裕也は彼を見て、必死な表情で頼んだ。「犯人は誰だですか?」晴は尋ねた。「恐らく塚原悟だ」「塚原……やっぱり裏があったな。こんなに沢山の人を殺すなんて!」「今は紀美子達を助け出すのが先だ」「今回のことは、そう簡単にはうまくいかないはず」晴は拳を握りしめた。「隆一と相談してきます」「対策があったらすぐに教えてくれ」「はい」晴はコーヒーショップを出た。車が絶えず行き交う道路を見て、彼は少し眩暈がした。森川晋太郎とはつい先日まで電話をしていたのに、いきなり、死んでしまったと人伝に聞くことになるなんて。晴の目元は赤く染まったが、気持ちを整理してから鈴木隆一に電話をかけた。電話はすぐ繋がった。「隆一、晋太郎が……」「えっ?晋太郎がどうした?」「死んだ」「……」30分後。隆一は大急ぎで晴と佳世子の家に訪ねた。部屋に入ると、晴は両手で頭を抱えてソファに座っていた。隆一も無気力にただ晴の隣に座った。「全ては塚原のヤツの仕業だ」晴はゆっくりと頭を上げて口を開いた。「言われなくてもあいつだと分かる」隆一は歯を食いしばって言った。「ヤツが一番怪しかった」「紀美子と子供達を救い出さないといけない」晴は言った。「晋太郎の為にも彼女達を守り抜かなければならん」「その前に、俺達は一度A国に行く必要があると思う」「どうして?」「晋太郎のようなキレモノが、そう簡単に死ぬと思うか?」隆一は自信満々の様子で言った。「肇が既にブラックボックスの録音を聞いたんだ!」晴は眉を寄せた。「でも、遺体はまだ見つかっていないんだろ?」隆一は声を張って言った。「痕跡が残っていないはずがない!」「……つまり、何も見つからなかったのは、晋太郎が爆発する前に飛び降りたためだとでも言いたいのか?」「可能性はゼロではない!」隆一は言った。それを聞いた晴は、肇との会話を思い返した。確かに肇が録音の中にパラシュートパックを争奪する音がしたと言っていた。「でももしヘリに爆弾をしかけられていたとしたら、その爆発の威力を考
「お前らは一体誰だ!」森川貞則はいきなり怒鳴って尋ねた。塚原悟は貞則の前に立って、彼を見下ろした。「私が誰なのかはあんたと関係ない」そうしている間に、エリーが書類をしまってしまった。彼女は悟の傍に行き、口を開いた。「行きましょう。影山さん」「うん」悟は頷いた。そして二人は入り口に向かって歩き出した。「あの書類は一体何なんだ?」貞則はまた叫んで尋ねた。「何故俺にサインをさせた?」「ただの遺書さ」悟は足を止め、振り返らずに言った。そう言って、彼達は面会室を出た。貞則は彼らが出て行った方向をぼんやりと眺めた。影山さん?影山?何だか聞き覚えのある名前だ。あの遺書には一体何が書かれていたんだ?刑務所を出ると、悟は腕時計で時間を確認した。「プライベートジェットを用意してくれ。A国に行く」「はい、影山さん!」朝4時半。田中晴と鈴木隆一がA国に到着すると、杉本肇と小原が迎えにきた。すぐに晴は肇に尋ねた。「レスキュー隊の方は何か進捗あった?晋太郎は……」途中まで言って、晴は一度口をつぐみ、聞き直した。「遺体は見つかったか?」肇は無言で首を振った。晴の表情は肇の回答を聞いてさらに曇った。「会社は今どんな状況?」隆一は尋ねた。「晋様が事故に遭ったことはまだ会社の人達に言っていないので暫く問題はありませんが、副社長にはいずれ悟られるでしょう」「裏切り者は?」「誰が裏切ったか特定できた?」隆一は続けて尋ねた。そう聞かれ、肇と小原は目を合わせた。「私と小原の推測では、恐らく副社長だろうと」「何故そう思う?」隆一は戸惑った。「ルアーと会ったことはあるけど、彼はそういう人じゃないはずだ」「副社長はこれまで何度も晋様に、A国に来るようにと催促していたが、晋様はずっとうんと言いませんでした。ある日彼が、うちの会社の機密情報が盗まれ、皆が混乱していると言ったので、晋様がその日のうちA国に向かいましたしかし、支社に来てみると、皆何事もなかったかのように業務をこなしているのを確認したんです。その後晋様が技術部を集めて会議をしているときに防犯カメラの録画を調べて分かったのですが、こんなレベルの問題はビデオ会議で解決できるものでし
