LOGIN「友だち?」裕也は気だるげな声のまま、探るように言った。「俺の知り合い?」「現場の女優さん。綾子」絵里はありのまま答える。「わかった。行ってこい。気をつけろよ」裕也はそう釘を刺した。「うん」絵里は素直に頷く。準備を整え、タクシーでレストランへ直行した。洋風レストランの店内は静かで、ゆったりとしたバラードが流れている。綾子は景気よく高級な料理をいくつも頼み、年代物の赤ワインまで一本つけた。「食事するだけなのに、そんなに張り切らなくても」絵里は涼しい顔で言う。「あなたには大きな借りがあるもの。ごちそうするくらい、たいしたことじゃないわ」綾子は丁寧に返した。絵里は口元だけで笑う。バッグを開け、水と一緒に錠剤を二粒飲み込んだ。綾子が目を丸くする。「具合悪いの?お薬……」絵里は水をもう一口飲み、「違うよ、ビタミン」と淡々と答えた。綾子はほっと息をつく。ほどなくして店員がワインを運んできて、抜栓とデキャンタージュの要否を尋ねた。綾子が店員とやり取りしている隙に、絵里は席を立って化粧室へ向かう。裕也からLINE。【用事、片づけた。迎えに行こっか?】絵里は数回まばたきし、返す。【いいよ。終わったなら休んでて。すぐ戻るから】【ふーん。じゃ、俺はお利口に言うこと聞くしかないな】その文面を見て、絵里は小さく口角を上げた。手を洗い終えたところで、寧々から電話が入る。「あなたが欲しがってた真相、もうすぐ分かるよ」絵里はペーパータオルを一枚引き抜いて手を拭き、鏡の中の自分を見据えた。冷たく、落ち着き払った表情のまま。「そうだといいけど」「……」絵里が席へ戻ると、料理はほとんど揃っていた。綾子は明るく促し、グラスを持ち上げて絵里と軽く合わせる。「絵里、助けてくれてありがとう」「どういたしまして」絵里は迷わずグラスを合わせ、そのまま喉を潤す程度にひと口含んだ。綾子の瞳の奥で、何かが一瞬だけ光った。二人は食事をしながら取り留めのない話を続ける。食事の終わり頃、綾子は残りの借金を絵里に返済した。レストランを出るころには、夜の帳が降りていた。きらめく灯りが街の繁華を照らし、車の列が絶え間なく流れていく。誰もが急ぎ足で、生き急ぐように。綾子
寧々の提案が悪くないと思ったのだろう。和也は上機嫌に言った。「やっぱり女同士だな。女の欲しいものは女が一番分かる。じゃあ、いいよ。お前が策を出せよ。償いってやつだ」裕也はもう別の女と結婚している。しかも今はT市にいない。なら、この隙に絵里を落とすだけだ。そのうち、手を出してしまえば……十年前の命の恩人が自分じゃないと絵里に知られても、いくら怒ろうが、もう逃げられない。……絵里はホテルの近くまで戻ると、ラーメンを一人前ホテルに持ち帰った。けっこう好きだ。旨味のあるスープも、好みに合っている。ソファに腰を下ろし、何口かすすったところで、裕也から電話がかかってきた。「ひと段落した?」相変わらず、穏やかで艶のある声。絵里は目を細めて笑う。「さっきラーメンを買ってホテルに戻ったの。食べ始めた途端に電話とか、タイミング良すぎ」「絵里もずいぶん偉くなったな。ちゃんと時間どおりに飯を食ってる」「当然でしょ。で、何かご褒美くれる?」スマホを耳に当てたまま、口元が勝手にゆるむ。頬も気持ちもほどけて、笑った目がきれいに弧を描いた。「ご褒美?」裕也は妙に真面目な調子で言う。「じゃあ、絵里が俺にくれたやり方で。今度は俺が、絵里に『ご褒美』をやる番だな」昨夜の熱を思い出して、絵里の頬が一気に熱くなる。「なにそれ……結局、いいとこ取りじゃない」「褒め言葉として受け取っておく」裕也がくすっと笑った。「商売人の手腕、認めてくれてありがとう」「……」褒めてないのに。すぐに向こうの空気が引き締まる。「夜、新システムの試験に参加する。戻るのが少し遅くなるかもしれない。先に言っておく」きちんとした報告だった。絵里は、それが嬉しかった。彼女が望む結婚は、今みたいな形だ。互いを尊重して、気を配り合って、きちんと向き合う姿勢を見せてくれること。そうであるなら、裕也が自分を愛していなくても、責任感だけでそばにいるのだとしても、彼女はこの結婚を続けていける。婚姻を支えるのは、激情じゃない。淡々とした日々の中で、分かり合い、寄り添い、助け合えることだ。「分かった。仕事、頑張って。私はホテルで脚本の調整してる」絵里は口元をやわらかく上げ、電話を切った。午後いっぱい脚本を整
