ログイン食事が終わる頃には、咲夜の胸の中は様々な思いでいっぱいになっていた。やはり気になっていたのは、なぜ千暁がここまで自分を助けてくれるのかということだった。詩乃は横目で咲夜を観察し、それから平然とした表情を崩さない千暁に視線を移す。その瞬間、すべてを察した。好きな人を自分のそばに引き留めるために、あれこれと心を砕くくせに――肝心の想いだけは、どうしても口にできない男もいる。そう思うと、詩乃は思わず口元を緩めた。すると隣の智之が身を寄せ、小声で尋ねてくる。「何を考えてるんだ?そんなに楽しそうに笑って」景浦市に来る前、智之は余計な一言で詩乃の機嫌を損ねてしまった。そのせいで彼女はずっと不機嫌なまま、まともに口もきいてくれなかった。当然、笑顔など見せてくれるはずもない。だからこそ、久しぶりに見たその笑みに、智之は好奇心を抑えられなかったのだ。詩乃はちらりと彼を見やる。「知りたいの?」智之は期待に満ちた目で彼女を見つめる。興味津々なのが丸分かりだった。その様子に、詩乃は鼻を鳴らす。「どうして私が教えなきゃいけないの?」言い終えると、そのまま視線を逸らした。相手にする気はない――そんな態度がありありと伝わってくる。再び冷たくあしらわれた智之は、心の中で深いため息をついた。そして千暁に視線を向け、軽く咳払いをする。「あとで一杯どうだ?」内心では後悔でいっぱいだった。詩乃がここまで機嫌を直してくれないと分かっていたら、あんな余計なことは言わなかったのに。千暁も二人の間の微妙な空気を察していたらしく、頷いた。「いいよ」そう答えた後、彼は咲夜の方に顔を向け、食後の予定について小声で説明する。咲夜は、本当なら千暁だけで智之たちに付き合えばいいと思った。だが今日、千暁には大きな助けを受けている。自分だけ断るのも気が引けた。少し考えた末、咲夜は頷いた。「うん、分かった」……食後も千暁と智之は仕事の話を続けていた。その間に咲夜は詩乃に声をかける。「この近くに時計塔があるんです。柳瀬さん、少し歩いてお腹ごなしをしませんか?」詩乃は特に異論もなく頷いた。「いいわ。それと、そんなに他人行儀じゃなくていいの。詩乃さんでも、詩乃でも好きに呼んで」「じゃあ、詩乃さん」咲夜が素直に呼
咲夜の心の内を見透かしたかのように、千暁は彼女を見つめながら言った。「もし本当にお礼がしたいなら、数日後にあるオークションに付き合ってくれないか。女性の同伴者が必要なんだ」ちょうどいい機会だ。咲夜を自分の人脈や交友関係の輪に自然に溶け込ませることもできる。もっとも、彼女が引き受けてくれるかどうかは分からない。そう言い終えると、千暁はわずかに緊張した面持ちで咲夜を見つめ、その返事を待った。だが咲夜は、最初から断るつもりなどなかった。「分かった。いいよ」その返事に、千暁はふっと笑みを浮かべた。「じゃあ当日は迎えに行くよ。会場はクルーズ船の上なんだ」咲夜は隣の千暁を見つめ、少しだけためらう。彼が言っているのは、まさか「月華オークション」のことではないだろうか。全国各地の著名人や財界人が集うことで知られる、有名なオークションだ。荻野家の背景を持つ千暁が招待されるのは不思議でも何でもない。だが、まさか自分まで同行させるつもりだったとは思わなかった。咲夜の驚いた視線に気づいた千暁は、軽く笑う。「そんなに緊張しなくていい。ただのオークションだよ」その言葉を聞いて、咲夜はかえって笑えなくなった。千暁にとっては「ただの」オークションなのだろう。だが、それは本来なら自分のような立場では足を踏み入れることすらできない世界だ。緊張しないなんて、無理な話だった。それでも、千暁が自分を連れて行こうとする以上、何か考えがあるのだろう。結局、咲夜はその厚意を断らなかった。……智之と詩乃が到着した頃には、咲夜は千暁の隣で二人を迎えていた。食事が始まると、千暁は単刀直入に切り出した。「詩乃、前に景浦市への事業展開を考えているって言ってたよね。ちょうど花江グループでファッションショーを企画していて、信頼できるデザインチームを探しているんだ」その言葉に、智之と詩乃は同時に千暁の隣に座る咲夜に視線を向けた。咲夜は思わず背筋を伸ばす。今の花江グループの状況を考えれば、相手にとって自分たちを選ばなければならない理由などない。咲夜が自ら売り込もうとしたその時だった。智之が笑顔で口を開く。「千暁の紹介なら、僕はもちろん問題ないよ。あとは詩乃がいいと言うなら、僕も賛成だ」智之は千暁との長年の付き合いを信頼していた。