「分かった」川辺にて。二人の女の子が一歩も動かずにそこに立っているのを見て、レスキュー隊員は自分達の弁当を彼女達に持って行った。渡辺瑠美は礼を言って受け取ったが、松風舞桜はそのまま突っ立っていて何の反応もなかった。「松風さん、少しでも食べて。もう随分とそこに立っているわ。このままでは身体がもたないよ」「進展はあったの?」桜舞は瞳を動かし、かすれた声で尋ねた。「まだ、なにも」レスキュー隊員はため息をつきながら答えた。「分かったわ」舞桜はがっかりした様子で頭を垂らした。彼女がレスキュー隊員が持ってきた弁当を受け取ろうとすると、急に身体が痙攣し始めた。そして、そのまま倒れてしまった。レスキュー隊員達は皆驚いたが、慌てて気絶した舞桜を支えた。瑠美も立ち上がり駆け寄った。「早く、救急車を!」30分後。舞桜は病院に運ばれ、瑠美も一緒に来た。一通り検査を終え、医者は過労且つ精神的なストレスが原因だと判断した。瑠美は医者に病室を用意してもらった。舞桜が寝ている間、彼女も隣りのベッドで仮眠をとろうとした。しかし十数分後、瑠美はいきなり身体を起こした。彼女が目を閉じるとすぐに、露間朔也が死んだ時の様子、そして渡辺翔太の姿が脳裏に浮かんできた。瑠美は悲しい気持ちに堪えながら、携帯を出して父の渡辺裕也に電話をかけた。彼女は母と入江紀美子の状況を確認したかった。電話が繋がり、瑠美は疲弊した声で尋ねた。「お父さん、お母さんはどうなってるの?」「瑠美、私もまだお母さんに会えていないんだ」裕也はため息をつきながら答えた。「どういうこと?」裕也は先ほど見た状況を娘に説明した。「塚原悟がやったのね!」瑠美は驚いた。「なぜお母さんまで軟禁するのよ?」「それはまだわからない」「つまり、私達は今、晋太郎お兄さんが戻ってきて解決してくれるのを待つしかないってこと?」裕也はしばらく沈黙してから口を開いた。「瑠美、晋太郎も事故に遭った……」裕也は晋太郎達が事故に遭った話を瑠美に伝えた。瑠美は驚きのあまり、最近の一連の出来事が信じられなかった。今の話は更に彼女を追い詰めた。悟の顔が繰り返し瑠美の脳裏に浮かんできた。あの人は一体どこまで冷血なのだろう?
「つまり、私が証拠を掴んで、塚原の罪を暴くってこと?」渡辺瑠美は一瞬で悟った。「そう。でも気をつけて。彼女達が軟禁されているという確かな写真を撮らなきゃダメよ。後で役に立つかどうかは別として、ちゃんと証拠を集めとかなきゃ」松風舞桜は注意した。瑠美は急に肩が重く感じた。しかし兄と晋太郎の為なら……どんなに危険があっても、彼女はやりとげると決めた。VIP病室にて。入江紀美子はぼんやりと窓越しに外の空と雲を眺めていた。頭の中では、杉浦佳世子の顔と彼女が言っていた話を繰り返して思い浮かべた。佳世子は何度も、塚原悟に注意してと忠告してくれていた。なのに、なぜ自分は彼女を信じようとしなかったのだろう。あんなに悟のことを信じていたのに、彼はまるで刃のように彼女の心を切り刻んだ。一体何が問題だったのだろう。悟は一体なぜ自分の周りの人にあんなことをしたんだろう。急に、彼女は脳裏で悟が言っていた言葉を思い浮かべた。「私の魂はすでに『Bael』に捧げた」紀美子は眉を寄せながら必死にその言葉の意味を考えた。そして彼女はやっと思い出した、「Bael」とはベールのことだった。依然彼と一緒に図書館に行った時、一冊の本を読んだことがある。その本が、十つの悪魔について記したものだった。ベールはそのうちの1つだ。彼は光の天使で、その力は人々の恐怖を追い払い、人々に希望を与える存在だった。しかし、彼は天使の中で唯一神を裏切った存在だった。紀美子は悟の職業を連想した。彼は医者で、確かに人に希望を与える光の天使のような存在だ。でもそんな彼が、神を背いて沢山の無実な人たちを殺した。なぜもっと早くその言葉の意味を思いつかなかったのだろう。もし早くそれに気づいていたら、この全てが起こらずに済んだのでは?全て自分のせいだ。自分の愚かさが間接的に彼達を殺した。涙が再びこぼれ落ちてきて、心臓の痛みは繰り返し彼女を罵り続けた。お前は塚原の悪行を助成した悪女だ、と。自分こそが一番殺されるべき人だ!皆が殺されたのに、自分だけこの世界に生き残る資格はない!紀美子は窓を眺め、飛び降りようかまいか考えた。真実はもうどうでもよい……罪を償わなくては。隣の病室にて。入江ゆみはベッド
