LOGIN数週間後、土井精機の開発室はすっかり様変わりしていた。
かつては図面と部品が雑然と積まれていた部屋は、壁一面にサーバーラックが設置されている。
空調は精密機器のために少し肌寒いくらいに設定されていた。デスクの前に座る琴葉は、仕立ての良い白シャツにスラックスという装いだった。
ブルーライトカットの眼鏡をかけて、複数のモニターを流れる膨大なデータ群を指揮者のように監視している。 油にまみれた町工場の娘というよりは、シリコンバレーの技術責任者のような佇まいだ。必要に応じて工場の現場に出るが、彼女の本質は設計エンジニア。
パソコンとタブレットを操る姿は実に様になっていた。「これでラスト」
琴葉は手元のタブレットを操作して、最後のデータセットをサーバーへ転送した。
「私の過去の失敗例、パラメータ調整の履歴、手癖の傾向まで。全部AIの学習データに食わせてやったわ」
メインモニターに『学習完了:生成モデル起動待機中』という文字が表示
琴葉はカップをソーサーに戻した。 カチリ、磁器の当たる硬い音が鳴る。「ん? どうしたの」 伊吹は言葉を探すように一瞬だけ視線を落とした。 深い青色の瞳が再び琴葉を捉える。「……僕にこんなことを言う資格はないと分かっています。でもどうしても、僕はあなたともう一度歩んで行きたい。その気持が捨てきれないのです」 伊吹の声は低くかすれている。 言葉の端々に彼自身の抑えきれない切実な感情がにじみ出ていた。 琴葉の胸の奥で、心臓がトクンと大きな音を立てる。 指先からわずかに体温が逃げていくような、不思議な感覚に包まれた。「もちろん、断ってくださって構いません。今はもうあなたを縛るものは何もないのですから。けれどもし可能であるならば……もう一度だけ、チャンスをください」 それは、かつてのような支配や強要を伴うプロポーズではなかった。 すべてを失いかけ、自分の愚かさを自覚し、琴葉と共に困難を乗り越えてきた一人の人間としての、不格好なまでの願いだ。 琴葉は、テーブルの上に置かれた伊吹の手を見た。 あの冷酷な手回しで町工場を追い詰めていた男が、今はただの青年として、拒絶される恐怖を抱えながら自分に判断を委ねている。(昔の伊吹なら、絶対にこんな風に頼み込んだりしなかったわね) 琴葉の胸の奥で、温かい感情がじんわりと広がっていく。 かつての伊吹は、自分の弱さを隠すために力で他人を支配しようとしていた。 しかし今の彼は自分の弱さを明確に認めて、琴葉と対等な立場で向き合おうとしている。 琴葉の口元から、ふと笑みがこぼれた。「仕方ないわね。私も今の伊吹なら、一緒に進んでいけると思っている」 その言葉を聞いた瞬間、伊吹の端正な顔に驚きと喜びの色が波紋のように広がった。「本当ですか……!」「でも」 琴葉は人差し指を立てて、テーブル越しに伊吹の鼻先へ突きつけ
「それじゃ、乾杯」「乾杯」 乾杯のグラスを合わせて、食事が始まる。 運ばれてくる料理はどれも芸術品のように美しく、味わい深いものばかりだった。 軽いおつまみであるアミューズから始まり、彩り鮮やかな前菜、濃厚なコンソメスープと続く。「ソースの味はどうですか。ここのシェフはスパイスの使い方が絶妙だと聞いていたので、琴葉さんの口に合うかと思いまして」 伊吹が上品にカラトリーを使いながら言う。「ええ、とても美味しいわ。土井精機の工場の休憩室でお弁当を食べていた日々が嘘みたい」 琴葉は土井精機の社長令嬢にして副社長だが、会社は小さな町工場。 本来はこんなに豪華な食事を楽しむほどお金持ちではない。 琴葉が冗談めかして笑うと、伊吹も口元を綻ばせた。「工場のお弁当も、悪くはありませんでしたよ。