拉致されてしまい、五年ぶりに帰還した月城可奈(つきしろ かな)は、夫が自分と再会して喜んで涙をこぼす光景を思い描いていた。 しかし実際には、夫はさっさと彼女が事故に遭ったことを理由に失踪届を警察に提出し、死亡証明を申請した上で、名家の令嬢と再婚して新たな家庭を築いていたのだった。 あるパーティーで、名家の令嬢は大勢の人の前で可奈を辱め、彼女のトラウマを抉り、根も葉もない中傷を浴びせて、そこら辺で死んでくればよかったのにと罵った。それにかつての夫は最初から最後まで、一言も彼女を庇おうとしなかった。 頼れるものもなく、可奈が失望しきってその場を立ち去ろうとした時、白波市で最も有名な名家の跡取り息子が彼女を腕の中に引き寄せた。その瞳には他人を蔑むような光が浮かんでいる。「可奈さん。あいつが君を捨てるというのなら、この俺がもらうよ」
View More「泣くなよ、俺が悪かった……」稔は確かに怖いが、いつもすぐに謝るのだ。可奈はかつてこの男は演技性パーソナリティ症なのかと疑っていたが、後になって彼が自分にだけこんなにひどい態度を取ることに気がついた。他人に対しては、彼は普通の表情さえも見せず、一言多くを語ることも少ないのだ。「俺には行く場所がないんだ。少し眠らせてくれ……」稔はぐるりとベッドに横たわり、何もなかったかのように目を閉じた。可奈は素早く起き上がり、床に落ちている洗っていない服を手に取って着ようとした。「着替えと生活用品をソファに置いてきたよ」稔は淡々と口を開いたが、目は開けなかった。可奈がソファの上の袋を見ると、中にはサイズがぴったりの服や、女性用の洗顔料、スキンケア用品が入っていた。しかしそのどれにも触れず、意地を見せるかのように自分の汚れた服を拾って着ると、巣から落ちてしまった無力な雛のようにソファに丸くなった。そのまま三十分ほどソファで丸くなっていて、可奈は少し腹が立ってきて、ベッドの傍まで行くと、すでに熟睡している稔を見つめた。彼はここがどこだと思っているのか?本当に厚かましい。彼はテロリストで、犯罪者なのに!「あなた、起きて」可奈は稔を軽く押し、手話でそう伝えようとした。しかし稔はどうしても目を開けず、彼女にはどうすることもできなかった。拳を握りしめた可奈は、枕でこの男を窒息死させてしまおうかと考えるほど腹立たしかった……しかし、強い血の匂いは可奈を警戒させた。医者としての本能によって、可奈は彼の上着をめくった。コートの下に着ている白いシャツは、すでに血で赤く染まっていたのだ。可奈は息を飲み、素早く彼のすべての服を捲くり上げると、大胸筋の上に貼られたガーゼが血で滲んでいて、以前の銃創が完治しておらず、傷口が再び開き出血していた。その瞬間、可奈は稔の生命力の強さに感服した。彼女は稔が流れ弾に当たって血の海に倒れるのをこの目で見ていた。そんな彼が生き延びられたのは……この頑丈な鍛えあげられた筋肉のおかげだと言えるだろう。稔の体は……余計な筋肉など一つもなく、しっかりと鍛え上げられたものだ。彼はいわゆるモデルのようなスタイルで、どんな服を着てもスーパースターのような印象を与えてくれるのだ。この時彼は熱を出していたから
