تسجيل الدخول隆は自然と紗良の話を引き継ぎ、聞いた。「午後は何か予定があるのか?」美羽は柚葉を見やってから言った。「柚葉は午後から1時間、ピアノのレッスンがあるので、それが終わったら、詩音ちゃんたちとどこかで遊ぼうと思ってます」隆は小さく頷いた。その時、美羽のスマホが震えた。画面を確認した彼女は、席を立って電話に出た。電話越しに聞こえてきたのは、A国語のイントネーションを含んだ声だった。「イヴリン」大学を卒業した2年前、美羽はウォール街にある世界企業トップ500に入るような大手投資企業に就職した。そこで担当したのは、財政危機に陥った小さなコスメ会社だった。将来性を信じて修正した事業計画書を提出したが、結局は上司の判断で一蹴されてしまった。それでも美羽は、その会社に可能性を感じていた。彼女はそのことを正人に相談した。正人はその時、何も問わずに全ての蓄えである8億円を差し出してくれた。当時、涼太の会社がようやく軌道に乗り、その年に正人が初めて配当金を手にしたばかりのことだった。その後、事情を知った涼太も、さらに10億円を送金してくれた。その資金と自身の貯金を合わせ、美羽はそのコスメ会社――K・Uへ出資して筆頭株主となった。彼女は前の投資会社を退職し、K・Uを立て直す道を選んだのだ。それからの2年間。会社は急速に成長し、2年目には黒字転換を果たした。利益は900万ドルを超え、やがて新たな投資家も現れた。その後、隆もK・Uへ出資した。ただし美羽は、ブランドをニッチな層向けに維持し、無理な規模拡大をしないように管理してきた。今年に入ってから、K・UのブランドがSNSで突然爆発的な人気を博し、品質の良さも重なって海外での売上が急増。第1四半期だけで1000万ドルを売り上げた。今や会社は安定し、美羽は一線から退いているが、重大な決断が必要なときだけ幹部から連絡が来るようになっている。美羽は、そのままA国にとどまって仕事を続ける道もあった。それでも戻ってきたのは、家族がこちらにいるからだ。電話の相手からは、進めていた事業提携が順調だと報告があった。十数分ほど話をしただろうか。相手がこう言った。「N・Sの株式保有契約に変動があります。相手側から本日、買収が公表されました」N・SはK・Uの投資家でもある。美羽
二人はホテルに着いた。美羽は柚葉の手を引いてエントランスに入り、そこで話している二人を見かけて、「お兄ちゃん!」と声をかけた。涼太と浩平は偶然居合わせたのだ。二人は特に親しいわけでもなく、むしろライバル関係だが、会えば最低限の挨拶は交わす。二人はちょうど社交辞令を述べていた。その声を聞いて、二人は同時に振り返った。美羽が柚葉の小さな手を引いている。エントランスの明るい光を浴びながら、二人は顔を見合わせ、晴れやかな笑みを浮かべていた。ふと見たその時、浩平は見慣れた影を見た気がして、胸を何かで強く打たれたような、言い表しがたい感情に襲われた。美羽は歩み寄ると、浩平を見ようともせず、涼太に向かって尋ねた。「お兄ちゃん、お父さんたちは?」その言葉に、浩平は悟られないように、心を落ち着かせた。「浩平さん」柚葉は浩平の姿を見つけると、可愛らしく名前を呼んだ。浩平はゆっくりとしゃがみこみ、優しい目つきで柚葉を見つめた。「柚葉ちゃん、久しぶりだね」「浩平さん、こんにちは」浩平はポケットから飴を取り出した。美羽はそれを見ていたが、二人の挨拶の邪魔はしなかった。その時、涼太に澪から電話が入った。通話を終えると、浩平に向かって言った。「すみません、これで失礼します」浩平は立ち上がり、「ああ」と答えた。「柚葉ちゃん、行くわよ」柚葉は浩平に向かって手を振った。最後まで、美羽は浩平と一言も言葉を交わさなかった。涼太は柚葉を抱き上げ、その瞳には子供への抑えきれない愛情が滲んでいた。浩平はその場に立ち、この兄妹の背中を見つめていた。温かく幸せそうな雰囲気が漂っている。二人を見送りながら、浩平の胸に湧き上がった言いようのない重苦しさは、いつまでも消えなかった。「お兄ちゃん」浩平が振り返ると、瑠衣と彩乃が腕を組んでやってきた。二人が近づいてくる。彩乃は浩平の顔を覗き込み、聞いた。「何をぼうっとしていたの?」浩平はすでに平静を取り戻しており、言った。「別に。行こうか」彼らは今日、親戚たちとの食事の約束があったのだ。澪の誕生日を祝うために多くの人が集まっている。悠斗はもちろん、紗良と詩音、隆と、直美と大輔も来ていた。皆、美羽の友人たちだ。澪はとても嬉しそうだった。大人数での賑やか