外の騒ぎが聞こえたのか、2人の子供達も警戒して体を起こした。渡辺瑠美は彼らに瞬きをし、黙っててと合図を送った。そして彼女は看護婦のような口調で尋ねた。「どの方、具合が悪いのですか?」「この子です」長澤真由は反応して目線で入江ゆみを示した。瑠美は頷き、ドアを閉めようとした。「何をする?」ボディーガードは瑠美を止めた。「検査です!」瑠美は厳しい声で説明した。「子供が具合が悪いようなので、服を脱がして状況を確認するのです!もしそうさせてくれないなら、今すぐ警察を呼びます!」ボディーガードは顔が真っ白なゆみを眺めた。ボディーガード達が受けた命令はこの数人の監視であり、如何なる問題もあってはならない。もちろん、その数人の安全や健康もそのうちに入る。つまり、今の状況を鑑みると、過度に阻んではならないことは彼らにもわかっていた。万が一何かがあっても、責任は負えない。「早く検査しろ」そう言って、ボディーガードは思い切りドアを閉めた。その瞬間、瑠美はほっとした。入江佑樹と森川念江はまだじっとしており、真由も同じだった。瑠美は何も言わずに靴を脱ぎ、中から携帯電話を取り出した。彼女の動きを見て、皆は驚いて目を大きく開いた。こんな隠し方があったんだ!瑠美はカメラを起動させ、彼達に「しーっ」と指を唇に当てた。そして彼達の写真を撮り、自分のメールアドレスに送った。「助け出す方法を考えるけど、あともう数日だけ我慢してて」瑠美は言った。「それと、私がこれから言う話を覚えて。ゆみには、具合が悪いと言ってもらって協力してもらうの。あんた達が時々騒いでくれれば、私も入ってくる口実ができるから。あと、何か聞きたいことある?時間が限られてるから、手短にね」「瑠美、翔太は今どんな状況?」真由は慌てて低い声で口を開いた。「紀美子の様子を見てきてくれる?とても心配なの」その話になると、瑠美は思わず一瞬息が止まった。「お兄ちゃんはまだ見つかっていないの。でも朔也の死体は見つかったわ。あと、お父さんから聞いたんだけど、晋太郎お兄さんも事故に遭ったらしい……」瑠美はこれまでの出来事を一通り皆に説明した。この数件の知らせは、いずれも3人の子供達にとって衝撃的だった。瑠美は彼達が悲
「会社は社長の心血です!」 そう言い放ったルアー・ウェイドの眼差しはとても鋭かった。 「心血、だと?」 塚原悟は軽くあざ笑いをして、ルアーに一歩近づいた。 その紺色の瞳は、人をぞっとさせる陰湿さを帯びていた。「晋太郎は既に死んだだろ?」 彼は冷たくそう言い放った。 「そ、そうだとしてもあなたは社長の座に着けません!森川家の人間ではないため、相続権はありません」 ルアーは心臓の激しい鼓動を堪えながら、恐る恐る言った。 「そう?」 悟は軽く笑った。 そして、彼はエリーに手を伸ばし、彼女が渡してきた書類を受け取った。 「まずはこれを読んでみろ」 悟はその書類をルアーの胸に叩きつけて言った。 ルアーは一瞬戸惑ったが、書類を開いた。 中身を読んだ彼は、思わず目を大きく開いた。 A国警察署にて。 田中晴と鈴木隆一は一通り聞きまわってから警察署から出てきた。 車に乗り込み、2人共深く眉を寄せながら考えた。 そして車がある程度の距離を走り出してから、隆一は口を開いた。 「どうしても信じられん!犯人の死体まで見つかったのに、なぜ晋太郎のが見つかっていないんだ?」 「警察の話によると、パラシュート降下も不可能ではないが、彼らは随分と捜索範囲を広げたのに、全く痕跡が無かったそうだ。 それにしても、晋太郎の遺体も見つからないのは、一体どういうことだ?」 「見つかっていないってことは、まだ彼が生きていると考えてもいいのか?」 隆一は尋ねた。 「俺は今すごく混乱してるよ。全く現状の整理ができない!」 晴はイラついて自分の髪の毛を引っ張った。 「とりあえず、うちの父に電話をしよう」 隆一はため息をついて言った。それを聞いて晴は急に体を起こした。 「そうだな。あんたのお父さんもA国に人脈があるから、彼に裏ルートから探してもらえないか?」 「うん、今のところはそうするしかない。とりあえず、ホテルに戻ろう」 隆一は頷いた。 「そう言えば、渡辺翔太も事故にあったそうだが、聞いてる?」 「聞いたけど、向こうも死体が見つからないようだ」 隆一は悔しくため息をついた。 「紀美子はもう全て聞いたと思うけど、受け止めきれるかな?」 晴は入江紀美子のことを思い出して心配
