美優はその場に凍りついたまま、幼い心に深い傷を負っていた。これは、私が悪いの?パパと一緒に家に帰っていれば、涼おじさんは怪我しなかった。でも、矢を放ったのは、血を分けた兄、悠斗。昔は、あんなに仲良しだったのに。体格の差が開くにつれ、悠斗の態度は次第に冷たくなっていった。そして気づいたの。橘家では、ママ以外のみんなが、私より悠斗を大切にしているって。「悠斗!謝ったって、絶対に許さない!」美優は声を振り絞った。冬真の方を見つめ、か細い声で言う。「パパ、私……私もうパパの娘やめたい。橘家に二度と戻らなくていいようにするには、どうしたらいいの?」女の子は縛られた鳥のように自由を求めていたが、どうすれば羽を広げられるのか、まだ分からなかった。冬真の表情が凍てついたように硬く冷たくなる。「橘美優!お前は橘の娘だ。永遠に、私の娘であり、橘家の人間なんだ!」「じゃあ……じゃあ、橘じゃなくなってもいい?」美優は震える声で言った。「ママの姓になりたい」暗い影が冬真の全身を包み込んだ。「まあ、夕月姉さん」楓は腕を組んで嘲るように笑う。「立派なお嬢さんに育てたわね。橘家を裏切り、実の父親まで否定するなんて!」足元にしがみつく悠斗に向かって言い添える。「悠斗、絶対に美優みたいになっちゃダメよ」夕月は前に進み出て、美優の背後に立つ。小さな肩に両手を置き、静かに力を与えた。その時、手術室のドアが開き、医師たちがうつ伏せで横たわる桐嶋涼を搬送用ベッドで運び出してきた。皆が思わず振り返る。上半身裸の桐嶋の背中には、鍛え上げられた筋肉が美しく浮き出ていた。リラックスした姿勢でありながら、腰のラインにも無駄な贅肉は見当たらない。「涼おじさん、大丈夫?」美優は心配そうに声をかけた……桐嶋は顔を向け、えくぼを見せながら美優に優しく微笑みかけた。その表情に、見ている者の心まで和らいでいく。「ご家族の方はいらっしゃいますか?術後のケアについてご説明させていただきたいのですが」夕月はすでに桐嶋幸雄に連絡を入れており、今病院に向かっているところだった。「私に説明してください」夕月が医師に近づく。美優を守ってくれた桐嶋には、確かに恩義がある。冬真は夕月の後ろ姿を見つめ、眉間にいつの間にか深いしわを刻んでいた。他の医
「桐嶋さん!」楓は信じられないという様子で声を上げた。そして意地の悪い笑みを浮かべながら続けた。「夕月姉さんに興味があるの?それとも橘冬真の奥さまという立場に惹かれてるの?離婚話が出てるこのタイミングなら、背徳感を味わいつつ、非難も少なくて都合がいいんじゃない?」楓は桐嶋を見透かしたような表情を浮かべる。その瞬間、病室の空気が凍りついた。冬真から放たれる威圧感に、悠斗の足さえ震えている。桐嶋の切れ長の瞳に、冷たい光が宿る。「ずいぶんおしゃべりだね。まるでワイドショーのコメンテーターかと思ったよ」「私は……」「へぇ、他人の心を語るつもりが、自分の本音を吐いちゃうなんて。面白いじゃないか」楓は顔を真っ赤にして慌てふためいた。「そ、それはあなたのことでしょう!」「さすが楓さんは分かってるね~」桐嶋は意味ありげに笑いながら、視線を冬真に向けた。「こんな女と付き合ってるから、夕月さんに愛想を尽かされるのも当然だな」「お前たちは全然違う世界の人間だ。お前なんか夕月さんの足元にも及ばない」冬真の瞳が見開かれ、その中に激しい怒りの波が渦巻いた。冬真と夕月の婚約が発表された時、業界中が驚いていた。桜国を代表する財閥の令嬢と結婚できたはずの冬真が、藤宮家の娘を選んだのだから。確かに藤宮家も裕福ではあったが、一流の名門とは言えなかった。誰もが「夕月は棚からぼたもち」と囁いていた。むしろ冬真の寛大さを称賛する声すらあった。それに、夕月が18歳になってから藤宮家に引き取られたという事実も。橘家の大奥様が、夕月を相応しい令嬢に育て上げるのに、どれほど苦心したことか。なのに桐嶋は、冬真が夕月に相応しくないと?笑止千万。医者が生理食塩水と一緒に、脳みそまで洗い流したんじゃないのか。「まぁ、恋は盲目ってことね」楓は腕を組んで嘲るように言った。「へぇ、桐嶋さんは人の食べ残しまで狙うタイプだったとは」冬真は氷のような笑みを浮かべた。振り向くと、夕月が病室の入り口に立っていた。先ほどの会話を、どこまで聞いていたのだろうか。冬真は悠斗の手を引きながら、夕月に向かって歩み寄った。「来週の月曜日で離婚熟考期間が終わる。午後二時半に手続きの予約を入れた。藤宮夕月、来る勇気はあるのか?」離婚を切り出したの