「5年も姿を消しておいて、今さら何の用なの?」美羽は前へ歩み寄ると、バッグを置いてソファに腰掛けた。その様子を見ていた百合は顔をしかめる。美羽が冷静に告げた。「そちらの息子さんと、離婚しに来たんですよ」美羽の言葉に、百合は息をのんだ。まさか美羽の方から「離婚」という言葉が出るとは思っていなかったのだ。美羽の毅然とした態度に、百合は不愉快さを隠しきれなかった。鼻で笑い、百合が突き放す。「離婚だって?何?財産分与でも狙ってるわけ?」美羽は真顔で返した。「ええ。少なくとも3分の1は請求させてもらいます」百合の表情が凍りついた。「いい度胸ね」「法に基づいた当然の権利で、悪いことではないはずでしょう」百合が美羽を射抜くような眼差しで見据える。「いいわ、できるものならやってみることね。あなたが柚葉ちゃんを認めないと決めた以上、あの子にあなたが誰なのか、永遠に知らせないから」「それは柚葉と私の間の問題です。そちらが口出しすることじゃないですね」美羽の反論に、百合の表情はさらに険しくなった。「他にご用がなければ、柚葉に夕食を作ってあげたいのですが」美羽は時間さえあれば、いつも柚葉のために手料理を振る舞っていた。彼女は立ち上がり、キッチンへと向かった。険悪な雰囲気を察し、翠と恵が恐る恐る百合に声をかける。「百合様……」二人は美羽と百合の会話を聞いていたのだ。それまでイヴリンの正体を疑っていた二人だったが、今の会話でイヴリンが間違いなく美羽本人だと悟った。信じがたい事実だった。百合はスマホを取り出し、すぐに翔平に電話をかけた。コール音が鳴り、翔平が出る。「母さん、どうした?」「美羽を家に迎え入れて、柚葉ちゃんのお世話をさせてるの?」百合は語気を強めて言った。翔平は静かに答える。「柚葉の世話をするのは、あいつの務めだ」翔平の言い分に、百合は意図を掴みかねて戸惑った。「美羽は離婚しに戻ってきたのよ。翔平、一体何を考えてるの?彼女は中山家の財産の分け前まで寄こせと言ってきているわ」この息子は、昔から何を考えているのか分からない。翔平はただ短く、「そうか」と返すのみだった。さらに何かを言おうとする百合を遮り、翔平は言った。「その件にはもう触れるな」「翔平!」「母さんは帰っ
デイビッドは一瞬黙り込んで、言った。「イヴリンの離婚が無事に成立したらまた連絡するよ。その時は盛大にお祝いしよう」美羽は笑いながら答えた。「ええ、もちろん」今日、デイビッドから電話があり、近況を尋ねられた。デイビッドがA国の政財界人が集まるパーティーに出席中だと知っていた美羽は、なぜそんな忙しい席からわざわざ自分に電話をかけてきたのか不思議に思った。するとデイビッドは言った。「翔平のやつ、今フィックス家のご令嬢と楽しそうに話してるよ。相手はどうやら本気で翔平に惚れ込んでいるみたいだぞ」翔平の名を出した途端、美羽は会話を遮った。「誰と、何人と、仲良くしようが私には関係ないわ。あの男の話は聞きたくないの」デイビッドは少し驚いた様子だったが、すぐに笑って、「分かった!」と答えた。実はデイビッドがこの電話をかけたのは、わざと「チクリ」を入れるためでもあった。翔平という男は、どうしてこうも放っておけないほど人気があるのだろう。ただ一瞬、美羽が翔平の姿を見て気持ちが揺らぎ、また離婚をやめるのではないかと不安になったのだ。こんな男に惚れてしまうのは、女性にとってあまりに容易いことなのだから。だが、美羽の揺るぎない言葉を聞き、デイビッドは胸をなでおろした。彼は話題を変え、何気ない世間話を続けた。「デイビッド」美羽には、電話の向こうから翔平の声が聞こえてきた。デイビッドが言う。