「あまり寝てないせいか、瞼が痙攣するんだ」田中晴は目を揉みながら言った。「左の方?右の方?」鈴木隆一は尋ねた。「左」「なるほど、ほっといていいんじゃない?左の方が痙攣するのはいいことがあるというのを聞いたことがある」「そんなのを信じるのか?」「信じたほうがいいものもあるのさ」それを聞いて晴は急に足を止め、隆一は戸惑って晴を見た。「隆一、紀美子が撃たれた夜、朔也が何を言っていたか覚えてる?」隆一は眉を寄せて必死に思い出そうとした。「たしか、彼は自分の残りの命と引き換えに紀美子を目覚めさせたい、と」晴は険しい顔で頷いた。「そして美紀子は目が覚めた」「朔也が……死んだ……」隆一は目を大きく開いた。ここまで会話をすると、2人共ぞっとしてきた。晴の瞼はまだ痙攣が止まらなかった。彼は暫くぼんやりとして、視線を隆一の後ろのレストランに落とした。もしかして……晴はそう考えながら、いきなり険しい目つきでレストランに駆け込んだ。彼は店内を一周回ったが、あの見慣れた姿が見つからなかった。「どうしたんだよ、急に?」隆一は慌てて晴に追いついて尋ねた。晴はがっかりした顔で首を振った。「何でもない、とりあえず飯にしよう」2人は席に座って注文を決めた。「さっき……もしかして佳世子に会えるじゃないかと思った?」隆一は寂しい顔をしている晴に尋ねた。晴は唇を噛みしめて何も言わなかった。「彼女が海外に出たのは確かだけど、どの国に行ったかは誰もしらないんだ。そんな簡単にばったりと出会えるはずがないよ。世界はそこまで狭くないし」「すみません!」隆一の話がまだ終わっていないうちに、生き生きした声が返ってきた。晴は手が震え、隆一も急に黙った。「いつものをください」その声を聞いて晴と隆一は目を合わせた。二人が入り口の方を見ると、黒いスポーツウェアとハッチング帽を被った女性がいた。女性の横顔を見ると、晴は思わず目を大きく開いた。隆一もびっくりして口を開けたまま停止した。か、佳世子!まさか言い当てたのか?そう考えているうちに、隣から晴がすっと立ち上がる音がした。彼の顔には困惑と喜びが浮かんでおり、真っすぐに佳世子の方へダッシュした。彼女が振り向こうと
「紀美子」「……うん」「結婚しよう」紀美子の身体はこわばり、返事もせずそっと晋太郎を押しのけた。俯いたまま晋太郎の目を避け、彼女は声をひそめた。「その…そんなに急がなくてもいいと思う……」そう言うと、彼女は慌てた様子で立ち上がった。「また今度ね!私、先にお風呂に入るから!」逃げるように去っていく紀美子の背中を見てから、晋太郎は目を伏せた。以前なら、喜んですぐに頷いてくれたはずなのに――なぜ今は躊躇するんだ?どういうことだ?家族への挨拶が済んでいないからか?浴室のドアをじっと見つめながら、晋太郎は考え込んだ。どうやら明日、渡辺家を訪ねなければならないようだ。翌日。晋太郎が会社の仕事を片づけ渡辺家に向かおうとしたところ、晴にランチに誘われた。時間にまだ余裕があったため、晋太郎は晴とレストランへ向かった。食事中、晋太郎は窓の外を見つめて黙っていた。晴は何度か彼を不思議そうに見てから、ようやく口を開いた。「晋太郎、何を考えてるんだ?」晋太郎は手に持っていたコーヒーを置き、晴を見ながら答えた。「佳世子に結婚を拒まれたことはあるか?」晴は呆然とした。「それって……紀美子に振られたってこと?」晋太郎が頷いた。「そんな経験ないか?」「ないな」晴は答えた。「むしろ毎日のように結婚を催促されてる」晋太郎は黙り込んだ。紀美子は一体どうしたのだろうか?晴も少し考え込んだ後、言った。「晋太郎、もしかしたら紀美子は前回の婚約の件でトラウマを負っているんじゃないか?なんていう症候群だったっけ?心理カウンセラーに診てもらった方がいいかもな」晋太郎は眉をひそめた。「そこまで深刻ではないだろう」「深刻に決まってるだろ!」晴は真剣な様子で言った。「お前が生きていることを知ったあと、彼女は必死で会社を守り、銃弾まで受けた。目が覚めたらまたお前たちのことが……俺だって耐えられないよ。どうして深刻じゃないなんて言えるんだ?間違いなくトラウマがあるに決まってる。じゃなきゃ拒む理由がないじゃないか」晋太郎はイライラして指でテーブルを叩いた。「佳世子に探りを入れさせろ」「任せとけ!」晴は言った。「でも、本当にそうなら早めにカウンセリングを受けさせた方
