Masuk周囲が凛を見る目は、明らかに先ほどまでとは変わっていた。その空気の中で、晁生が突然泣き出し、母親の沙友里の足にすがりつく。「なんだか、凛さん……こわいよぉ!」次の瞬間、両親が揃ってその口を塞いだ。二人の背中を冷や汗が流れる。取り仕切っていた将希は意識を失い、すでに病院へ運ばれていた。嫁や孫たちも付き添って出ていったが、百年続いてきたしきたりを途中でやめるわけにはいかないため、楷は残り、先祖供養の最後の儀式を予定どおりやり遂げるつもりでいた。初めは一族揃って和やかに見えた光景も、今となってはどこかばらばらだった。残った者たちは、もう春彼岸の先祖供養の話以外口にしなかった。もっとも、それぞれが胸の内で何を考えているかまでは、誰にもわからない。海斗と日和、策は、凛が最後の儀式を終えるまでそばで待っていた。すべてが済むと、そのまま凛を囲むようにして一緒に屋敷を出る。門を出た途端、優愛が小さな足で駆けてきた。凛が抱き上げると、優愛は両腕を凛の首にぎゅっと回し、頬をすり寄せる。「凛さん、悲しくないよ。優愛、凛さんのこと大好き」そう言っているうちに、優愛は自分まで悲しくなったらしい。大粒の涙が彼女の目からぽろぽろとこぼれ始めた。「優愛、ちゃんとわかったもん。あの人たちは凛さんのこといらないって言ったけど、ママと優愛は凛さんのこと大好きだから」凛の胸がじんわりと温かくなった。優愛の背中を優しく撫でる。「ありがとう」「じゃあ、優愛のおうちに帰ろ!」優愛は凛と顔を合わせ、きらきらした目で言った。日和が吹き出す。「それは無理かな。凛さんには自分のおうちがあるし。それに、誰かと帰るなら、優愛ちゃんじゃなくて私とだからね」優愛が不思議そうに首を傾げる。「なんで?」日和も真似して首を傾げた。「じゃあ、なんで優愛ちゃんと帰るの?」「だってお友だちだもん!」日和はわざと腰に手を当てて言い返す。「違うよ。凛さんは私のお友達!」「私のママの友達!」「私のお兄ちゃんの彼女!」海斗が妹を横目で見た。この瞬間ばかりは、妹を産んでくれた両親に少し感謝する。凛はその微笑ましいやり取りを眺めながら、思わず笑ってしまう。神谷家の仏間で味わった重苦しさも、この二人を見ているうちに薄れていった。「はいはい、二人ともそこまで」
秀明は日和を一瞥した。その目には、長年人の上に立ってきた者特有の冷たさがあった。しかし、竹内家の若い娘にまで、面と向かって言い返されるとは、思いもしなかった。日和は普段、年長者をきちんと立てるほうだったし、草壁家と神谷家は付き合いも長く、神谷家の年長者にも昔から愛想よく接してきた。それだけに、秀明に鋭く睨まれると、さすがに少し怯んでしまう。でも、こっちには絶大な権力を持つ兄がいるのだ!日和がそっと兄の後ろへ下がるのとほぼ同時に、海斗と凛も一歩前へ出て、その姿を庇うように立った。それまで黙っていた海斗が、ようやく口を開く。「秀明さん。これまでずっと、調べられて困るようなことを何もせずに生きてきた人生だといいですね」それは、低く冷静な声だった。「まあ、公人として、身辺を徹底的に調べられても何も出ないなら、それで済む話ですけど」その一言で、神谷家の面々の表情が一斉に変わった。実際に後ろ暗いことがあるかどうかは関係ない。一度疑惑を持たれ、本格的な調査の対象になること自体が大きな問題なのだ。周囲は慌てて海斗をなだめ始めた。三家の長年の付き合いを忘れるな、そこまで大事にする必要はない、そう海斗を止める者がいる一方で、秀明に対しては、なぜこんなことをしたのかと責める声が上がる。年長者の中には、凛に謝るよう秀明へ求める者までいた。だが、長いこと上の立場にいる秀明が、年下の凛に頭を下げるはずもなかった。それに、秀明は調べられること自体は恐れていなかった。もし本当に後ろ暗いことを重ねてきたのなら、今までこの立場にいられたはずがない。ただ、道雄が当時のことを証言する可能性だけは気にかかっていた。もっとも、それも凛の件が表沙汰になればの話だが。それに神谷家の先祖は、草壁家の年長者たちに恩を施したことがあるし、靖もこれまで何度となく神谷家に手を貸してきてくれた。だから、海斗が一族同士の関係を無視してまで動けるとは、秀明には思えなかったのだ。秀明は黙ってその場を去った。本人が引かない以上、代わりに頭を下げる役目は和江に回ってくる。和江は凛の前まで来ると、目を赤くして頭を下げた。「凛ちゃん、本当にごめんなさい。許してほしいとは言わないわ。でも……せめて、償う機会だけはもらえないかしら?」凛は目の前の和江を見た。血のつながった叔母