「へぇ、桐嶋さんは人の食べ残しまで狙うタイプだったとは」彼女は冬真にとって、食卓に残された冷めた白米のような存在。味気なく、かといって捨てるのも惜しい。「男への復讐は、別の男と結婚することじゃないと思います」夕月は桐嶋に向かってはっきりと言った。「女の魅力をアピールして、27歳になってもまだ男に求められているって見せつけることでもない。私の価値は、男に選ばれることで決まるものじゃないんです」夕月は微笑んで続けた。「誰かに傷つけられた時の最高の復讐は、その人の手の届かない高みまで上り詰めること」もう奥深くに隠れて、男の影に生きる存在ではない。冬真と同じ目線に立つ。いいえ、もっと上へ。冬真さえも届かない場所まで。我に返ると、桐嶋の熱を帯びた視線が自分に注がれているのに気づいた。一瞬、動揺が夕月の瞳を掠めた。桐嶋は視線を逸らし、「やっと本来のあなたに戻ったね」と呟いた。これこそが、彼の心を惹かれた夕月の姿だった。「え?」うつ伏せの姿勢で発された言葉は不明瞭で、夕月には聞き取れなかった。桐嶋は長い睫毛を伏せ、ゆったりとした笑みを浮かべた。「幼稚園での危険物使用の件、橘家のご子息の。夕月さんが表に立ちたくないなら、僕が対応しましょうか。被害者として」夕月は頷いた。「被害者として、橘家と幼稚園に賠償や謝罪を求めるのは、桐嶋さんの当然の権利ですから」夕月は美優を見つめた。大人なら感情をコントロールできるが、子供にはそれは難しい。美優と悠斗を同じ幼稚園に通わせていては、また衝突が起きるかもしれない。クラス替えをしたところで、園内で顔を合わせることは避けられない。「来年から美優は小学生です。本来なら橘家の予定通り、桜井小学校に進学するはずでしたが、転校を考えています。桜都で最高の教育環境といえば、桜井の他には……」「第二工場小学校ですね」桐嶋が夕月の言葉を引き取った。第二工場小学校――鉄鋼工場と兵器工場の愛称から名付けられた学校は、かつて特別な時代に桜都の功労者たちが子女を通わせた場所だった。今では、お金があっても簡単には入れない名門校となっている。「父に紹介状を書いてもらえば……」桐嶋が切り出そうとしたが、夕月は微笑んで遮った。「先生にご迷惑をおかけする必要はありません。実は、第二工
翌日。黒いバイクの咆哮が通りに響き渡り、道行く人々の視線を集めていた。藤宮楓がバイクを停める。前には黒のライダージャケットに黒のヘルメットを被った小さな人影が座っていた。楓はヘルメットのシールドを上げ、意地の悪い笑みを浮かべた。「夕月姉さん~お手伝いしましょうか?」彼女は悠斗を連れて天野が経営するジムにやって来た。ちょうど夕月が大きなゴミ袋を二つ抱え、階段を降りてくるところだった。夕月はシンプルなベージュのパーカーを着て、袖を肘まで捲り上げていた。髪は無造作に一つに束ね、白磁のように滑らかな頬に数本の髪が散っていた。楓の前に座る小さな影が声を上げた。「あんなの放っておけばいいじゃん!」それは悠斗だった。母親のそんな姿を見て、恥ずかしくてたまらないようだった。楓の目が意地悪な笑みを湛えていた。悠斗を乗せて来たのは、またしても夕月の惨めな姿を見物するためだった。階段を降りてくる美優の姿が目に入った。女の子は両腕にミネラルウォーターの箱を抱え、その腕は逞しく力強かった。天野と引っ越し業者の作業員たちはエレベーターから出てきて、重いトレーニング機器をトラックに積み込んでいた。橘冬真は家主から物件を三倍の価格で強引に買い取った。そして天野に対し、一日以内にジムから機器を全て撤去するよう命じたのだ。この光景を目の当たりにした楓は、思わず面白がってしまう。「夕月姉さん、あなたって災いを呼ぶ体質?天野さんのところに来なければ、こんな風にジムを畳むことにはならなかったのに」「楓、頭がおかしいなら病院に行けば?私のところに来ても意味ないでしょ」夕月はゴミ袋をゴミ箱に放り込んだ。楓も冬真も知らなかったが、この五階建ての商業ビルのオーナーは実は天野だった。天野はビルを購入後、管理を容易にするため複数のサブリース業者に分けて貸し出していた。以前、あるサブリース業者の妻が重病になった際、天野はその業者から物件を借り受け、ジムを開業したのだ。今、その業者は恩返しとして、三倍の家賃を天野の口座に振り込んでいた。楓の皮肉な言葉を耳にした天野は、大股で彼女に向かって歩み寄った。その男の存在感は圧倒的で、影が楓に覆い被さる前から、彼女は居心地の悪さを感じ始めていた。悠斗までもが身を縮めるほどだった。「