コミックイベントを一通り見て回った後、咲夜は時間を確認し、千雪を連れて帰路についた。帰りの車中で、彼女は自ら千暁に連絡を入れた。コミックイベントから戻るところだと伝える。メッセージを送った直後、すぐに千暁から電話がかかってきた。咲夜は通話ボタンを押す。「もう帰るのか?」開口一番、千暁がそう尋ねた。「少し早めに戻って準備しようと思って。それより、若林さんと柳瀬さんって何か好きなものとかある?今夜の食事は私がご馳走したいんだけど」すると電話の向こうで、千暁がくすりと笑った。「俺たちの間柄で、まだそこまできっちり区別する必要があるのか?」からかうような口調だった。言われてみれば、その通りかもしれない。咲夜もつられて笑う。「そう言われると、確かにそこまで分けて考える必要はないかもね」彼女が冗談に付き合ってくれたことが嬉しかったのか、千暁の声はさらに柔らかくなった。「詩乃なら、普段は心理学関係の本ばかり読んでるな。智之は、詩乃が喜ぶことなら何でも嬉しい男だ」業界では有名な話だった。智之は、とにかく詩乃を最優先にする男なのだ。その答えを聞きながら、咲夜は思わず黙り込んだ。そんな彼女の沈黙を察したのか、千暁が続けた。「何か特別に準備しようなんて考えなくていい。今日はただ俺と一緒に友人に会うだけだ。気楽に構えてろ。そんなにプレッシャーを感じる必要はない」そう言われても、咲夜にとっては大切な顔合わせだった。だからこそ、どうしても気になってしまう。すると千暁は静かな声で言った。「俺がいるから、大丈夫だ」たったそれだけの言葉だった。それなのに不思議なことに、咲夜の胸の中にあった落ち着かない気持ちが、すっと和らいでいく。千暁はそれ以上あれこれ言わず、「帰るまで少し寝てろ」と優しく促した。通話が終わった後も、咲夜の唇には笑みが残ったままだった。助手席の千雪は、電話が始まった瞬間からその様子を見ていた。咲夜はずっと上機嫌で、口元の笑みが抑えきれていない。今にも耳元まで吊り上がりそうなほどだった。おそらく本人は気づいていない。だが最近の咲夜は、千暁から電話が来るたびに自然と笑顔になっている。どう見ても、ただの友人同士には見えなかった。もっとも千雪にできるのは、心の中でこっそり二人の
いきなり連絡先を聞き出したら、相手に悪い印象を与えてしまうかもしれない。そんな咲夜の考えを聞くと、責任者はすぐに言った。「それでしたら担当編集をこちらに呼びます。直接お話しされたほうが早いでしょう」そう言うと、その場で担当編集に電話をかけた。三十分後、出版社の担当編集が会場に駆けつけてきた。事情を聞くなり、彼女はあっさりと連絡先を咲夜に渡した。「教えても大丈夫だと思います。どうせ千野先生は、私のメッセージを見ても返信しませんから」そう言って苦笑する。普段から連絡を取るのは、ほぼ自分から一方的に送るばかりだ。相手の仕事のスタイルに慣れていなければ、とっくに心が折れていただろう。そこまで言われてしまっては、咲夜も遠慮を続けるわけにはいかなかった。連絡先を受け取ると、すぐに友だち追加を送る。しかし結果は、編集の予想どおりだった。承認されない。編集は慣れた様子で肩をすくめた。「大丈夫ですよ。先生は生活リズムがかなり特殊ですから。もしかしたら深夜になってから承認されるかもしれません」実際、彼女もこれまで何度も朝の四時や五時に返信を受け取ったことがあった。咲夜は感謝の気持ちを込めて頭を下げる。「ありがとうございます。お手数をおかけしました」編集はもう自分の役目は終わったと判断すると、責任者に一声かけて出版社に戻っていった。責任者は咲夜の礼に笑いながら手を振る。