将希は、完全に板挟みになっていた。美雪を神谷家に残せば、凛は最後まで責任を追及するだろう。そうなれば、いずれ神谷家の名にも傷がつく。かといって美雪を切れば、28年前の醜聞が外へ漏れるかもしれないから、結局、傷つくのは同じく神谷家の名だ。どちらを選んでも無傷では済まない。ならば、少しでも損害の少ないほうを選ぶしかなかった。凛を説得できないことは、もう十分わかっているから、美雪一人のために凛を敵に回すのは割に合わない。それに、美雪のほうなら、あとでいくらでも釘を刺せる。将希の中ではすでに答えが出ていたが、凛のような若者に、自分が簡単に動かせる相手だと思われるのも癪だったため、今ここで口にするつもりはなかった。「少し考えさせてもらう」凛の目がわずかに動いた。「どうぞ。こちらもこちらで、好きにさせてもらいますので」つまり、凛も予定どおり動くということだ。80を過ぎた将希だったが、この半年は、それまでの人生以上に気の休まらないことばかりだった。やはり手元で育てていない子は、家より自分を優先するものらしい。もういい。それに、そもそも凛に対しては、茂と彰菜に非がある。先祖供養もそろそろ終わるし、彰菜と美雪の件もひとまず片づいたのだから、今度こそ終わりだろうと、将希がようやく一息つこうとした、そのときだった。凛がまた将希に視線を向けた。そして、海斗も、日和も、策も、揃って将希を見据える。まだ何かあるのか?「凛……今度は何だ」将希の声には、もう先ほど彰菜を叱りつけていた勢いなど残っていなかった。凛は一歩踏み出し、自然に秀明へ視線を移す。「秀明さん、あなたが私の父親に私を捜させなかった理由は、まだ多少はわかります。でも、あなたまで、自分の立場が固まったあとも捜索を邪魔し続けたのは、どうしてなんですか?」問いかけは秀明に向けられていたが、将希も無関係ではない。将希は血の気が引く思いだった。そこまで調べていたのか?それとも、茂が全部話したのだろうか?秀明も目を見開いた。茂でさえ、秀明が道雄を買収していたと知ったあとも、一族の前では明かさなかったというのに、まさか姪である凛が、一族の前でここまで容赦なく暴くとは思っていなかった。凛の言葉が放たれた瞬間、和江が信じられないといった様子で秀明を凝視した。自分の夫ま
凛に視線を向けられた将希と秀明は、そろって胸の内で身構えた。茂がすべて凛に話したのではないか?家のために生きてきた茂が、年を重ねた今になって、すべてを捨てる覚悟を決めるとは二人とも思っていなかった。幼いころから家の名誉を何より優先するよう教え込まれてきた神谷家の人間にとって、身内でどれほど揉めようと、それを外へ漏らすことだけは許されない。外からだけでも、常に結束した一族でなければならなかった。なのに、茂は娘への罪悪感からここまで踏み切ったのだ。それに、凛は茂ではない。だから、神谷家のために何かを隠してやるつもりなどなかった。もっとも、将希と秀明のことを暴く前に、ここを出ればもう安心だと思っている美雪を片づける必要がある。「美雪さんはもう家を追い出されたのに、神谷会長が神谷家に残したそうですね」凛はゆっくりと口を開いた。「私が捨てられたことを知っているからですか?だから、神谷家から追い出せないとか?」将希は首を強張らせたまま、答えなかった。しかし、その沈黙が何よりの答えだ。「よく考えたほうがいいですよ。美雪さんを神谷家の人間として残すなら、あの人が犯罪で逮捕されたとき、傷つくのは神谷家の名前ですから」その言葉を聞いた瞬間、海斗は凛の意図を察し、策へ目をやった。策は医療バッグの下段から、分厚い資料を取り出す。