「事実的な関係はあるだろう。紀美子、君は俺の子供たちの母親だ。この事実は変えられない」「その関係だけで、私を縛ろうって言うの?」紀美子は冷笑した。「確かに電話に出なかったのは私が悪いわ……でも、それで私の自由まで奪わないで。母親って立場だけで、あなたに私の人生をコントロールされる筋合いはないわ!」紀美子の言葉で怒りが爆発しそうになった晋太郎は、ギアを入れ替えると潤ヶ丘へ猛スピードで走り出した。あまりのスピードに、紀美子は怖くなって黙り込んだ。潤ヶ丘に着くと、晋太郎は車を止め、降りて助手席側に回るとドアを開け、紀美子を担ぎ上げてそのまま別荘の玄関へ向かった。「晋太郎!下ろしなさい!」紀美子は必死にもがいた。しかし晋太郎は解放することなく、そのまま部屋まで運び込むと、ベッドに彼女を放り投げた。彼は暴れる紀美子の手足を押さえつけ、怒りに震える声で言った。「紀美子、言ったはずだ。君にちゃんとした立場を与えると」紀美子は不満げな目で彼を見つめた。「その立場と引き換えに会社を奪われるなら、いらない!誰かに依存して生きるなんて、一番嫌いなの」「依存させようとしてない。俺が欲しいのは君だけだ。他人の目が気になるなら、今日からMKがTycの子会社になっても構わない」紀美子は動きを止め、驚いた表情で見上げた。「何を……言ってるの?」晋太郎はベッドサイドの引き出しを開け、契約書を紀美子に投げつけた。紀美子はそれを拾い上げ確認し、目を見開いて尋ねた。「これって、どういう意味?」「この契約書、本当はプロポーズのあとで渡すつもりだったんだ。君が望まないことを無理やり押し付ける気はない。」そう言いながら彼は紀美子の隣に座り、表情に強い決意を宿して続けた。「紀美子、君は俺に何か聞きたいことがあるんだろう」紀美子は契約書を握る手に力を込めた。「ええ、あなたの口から直接聞かせてほしいの。私が頑固なのは認めるわ。でも……あなたの本心を言葉にしてほしい。これは、あなたが本当に私を気にかけていたかどうかの問題よ。からかいや隠し事は大嫌いなの」晋太郎は口元を緩めた。「記憶があるかないかが、そんなに重要か?」紀美子はぱっと顔を上げた。「重要よ!本気の愛と、責任だけの結婚、あなたはどっちが欲しい?」
「まあ、そう言うけど」佳世子はため息をついて言った。「でも、やっぱり形は必要でしょ。私だって、いつできるかわからないんだから」「晴の両親は……」「あーもう!」佳世子はイライラしながら紀美子の言葉を遮った。「そんな話はやめて!考えるだけで頭にくる!」「もうすぐお正月ね。今年のお正月は、いつものように賑やかにはいかないわ」紀美子は窓の外を見つめて言った。佳世子は頬杖をつき、紀美子と同じく窓外のネオンを見つめた。「寂しいなら、いつものように賑やかにすればいいじゃない」紀美子は佳世子の方に向き直った。「どんなに賑やかにしても、子供たちがいない寂しさは埋まらないわ」その言葉を最後に、二人の間に沈黙が流れた。しばらくして、佳世子は急に背筋を伸ばして言った。「紀美子、明日私たちで不動産を見に行かない?」紀美子は目を丸くした。「家?どうして?」「あなたも私も今住む家がないでしょ?」佳世子は目を輝かせながら続けた。「別荘じゃなくて普通のマンション!同じ階を買って、間取りを繋げちゃうの!」「まあいいけど……」紀美子はまだ佳世子の指す意味を完全には理解できていない様子だった。「でも何のため?」佳世子はニヤリと笑った。「もちろん楽しむためよ!例えばあなたが晋太郎と喧嘩した時とか、私が晴と揉めた時とか。私たちだけの家に逃げ込むの!」「それで?」紀美子が尋ねた。「そしたらパーティーよ!イケメンたちを大勢呼んで、一緒に騒いじゃうの!」話に夢中になっていると、いつの間にか背後に二人の男が立っていた。佳世子の言葉を聞いた瞬間、晴の顔は青ざめた。「佳世子!!」晴は我慢できず、佳世子の背中に向かって怒鳴った。佳世子はビクッとして振り向き、突然現れた二人を見て目を見張った。「あなたたち、どうしてここに!?」紀美子も慌てて振り返った。彼女はすぐに、顔をしかめた晋太郎が自分を睨みつけているのに気づいた。その目には明らかな怒りが見えた。紀美子が口を開く間もなく、晴は佳世子を肩に担ぎ上げた。「晴っ!お、おろしてよ!ちゃんと話し合えばいいじゃない。なんで担ぐのよ!?紀美子!助けて!」佳世子は叫んだ。叫びながら遠ざかっていく佳世子の姿を見送りながら、紀美子