あの鉄の匂いの中で食べる食事は、今となっては懐かしい。逃亡生活中のマンションの食事も、素朴で僕は好きでした」「あら、そう? 実は私もけっこう気に入っていたのよ、あの時期の暮らし」「猫のルークは元気ですか。今度会いに行きたいです。僕のこと、忘れていないかな」「ルークならうちの父に可愛がられて元気よ。あなたのことも覚えているんじゃない? あんなに懐いていたんだもの」 2人の間で交わされる会話は、どこまでも穏やかだった。 会社の未来について、技術の展望について。「そうだ、知っているかしら。黒田大臣の孫の詩織ちゃん、就職が決まったと連絡してきたの。大学は何とか卒業できそう、卒業してからの就職と言っていたわ」「ええ、聞きました。あの状況からきちんと自分で就職を決めるとは、彼女は意外にガッツがある人だったのですね」 話題は尽きることなく、メインディッシュの牛フィレ肉のローストが運ばれてくる頃には、琴葉の緊張はすっかり解けていた。 食後のデザートとコーヒーが運ばれてくると、給仕のスタッフは一礼して個室から退室した。重たい扉が閉まる。 部屋に残されたのは、琴葉と伊吹の2人きりだ。 外の
土井精機の工場内には、いつも通り切削油の匂いがうっすらと漂っている。 時刻は午後6時を回ったところだ。普段であればまだ多くの職人が残業をしている時間帯だが、今日の工場フロアは稼働を停止した工作機械が立ち並ぶだけで、ひっそりとしていた。 半導体事業は滞りなく進んでいる。 今日は金曜日ということもあり、工場長をはじめとする職人たちは早々に仕事を切り上げ、連れ立って飲みに出かけていった。 琴葉は無人になった事務所のデスクで、タブレット端末を操作していた。 画面に表示された今月の生産データは、要求された公差をすべてのロットで満たしている。不良品の発生率はゼロだ。(本当に、長い戦いだったわね) 琴葉は大きく息を吐き出して、背もたれに体を預けた。 ギシリと小さく椅子が鳴る。 世良グループの株価はしっかりと回復し、事件以前の高値を更新している。 半導体製造ラインの中枢技術には、間違いなくこの町工場の技術が組み込まれていた。 あの巨大な嵐を乗り越えて、自分たちは勝ったのだ。 ふと、視線を壁に掛けられた時計に向ける。(おっと、いけない。そろそろ行かなきゃ) 約束の時間が迫っていることに気づき、琴葉は慌てて立ち上がった。 今日は、すべての騒動が片付いた慰労会という名目で、伊吹から夕食に誘われている。 作業着を脱ぎ、ロッカーに掛けてあった私服に着替える。 いつもなら動きやすさ重視のパンツスタイルを選ぶところだが、今日は少しだけ特別な日だ。 琴葉は、柔らかな手触りのネイビーのワンピースに袖を通した。 工場の洗面台の鏡で、簡単にメイクを直す。 乱れていた髪をブラシで整え、リップを引き直した。 鏡に映る自分の顔は、毎日のように油にまみれて図面と格闘している町工場の責任者から、年相応の女性の顔へと切り替わっている。 工場を施錠し、外に出る。 夏の夜風が、火照った頬を心地よく撫でていった。 琴葉はタクシーを拾い、指定された都心のホテルへと向かった。
