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第478話

Author: こふまる
桐嶋涼という男は、本当に恐ろしい。

だが夕月はそれを不快に思わなかった。

これこそが彼らしい手段ではないか。

彼が生活の中に頻繁に姿を現し始めてから、その周到な策略は見え透いていた。

秘書が去り、夕月はオフィスチェアに座ったまま少し後ろに下がった。

「もう出てきて」命令するような口調で告げる。

冷静さを取り戻した声で続ける。「もう大丈夫でしょう?」

狭い机の下から這い出てきた涼は、笑みを湛えた瞳で尋ねた。

「楽しかった?」

「危うく心動かされそうになったわ」夕月は思わず口にし、その声には茶目っ気が混じっていた。

「じゃあ、まだ動かされてないってことか」涼は少し落胆した様子を見せながら、身を乗り出し、囁くように続けた。「さっき触った時の感触は、どうだった?」

夕月は輝く瞳を向け、認めざるを得なかった。「予想以上に……良かったわ」

二人の距離は、以前のような他人行儀なものではなくなっていた。夕月は今では普通に彼の名前を呼ぶようになっている。

だが今、わざと「桐嶋さん」と呼び、その声音には明らかな意味が込められていた。

涼には分かっていた。夕月が彼の策略を見抜いたことを。机の下に潜り込んだのは、吊り橋効果を狙った計算だと。緊張感から生まれる高鳴る鼓動を、恋心と勘違いさせる古典的な手法だと。

策略がばれたことへの後悔と共に、自身の心臓も激しく脈打つのを感じる。

困ったな——夕月の心は動かせなかったのに、自分の方が更に惹かれていく。

喉仏を鳴らしながら、涼は掠れた声で言った。「触りたい時は、いつでも構わないよ」

「ちょっとあなたの手を借りたいことがあるの」夕月が切り出した。

涼は一瞬戸惑いながらも、すぐに手を差し出した。「どうぞ」

頬を僅かに染めながら、「消毒、必要?」と尋ねる。

夕月は首を振る。「潔癖症じゃないから」

キーボードを涼の前に移動させながら言った。「あなた、IT技術に少し詳しかったわよね。楼座雅子の社長室のコンピューターにハッキングしてもらえる?」

なるほど、彼の手を借りるというのはそういう用途か。

がっかり!

それでも涼は快く引き受けた。「喜んで」

ITに関して彼は「少し詳しい」程度ではなかった。何かに、ある業界に興味を持った時、必ず全身全霊で飛び込んでいくのだ。

しかしその仕組みをすぐに習得し、短期間でそ
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