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5話

last update publish date: 2026-04-15 22:07:18

三雲は、信じられないといった様子で弥一を見つめていた。

ウォッカとはいえ、弥一が口にしたのはほんの小さなグラスにたったの二杯である。

そんな量で泥酔って…

そもそも、そんなに酒が弱いならウォッカなんて頼むなよ!

しかもこっちはまだ一口も飲んでもいなければ食べてもいないってのに。独りよがりが過ぎるだろ!

と、一通り頭の中で喚き散らかしてから、はあ、とくたびれたように息を吐き出した。そして、仕方なしに弥一の介抱に取り掛かる。

彼は弥一の肩に手を掛けると、そのまま優しく揺さぶり起こそうとした。

弥一は嫌そうに「うーん。」と低く呻くだけで、目を開けようとさえしない。

三雲は苛立つ感情を何とか抑え、優しく声を掛ける。

「御子柴さん?起きてください、御子柴さん?家まで送ってあげますから。ね?」

すると、弥一は億劫そうにうっすら片目を開けた。

チャンス!と、思った三雲はそこに向かってもう一度、「御子柴さん?起きました?ほら、僕が家まで送り届けますから、ね?家の住所教えてください。」

しかし、弥一から帰ってきた言葉は、「俺は絶対に家にだけは帰らない!」だった。

面倒臭さが頂点に達していた三雲は敬語を使うことも忘れ、

「家に帰らない、って。じゃあお前はいつもどこに帰ってるんだよ!」

「…ホテル。」

「ホテル⁉︎お前、新婚だろ?何でホテルなんか…」

そう言って、ハッとした。今日の弥一はどこか元気がなかった上に、何かを忘れたいかのごとく酒を煽っていた。そしてそんな彼は、どうしても家に帰りたくないと言う。

さてはこいつ、奥さんと喧嘩したな。

その答えに行き着いた三雲は、急に弥一に親近感を覚えた。

なんだかんだ御曹司といっても、彼らだって人並みに自身の奥さんと揉めることもあれば、こうしてやけ酒を飲むことで気を紛らわせようともする。なんだ、彼らも結局は同じ人間ってことか、と。

そんな風に感じた三雲は、声色を変え、優しく諭すよう弥一に話しかける。

「御子柴。気持ちはわかるけど、帰る家があるってすごくありがたいことなんだぞ?何があったのかはわからないけど、ちゃんと相手と向き合うべきじゃないか。女の機嫌を取るのって俺たち男にとってはものすごい難題だけど、向き合った分の見返りは必ずあると思うぞ。」

三雲の言葉に弥一はしばらく黙っていたが、おもむろに口を開くと、

「向き合ったよ。離れてからの半年間ずーっと向き合い続けたよ。けど…彼女がもう耐えられないって。俺と離れてるこの状況に耐えられないんだって。だからもう、完全に終わりにしたいんだって…」

聞いていた三雲は掛ける言葉が見つからなかった。

と、いうのも、何の話かが理解できなかったからだ。

御子柴と離れてる状況?それが半年間?え、しかもなんか離婚する流れ?

いやいや、待て待て待て。

帰ればいくらでも会えるじゃないか。なのにさっきは家には帰りたくないって言ってたよな…一体どういう意味だ?

三雲の思考はまだ追いついていないのに、弥一の話は進んで行く。

「俺と一緒になるために彼女は海外へまで行ったのに…俺があまりに頼りない男だから。彼女の不安や悲しみを埋めてあげられなかったから。」

話しの意味はわからないが、そう言ってひどく落ち込んでいる弥一のあまりの悲壮感に、三雲はその肩を軽く叩いててなぐさめる。

すると、急に弥一の怒りスイッチが入ったのか、彼は声を荒げると、

「それもこれもおばあさまのせいだっ!あの権力ばばあ…あの人さえ反対しなければ、今頃俺は好きな人と結ばれて毎日幸せに暮らせてたのに。反対するだけならまだしも、あんなおばさん連れてきて結婚しろだとか、嫌がらせが過ぎる!孫がそんなに憎いのかよっ!」