「じゃあ一旦切るよ」「ええ」デイビッドは振り返って翔平に声をかけた。「何の話だ?」と翔平が訊く。デイビッドは全く悪びれず笑った。「大した話じゃないさ。翔平さ、フィックス家のご令嬢と盛り上がってただろ?相手は翔平に気があるみたいだし、いっそ婿養子にでも行ったらどうだ?」今回、翔平がA国を訪れたのは確かにフィックス家との協業を進めるためだった。翔平は口角をわずかに上げた。「俺が婿養子なら、そっちはどうなるんだ?」フィックス家はデイビッドの家族とも姻戚関係を結びたがっているのだ。しかしデイビッドにその気は毛頭ない。デイビッドは眉を跳ね上げ、ニヤニヤしながら翔平を見た。「てことは、そっちは乗り気ってことか?二人を引き合わせてやろうか?」「ここで仲人なんかしてる暇があったら、さっさと子供の一人でも作ったらどうだ?」翔平
月曜日になり、美羽は柚葉を幼稚園に送っていった。今日は始業式ということもあって、親同伴で来る家庭が多く、学校のあちこちから子供の泣き声が響いていた。「美羽!」聞き慣れた声に振り向くと、そこには紗良と詩音の姿があった。二人の子供は久しぶりの再会を喜び、挨拶を交わしていた。偶然にも、詩音と柚葉は同じクラスだった。美羽と紗良は担任の先生と少し話をし、連絡先を交換した。その後、子供たちに別れを告げる。柚葉と詩音はとてもお利口で、泣きわめくこともなく、手を繋いで先生の後を追って教室へ入っていった。幼稚園を出たところで、紗良が切り出した。「美羽、いつになったら自分が母親だって柚葉ちゃんに伝えるつもり?」母親がすぐそばにいるのに、それを口にできず、「イヴリンさん」と呼ばなければならない柚葉が、ふと不憫に思えてしまった。もちろん美羽自身が一番辛いはずだ。自分の子供に他の名で呼ばれる親などいないのだから。美羽は溜め息をこぼした。「離婚のことがすべて落ち着いたら、ちゃんと柚葉に本当のことを話そうと思うの」不完全な家庭環境で育つことは子供にとって不公平かもしれないが、冷めきった関係の親の元にいることのほうが、子供の成長には悪影響を与えかねない。紗良には痛いほどその気持ちが分かった。だが、苦労して詩音の親権を勝ち取った自分の時とは状況が違う。美羽の場合はもっと難しいはずだ。紗良は憤りを隠せず言った。「どうしてあの男は頑なに離婚に応じないのかしら?他の女に手を出して遊んでおきながら、あなたのことは縛りつけて、幸せを見つけることさえ許さないつもりなんじゃない?」美羽は以前、翔平が言っていた言葉を思い出していた。紗良の指摘を否定する言葉は見つからなかった。翔平がわざと自分を繋ぎ止めていることは明らかだったからだ。続けて紗良が尋ねる。「そういえば、郷田先生との話し合いはどうなってるの?」美羽は答えた。「まだ裁判所と調整中。翔平側の弁護士が資料を提出しさえすれば、今月中の開廷に問題はないはずよ」「美羽も要求をもっと突きつけるべきよ!手ぶらで追い出されるなんてありえない。あの男は何も失わずに離婚して、柚葉ちゃんまで独占するなんて。なんであんな薄情な男に惹かれてしまったのよ……」紗良の怒りは収まらなかった。青春の頃の、ほんの
車を降りると、オフィスビルのロビーに入った。すると、ちょうど翔平が柚葉を連れて降りてくるところだった。美羽に気づいた柚葉は、嬉しそうに走り寄った。「イヴリンさん!」美羽は足早に歩み寄った。美羽の足元に抱きついた柚葉が、ちいさな頭を持ち上げてニコニコと見上げてくる。美羽は愛おしそうにその頭を撫でた。続いて歩いてきた翔平に目を向けると、美羽の視線は冷ややかになった。翔平はその態度の変化を当然ながら見逃さなかった。美羽に柚葉のバッグを手渡しながら、彼は口を開く。「俺は1週間ほど出張に出る。月曜に柚葉を幼稚園へ送ったら、担任の先生と連絡を取っておいてくれ」新学期が始まってから1週間、毎日の送迎や幼稚園での様子について、先生と連絡先を交換して、いつでも連絡が取れるようにしてほしいという指示だ。「それなら、あなたからも先生に伝えておいて」「すでに話を通してある」「……」二人の会話に感情の色は一切なく、誰もが気づくほど冷え切った空気が流れていた。