LOGIN肩が触れそうで触れない距離を保ちながら。
唯と高倉は駅前の通りを歩いていた。
夕暮れの街は人通りが多い。
仕事帰りの会社員。
買い物帰りの家族連れ。
楽しそうに笑い合う学生たち。
いつもと変わらない光景のはずなのに、唯にはどこか現実感が薄かった。
隣を歩く高倉の存在ばかりが気になってしまう。
「お店、遠いんですか?」
沈黙に耐えきれなくなって尋ねる。
高倉は少しだけ視線を向けた。
「もうすぐです」
そう言って微かに笑う。
その横顔を見て、唯は慌てて前を向いた。
心臓が忙しい。
高校生でもあるまいし、と自分へ呆れる。
やがて高倉が足を止めた。
案内されたのは、大通りから一本入った静かな路地にある店だった。
大きなチェーン店ではない。
落ち着いた雰囲気の、小さなレストラン。
ガラス越しに見える店内は柔らかな照
「今は、それだけではありません」高倉はそう言ったきり、言葉を続けなかった。唯もまた、その先を聞くことができなかった。聞けば答えてくれる気がした。けれど、聞いてしまえば何かが変わってしまう気がして。その一歩を踏み出す勇気が出なかった。店内には穏やかな音楽が流れている。窓の外では夜の街が静かに灯り始めていた。唯はグラスへ手を伸ばし、水をひと口飲む。冷たいはずなのに、少しも熱が下がらない。高倉も無理に話を続けようとはしなかった。その沈黙が不思議と心地よい。昔の唯なら耐えられなかっただろう。何か話さなければ。気まずくならないように。そんなことばかり考えていたはずだ。けれど今は違う。何も話さなくても、隣にいることが自然だった。しばらくして、高倉がふっと表情を和らげる。「そういえば」空気を変えるように口を開く。「以前、美咲さんがおっしゃっていましたね」「美咲が?」「桜井さんは甘いものがお好きだと」唯は思わず笑った。確かに好きだ。けれど、美咲は本当に余計なことまで話しているらしい。「否定はできません」そう答えると、高倉も小さく笑った。その表情はどこか安心したようだった。「実は、この店を選んだ理由の一つなんです」唯は目を瞬く。高倉は少し照れたように視線を逸らした。「デザートが評判だと聞きましたので」その言葉に胸が温かくなる。落ち着いて話せる店だから。それだけではなかった。高倉は、自分のことを考えて店を選んでくれたのだ。そんなことをされるのは久しぶりだった。いや、もしかすると初めてかもしれない。「ありがとうございます」唯がそう言うと、
「職業病かもしれません」高倉の言葉に、唯は思わず笑った。肩の力が抜ける。さっきまで感じていた緊張が、少しずつ和らいでいくのがわかった。料理が運ばれてくる。落ち着いた照明の下で見る料理はどれも美味しそうだった。「いただきます」「いただきます」自然に言葉を交わし、食事が始まる。最初は仕事の話だった。記事の件。会社の対応。法務とのやり取り。唯も聞いておきたかったことがあったため、話題としてはちょうどよかった。けれど。しばらくして高倉がグラスへ手を伸ばしながら言った。「今日はその話ばかりするつもりではなかったんです」唯は顔を上げる。高倉は少しだけ視線を逸らした。「仕事ではなく、とお誘いしたので」胸が小さく揺れる。そうだった。今日は仕事ではない。その言葉を思い出しただけで落ち着かなくなる。「じゃあ、何を話すつもりだったんですか?」思わず聞いていた。高倉は少し考える。そして、小さく笑った。「それを考えていませんでした」唯は目を丸くした。「考えてなかったんですか?」「はい」意外だった。もっと綿密に準備している人だと思っていた。高倉自身もおかしかったのか、少しだけ笑う。「お会いしたいと思ったので誘いました」その言葉に。唯の手が止まった。お会いしたいと思った。ただそれだけの言葉なのに。胸の奥へ真っ直ぐ落ちてくる。高倉は気づいていないのか、そのまま続けた。「最近は記事の件もありましたし」「はい」「桜井さんも大変だったと思います」穏やかな声だった。責任感でも義
肩が触れそうで触れない距離を保ちながら。唯と高倉は駅前の通りを歩いていた。夕暮れの街は人通りが多い。仕事帰りの会社員。買い物帰りの家族連れ。楽しそうに笑い合う学生たち。いつもと変わらない光景のはずなのに、唯にはどこか現実感が薄かった。隣を歩く高倉の存在ばかりが気になってしまう。「お店、遠いんですか?」沈黙に耐えきれなくなって尋ねる。高倉は少しだけ視線を向けた。「もうすぐです」そう言って微かに笑う。その横顔を見て、唯は慌てて前を向いた。心臓が忙しい。高校生でもあるまいし、と自分へ呆れる。やがて高倉が足を止めた。案内されたのは、大通りから一本入った静かな路地にある店だった。大きなチェーン店ではない。落ち着いた雰囲気の、小さなレストラン。ガラス越しに見える店内は柔らかな照明に照らされていて、どこか温かみがあった。「素敵なお店ですね」思わずそう呟く。すると高倉が少しだけ安堵したような顔をした。「良かったです」その反応に、唯は首を傾げる。高倉は少し言いづらそうに続けた。「実は少し悩みました」「お店ですか?」「はい」珍しい。高倉がそんなことを言うのは。「桜井さんが落ち着いて話せる場所がいいと思ったので」その言葉に胸が温かくなる。自分が好きな店ではなく。唯が過ごしやすい店を選んでくれたのだ。そんな些細なことが嬉しかった。店内へ入ると、窓際の席へ案内された。注文を済ませる。飲み物が運ばれてくるまでの間、少しだけ沈黙が落ちた。不思議と居心地は悪くない。けれど、どこか落ち着かない。高倉も同じなのだろうか。