凛がちらりと見ると、今回も写真や図まで添えられていた――海斗が新聞社でも始めて、こういうスキャンダルや秘密ばかり載せたら、喜んで金を払う人が大勢いそう。そんなことが一瞬、凛の頭をよぎった。資料は将希へ渡された。将希は書類を見るだけで身構えるようになっていた。先ほどは茂の離婚協議書と離婚届だったのに、今度はいったい何だというのか?海斗の声が低く響く。「これは、美雪が匿名で松田さんを密告していた証拠で……」その言葉を聞いた伸夫は、わずかに顔を背け、その先を見ようとしなかった。しかし、海斗は構わず続ける。「そして、美雪が小林をそそのかして凛を車で跳ねさせた証拠も揃っています。小林は今服役中だが、控訴することはできる。そして、その控訴は通ることになるだろうな」将希の表情が固まった。周囲も一斉にざわめく。毎日決まった時間に薬を飲み、きちんと眠り、少し疲れただけでも息を切らしていた、心臓の弱い美雪。その美雪
凛もすぐそばにいたため、それが何なのかすぐに分かった。海斗と日和も気づいたらしい。一瞬にして、その場が静まり返り、誰もが無言のまま顔を見合わせた。将希は離婚協議書を握ったまま、目を見開いていた。その手まで小刻みに震えている。確かに先ほど、自分は茂と彰菜を離婚させると言ったが、こんな形ではない。茂がすでに離婚関係の書類を用意して署名まで済ませ、しかも春彼岸の先祖供養という大切な日に、一族が集まるこの場へ自ら届けさせるなど、将希の想定とはまるで違っていた。これは単に、茂が彰菜との離婚を決めたというだけではない。神谷家の意向を受けて離婚するのではなく、茂自身の意思ですでに決断していたということになる。そしてこれは、当主である将希の顔を潰す行為であり、同時に神谷家との間に一線を引く意思の表れでもあった。凛に続き、今度は茂にまで突きつけられ、将希はとうとう力が抜けたように椅子へ沈み込んだ。座っていても身体がぐらつき、手から離婚協議書と離婚届が滑り落ちる。策が拾い上げ、そのまま海斗へ渡した。これで凛と日和にも、内容がはっきり見えた。海斗は書類を彰菜の目の前へ差し出す。「茂さんはもう署名を済ませている。策、ペン」策は何も言わず、上着のポケットからペンを取り出し、離婚関係の書類と並べるように彰菜へ差し出す。先ほどまで泣き続けていた彰菜は、書類を目にした途端、涙さえ止まった。呼吸まで止まったかのように動かない。茂が本当に自分と離婚するのか?あれは一時の怒りに任せた言葉ではなかったらしい。もう署名までしてある。しかも、これだけ大勢の前で。一族の全員が見ている前で……彰菜は息を詰まらせ、そのまま意識を失った。小柄なうえ、心臓に持病のある美雪では支えきれなかったため、彰菜の身体はそのまま倒れ、後頭部が床にぶつかった。凛はそれを見ながら思った。もう倒れたの?美雪が柚葉と組んで利明にしたことは、まだ何一つ話していないのに。仕方がない。続きは目を覚ましてからだ。まあ、全部聞いたら、また同じように倒れるかもしれないけれど。策は海斗と凛を見た。一瞬、祖母から教わった方法で起こそうかとも考えたが、すぐにやめた。彰菜はもう50代だから、無理に意識を戻してから、さらに強い刺激を受けて本当に危険な状態になれば洒落
だが願いは叶わずに、生まれてきたのは女の子だった。あれほど苦しい思いをして産んだのに、女の子だなんて!受け入れられなかった。そして、いらないと思った。彰菜は残る力を振り絞り、赤ん坊を抱いて外へ出た。途中で徹に会ったが、K市の地理に詳しくなかった彰菜は、どこへ行くのかと聞かれても曖昧に「少し歩こうと思って」としか答えられなかった。そして、徹にある細い道を教えられたため、彰菜はその道をひたすら走った。走って、走って、もう走れなくなったころ、人通りのほとんどない道端にたどり着き、そこには背の高い草が生い茂っていた。ここに置いていこう。最初は草むらの奥に子どもを隠したのだが、立ち去ろうとしてまた引き返し、草のすぐ外側に置き直した。誰かが見つけて育ててくれるかもしれない、そんな微かな期待を抱いて……彰菜はもう振り返らず、そこから逃げるように走り去った。