ヘルメットの下で楓の顔が青ざめていたが、誰の目にも届かない。幸い、発進したばかりで速度は出ていなかった。悠斗はガソリンタンクに体を打ち付け、ヘルメットがメーターパネルに当たった。「うっ!ゲホッ、ゲホッ!」胸を強く打った悠斗は、激しく咳き込んだ。「悠斗!ちゃんと掴まって!しっかり座るのよ!」楓は悠斗が無事なのを確認し、密かに胸を撫で下ろした。彼女は悠斗の服の背中を掴んで持ち上げ、正しい姿勢に座り直させた。「大丈夫だよ!」悠斗は頭を上げ、ヘルメットを直しながら、夕月と美優に聞こえるように大声で叫んだ。「もう!何てドライバーよ!」楓が文句を言う中、さっきぶつかりそうになった車も停車していた。運転手はハンドルを握りしめたまま、窓越しに怒鳴った。「逆走してんじゃねーよ!」「子供乗せてるの見えないの?てめぇ!」相手の運転手は呆れた様子で、「カスタムバイクで子供を乗せるなんて、命知らずもいいとこだな!」楓は中指を立てて相手を挑発した。悠斗も楓の真似をして、運転手に向かって中指を立てた。へこんだガードレールから苦労してバイクを引き出した楓は、壊れたヘッドライトを見て腹が立った。夕月の惨めな姿を見に来たのに、逆に恥を掻かされた形だ。運転手との言い争いに気が進まなくなった楓は、すぐさまエンジンを吹かし、その場を走り去った。二人の姿が見えなくなると、夕月の高鳴っていた鼓動も次第に落ち着いていった。「美優、上に戻って片付けを続けましょう」これからは、悠斗に何が起ころうと、自分には関係のないこと——悠斗が楓に懐く姿を見て、夕月は最悪の事態を覚悟していた。この間、夕月は美優とホテル暮らしを続けていた。部屋探しは、賃貸であっても簡単な話ではなかった。立地、間取り、住人の質、すべてを考慮に入れなければならない。夕月はようやく見つけた小さな物件を、美優の将来の通学を考えて、購入しようと決めた。桜都証券のアプリにログインすると、約16億円の資産が凍結されているではないか。赤井が夕月からの電話を受けた途端、切り出した。「藤宮さん、私も今朝方連絡を受けたところです。内部者取引の疑いで告発があり、証券取引所が16億円ほどの資金を凍結したとのことです。この資金は橘社長からの送金ですから、
ヘアクリップで後ろに留めた髪から、数本の髪が自然に垂れている様は、却って洗練された印象を与えていた。カシミアのロングワンピースが、しなやかな体つきを際立たせている。片手には革のクリアファイル、もう片方の手にはスマートフォンを持っていた。パーティーに連れて行くことの少なかった冬真は、ドレス姿の夕月の記憶すら曖昧だった。夕月は冬真を見ても近寄ろうとはせず、階段をまっすぐ上っていく。どうせ行き先は同じなのだから。背後に立った男の、低く沈んだ声が響いた。「監視委員会に声明を出して、早期解除を求めることもできるが」彼女の窮地を知りながら、高圧的な態度を崩さない。12億円など冬真にとっては些細な金額だ。だが夕月には、今すぐにでも必要な家を買うための資金なのだ。夕月は振り向きもしなかった。男の声が再び響く。「大金の動きは、様々な目が光っている。株価上昇前に仕込めたのは運が良かったな。だが今は荒れ模様だ。監視委員会は見せしめを探している。告発があった以上、冤罪と知っていても、簡単には見逃さないぞ」夕月は足を止め、ゆっくりと振り向いて冬真を見上げた。「つまり、あなたのライバルが私を告発したということ?」冬真は顎を僅かに動かして頷いた。「事前に気付いていたはずなのに、黙っていたのね。私の失態を見たかったんでしょう」夕月は皮肉な笑みを浮かべた。端正な顔立ちに眉間の皺を寄せる。常に他人の心を読む立場だった男は、一段高い階段に立つ夕月に見透かされ、何とも言えない不快感を覚えた。「言っただろう。お前のセレブ体験はもう終わりだ。12億円だって、私の気分次第で与えることも、奪うこともできる」「橘冬真!離婚協議書にはあなたがサインしたはず。約束を守りなさい」「お前に条件を語る資格があるとでも?」露骨な嘲りが、無数の針となって夕月の顔に突き刺さる。愛は換金できない。補償が得られるかどうかは、すべて冬真の気分次第、良心の目覚め次第。彼が与えるとすれば、それは夕月への恩賞であり、ご褒美なのだ。感謝して、頭を下げて受け取るべきものだと。「お前に12億円の価値なんてない。一軒の家の価値すらない」冬真は彼女の単純さを愚かしく思った。「納得できないなら、裁判所に訴えればいい。そうすれば分かるはずだ。主婦、専業主婦が
夕月は軽やかな笑みを浮かべた。「まさか、私との離婚が惜しいんですか?」「離婚後もお前に纏わりつかれる方が面倒だ」冬真は冷ややかに言い返した。「杞憂ね」夕月は彼と同じような冷めた口調で返した。係員が二人に離婚証明書を手渡す。夕月は離婚証明書の自分の写真を見て、満面の笑みを浮かべた。その表情には明らかな満足感が滲んでいた。冬真は証明書を受け取ると、一瞥もせずに立ち上がった。「橘さん、少々お待ちください」夕月の声に、男の足が止まる。スーツのポケットに片手を入れたまま振り向き、冷笑を浮かべる。「もう後悔したのか?」「美優の改姓の書類にサインをお願いします。私の姓に変わりますので」夕月は淡々と告げた。男の整った顔から笑みが凍りつくように消えた。夕月が応接室を出ると、天野が美優と共にロビーで待っていた。