美羽は短く返事をして、それ以上は何も言わなかった。俯いて柚葉を見下ろすと、柚葉は不安そうに二人を見守っている。「柚葉ちゃん、行こう」柚葉は翔平に手を振った。「パパ、バイバイ」翔平はその場にしゃがみ込むと、柚葉の小さな手を握り、冷徹な目つきをすっと和ませた。「パパに電話するんだよ」「うん、毎日かけるね」「ああ、いい子だ」美羽は柚葉を連れて、天嶺を後にした。その様子を翔平の背後から見ていた潤は、すべてを察した。あの女性は美羽に違いない。5年前に比べて変わりすぎている。注意深く見なければ、かつての美羽と今の彼女が同一人物だなどとは誰も思うまい。翔平に対する態度を見る限り、もはや美羽の中に情は微塵も残っていないようだ。美羽はハンドルを握り、柚葉と共に出発した。ふと柚葉が横を向いて、問いかけてきた。「イヴリンさんって、パパのこと嫌いなの?」美羽はぎくりとした。柚葉は悲しげに小さな顔を曇らせている。大人の複雑な感情までは理解できなくても、イヴリンが自分のパパと接する時とは全く態度が違うこと、パパの前で笑わないこと、声が優しくないことには敏感に気づいていたのだ。美羽は柔らかな笑顔で答えた。「私はね、柚葉ちゃんさえいてくれればそれでいいのよ。今夜は帰ったら美味しい夜ご
「会社の財務レポート、お昼休みが終わるまでに仕上げておいて」美羽は自分のデスクに戻った。美羽は秘書課の一般職に降格させられたが、遥は美羽に本来の担当じゃない仕事まで、たくさん押し付けていた。それでも、美羽は黙ってすべて引き受けていた。文句ひとつ言わずに会社にしがみついているのだって、ただの自己満足に過ぎない。どうせ翔平は、見向きもしてくれないのに。美羽はレポートを完成させると、データと印刷したものを遥に提出し、それからデリバリーを頼んだ。会社には社員食堂があるけれど、美羽はいつもお弁当を持参していた。人が多い場所は苦手だから。じろじろ見られるのも、誰かと話すのも嫌だった
隆はドアの前に立つ女性に目を向けた。最初はきょとんとして誰だか分からなかったが、彼女が口を開いたことで、それが美羽だと気づいた。「佐野先生」隆は何事もなかったかのように表情を整え、「やあ、来たんだね」と声をかけた。美羽はマスクを外し、研究室の中へと入った。「佐野先生、ご無沙汰しております」「久しぶり。君だと気づかなかったよ」隆は優しく微笑んだ。美羽は自嘲気味に口角を上げ、話した。「こんな姿になってしまって、先生に会いに来るのも少し気が引けました」隆は立ち上がってデスクを回り込み、言った。「妊娠して体型が変わるのは当たり前のことだ。産めばまた戻るさ。まあ、座って!」
だが、翔平はそれ以上何も聞かなかった。美羽は続けて言った。「明日、月曜の午後って空いてる?よかったら、先に役所へ行こうよ。どうせ2ヶ月前でも大丈夫でしょ?」離婚が成立していなければ、生まれてくる子は自動的に翔平の子として戸籍に記載されてしまう。翔平は落ち着き払っている美羽を、探るように見つめた。そして、ふいと視線をそらすと、「俺が決める」とだけ言った。美羽は俯いて、もう何も言わなかった。車は中山家の本邸に着いた。日和が二人を呼び戻したのは、やはり美羽のお腹の子どものことだった。中山家は男の子ばかりで、日和には二人の息子がいた。長男が中山湊(なかやま みなと)、次
妊娠25週目の健診の日、中山美羽(なかやま みう)は夫の浮気を目撃してしまう。黒いコートを羽織った背の高いハンサムな男性が、腕の中にいる可憐な美人をかばうように立っている。その女性は白いコートを着て、頬はほんのりピンク色に染まっている。ふわふわのマフラーに包まれた小さな顔は、まるでお人形のように精巧な顔立ちだった。美羽は健診結果の用紙を指が白くなるほど強く握りしめた。冷たい風が頬をかすめる。だけど、体の芯まで凍えさせるのは、ズキズキと痛む心のせいだ。中山翔平(なかやま しょうへい)は、遠くにいる美羽の姿に気づいた。でも、その表情は平然としていて、浮気現場を見られた気まずさなんて微塵