「この十年、あの男はずっと自分が命の恩人だって名乗り続けてたのよ……そんな長い間、騙されて悔しくないの?」寧々は踵を返し、絵里へと歩み寄る。笑みはさらに自信に満ちたものになっていった。「手伝ってあげる。あいつの嘘、暴いてやる」そして、甘く問いかける。「どう?これで協力できるでしょ?」絵里は冷えた目で見返した。「またその手?その小細工なら、前にも使ったじゃない」「今回は違うの」「何が違うの。あなたは信用できない」寧々は絵里が首を縦に振らないのが怖くて、焦ったように言った。「私は和也と一緒になりたいの……邪魔なのは、あなたよ!」絵里は眉をひそめ、疑うように寧々を見た。さっき病院で、寧々と和也が話しているのが耳に入った。全部は聞き取れなかった。けれど、十年前、自分が水に落ちたあの出来事と関係があるらしい、そんな気配だけは確かに感じた。なら、確かめたい。十年前、助けてくれたのは本当に和也だったのか。それとも……「で、どう協力するつもり?」絵里は視線を上げ、片眉をつり上げた。寧々はニヤリと笑って、絵里の耳元で囁いた。話し終えると、寧々の瞳には計算の光が宿る。「その時は、あなたに完全に和也から離れてもらう。二度と連絡もしないで」絵里は口元だけで笑った。「言われなくても。むしろ、こっちから縁を切りたいくらい」そう吐き捨てた瞬間、男の弾んだ声が背後から飛んだ。「絵里……!」二人同時に振り向く。そこには和也がいた。整えた髪型がやけに様になっていて、杖を握ったまま焦るように近づいてくる。「迎えに来た。一緒に飯、食べよう」優しく言い終えた和也は、隣の寧々を見るなり、露骨に不機嫌になった。「……お前、何しに来た?」寧々は拳をぎゅっと握りしめた。以前の和也なら、こんな言い方は絶対にしなかった。三年前の件が露見してから、すべてが変わった。その落差が憎くてたまらない。けれど、それを表に出すわけにもいかず、無理やり笑みを作った。「母に頼まれたの。絵里を説得して、和也に代わって謝って、早くよりを戻してもらえって……和也、そんな目で見ないで。私、本当に二人に上手くいってほしいの。それに今日は、ちゃんと絵里にも謝りに来たの。あの時は私が悪かった。私のせいで、二人
翌朝早く、絵里は撮影チームとの打ち合わせに出る予定だった。ベッドから身体を起こした瞬間、全身、特に手足がずしりと重く、筋肉痛みたいに痛む。彼女は、すでにきっちり身支度を整えた裕也を見上げた。スーツのスリーピースを完璧に着こなし、髪も乱れ一つない。「……ほんと、あなたってば狂ってる。昨夜、あんなに容赦なくして」絵里が拗ねたように言うと、裕也は当たり前みたいに近づき、彼女の腰を抱く。視線が落ちてくる。眉も目元も、やけに優しくて甘い。「それだけ絵里の魅力が強烈ってことだ。理性が持たなかった。俺のせいじゃない」そう囁きながら、裕也は身をかがめた。顔を寄せ、頬に熱い吐息がかかる。「それに、夫が妻の身体を欲しがるのなんて普通だろ」絵里の心臓がどくん、と跳ねた。この人、本当に言葉が上手い。こんなのを続けられたら、本気で、自分のことを好きなんじゃないかって勘違いしそうになる。でも、もし本当に惚れられたなら、それはそれで悪くない。絵里は拳をぎゅっと握り、むくれたふりで彼の胸を軽く叩いた。「はいはい。そんなふうに言われたら、私まで信じそうになる」裕也は真面目な顔を作る。「信じていい。俺が絵里のこと欲しくてたまらないのなんて、今日に始まった話じゃない」絵里は羞恥と呆れが同時に込み上げ、笑うしかなかった。もちろん、本気にはしない。「もう……」彼の身体をくるりと向けさせ、その背中を押して外へ追い出す。「江原社長の会社に行くんでしょ。ほら、早く。私は支度してから会議だから」「了解。俺が恋しくなったら遠慮なく連絡して」低くて、耳に残る声。「はいはい、覚えとく」絵里は明るく笑ってドアを開け、裕也を外へ押し出す。手をひらひら振ってから、カチャリと扉を閉めた。胸の奥が、ふわりと浮く。和也が命の恩人だってことも、全部が全部、悪い話じゃないのかもしれない。少なくとも裕也は、彼女を楽しくさせる。少しだけ、恋をしているみたいに。仮に、彼が郁江と過去に何かあったとしても、今が切れているなら問題じゃない。大人なんだし、元恋人が一人や二人いたって不思議じゃない。まして裕也みたいな男ならなおさらだ。一方、ドアの外。裕也は上機嫌だった。口元の笑みが、隠しきれないほど深い。先に待っていた健が、面白が