「いいえ、あなたはただの犯罪者だ」 伊吹が冷酷に言い放つ。 その声は平坦で、怒りも憎しみすらもない。ただ路傍のゴミを見るような冷たさだけがあった。 警察官たちが伊吹から峻嗣を引き取り、その腕に手錠をかけた。 暴れる峻嗣は複数人に押さえ込まれ、パトカーの後部座席へと押し込まれていく。「おのれ、伊吹……! 土井琴葉ぁ……!」 バタンとドアが閉められ、峻嗣の呪嗟の声は完全に遮断された。 パトカーはすぐにサイレンを鳴らして走り去り、路地裏には再び夜の静けさが戻ってきた。 伊吹はスーツの袖口を軽く手で払い、琴葉の方へと向き直った。 その顔には先ほどまでの冷徹な気配はすっかり消え去り、いつもの穏やかな青年の表情が戻っている。「怪我はありませんか、琴葉さん」「ええ。ありがとう、伊吹。少し驚いただけよ」 琴葉はこわばっていた肩の力を抜いた。 まだ心臓は少し早く動いているが、伊吹の涼し気な瞳を見ていると、自然と呼吸のリズムが正常に戻っていくのを感じた。「警察を待機させていたって……最初から彼が来ることを分かっていたのね」「はい。彼の足取りは完全に把握していました。ただ、現行犯でなければ確実に逮捕することはできない。危険な目に遭わせてしまって申し訳ありません」 伊吹が頭を下げるのを見て、琴葉は小さく笑った。「いいのよ。あなたが必ず守ってくれるって、分かっていたから」 その言葉に、伊吹は少しだけ目を丸くする。やがて嬉しげな笑みを浮かべた。「これで本当に最後です。過去の因縁は、すべて清算されました。父は療養所で罪と向き合い、叔父は刑務所へ行く。僕たちを脅かすものは、もう何もありません」「そうね。なんだか、長くて暗いトンネルをやっと抜け出した気分だわ」 伊吹がそっと右手を差し出した。 琴葉はためらうことなく、その大きな手を握り返した。 彼の手のひらは温かく、これまで
峻嗣は叫ぶ。「お前がいなければ、世良グループは私のものだったんだ! 俺の財産も、地位も、失ったのはすべてお前のせいだ!」 理不尽極まりない言いがかりだ。 確かに琴葉は、彼のAI筐体に罠を仕掛けて自壊させた。 けれどもそれは峻嗣の傲慢さによるものであり、人間の手を介した技術を過度に軽視した結果でもある。 自業自得以外の何物でもない。「知らないわよ! あんたの身から出た錆でしょ!」 辛うじて言い返すが、身勝手な憎しみに狂った相手に届くはずもなかった。 琴葉は後退ろうとしたが、足がコンクリートに縫い付けられたように動かない。 狂気と暴力を目の前にして、口の中がカラカラに乾く。 峻嗣が鉄パイプを高く振りかぶり、獣のような唸り声を上げて琴葉に突進してくる。 迫り来る凶器の風切り音が聞こえた。 琴葉が身を守るために両腕で頭を覆おうとした、その瞬間だった。 無音の影が、琴葉と峻嗣の間に滑り込んだ。「ぐぁっ!?」 峻嗣の短い悲鳴が夜の路地裏に響いた。 琴葉が恐る恐る目を開けると、そこにはダークネイビーのスーツの背中があった。伊吹だ。 伊吹は振り下ろされた鉄パイプの軌道を、左腕で下から柔らかく受け流していた。 そのまま円を描くような滑らかな動作で峻嗣の右手首を捕らえ、自身の体捌きに合わせて相手の重心を完全に崩す。 ガキンッ、と硬い音を立てて、鉄パイプがアスファルトに転がり落ちた。「ああっ、腕が……!」 伊吹は流れるような動きのまま、峻嗣の腕を背中側へ捻り上げて冷たいコンクリートの地面へと押し倒した。 片膝で峻嗣の肩甲骨のあたりを的確に制圧し、一切の反撃を許さない。 合気道の達人特有の、力みを感じさせない完璧な制圧だった。 伊吹の呼吸はまったく乱れておらず、スーツの裾さえ汚れていない。「峻嗣叔父さん。あなたの浅薄な思考など、手にとるように読めていましたよ」 伊吹の声は、絶対