翌朝、唯は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。薄いカーテン越しに差し込む朝の光が眩しい。枕元のスマホへ手を伸ばし、時間を確認する。まだいつもより少し早い。それなのに、もう眠れそうになかった。今日は高倉との約束の日だった。ベッドの上で小さく息を吐く。落ち着こうと思うのに、胸の奥が妙にそわそわする。まるで遠足を待つ子どもみたいだ。そんな自分がおかしくて、唯は苦笑した。その日は仕事をしていてもどこか上の空だった。もちろん手は動く。依頼の確認も、デザインの修正もいつも通りこなしている。けれど、気づけば時計へ目が向いていた。まだ大丈夫。あと三時間。あと二時間。そんなふうに時間を数えてしまう。ようやく仕事を切り上げ、帰宅した頃には、心臓が少しずつ落ち着かなくなっていた。クローゼットを開ける。服を選ぶだけなのに、思った以上に時間がかかる。派手すぎるのも違う。気合いが入りすぎていると思われるのも嫌だ。だからといって、普段着すぎるのもどうなのだろう。何度か服を当ててみて、結局選んだのは自分らしい一着だった。鏡の前で身だしなみを整え、バッグを持つ。大丈夫。そう自分へ言い聞かせる。けれど、玄関のドアを開けた瞬間、また胸が高鳴った。待ち合わせ場所は駅前だった。特別な場所ではない。何度も通ったことのある場所だ。それなのに今日はまるで違って見える。人の流れの向こうに、一人の男性の姿が見えた。唯は思わず足を止める。高倉だった。いつものスーツ姿ではない。落ち着いた色のジャケットに、シンプルな私服。それだけなのに妙に新鮮だった。会社で見る高倉とも違う。事務所へ来るときの
約束の日まであと三日。そう思っていたのに。気づけば二日になり。一日になり。そして前日の夜を迎えていた。唯はソファへ座りながらため息を吐く。落ち着かない。ここ数日ずっとそうだった。仕事へ集中している間はいい。けれど。ふとした瞬間に考えてしまう。高倉のことを。約束の日のことを。何を話そう。どこへ行くのだろう。何を着ていけばいいのだろう。考え始めると止まらなかった。唯はクッションを抱きしめる。まるで高校生みたいだ。そう思って。少しだけ笑ってしまう。そのとき。スマホが震えた。高倉だった。唯の心臓が跳ねる。最近はもう。名前を見るだけで緊張してしまう。画面を開く。『お疲れさまです』いつもの挨拶。唯は少しだけ安心する。けれど。続く文章を見て思わず姿勢を正した。『明日ですが』胸がどきりと鳴る。明日。とうとうその言葉になった。『午後六時でよろしいでしょうか』唯はメッセージを見つめる。ただの時間確認だ。それなのに。妙に緊張する。『大丈夫です』そう返信する。数秒後。既読がついた。そして。『ありがとうございます』と返ってくる。そこまでは予想通りだった。だが。そのあと。少し長い沈黙が続く。高倉も何か打っているのだろうか。唯は無意識に画面を見つめた。やがて。新しいメッセージが届く。『楽しみにし
自分は本気で。約束の日を楽しみにしている。その事実を認めた瞬間。唯は思わずショーウィンドウから目を逸らした。何を考えているのだろう。ただ会うだけだ。そう。ただ会うだけ。仕事ではないとは言われたけれど。まだ何も始まってはいない。それなのに。洋服を見ている自分がいる。唯は小さくため息を吐いた。そのまま帰宅する。けれど。頭の中から洋服のことが離れなかった。クローゼットを開く。並んでいる服を眺める。そして閉じる。数分後。また開く。完全に怪しい人だった。「何やってるんだろう……」誰もいない部屋で呟く。以前なら。服なんて何でも良かった。仕事なら仕事。打ち合わせなら打ち合わせ。そう考えていた。けれど今回は違う。高倉と会う。そう思うだけで。いつもより少しだけ悩んでしまう。翌日。昼休み。唯はスマホを見つめていた。約束の日までは、まだ数日ある。それなのに落ち着かない。そのとき。メッセージが届く。高倉だった。唯の心臓が小さく跳ねる。最近はもう反射だった。画面を開く。『お疲れさまです』いつもの挨拶。それだけなのに。少し嬉しい。唯は苦笑した。『お疲れさまです』返信する。すると。珍しくすぐに返事が来た。『記事の件ですが』唯は表情を引き締める。そうだった。約束の日のことばかり考えてい