天野は冬真の姿を見て、笑みを押し殺すのに苦労した。百悦モールとスターモールの物件も、また法外な値段で買い取られたばかりだったから。「ママ!」美優は椅子から飛び降り、小走りで夕月の元へ。彼女は冬真を見上げ、「おじさん」と呼びかけた。まだ離婚という言葉の意味は分からなくても、今日から呼び方を変えなければならないことは理解していた。冬真の胸中は複雑な感情が渦巻いていた。喉に紙を詰められたような、どうしようもない違和感。「18歳になったら、自分で決められるようになる。その時、また姓を戻すチャンスはある」彼は美優に告げた。美優は首を振った。「ママが考えてくれた新しい名前、気に入ってるの」冬真の表情が変わった。「美優じゃないのか?」「うん。『藤宮瑛優(ふじみや えいゆ)』になるの。瑛は『輝く玉』という意味で、優しさと共に光り輝く強さを表すんだって。漢字は難しいけど、ママが選んでくれた意味が大好き」「美優……それも良い名前じゃないか」冬真は呟くように言った。双子の名前は、父が早くから決めていた。橘悠斗という名前には、深い意味が込められていた。家系を継ぎ、幾多の困難を越えて、誇り高く帰還せよという願いが。「悠」には遥かな道のり、「斗」には戦いを制する力強さが表されていた。男子には野心を持って道を切り開くことが求められ、一方、女子は「美優」という名の通り、ただ穏やかに頼れる男性を見つければ良
「皆さん、この方をお祝いしましょう!やっと重荷から解放されて、独身貴族に返り咲き!離婚おめでとう!」楓の号令で仲間たちが横断幕を掲げ、クラクションを鳴らし、紙吹雪を撒き散らした。「ママ、楓おばさま、何してるの?」美優は首を傾げた。「橘おじさんと一緒に恥を晒してるのよ」夕月は美優の手を引き、遠回りして立ち去った。夕月が尻尾を巻いて逃げていくのを見て、楓は勝ち誇ったように冷笑を浮かべた。渋々と楓に近づく冬真。「何をしているんだ?」楓はつま先立ちで冬真の肩に腕を回した。「冬真の離婚祝いに決まってるじゃない!」「声が大きい。恥ずかしくないのか」冬真は眉をしかめた。だが楓は気にする様子もない。冬真が夕月と離婚したことが、この上なく嬉しかった。「さあさあ!お店も押さえてあるわよ。めでたい日なんだから、お祝いしないとね!」その夜――個室ラウンジで楓がグラスを高々と掲げた。「冬真の独身復帰を祝して!これからは家庭の束縛から解放されて、可愛い子との出会いも、お酒も思う存分楽しめる!かんぱーい!独身最高!」「冬真さん、離婚おめでとうございます!」周りも声を合わせて祝いの言葉を投げかける。楓は肩を揺らしながら、まるでゴリラのような奇声を上げていた。冬真はソファに座ったまま、払いのけようのない暗い影に包まれていた。黙々とグラスを口に運び、表情は闇に沈んでいる。何故だろう。胸が締め付けられるような感覚。七年の結婚生活で、一度も夕月を好きになることはなかった。離婚証明書を手に去っていったのだから、晴れ晴れとしているはずなのに。強い酒が喉を焼き、心を灼く。楓がウイスキーのボトルを手に、ぴったりと寄り添うように座った。「独身祝いに、いい子たち呼んであるのよ。この私が太鼓判を押す極上の逸材たちだから!」「楓兄貴!俺たちにも紹介してよ!」誰かが声を上げる。「お父さんって呼んでくれたら、考えてあげる!」楓が叫び返す。からかうような野次が飛び交う中、ドアが開き、派手なメイクをした女性たちが入ってきた。「ほら冬真、見てよ!気に入った子がいたら、そばに置いておくわよ」楓は上機嫌だ。「この子なんて、すごいボリューム!まるでボール二つ詰め込んだみたい!」一人の女性を指差しながら。「ねぇ、ちょっと
冬真の瞳が見開かれた。涼の言葉の意味を、まさか……思わず写真で確認しそうになる衝動を必死に抑え込む。涼のあそこの色が本当にピンクなのかどうか……怒りに震える冬真の視線の先で、涼は冷ややかな目つきで彼の胸元を見つめていた。冬真の顔が真っ黒に染まる。涼は勝ち誇ったような笑みを浮かべている。まるで何かの勝負に勝利したかのように。冬真の喉が詰まりそうになる。こんな馬鹿げた争いで負けるわけにはいかない。「ふん」鼻を鳴らして態勢を立て直す。「メラニン色素の沈着は普通だ。布との摩擦で色が濃くなるのは当然のことだろう。お前みたいに薄いほうが異常なんだ!」自分の言葉の意味に気付いた瞬間、冬真の頭の血管が爆発しそうになった。涼の罠にまんまとはまってしまった。誘導されるままに、仕掛けられた罠に足を踏み入れていた。冬真は顎を上げ、スマートフォンを涼に投げつけた。しかし涼は受け取らない。端末は床に落ち、数メートル先まで滑っていった。ふん、怖気づいたか。冬真の瞳に冷たい光が宿る。先日のテクノロジーサミットで一発食らわせた時のことを思い出す。涼は血を吐くほどの打撃を受けた。