和也は半信半疑のまま眉をひそめた。「つまり……あいつがわざと俺を試したってことか?なんでそんなことするんだよ?」「別れた理由、忘れたの?」寧々はもっともらしく肩をすくめる。「疑われたまま終わったからよ。試したくなるのも不思議じゃないでしょ」彼女が今回ここへ来たのは、二人を二度と会わせないため、それだけだ。和也の表情が、わずかに緩む。絵里の性格を思い出す。しかも彼女は一人で来ていた。胸につかえていた不安が、すっと落ちた。「絵里は、きっとまだあなたと一緒にいたいのよ。知ってるでしょ?あの子、ずっとあなたのこと好きだったんだから」寧々は畳みかけるように囁いた。「そんな簡単に、気持ちを捨てられるわけないじゃない。さっきみたいなことしてたら、もう完全にチャンスなくなるよ」和也は、確かにそうだと思った。絵里はこの五年、彼を愛して、わがままだった部分まで直し、何もかも彼を優先してきた。小さな誤解ひとつで、いきなり「もう愛してない」なんてことがあるはずがない。和也はようやく安心し、鋭さを宿していた目を細めた。「で、お前はT市に何しに来た?」寧々は胸の奥の罪悪感を押し殺して言う。「……私のせいで、二人は別れたでしょ。だから今回は、母の言いつけで来たの。あなたの面倒を見て、衝動的にならないように釘を刺して、それと、絵里に謝るため」和也は眉間に皺を寄せ、黙り込んだ。雪枝の狙いなんて、痛いほどわかっている。絵里は気に入らなくても、水原家は「逃がしたくない駒」だ。それに和也自身も、絵里と別れたいわけじゃない。ここは落ち着いて、あとでしっかり機嫌を取ってやればいい。……絵里は、まさか彼がここまで激しいとは思っていなかった。長く飢えていた狼みたいに、獲物である彼女を容赦なく貪り尽くす。何度も、何度も求められ、骨の髄まで味わい尽くされるような執拗さ。三度目が終わったあと、絵里はぐったりとベッドに横たわった。たくましい腕枕に包まれたまま、小さな身体を丸めて彼の胸に寄り添う。「……どうして来たの?出張?」絵里の声は気だるく、綿みたいに柔らかい。裕也は薄い肩を抱いたまま、節の浮いた指で彼女の黒髪をそっと梳いた。「お前に会いに来た」伏せた視線で彼女を見つめ、声だけは優しい。「昨夜、俺
絵里はキスだけで頭がくらくらした。ふっと身体が宙に浮く。裕也に抱き上げられたまま部屋へ運ばれ、ドアが閉まる。廊下を曲がったばかりの和也の耳に、かすかな「カチャ」という音が届いた。反射的にそちらを見るが、そこには誰の姿もない。和也は奥へ進み、絵里の部屋番号を探した。一方、裕也は絵里を抱き寄せたまま、獣のように貪るキスを落とした。熱く口内を貪り、空気ごと吸い上げる勢いで彼女をベッドに押し倒す。吐息が絡む。裕也の荒い息が耳元をかすめ、身体が燃えるように熱い。触れられているだけで、溶けてしまいそうだった。「……いい?」低く、掠れた声。絵里はぼんやりとした瞳で彼を見上げる。抑えきれない恋しさと、爆ぜそうな衝動が胸の奥でうねった。腕を伸ばし、彼の首に抱きついて、自分から唇を重ねる。言葉はない。けれど、それだけで答えは十分だった。梨乃と話していたこの数日で、絵里は気づいてしまったのだ。自分が幸せになれることなら、結果なんて考えずにやればいい、と。特に男女のことは。昔の自分は臆病で、和也の「新婚初夜のほうが儀式感がある」という言葉も信じていた。けれど今は違う。好きなら、思う存分味わえばいい。真剣に愛し合っていなければ駄目だなんて、誰が決めたんだ?「……キスして」裕也の瞳に欲望が滲む。熱を孕んだ視線が、白く蕩けた絵里の顔を射抜いた。無垢で、艶がある。一度味わったら、もう手放せない。見つめるほどに血が騒ぎ、喉仏がごくりと動いた。長い指が、ネクタイを荒々しく引いた。今日の絵里は、妙に大胆だった。顎を上げて、彼に口づけた。触れた瞬間、裕也が覆いかぶさるように奪い返し、猛然と攻めてくる。そのとき、コンコン。ノックの音。続けて和也の声がした。「絵里、開けて。話そう!絵里……」さらに数回、叩かれる。裕也は声の主に気づき、目を細めて絵里の顔を見た。「一緒に来たのか?」誤解されたくなくて、絵里はすぐに答える。甘く柔らかな声が、妙に色っぽい。「違う。来てから、彼もいるって知ったの」裕也は満足げに口元を吊り上げると、また強引に口づけた。絵里の身体を抱え上げ、自分の上に乗せる。「……続き」次の瞬間、部屋の中では嵐みたいに求め合い始めた。ドアの外に和也がいようと、まるで関係