「お気になさらないでください。荻野様から頼まれたことですから、できる限り協力するのは当然ですよ」咲夜は微かに微笑んだ。その後、主催者側がサイン会の対応に戻ると、咲夜は千雪とともに再び会場内を見て回ることにした。そんな中、千雪はずっと咲夜をちらちらと見ている。その視線には、露骨なまでの好奇心が宿っていた。正直なところ、千雪は以前から気になっていたのだ。咲夜と千暁は、本当に世間で言われているほど仲が悪いのだろうかと。その視線に気づいた咲夜が、呆れたように笑う。「何か聞きたいことでもあるの?」千雪はにやりと笑った。「荻野さんって花江さんのこと好きなんじゃないですか?」咲夜が花江グループを引き継ぐと決めてからというもの、千暁は何かと力を貸してくれている。千雪も当然、そのことは知っていた。以前の千暁のコメントもそうだ。あの
コミックイベント会場に到着すると、咲夜は真っ先にサイン会エリアに向かった。現在大ヒット連載中の漫画があり、その制作に「千野千鶴」が関わっているという噂だった。賑わう会場を見渡しながら、千雪は不思議そうに咲夜を見た。「でも、昨日の夜に主催者側が発表してましたよね?『千野千鶴』先生は今回のイベントには参加しないって。払い戻し窓口の案内まで出ていましたし」確かに主催者は昨夜、その旨の告知を出していた。その時、千雪はすぐに咲夜にメッセージを送ったが、返事はなかった。今朝出社してからも、この件について話している。だが咲夜は、せっかく予定を組んだのだから、コミックイベントを見て回るのも悪くないと考えていた。気分転換にもなる。それに、思わぬところで優秀なイラストレーターを発掘できるかもしれない。実は咲夜には、もう一つ考えていることがあった。音声制作スタジオを立ち上げたいのだ。今日のイベントには人気声優も数多く参加すると聞いている。人材探しをしながら、市場調査もできれば一石二鳥だった。最近はオーディオブックやボイスドラマの需要も伸びている。そうした分野への参入も十分検討する価値がある。事業は多角化してこそ成長する。その考えに間違いはない。咲夜は微笑みながら言った。「とりあえず見て回りましょう」二人は漫画エリアを歩きながら、「千野千鶴」に関する情報を集め始めた。しかし、その人物はあまりにも謎に包まれていた。得られる情報は驚くほど少ない。結局、咲夜は主催者側に直接話を聞くことにした。責任者は咲夜を見るなり笑顔を浮かべる。「花江様ですね。初めまして。実はお越しになる前に、荻野様からお話を伺っております。知りたいことがあれば何でもお聞きください。私の知る範囲でしたら、すべてお答えします」その言葉を聞いた瞬間、咲夜の脳裏に浮かんだのは千暁だった。彼女は半信半疑で尋ねる。「荻野千暁……ですか?」「はい、その荻野様です。以前、弊社が荻野グループとある案件でやり取りしておりましてね。荻野グループの社長補佐の方から、ぜひ協力してほしいとお電話をいただいたんです」責任者はそう説明しながら、さらに笑みを深めた。咲夜は軽く頷いた。「お聞きしたいのは一つだけです。出版社のほうで、『千野千鶴』先生の連絡先を
惜しいことに、ああいう良い子はたいてい他所の家の子で、自分にはうらやむことしかできない。まったく、ため息が出る。咲夜はもともと、風一が何か聞きたいことでもあるのだろうと思っていた。ところが話しているうちに、どうにも話題の方向がおかしくなってきた。その口ぶりを聞く限り、まるで自分と千暁をくっつけようとしているように思えた。そう考えた咲夜は、軽く咳払いをした。「風一おじいさん」すると風一は電話の向こうで豪快に笑った。「はいはい、もうからかうのはやめておこう。咲夜は咲夜で忙しいだろうしな。森崎家のほうからは、もう誰も咲夜に迷惑をかけたりはしない。安心して自分のやるべきことに集中しなさい。わしのことは気にしなくていい」今日こうして電話をかけてきたのも、結局のところは咲夜の様子が気になっていたからだった。たとえ電話越しでも、咲夜がまったく影響を受けていないことは伝わってくる。それが何よりも嬉しかった。