この男は自分の前では無力な雑魚同然だ。「なるほどね」涼は涼しげに微笑んだ。「俺は七年前からスキンケアを欠かさないんだ。事実、この色の方が夕月の心を揺さぶれるってことさ」冬真の怒りは限界に達していた。「どんなに取り繕っても、所詮は見かけだけだ!私が彼女に与えた悦びには及びもしない!」鼻から荒い息を吐き出す。自分が今、怒り狂った野獣のように醜い形相をしているのは分かっていた。橘グループの後継者として常に冷静さを保つべきなのに。なぜこんなにも涼に感情を掻き立てられるのか。制御が利かない。これは男としての独占欲なのか?いや、違う。ただ涼のこの傲慢な挑発が許せない。男としての誇りを踏みにじられた——これは夕月とは無関係だ!涼の整った顔立ちが冷たさを帯び、氷の結晶のような瞳が冬真を射抜く。「彼女が俺では物足りないなら、他の男を探せばいい。でも覚えておけ。他の男は一時の宿、俺こそが彼女の居場所になる」冬真の価値観が根底から揺さぶられ、瞳が激しく震えた。両手が強く握り締められ、手の甲から腕にかけて青筋が浮き上がる。涼には分かっていた。この男が今
長身で背筋の伸びた涼は、あまりにも端正な容姿のせいか、店内の視線を一身に集めていた。涼がトイレの方へ向かうのを見た冬真も、席を立った。「冬真さん!」女性の呼び声も無視し、彼は冷たく言い放った。「お帰りください。一人にしてもらいたい」世間知らずの令嬢が、こんな扱いを受けたことなどあるはずもない。顔から血の気が引いた。「ふん!」お見合い相手はブランドのバッグを掴むと、怒りに任せて店を出た。レストランを出るなり、携帯を取り出して電話をかける。「はい、楼座様。私の任務は……失敗したようです」*夕月は冬真がトイレに向かうのを見て、二人の男が同時にトイレへ行くのは明らかに不自然だと感じ、すぐに涼にメッセージを送った。個室の中で、涼は夕月からのメッセージを確認する。スマートフォンの光が瞳に映り込む中、彼は口元を緩めて小さく笑った。夕月が自分を気にかけてくれている。なんだか、嬉しいな。涼は個室を出て、洗面台にスマートフォンを置いた。手を洗い、ペーパータオルで手を拭きながら出口へ向かう。険しい表情の冬真が奥の個室から出てきて、洗面台に置き忘れられたスマートフォンに目を留めた。涼のスマートフォンか。手に取ると、画面にLINEの通知が表示されていた。相手の名前は「月ちゃん」。「橘のやつもトイレに来た」その表示名を見た瞬間、冬真の胸に鈍い衝撃が走る。メッセージの内容を確認した途端、その表情は今にも豪雨を落とさんばかりの暗雲のように険しくなった。奥歯を強く噛みしめ、顎の筋肉が微かに震える。スマートフォンにロックが掛かっていないことに気付いた。冬真は即座に画面をロック解除した。息を詰まらせながら、親指が画面上を這うように動く。まるで闇に潜む怨霊のように、夕月と涼のやり取りを覗き込んでいった。突然、冬真の指が止まった。涼の自撮り写真が目に飛び込んでくる。涼が夕月に送っているのは、一体何なんだ……!?冬真の目が憤怒に燃えた。画面に触れる指の関節が、力が入り過ぎて真っ白になっている。手の甲に浮き出た青筋が、今にも皮膚を突き破りそうだ。これは……見るに堪えない!!破廉恥な男め!荒い息を吐きながら、獅子のように激昂した冬真が顔を上げると、鏡に涼が映っていた。西洋ズボンのポケット
降り注ぐ淡い陽光の中、冬真の頭の中で無数の蝿が飛び交うような騒がしさが渦巻いていた。*昼時、夕月は涼と共にレストランを訪れていた。涼がメニューに目を落としている間、夕月は何気なく視線を巡らせ、そこで凍りついた。少し離れたテーブルに冬真が若い女性と座っているのが目に入った。今日は厄日だったのか。あの男が視界に入っただけで胸が締め付けられる。「夕月さん、何か食べたいものは?」涼の澄んだ声に、夕月は慌てて視線を戻した。「もう他の男性に目移りですか?」涼が片眉を上げて茶目っ気たっぷりに言った。夕月は思わずナプキンで顔を隠したくなった。「あの人が見えちゃって……」頬を膨らませながら、涼に向かって舌を出す仕草を見せた。涼の目の前で、彼女の表情が途端に生き生きとして、たまらなく愛らしい。「僕の店選びが悪かったね」涼が口元を緩めて言った。「席を替わろうか?」涼の座る席は、ちょうど衝立で隠れていて、冬真からは見えない位置にあった。夕月は首を振った。「もう気付かれてると思う」冬真は席に着くなり、窓際に座る夕月の姿を目にした。スーツ姿の夕月など見たことがなかった。子供の世話に明け暮れていた元妻が、キャリアウーマンのように凛とした雰囲気を纏っているとは。一瞬、目を疑うほどだった。彼の視線に気付いたのか、夕月は顔を逸らした。もしや、自分を観察していたのか。この店は橘グループのビルから近い。