可奈は必死でもがいていた、体に巻いたバスタオルをしっかり掴み、稔を見る目には恐れと怒りがにじんでいた。「何隠してるんだ?君の体で俺が見たことないところなんてないだろう?」稔はそういう性格の悪い男で、可奈をいじめるのを楽しんでいた。彼は五年間も可奈をからかってきたのだ。パシンッ!可奈は全身を震わせながら、稔にビンタをお見舞いした。もし稔がいなければ、戦場から無事に戻ることはできなかっただろうと可奈は認めざるを得ないのは確かだ。しかし、稔がもたらした悪夢は、いつまでも消え去ることがないのも事実なのだ。「俺たち、戦場で五年間も夫婦のように一緒に過ごしてきたのに、会うなり殴るなんてな」稔は傷ついたような顔を見せた。 彼は見た目が恵まれているのだ。彫りの深い顔立ちに、百九十センチの優れた体格をしながらも荒々しい気質を漂わせ、少し外人のような尖ったオーラも持っていて、見た感じはハーフのようだった。彼と目が合うと、自然と距離を置きたくなるような男だった。稔はどこに行っても目立つタイプの男なのだ。砂漠の中でも光を放っているように見えた。可奈も彼に初めて会ったとき、その気迫と見た目に魅了されたのだ。どうしてちゃんとした生活をせずに、テロ組織に入って悪党のようなことをやっているのかと可奈は彼に問い詰めたこともある。彼は利益のためだと答えた。人は皆、利益のために動いているものだ。彼は密輸業をやっていて、税関に手配され、やむなくルカスの組織に入った。ルカスはテロ組織のボスで、稔を非常に信頼している。稔は戦略を練るのが上手で、ルカスに数多くの策略を提供し、この組織は多くのテロリスト組織の中で頭角をあらわすようになっていった。彼はまるでルカスの軍師のようで、組織の中で地位が高く、ナンバーツーのような存在だった。「黙って」可奈は手話で稔と交流できるのだ。稔は数少ない、彼女の手話を理解できる人間の一人だった。彼は仕方なさそうに壁にもたれ、両手を上げた。「携帯を届けに来たんだ。あの立派なご主人さんは、君が携帯さえ持っていないのに気づかなかったのか?ここに一人で置き去りにして、万が一何かあったらどうするんだ?」稔は悔しそうに言いながら、剛司の欠点を彼女の前に並べていた。そのすべての言葉は、彼女にその旦那はもう君を愛していないと諭し
剛司は結局後ろめたい感情が浮かんだのか、緊張して可奈の視線を避けたが、それでも彼女の手を強く握った。「可奈……多分君には理解できないかもしれないけど、俺は君を守らなきゃいけない……雫の父親はうちの病院の院長なんだ。君の今の状況は……まだ病院に残りたいなら、彼らを敵に回すわけにはいかないんだよ」可奈はうつむきながら剛司を見つめ、力強く彼の手から自分の手を引き抜いた。「分かってる……この落差を受け入れるのは難しいだろうけど、可奈……君が戻ってきたんだ、俺たちの生活もこのまま先に進まなきゃいけないだろう。約束するよ、俺たちに反抗できる力と実力がついた時、必ずきちんとした選択をする。ずっと隠したままで僕のそばにいさせたりしないから」剛司は小声で宥めるように言った。可奈がずっと沈黙しているのを見て、剛司は彼女が同意したと勝手に解釈し、強く可奈を抱きしめた。「君が俺を理解してくれるって信じてるよ。この社会で生きていくには、誰にもどうしようもない事情があるんだ。俺たちには人脈もコネもないから、自分の力だけでは、何も守りきれないんだよ」可奈は心がすでに麻痺したように座っていた。まるで冷たい水を頭から浴びせかけられたように、彼女の体は冷えきってしまった。たった五年なのに、剛司はもうまるで別人のようになってしまった。彼女が恐ろしく感じるほどに。「ゆっくり休んで。国内は安全なんだ。ここにいるなら安全だからね」剛司は小さい声で可奈をなだめ、彼女にキスしようとした。可奈は思わず身を引いた。剛司は一瞬ポカンとしたが、詳しく説明する時間はなく、立ち上がって素早く去っていった。彼は焦っていたのだ。両方ともうまく納めようと、あまりにも焦っていたのだ。部屋は突然静かになった。その静けさに、可奈に少し居心地の悪さを感じさせた。戦場での五年間、彼女は一度も安らかに眠ったことはなかった。銃声、悲鳴、泣き叫ぶ声、空気には絶望と血腥い匂いが満ちていた。彼女はあまりにも多くの殺戮を目のあたりにし、あまりにも多くの残酷なシーンを見てきた。戦火が燃え続き、硝煙の匂いが絶えることはなかった。目を閉じさえすれば、この五年間の記憶が脳裏によみがえる。「こいつ、なかなかいいな。連れて行け、ボスへの手土産にしよう」拉致された当日、彼女はあのテロリストたちに引きずら