これでようやく、一つ片づいた。そう思ったのに、背後から泣き声がいつまでも追いかけてくる。やっぱり女の子と男の子は違う。利明はほとんど泣かなかったから、あの子はきっと大物になる。なのに、この子はいつまでも泣いているし、産むときだって、死ぬほど痛い思いをさせられたから、きっとろくな子にはならない。病院へ戻ってからは、周りの人間が何を話しているのかも耳に入らなかった。聞こえるのは、あの草むらから、あの雪の中から……遠くからだんだん近づいてくる赤ん坊の泣き声だけ。どうしてあんなに泣くのだ?どうして泣くの!少しもいい子じゃない。だからいらない。子供を捨てたら、そのせいで夫は公職を失った。どうしてこんなことになったのだろう?自分は茂のためを思ってやったのに、どうして逆に茂の人生まで駄目にしてしまったのだ?秀明が大事な審査を控えていたから?でも、それが茂と何の関係があると言うのだ?やがて茂が、一人の女の子を連れて帰ってきたが、見た瞬間、自分が捨てた子ではないとわかった。どうして別の子を連れてきたのだろう?あの子は死んだのかしら?本当に死んだの?いや、どうやら茂がまだ探しているようだから、死んではいないらしい。あの子は泣いてばかりで、何の役にも立たない子だったから、探してはいけない。そして結局、見つからなかった。だから、もう二度と見つからないし、自分がしたこ
梓は、凛が研究と自分の夫のこと以外に興味を示すのが珍しかったから、ブランド品のノベルティに関する裏ルールを夢中で話した。しかし、凛は上の空だった。頭の中は、昨夜智也が帰ってこなかったこと、そして今朝、ポケットから突然、包装もされていないスカーフを出したことでいっぱいだった。彼女はもう一度、柚葉が去っていった方向を見つめ、考え込むように言った。「小林さんのカバン、新品みたいだったわね」「当たり前ですよ。昨日の夜に買ったばっかりなんですから」と、梓はすぐに言葉を返した。凛は彼女の方を見た。克哉も尋ねた。「どうして知ってるんだい?」「お昼にちょうど松田さんが小林さんと話してい
「柚葉さんが戻ってきたんだって?奥さんはどうするんだよ?」家の前に着くと、ドアは少しだけ開いていて、夫の谷口智也(たにぐち ともや)と、彼の親友の声がかすかに聞こえてきた。仕事から帰ってきた谷口凛(たにぐち りん)は、思わずドアを開けようとした手を止めた。「柚葉さん」って?自分のプロジェクトに2週間前からアドバイザーとして参加している専門家・小林柚葉(こばやし ゆずは)も、同じ名前だったはず。なんて、偶然なんだろう。一方で、智也はその問いただしに対して何も答えなかった。「智也、言わせてもらうけどな。もう何年も柚葉さんのことが忘れられないんだろ?そのくせ、自分は質素な生活
凛が家に帰ると、もう夜の8時だった。智也はソファに座り、暗い目つきで彼女を見つめていた。「なんでこんなに遅いんだ?」「あなたは、なんでこんなに早いの?」凛は不思議に思った。智也は毎日、柚葉を職場まで迎えに行っているはずなのに。智也は眉をひそめた。「俺が最近、帰りが遅いことを責めてるのか?」「まさか」凛がカバンを置くとすぐに、智也が仕事をやめる件について聞いてきた。「退職届は出したわ」彼女は自分に水を一杯注ぎ、ゆっくりと飲んだ。「引き継ぎとかの手続きに、1ヶ月はかかるの」「お前の仕事に、引き継ぎで1ヶ月もかかるような内容があるのか?」智也は凛の痩せた横顔を見ながら、何度も
「凛さん、何を見ていらっしゃるんですか?」「今、あっちから誰かに見られていた気がします」「え?」と理恵がそちらを見たが、人影はなかった。「もうエレベーターに乗ったみたいです」と凛は言った。「エレベーターって、あっちの?」理恵が指差すと、凛は頷いた。それを見た理恵は、緊張した面持ちでゴクリと喉を鳴らした。あそこは社長専用のエレベーターなのだ。理恵のオフィスのドアの前に来ると、凛はドアプレートに、「人事部ヴァイスプレジデント」と書かれているのを目にした。昇進したんだ。凛はにっこり笑って言った。「中村さん、御昇進おめでとうございます」「ありがとうございます」