夕月は自分を待ち伏せていたというのか。昼下がりの光が夕月の周りを優しく包み込み、束ねた黒髪の端が金色に輝いてい「冬真さん?聞いてらっしゃいます?」向かいに座る女性が彼の様子に気付き、その視線の先を追おうとした。その時、一本のフォークが夕月に差し出された。長く逞しい指をした男の手だった。「味見してみて」涼が切り分けたステーキを夕月の唇元まで運ぶ。夕月は頬を染めた。これは冬真に見せつけているのだろうか。口を開けて、差し出されたステーキを受け取る。瑛優以外の人に食べ物を口移しされるのは、なんだか変な感じ。夕月の頬が薔薇色に染まる。まるで本当に恋をしているみたいだった。涼が分けてくれたステーキは、確かに美味しかった。冬真は突然立ち上がった。向かいの女性が驚いて身を引く。男から放たれる威圧的
楓は期待に満ちた目で彼を見つめた。しかし、男の表情は冷ややかなままだった。「お前は悠斗の人生を台無しにした。刑務所に入らないで済むと思っているのか?甘すぎる」その声に、楓は全身の血が凍るのを感じた。「やだ……刑務所なんて嫌!汐だって、私が刑務所に入るなんて望んでないはず……昔は警察に捕まっても、汐がすぐに助けに来てくれたのに……」楓は涙を流しながら、必死に首を振った。男は彼女の言葉を冷たく遮った。「それは汐の話だ。私は違う。私は悠斗の父親なんだ」冬真は、もはや楓を非難する言葉すら口にしなかった。バイクに悠斗を乗せた彼女の無謀な行動も、あれほど止めていたのに。楓の考えは見え透いていた。悠斗が自分に懐いていれば、どんな面倒を起こしても冬真が庇ってくれると。そして事実、汐との絆を考えて、冬真は何度も彼女を見逃してきた。だが今回は違う。我が子がICUに運ばれるところまで追い詰められた。もう、彼女の行動を許容できる限界を超えていた。楓は彼から放たれる威圧的な雰囲気に萎縮し、赤く腫れた瞼を震わせた。「今日、私が来たのは……汐との約束があったからだ。お前の面倒を見てやってくれと」冬真は差し入れの入った袋をテーブルに置いた。留置場でゆっくり正月を過ごすといい」立ち上がって背を向けた冬真に、楓は必死な声で叫んだ。「私の部屋の化粧台、二段目の引き出しに古い携帯があるの。汐が……最期に残した伝言が入ってるわ」その言葉に、冬真の足が止まった。「本当は教えるつもりじゃなかったの。でも冬真、汐の死の真犯人はまだ罰を受けていないのよ!」冬真がゆっくりと振り返る。その鋭い眼差しは、まるで楓の心の奥底まで見通すかのようだった。「その犯人というのは……」楓は冬真の鋭い視線に震えながら、「私の家に行って、汐の最期の声を聞いて。冬真、また会いに来てね……」もう後がない。楓は、ここまで追い込まれた自分の境遇を肌で感じながら、全てを賭けた一手を打つことを決意した。留置場を出た冬真の携帯が鳴り響く。母親からの着信に、思わず眉間にしわが寄った。無視しようとしたが、執拗に鳴り続ける着信音に、結局応答せざるを得なかった。「はい、母上」「冬真、お見合いの約束を入れたわよ。正午にムードレストランで。お相手は……」冬
「私のため?」盛樹の体が震えた。雅子は髪を弄びながら、シートに片手をついた。深く開いたスーツの襟元には何も着ていない。少し前かがみになると、盛樹の視線は自然とその谷間へと吸い寄せられ、思わず喉が鳴った。目の前で艶やかに揺れる魅惑的な曲線に、盛樹は我を忘れ、ただ真紅の唇の開閉を追いかけるばかり。「藤宮テックを買収したいの」「な、何だって?」盛樹は再び震えた。しなやかな指が彼の太ももに触れる。「盛樹さん、私の願いを叶えて?」盛樹は鼻腔が熱くなり、全身が強張る。もはや自分の言葉すら制御できない。「い、いいとも……」雅子が片方の唇を上げて笑う。対面に座っていた北斗が耐えきれず口を開いた。「父さん、確か買収案件は全て夕月に一任したはずでは?」「夕月?」雅子が首を傾げた。盛樹は北斗を睨みつけながら答えた。「私の娘だ。雅子さん、彼女に関するニュースを見たことがあるだろう?」「海外にいたものでね。国内の話題にはうとくて」雅子は首を振った。盛樹は誇らしげに語り出す。「うちの娘はALI数学コンペで金賞を取ったんだ!それだけじゃない。あの有名なレーサー、Lunaとしても活躍している。この前の国際レース・エキシビションにも出場したんだよ。七年間も主婦をしていたのに、社会に出るや否や八面六臂の活躍ぶり。すごいと思わないかい?」「主婦がコンペの金賞?何か裏があるのでは?」雅子は物思わしげに呟いた。「うちの娘は14歳で花橋大学の飛び級に入った天才なんだ!」盛樹は興奮気味に反論する。雅子は艶のある眼差しを向けながら、「でも、ALIコンペが主婦に金賞を与えるなんて……研究に打ち込む院生や博士たちに失礼じゃないかしら?それに、また主婦に戻るかもしれないのよ?」「そ、それは……」盛樹は言葉に詰まった。「七年も主婦をしていた人が、急にレース界に現れるなんて。プロのレーサーたちはどう思うでしょうね?」盛樹は雅子の言葉に次第に説得され始めていた。「でも夕月は買収案の責任者として、二つの有力な買い手を見つけてきた。ムーンワールドグループ傘下のフェニックス・テクノロジーと桐嶋氏の引力テクノロジーが競合していて、引力は4000億もの高値を提示してきたんだ」「雅子おばさん」北斗が割り込む。「うちの会社、いくらで買収するつもり?」雅