晴は口をとがらせ、不満げな表情で視線を逸らした。「そんなんじゃないよ。彼女にブロックされたんだ」晋太郎は一瞬呆然としたが、すぐに嘲笑った。「お前、余計な干渉をしすぎたんじゃないか?」「お前だって紀美子にズカズカと干渉してるくせに、偉そうなこと言うなよ」晴は「ちぇっ」と舌打ちした。「だったらお前が紀美子に電話してみろよ」晋太郎はテーブルの上の携帯を手に取った。「少なくともお前のようにブロックはされてない」そう言うと、紀美子の番号をタップした。しかし、コール音が一度鳴ったところで、機械的な女性の声が流れてきた。「申し訳ありませんが、お掛けになった電話は現在通話中です……」「プッ…」晴は思わず吹き出した。「それでよく偉そうなこと言えたな!紀美子にまさかのワン切りされてるし!はははは……」晋太郎の端正な顔が、晴の笑い声とともに次第に険しくなっていった。彼は諦めず、再び紀美子に電話をかけた。今度は呼び出し音すら鳴らず、すぐに機械音声に切り替わった。「あははははは!」晴は涙を浮かべながら笑い転げた。「晋太郎、お前、さっき言ってたこと……どうしたんだよ?はははは!」晋太郎は携帯をしっかりと握りしめた。彼女は一体どこに行ったんだ?自分の番号をブロックするなんて!晋太郎は苛立ちながら、連絡先から肇の番号を探し出し、電話をかけた。つながると、彼は怒りを抑えながら言った。「肇、紀美子の位置を特定しろ!」肇が返答する前に、美月の声が聞こえてきた。「社長、奥様が見つからないからってアシスタントに頼むなんて、どうかしてますよ?」美月のからかい混じりの声が晋太郎の耳に飛び込んできた。その言葉を聞いて、晴はこらえきれずまた顔を赤くしながら笑い転げた。「お前、なんで肇と一緒にいるんだ?」晋太郎は眉をひそめ、冷たく問い詰めた。「彼は独身、私も未婚。一緒にいて何か問題でも?」美月が返した。「遠藤さん、私から晋様にお話しさせてください……」肇が慌てて割り込んできた。「ただ紀美子さんを探してほしいだけでしょう?他に用事はないわ」美月は言い放った。「奥様と喧嘩したからって、私たちまで巻き込まないでちょうだい」美月がそう言い終わらないうちに、通話が切られ
紀美子は翔太に事情を簡単に説明した。話を聞いた翔太は深くため息をついた。「あの子たちはみんなしっかりした子たちだ。自分で決めたことなら、無理に引き止めるわけにはいかない。尊重してやらなきゃな。だが……こんな場所で気分転換するべきじゃない」「そういえば、翔太さんはここで何を?」佳世子は話題をそらすように尋ねた。翔太はバーの入口を一瞥しながら答えた。「あの連中は舞桜の遠縁の親戚たちなんだ」二人は顔を見合わせ、紀美子は怪訝そうに聞いた。「どうして舞桜の親戚と一緒に?」翔太は苦笑し、鼻をこすりながら答えた。「実はな、舞桜と一週間後に婚約する予定なんだ」「えっ!?」二人は声を揃えて叫んだ。「そんな大事なこと、どうして教えてくれなかったの?」紀美子は驚きを隠せなかった。佳世子は舌打ちした。「翔太さん、私たちより早いじゃない!」「彼らが帰ってから紀美子に話そうと思ってたんだ」紀美子は軽く眉をひそめた。「さっき見かけたけど、舞桜と同世代くらいの人たちみたいね。難しい人たちなの?」「なんというか……」翔太は小さくため息をついた。「茂の親戚と似たような連中だ。だから君には早く知らせたくなかったんだよ。彼らは本当に面倒を起こすから」「舞桜が止めないの?」佳世子は聞いた。「いつまでも我慢してばかりじゃダメよ!」「止めないわけじゃない」翔太は言った。「舞桜の父親からの試練のようなものだ。舞桜は彼らのことで父親と大喧嘩したんだ。でも、父親は自分だけでは決められないと言ったらしい。舞桜の祖父の意向もあるみたいで」紀美子は話の裏を読み取って聞いた。「もしかして、その祖父って……舞桜と兄さんの関係に反対してるの?」「そうだ」翔太は率直に認めた。「舞桜の祖父は、海軍の偉いさんでさ。我々のような商人のことを、なかなか認めてはくれない」「今どきそんな家柄を気にするなんて!」佳世子は呆れたように言った。紀美子はしばらく考え込んでから言った。「でも、そうでなければ、舞桜もここまで来て兄さんと出会うこともなかったわね」「うん、その通りだ。前に舞桜が俺に会いに来たことが、余計に彼女の祖父の反感を買ったらしい」「舞桜は良い子よ」紀美子は翔太を見つめて言った。