可奈は剛司の家には行かず、ホテルに泊まると主張した。剛司は心配で、一緒にいると自ら申し出てきた。可奈はノートにこう書いた。「いらないわ、帰ってください」「可奈……俺が悪いって思ってるんだろ」と、剛司は勝手に説明し始めた。「あの時、君が拉致されて失踪したから、俺は毎日酒に溺れてたんだ。すると彼女が僕の酒に何かを入れて……彼女を君だと思ってしまったんだよ。起きた後俺はすっごく怒って、彼女とは完全に縁を切ったというのに、彼女は執拗に絡んで来て、そして妊娠したって言ってきたんだ……「妊娠が分かった後、彼女に子供を堕ろすように言ったけど、全然聞いてくれなかった。一人で子供を産み、二歳まで育てたんだよ。彼女も大変だったはずだ……」可奈は手をギュッと握りしめた。剛司は、汚い手を使って妊娠した雫を「大変」だと思っているのか。はは……「その後、子供が病気になって……彼女はシングルマザーで、そのことで、宮原院長は彼女と縁を切り、家を追い出されたんだ。本当にどうしようもなくて、俺に助けを求めに来たんだよ……最初はただ子供のことを思って助けてあげたんだ。可奈……何と言っても子供には罪がないだろう」剛司はベッドの傍にしゃがみ込み、緊張しながら可奈を見つめた。可奈はずっと一言も発せず、ただぼんやりしていた。「可奈、この数年間ずっと苦しんできたのは分かってるんだ。今、俺が一番後悔しているのは、あの時君を行かせたことだ……」剛司は声を詰まらせ、可奈の手を握り、目を赤くした。今さら、何を言っても遅すぎる。「私と彼女、どうするつもりなの」可奈は紙に書いた。法律上、この国は一夫多妻制ではない。だから、剛司は可奈と雫のどちらかを選ばなければならない。「可奈、もうちょっと時間をくれないか?」剛司は可奈の手を強く握り、時間をくれるよう懇願してきた。可奈は深く息を吸い、うつむいて震える手でこう書いた。「そんなに困ることじゃないよ、剛司。私たち、離婚しましょう」彼女は身を引くつもりだ。誰にも、彼女がどれほどつらいか分からない。その心はもう叫び声をあげていた。彼女はすでに何も失うものがなく、今、生きていく原動力はただ、彼女たちが拉致された真相をはっきりと解き明かし、亡くなった両親にちゃんとした答えを出すことだけだった。「可奈……」剛司は目を赤く
彼はなぜまだ死んでいないのか。国際警察が彼女たちを救出した時、可奈は彼が拳銃に打たれて倒れてしまい、血溜まりに横たわったのを見たのだ。その時、可奈は彼を救うことができたのだが、彼女はそうしなかった……可奈にとって、稔は悪人であり、テロ組織の一員でもあった。彼女はただ逃げることだけを考えていたのだ。だから可奈は彼を見捨ててしまった。あの日以来、この男の助けを求める眼差しは、可奈の悪夢となったのだ。「可奈さん、君はもう逃げられないんだよ」低い声をした稔は、ほとんどそのまま可奈を丸ごと呑み込む勢いで駆けて来た。どこから湧いて出てきた勇気なのか、可奈は相手が油断している隙に、立ち上がり必死で家に向かって走り出した。鶴見沢は昔から多くの公務員がここで住んでいて、古いアパートにはエレベーターがなく、彼女の家は三階にあった。音センサーライトが点り、そして消える。可奈は必死に家の方向へ走って行った。