風一との通話を終えると、咲夜は千雪を連れてコミックイベント会場へ向かった。会場は景浦市から少し離れており、車で一時間半ほどかかる距離だった。車が走り出して間もなく、助手席に座っていた千雪が突然声を上げた。「花江さん、森崎青音の会社が炎上してます!」内容を目にした瞬間、千雪は驚きを隠せなかった。盗作疑惑だけではない。青音は自分名義のデザインスタジオを運営しており、大勢のゴーストデザイナーを抱えていたことまで暴露されたのだ。しかも、格安でデザイン画を描かせながら、完成した作品にはすべて青音自身の名前を載せていた。その中にはコンテストで受賞した作品も少なくなかった。さらに、ゴーストデザイナーたちと交わしていた契約書まで流出した。内容はどれも一方的な不平等契約ばかりで、最低限の報酬で彼らを搾取していたことが明らかになった。騒動は今も急速に拡大している。千雪の話を聞きながら、咲夜もスマートフォンを取り出した。そこに並んでいた青音の会社に関する数々の告発を見て、咲夜も千雪に負けないほど驚いた。千雪は一通り記事を読み終えると、振り返って咲夜の表情を窺った。「花江さん、この機会に私たちも追い打ちをかけますか?」彼女たちの手元にも、青音のスキャンダルはいくつも握られている。今こそ絶好のタイミングだと思え
寝室へ戻った途端、咲夜のスマートフォンには真奈美からのメッセージが怒涛のように押し寄せていた。【咲夜、どうしてもそんなに意地を張るつもり?本当に花江家のことなんてどうでもいいの?お父さんやご先祖様が代々築き上げてきたものを、このまま潰して平気だっていうの?】【私やお父さんが死んだあと、ご先祖様にどう顔向けすればいいのよ】【分かってるわ、あなたが辛い思いをしてきたことは。でも、あの白羽さんは晴南さんにとって忘れられない人なのよ。あなたが少し我慢すれば済む話じゃない】【男なんて外で遊ぶものよ。心を繋ぎ止められないなら、せめてお金だけでもしっかり握っておけばいいの】【咲夜、お願い
咲夜が病院を後にして間もなく、真奈美から電話がかかってきた。鳴り続けるスマートフォンを、咲夜は手に取ろうともせず放置したまま、自動的に通話が切れるのを待つ。だが、着信は執拗に繰り返された。出ない限り、母が決して諦めないことなど分かりきっている。結局、咲夜は小さく息をつき、妥協するように通話ボタンを押した。「咲夜、森崎家が資金を引き揚げるって!両家の提携も全部白紙よ。これで満足なの?」電話の向こうから、激情に駆られた真奈美の罵声が飛んできた。これまでどれほど理不尽を押しつけられても耐え続けてきた咲夜が、なぜ今になって意地を張るのか、真奈美には理解できなかったのだ。
晴南も、外の騒がしさにはすでに気づいていた。つい先ほどまで浮かべていた穏やかな笑みは、咲夜の姿を認めた瞬間に凍りつき、その冷ややかな瞳には露骨な不快感と詰問の色が宿る。咲夜はその視線を真正面から受け止めながら、感情を削ぎ落とした無表情のまま、真奈美の背後に静かに立っていた。「晴南さん、うちの咲夜が分からず屋で本当にごめんなさい。ちゃんとお詫びさせようと思って、連れてきたの」真奈美は卑屈な笑みを顔に貼りつけ、機嫌を窺うような声音で言った。そう言いながら、咲夜の背中を突き飛ばすようにして、彼女を晴南の目の前へ押し出す。晴南はただ冷ややかにその様子を眺めるだけで、自分から口を
実家へ向かう帰路の途中、咲夜のスマートフォンに晴南から着信が入った。受話器越しに響いてきたのは、怒りに我を失った彼の声だった。「咲夜、今すぐ病院に来い。這いつくばってでも洸に謝るんだ」背後では、洸のすすり泣く声がかすかに混じっている。想像するまでもない。晴南は洸を不憫に思うあまり、怒りの矛先をすべて自分へ向けようとしているのだ。咲夜は深く考えることもなく、電話口から浴びせられる怒号を無視し、そのまま通話を切った。しかし晴南は執拗だった。すぐさま何度もかけ直してくる。病院へ来て謝罪するまで決して許さない――そんな執念すら感じさせる勢いだった。苛立ちが限界に達した咲夜は