「結婚を発表する日に、この件も公表する」晋太郎はペンを置いてから答えた。今のところ、自分はまだ紀美子を正式に口説き落としていない。いきなりこんな話をしても、笑いものになるだけだ。夜。紀美子は佳世子に連れられ、帝都に新しくオープンしたバーに来ていた。入り口に入った瞬間耳をつんざくような音楽が聞こえてきて、紀美子は鼓動が早くなるのを感じた。彼女は佳世子の手を引き寄せ、耳元で叫ぶように言った。「佳世子、ここはやめようよ。あの人たちに知られたら、飛んでくるに決まってる」「どうしていけないの?」佳世子は紀美子の手を引っ張って中へ進んだ。「あの人たちはあの人たち、私たちは私たちよ。付き合ってるからって、こういう場所に来ちゃいけないルールでもあるの?正しく楽しんでるんだから、平気でしょ!」紀美子は佳世子が気分転換のために連れてきてくれたのだとわかっていた。だが、こういう騒がしい場所は苦手だった。理由は主に二つあった。一つは環境が乱雑なこと、もう一つは晋太郎の性格だ。彼が知れば、このバーごとひっくり返しかねない。自分でトラブルを起こすつもりもなければ、晋太郎に誰かに迷惑をかけさせるつもりもなかった。ボックス席に着いても、紀美子はまだ佳世子の手をしっかり握っていた。「佳世子、やっぱりここは嫌だわ。静かなバーに変えようよ?」「え、何?!」佳世子は聞き取れなかった。紀美子はもう一度繰り返し言った。「紀美子、まず座って落ち着いて話を聞いてよ」佳世子は言った。紀美子は彼女の意図を察し、しぶしぶ一緒に座った。佳世子は紀美子の耳元に寄った。「晋太郎、まだ記憶が戻ったって認めてないでしょ?」紀美子は彼女を見て尋ねた。「それがここに来ることと何の関係が?まさか、彼を刺激したいの?」佳世子は激しく頷いた。「男ってのはみんなそうよ。何か起こさないと本当のことを言わないのよ!」「だめだめ」紀美子は慌てて首を振った。「言わないのは彼の勝手よ。私がどうするかは私の自由。佳世子、本当にここにいたくないの」佳世子はまだ何か言いたげだったが、ふと目の端に映った人影に気づき、言葉を止めた。そしてじっとその見覚えのある姿を見つめながら言った。「紀美子、あの人……あなたのお兄
二人は涙を見せれば、ゆみがますます別れを惜しんでしまうことを恐れていたのだ。「ゆみ、待ってるから!毎日携帯見て、お兄ちゃんたちからの連絡を待ってるからね……ゆみはちゃんと大きくなるよ。ご飯もいっぱい食べて、悪さしないで……うう……早く帰ってきてね……」紀美子も、堪えきれず涙をこぼした。晋太郎がそっと近寄り、彼女を優しく抱き寄せた。この別れは、誰の胸にも重くのしかかっていた。ゆみは学校に行かなければならなかったので、佑樹と念江を見送った後、昼食を取るとすぐに急いで飛行機で帰って行った。紀美子は、がらんとした別荘を見回し胸の奥にぽっかりと穴が空いたような感覚に襲われ、ソファに座ったまま呆然としていた。今にも、子供たちが階上から駆け下りてきてキッチンで牛乳を飲むような気がしてならなかった。そんな紀美子の様子を見て、晋太郎は携帯を取り出し佳世子にメッセージを送った。1時間も経たないうちに、佳世子が潤ヶ丘に現れた。ドアが開く音に、紀美子がさっと振り向いた。佳世子と目が合うと、一瞬浮かんだ期待の色はすぐに消えていった。佳世子は小さくため息をつき、紀美子の隣に座った。「紀美子、まだ子供たちのことで頭がいっぱいなの?」紀美子は微かに頷いた。「うん……なかなか慣れなくて。佑樹と念江も行っちゃったし、ゆみもすぐ帰っちゃったし……」「あの子たち、本当にあなたに似てるわ」佳世子は言った。「あなたが帝都を離れてS国に行った時も、こんな風に自分の目標に向かって突き進んでたもの」紀美子はぽかんとし、思わず苦笑した。「あれは状況に迫られてのことよ」「そんなこと言ったら、まるで子供たちがあなたから離れたくてたまらないみたいじゃない」佳世子は紀美子の手を握った。「そんな話はやめましょう。午後はショッピングに行くわよ!」「ちょっと!」紀美子は驚いたように彼女を見つめて言った。「どうして急に来たの?」佳世子はきょろきょろと周りを見回し、晋太郎の姿がないのを確認すると、小声で言った。「実は、あなたのご主人に頼まれて来たのよ!」紀美子は、ご主人様という言葉を聞いて顔が赤くなった。「え、え?ご主人なんて……私、彼とはまだそんな関係じゃないのよ……」「遅かれ早かれ、そうなるんだから!」佳