その時、彼女は両親がもう亡くなっていることを忘れていた……無意識のうちに、家が最も安全な場所だと可奈は考えていた。「ううっ……」彼女は思いっきり家のドアを叩いたが、口を開いても何の声も出せない。お父さん、お母さんと呼びたかったが、話すことすらできないのだ。彼女の失語症は、同僚が自分の目の前で銃で頭を撃ち抜かれて死ぬのを目撃したことから始まったのだ。あの残忍なテロリストたちは……逃げようとした同僚を撃ち殺した。足音が下の階段から聞こえてくる。可奈はあまりの恐怖で泣き出してしまった。それでも彼女は声が出せない。どうして声が出せないのだ。お父さん、お母さん……助けてよ。可奈は心の中で叫びながら、必死でドアを叩いた。しかし家の中からは誰からの返事もなかった。ドアに残る焼け焦げた跡を見て、その時、可奈は認めざるを得なかった。剛司は彼女を騙していなかったのだ。彼女の両親はもうこの世にいない。「叫べよ、可奈さん。叫んでみろよ。助けてって叫んで、誰かが助けに来るか試してみろよ」稔が追ってきて、一歩一歩と近づき、可奈を隅まで追い詰めてきた。巨大な恐怖が可奈を包み込み、その瞬間、彼女は逃げる以外考えることはなかった。「可奈さん、怖いなら声を出してみろよ……」彼は執拗に可奈に口を開くよう迫ってきた。しかし可奈は
しかし剛司はそうしてはくれなかった。「ここは私の家、彼は私の夫。あなたのお母さんが私の夫を奪ったのよ!」可奈は理性を失い、ペンとノートを手に取り、狂ったように字を書きなぐり、そこに感情をぶつけたのだ。五歳の子供はおそらくそんなに多くの字が読めないが、それでも、剛司は慌てて妻と娘の前に出て、可奈に懇願するような眼差しを向けた。「可奈……子供はまだ小さいんだ。大勢の人の前でそんなことを。夕実が今後周りから後ろ指さされるようなことだけは避けてくれ、頼むから……」彼は可奈に頼んでいた。少し彼の面子を考えてほしいと。少なくとも子供の前では。可奈は信じられないといった様子で剛司を見つめた。彼の娘が他人から後ろ指をさされないようにするためだけに、自分が愛人の汚名を背負わなければならないというのか?仮に彼の娘がそうされたとしても、それは雫が悪いからではないのか。彼女は彼には妻がいることを知っていながら、あのように厚かましいことをしたのだから……「パシッ!」おそらく絶望しすぎたのだろう。可奈は手を上げ、剛司に思い切りビンタをお見舞いした。このような事は、雫一人の責任ではない。剛司が雫に手を出さなければ、二人に子供ができることもなかったのだ。「なんでパパを殴るの、悪い人!」あの小さな女の子は雫の手を振りほどき、駆けつけてきて強く可奈を押しのけた。可奈は痩せすぎていた……五年間も苦しい生活をしていたので、彼女は骨だけしか残っていないくらいに痩せていた。五歳の子供に押し倒され、肘を地面につき、傷ができてしまった。「可奈……」剛司は慌てて駆け寄り、可奈を起こそうとしたが、避けられてしまった。可奈は憤りと恨みを込めた眼差しで剛司を睨みつけた。その瞳には絶望の色がにじんでいた。「可奈!」可奈は起き上がり、自分のノートとペンを拾い、慌てて逃げ出した。ここは私の家なのに、まるでドブネズミのように追い払われなければならないなんて。「この他人の家庭を壊す狐女、恥も知らず。よくもまあ顔出せるもんね」「そうよそうよ、他人の家庭を壊すなんて、恥知らずめ」可奈は一気に遠くまで、走っていった……痛い、すごく痛い。全身で痛くないところは一つもなかった。どれくらい走ったか分からず、可奈はようやく足を止め、息を切らしていた。
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