「#楼座雅子帰国#」というトレンドワードが瞬く間にネットを席巻した。「女帝、お帰りなさい!」「楼座雅子様の帰国で、桜都の名門家に激震が走るぞ」「楼座雅子って誰?すごい人なの?」「知らないとか、さては2000年代生まれでしょ」年配のネットユーザーたちが、次々と解説を始めた:楼座家は桜国を代表する財閥の一つ。古くから金融界に君臨してきた名門で、雅子は楼座家が迎えた養女。今年で47歳。25年前、彼女と楼座家三兄弟との愛憎劇は、長編小説が書けるほどの話題を呼んだ。最終的に、雅子は心を閉ざし、楼座財閥の経営に専念。三人の兄は、一人が不具に、一人が精神を病み、もう一人は出家した。25年前、雅子は最も注目された女性実業家で、メディアは彼女の出現を「新時代を切り開く女性の幕開け」と称えた。子供は一人もおらず、結婚歴もない。だが、世界中から才能ある少女たちを養女として迎え入れ、育て上げた。その養女たちは今や、各界で活躍する著名人となっている。*桜都国際空港。VIP専用ゲートの前で、盛樹は真っ赤なバラの花束を抱え、首を伸ばして待ちわびていた。その横で北斗は両手をポケットに入れ、退屈そうにガムを膨らませては潰す。「パチッ」という音が何度も鳴り響く。「うるさい!」盛樹が苛立ちを爆発させた。「私が雅子を迎えに来てるのに、お前は何しに来たんだ」北斗は艶のある瞳に笑みを浮かべる。「父さんの忘れられない初恋の人が、もしかしたら僕の母親かもしれないじゃない」盛樹が何か言おうとした瞬間、黒いスーツワンピースを纏った女性が姿を現した。漆黒の髪が滝のように流れ、真紅の唇が艶めく。サングラスを外すと、まるで花のように美しい横顔が露わになる。時の流れが彼女だけを特別扱いしたかのように、年齢を感じさせない艶やかな表情。丸みを帯びた顔立ちに、凛とした眉目は妖艶な大人の魅力を漂わせていた。10センチの厚底ヒールを履いた足取りは、まるでランウェイを歩くモデルのよう。「雅子!」盛樹の目が釘付けになる。楼座雅子の後ろには、黒い制服に身を包んだ六人の精悍な男たちが整然と並び、30インチの黒いスーツケースを手に、まるでトップモデルのような佇まいで従っていた。北斗は盛樹と共に歩み寄る。「雅子おばさん」北斗は雅子の顔をじっ
「……もう一つは桐嶋さんが率いる引力テクノロジーからの提案です。買収額400億、全従業員と部門の維持、そして新オーナーの下での独立経営を保証する内容となっています」盛樹は真っ先に引力テクノロジーの企画書を手に取り、数ページ目を捲って呟いた。「400億?なぜ桐嶋さんがこれほどの高額を……」涼は椅子に深く寄りかかり、どこか投げやりな態度で答えた。「美人の笑顔一つのためさ。夕月さんへのプレゼントってところかな」盛樹の疑わしげな視線が、夕月と涼の間を行き来する。「夕月さんは僕の彼女だからね」涼は続けた。「彼女が喜ぶなら、それだけで価値があるさ」盛樹は驚愕の表情で夕月を見つめた。「お前と桐嶋さんが……」実は盛樹は、娘のために離婚歴のある実業家を何人か物色していた。早く夕月を片付けて、藤宮家の利益になる縁戚関係を作りたかったのだ。まさか、あまり期待していなかった長女が、こんな大きな驚きを用意していたとは。「やるじゃないか、夕月」盛樹は満足気に顎を撫でながら、口角を上げた。他の役員たちも内心で思いを巡らせていた。まさか桐嶋が長年独身を通してきたのは、橘冬真の妻を想っていたからとは。盛樹は引力テクノロジーの企画書を手に、零れそうな笑みを必死に押さえ込んだ。「400億か。さすが桐嶋さんだ」「夕月さんのことは随分前から好きでした」涼は率直に言った。「今、やっと付き合えることになった。だから、彼女が喜ぶ数字を出させてもらいました」声のトーンを落として続ける。「藤宮社長、断る理由はないでしょう?」グラスを指先で回しながら、一滴の水も零さない。「断るなんて、少し物分かりが悪すぎますよね」涼は軽く笑ったが、漆黒の瞳に鋭い光が宿る。「冗談ですよ。義父上を脅すわけないじゃないですか」その傲慢な眼差しに、盛樹は凍りついた。「義父上」という言葉に、体が震える。まさか、娘を遊び半分で口説いているわけではない?興奮で手を擦り合わせながら、何か言おうとした瞬間、テーブルの上の携帯が震えた。最初は無視するつもりだったが、画面を見た途端、また体が震えた。慌てて電話に出る盛樹。声が震えている。「も、もしもし……」女性の声が響いた。「盛樹さん、帰国したわ」盛樹は立ち上がった。「会議は一時中断!空港まで行っ