俊介は淡く微笑んだ。「晋太郎、子供たちは俺にとって実の孫同然だ。心配する必要はない」その言葉を聞いて、紀美子は少し安心した。一行は保安検査場の目の前まで来ると、紀美子は子供たちの前にしゃがみ込んだ。彼女は無理に笑顔を作りながら、子供たちの腕に手を置いて言った。「一時間後には搭乗よ。誰と一緒でも、自分のことはきちんと守って。無理しないでね」佑樹と念江は頷いた。「ママ、心配しないで。僕たち、できるだけ早く帰るから」佑樹は言った。「ママも体に気をつけてね」念江は笑みを浮かべて言った。「パパと一緒に、今度は妹を作ってよ」紀美子は一瞬固まり、念江の鼻をつまんで言った。「ママとパパはまだ何も決めてないの。その話はまた今度ね」ゆみを待っている晋太郎は、周囲を見回しながらふと紀美子の方を見た。口を開こうとした瞬間、背後から慌ただしい足音が聞こえてきた。「お兄ちゃん!!念江お兄ちゃん!!」ゆみの声が響き、一同が振り返った。ゆみは小さな体で次々と乗客の間を縫うように駆け抜け、全力で佑樹と念江の元へ突進してきた。そして両手で二人の首にしっかりと抱きついた。「間に合ったよ!」ゆみは泣きながら二人の肩に顔を埋めた。「お兄ちゃんたちの見送り、間に合って良かった」佑樹と念江は呆然と立ち尽くした。まさかゆみがこんなに遠くまで見送りに来てくれるとは思ってもいなかったのだ。二人の目が一瞬で赤くなった。これ以上の別れの贈り物はないだろう。二人はゆみをしっかりと抱きしめ、必死に冷静さを保ちながら慰めた。「もう、泣くなよ!」佑樹はゆみの背中を叩いた。「人がたくさんいるんだぞ。恥ずかしくないのか」念江の黒く大きな目は優しさに溢れていた。「ゆみ、わざわざ来てくれてありがとう。大変だったろう」ゆみは二人から手を放した。「向こうに行ったら、絶対に自分のことをちゃんと気遣ってね。時間があったら、必ず電話してよ。分かった?」佑樹と念江は、思わず俊介を見た。その視線に気づいたゆみは、俊介を睨みつけた。「あなたのくだらない規則なんて知らないよ!お兄ちゃんたちを連れて行くのはいいけど、連絡を絶たせるなんてひどいよ!ゆみは難しいことは言えないけど、家族は連絡を取り合うべきだってわか
紀美子は箸を握る手の力を徐々に強めながら、優しく言った。「念江、大丈夫よ。本当にママに会いたくなったら、会いに来ればいい」念江はぽかんとした。「でもあそこは……」紀美子は首を振って遮った。「確かにルールはあるけど、抜け道だってあるはずでしょう?」念江はしばらく考え込んでから頷いた。「うん。僕たちが認められれば、きっとすぐにママに会える」紀美子は安堵の表情でうなずいた。子供たちと食事を終えると、彼女は階上へ上がり、荷造りを手伝った。今回は晋太郎の部下に任せず、自ら佑樹と念江の衣類や日用品をスーツケースに詰めていった。一つ一つスーツケースに収める度に、紀美子の胸の痛みと寂しさは募っていった。ついに、彼女は手を止め俯いて声もなく涙をこぼし始めた。部屋の外。晋太郎が階下へ降りようとした時、子供たちの部屋の少し開いた扉から、一人背を向けて座っている紀美子の姿が目に入ってきた。彼女の細い肩が微かに震えているのを見て、晋太郎の表情は暗くなった。しばらく立ち止まった後、彼はドアを押して紀美子の傍へ歩み寄った。足音を聞いて、紀美子は子供たちが来たのかと慌てて涙を拭った。顔を上げ晋太郎を見ると、そっと視線を逸らした。「どうしてここに……」「俺が来なかったら、いつまで泣いてるつもりだったんだ?」晋太郎はしゃがみ込み、子どもたちの荷物をスーツケースに詰めるのを手伝い始めた。「手伝わなくていいわ、私がやるから」「11時のフライトだ。いつまでやてる気だ?」晋太郎は時計を見て言った。「もう8時半だぞ」紀美子は黙ったまま、子供たちの服を畳み続けた。最後になってやっと気付いたが、晋太郎は服のたたみ方すら知らないようだった。ただぐしゃぐしゃに丸めて、スーツケースの隙間に押し込んでいるだけだった。紀美子は思わず笑みを浮かべて彼を見上げた。「あなた、本当に基本的なことさえできないのね」晋太郎の手は止まり、一瞬表情がこわばった。彼は不機嫌そうに顔を上げ、紀美子を見つめて言った。「何か文句でもあるのか?」紀美子は晋太郎が詰めた服を再び取り出しながら言った。「文句を言ったところで直らないだろうから、邪魔しないでくれる?」「この2日間で、弁護士に書類を準備させた。明日届く