琴葉の言葉に、伊吹は冷静な態度で頷いた。「ええ、その通りです。彼は金も権力も、周囲の取り巻きもすべて失いました。文字通り、一文無しです」「じゃあ、もう何もできないじゃない」「失うものが何もない人間ほど、最後に何をするか分かりません」 伊吹の瞳が鋭い光を放った。「権力を笠に着て裏から他人を操っていた男が、自身のすべてを奪われた。その憎悪の矛先は、真っ先に僕に向くはずです。ですが、僕の周囲には常に何重ものセキュリティが敷かれています。彼が近づくことは不可能です」「……まさか、私を狙ってくるって言うの?」「逆恨みの果ての、極めて短絡的な思考です。しかし追い詰められた人間の凶行は、時に理屈を超えます。今日僕がここへ来たのは、あなたを確実に送り届けるためです」 琴葉の背筋に、ぞくりとした冷たい感覚が走った。 確かに、土井精機のセキュリティは世良本社のそれに比べれば無防備に等しい。 工場長や職人たちがいるとはいえ、夜になれば人通りも少なくなる。「そこまで追い詰められているのね……。分かったわ。戸締まりをして、すぐに出ましょう」 琴葉は急いでタブレットを鞄にしまい、作業着の上から薄手のジャケットを羽織った。◇ 夜の8時を回った頃。 土井精機の工場のシャッターを下ろし、琴葉は外の空気を吸い込んだ。 夏の夜風が、火照った頬を撫でていく。 昼間の熱気がまだわずかにアスファルトに残っていた。 伊吹は「車を工場の前まで回してきます」と言い残し、歩いて3分ほどの場所にある提携駐車場へ向かっている。 琴葉は街灯の薄暗い光の下で、バッグの持ち手を握り直した。(伊吹が警戒しているとはいえ、いきなり襲ってくるなんてことがあるのかしら) そんな考えが頭をよぎった直後のことだった。 工場の壁沿いに積まれた廃材の陰から、不自然な黒い塊が飛び出してきたのだ。
琴葉は足元にすり寄ってきた猫に手を伸ばし、ひょいと抱き上げる。「さあ、私たちも行くわよ。次の準備をしなきゃね」「にゃん」 相槌を打つように子猫が鳴いたので、琴葉は思わず笑みを浮かべた。◇ 翌朝。 冬の終わりの冷たい空気が、肌の上を流れていく。冷たくも春の気配を孕んだ空気だった。 琴葉はボストンバッグを肩にかけて、右手でプラスチック製のキャリーケースを提げていた。 ケースの中では、縞模様の猫が不思議そうに外の景
スタッフたちが慌ててコンソールを操作するが、琴葉のプログラムがシステムを完全にロックしている。彼らの操作はすべて弾かれていた。「できません! 管理者権限が奪われています!」「無能め、どけ!」 峻嗣は自らコンソールへと駆け寄り、スタッフを乱暴に突き飛ばした。 キーボードを滅茶苦茶に叩くが、画面は冷酷な告発データを映し出し続けている。 彼の額から大粒の脂汗が吹き出し、イタリア製の高級スーツの襟元を濡らした。呼吸が浅く、速くなっている。 ネクタイを乱暴に引き結び、酸素を求めるように口をパクパクと動かした。
土井精機の工場内に絶え間ない切削音が響いている。 高排熱特殊合金の銀色のブロックが五軸加工機の内部で複雑に回転し、超硬合金の刃先が正確に表面を削り取っていく。 熱を逃がすためのクーラント液が、計算された絶妙な圧力で加工点に向かって勢いよく噴射されていた。 季節は既に夏。 熱気あふれる工場は、文字通り灼熱の職場だ。 機械類が駆動して、熱を放っている。 職人たちの声が工場の高い天井に響いている。賑やかで活気あふれる現場だった。 職人たちは汗を流しながら、仕事に励んでいた。 オライオン・シ
琴葉は首を振った。 気の毒ではあるが、彼女にはどうにもできない。 詩織1人のために黒田大臣への追及を緩めることはできないし、伊吹が情をかけるとも思えなかった。「お嬢! 大変だ、テレビ見たか!?」 と。 バンッ、と勢いよく事務所のドアが開いた。 飛び込んできたのは、作業着姿の工場長だった。 白髪交じりの頭にタオルを巻き、息を切らしている。彼の後ろからは、数人の若い職人たちも顔を覗かせていた。「世良グループが、えらいことになってるぞ! 大臣に賄賂を贈ってたとかで、テレビの全局