でも、涼が自分を見つめる時、その夜空の星のように深い瞳の中には、ただ夕月だけが映っていた。エレベーターのドアが開くと、夕月は颯爽と外に出た。会議室に向かいながら、後ろを歩くフェニックス・テクノロジーのメンバーに指示を飛ばす。「三分以内に全役員を会議室に集めて」その言葉を受けて、背後の精鋭たちが瞬時に散開した。彼らは次々と役員たちを半ば強引に会議室へと連れてきた。「何者だ!」「警察を呼びますよ!」役員たちは顔を真っ赤にして抵抗する。だが会議室に入れられた途端、彼らは椅子の背もたれに寄りかかるように座る夕月の姿を目にした。細身の体つきに柔和な表情。しかし主席に座る彼女から放たれるオーラは、その場にいる全員を圧倒していた。役員たちは皆、夕月のことを知っていた。中には夕月の叔父にあたる者も何人かいる。「夕月、お前がこんなことを?」「夕月、やり方が乱暴すぎるぞ」夕月は腕時計に目をやり、「定刻に遅れました。今年のボーナスは30%カットです」と告げた。「何の権限があってボーナスをカットするんだ?」藤宮の姓を持つ役員が不満げに言う。その時、藤宮盛樹が怒りに任せて駆け込んできた。「反乱を起こすつもりか」夕月を見るなり詰め寄る。「お父さん」夕月は穏やかな声で返した。「私は、あなたが任命した副社長であり、買収プロジェクトの責任者です。業務にご協力をお願いします」盛樹は嘲るように冷笑を浮かべ、まるで三つ子を見るかのような目で夕月を見下ろした。「新任の意気込みってやつか。さあ、どんな手を打つのか、見物だな」そう言いながら、入室時から気になっていた涼の方へと歩み寄る。キャビネットから葉巻を取り出すと、にやつきながら涼に差し出した。「桐嶋さん、お忙しい中、わざわざ娘の付き添いとは」涼は翡翠を彫り上げたような長い指で葉巻を受け取った。低く声を落として言った。「藤宮社長、察しが悪いですね」盛樹は即座に会意し、ライターを取り出して葉巻に火を点けた。立ち昇る青い煙に夕月が眉を寄せるのを見て、涼は直ちに葉巻を消し、ゴミ箱に投げ入れた。上着を脱ぎ、夕月の隣に座り直す。夕月は思わず舌先を噛んだ。妊娠中、冬真の吸う煙を散々吸わされた日々が蘇る。受動喫煙の害を伝えた時、大奥様に「田舎者の分際で、よくそん
朝焼けがほのかに空を染め始めた頃、専用のマイバッハSクラスが、黒豹のように藤宮テックの本社ビル前に滑り込むように停車した。ドアが開き、長い脚が最初に姿を現す。艶やかな革靴が大理石の床を踏みしめた。涼が車から降り立つ。深みのあるグレーのオーダーメイドスーツが、鍛え上げられた体躯にぴったりと馴染んでいた。彼は振り返り、今まさに降りようとする夕月に手を差し出した。「彼女さん」すっかり役になりきった様子で、夕月は微笑みながら、その大きな手のひらに自分の手を載せた。オフィスビルのロビーに入ると、夕月と涼を先頭に、フェニックス・テクノロジーの買収プロジェクトチーム——会計士、財務アナリスト、税理士たちが堂々たる行列を成していた。先頭を歩く二人の姿に、フェニックス・テクノロジーのプロジェクトリーダーは思わず目を留めた。夕月の黒いスーツは肩のラインが美しく、細い腰が際立つ上品な仕立て。そして気づいたのは、夕月と涼のスーツが同じブランドだということ。二人の歩調が自然と揃い、醸し出す雰囲気が不思議なほど調和していた。その光景は、まるで絵になるようだった。夕月は迷うことなくエレベーターに向かう。以前二度訪れた経験から、社内の配置は把握していた。「ちょっと!」受付の女性が、ヒールを鳴らして駆け寄ってきた。予約なしでエレベーターには乗れませんよ!」夕月は振り返り、「新任副社長の藤宮夕月です」と告げた。「副社長だなんて、そう言えばなれるんですか?そんな通達、受けてませんけど!」夕月は相手を見向きもしなかった。この異常な対応は、明らかに誰かの指示を受けてのことだった。エレベーターのドアが開く。受付は叫び声を上げ、ドアを押さえようとすると同時に夕月を押しのけようとした。だが夕月に触れる前に、フェニックス・テクノロジーのメンバーが動いた。鉄壁のように夕月の前に立ちはだかり、受付との間を遮った。全員が退役軍人という経歴を持つ専門家たちは、一糸乱れぬ威厳に満ちていた。彼らは何も言わず、ただそこに立っているだけで、小柄な受付の女性の背筋が凍るほどの存在感を放っていた。エレベーターに乗り込みながら、夕月は受付に告げた。「給与計算を済ませて、明日から来なくていいわ」「私を解雇するって?何の権限があるんですか!」受付