そう言って、握った拳でソファを殴りつける。

三雲はビクッと身体を震わせると、八つ当たりされてはたまらないと思い弥一から少し距離を取った。そして、そんな三雲の頭の中はただただ"?"と好奇心でいっぱいだった。

ついには聞きたい衝動を抑えきれなくなり弥一に尋ねる。

「つまり君は、会長の言いつけで好きでもない人と結婚したっていうのか?」

「ああ、そうだよ。」と、弥一はしかめっ面を浮かべ、ぶっきらぼうに答える。それから急にその顔をフッと緩めると、

「まあ、結婚してから一度も家に帰ってやってないけどな。ざまあみろってんだ。」

「一度もか⁉︎」

「一度も、だよ。」そう言って、弥一は得意気に笑う。三雲は呆れたように頭を振った。

彼の話を聞く限り、おそらくそうすることだけが、そんな状況に追い込んだ会長への精一杯の反抗だったのだろう。

これが世に言う政略結婚というものなのだろうか。

一般人として生きている三雲にとって好きな人と結婚するなんて、相手さえいれば容易いことで、そんな簡単なことも己の意思だけではままならない弥一の立場に同情心が芽生えた。

しかも弥一の言い方からするに、相手は弥一よりもかなり年上のおばさんらしい。

"どうせ代わりを用意するのなら、ぐうの音も出ないほどの美人にしてあげたら良かったんじゃないか?御子柴家の人脈を駆使すれば、そんなこといとも簡単だろうに。"

そう考え、だから先程、弥一は会長が自分のことを憎いのかと言って声を荒げていたのか、と納得したのだった。自分の好みにすら当てはまらない女性を充てがわれたのだから、そう感じるのも無理はないだろう。

納得するのと同時に、さらなる好奇心が三雲の中に湧き上がる。

一体全体、この美青年はどんな女を娶らせられたのだろう。

おばさんと呼ぶくらいだからかなりの年上か?とはいえ最近の女性の多くは、おばさんと呼ぶには綺麗だったり若く見える人が多い。

てことは、年はそう変わらないけど、見た目がすごく老けてる人なのだろうか。うーん、気になる。

こんな状況に不謹慎だとは思いつつも、好奇心に駆られた三雲は、「なあ、君の奥さんってどんな人なんだ?」

と、尋ねた。

弥一は目を閉じ、ソファにだらしなく寄りかかると、心底どうでもよさそうに、

「どんなもこんなもない。ただのおばさんだ。そうとしか言えない。」

「どんなおばさんなんだよ?ブスなのか?太ってるのか?」

弥一は苛立ったように、

「だからー」

と、言いかけ、ふと初めて彼女と会った日のことを思い出す。

彼女はあきらかに自分よりも年上だとわかる見た目だった。

しかし、弥一と八重子が言い争いがヒートアップしかけた時の二人を見て笑う彼女は、一瞬でその場の空気を晴れさせ、かつ和ませた。

あの瞬間の彼女の笑顔はよく覚えている。目を三日月にし、少し鼻に皺が寄るようなクシャッとした笑い方は何だかとても可愛ー

「いいわけがないっ!!」

と言って、急に立ち上がったものだから、隣に居た三雲は心底びっくりさせられたのだった。

「何だよ、いきなり!びっくりしただろうが!」

弥一は三雲を見ることもなく、すぐさま「うっ。」と言って頭を抑えると、ソファにドサっと座り込んだ。

「バカだなあ。酔ってるんだからそんな急に動いたらそりゃあ気持ち悪くもなるだろ。大丈夫か?」

三雲の言葉が耳に入らないのか、弥一は一人ぼそぼそ、「ありえない。あんなおばさんが可愛いとか。」と呟く。

三雲は弥一の口元に耳を近づける素振りを見せながら、

「え?何て?てか、もうそんなんどうでもいいや。で、どうすんの?家帰るの?帰んないなら今日もホテルにでも泊まんの?」

弥一は答えない。

なので、暇を持て余した三雲は一人で喋り続けた。

「天下の御子柴グループ様につまらないこと聞いて申し訳ありませんねえ。世界中でいくつものホテルを経営する御子柴グループの御曹子様が、日本で一夜過ごすのに困るわけがありませんもんねー?それで、今日はどちらに泊まられます?ホテルMIKOSHIBAですか?それとも帝都ホテル?ああ、ザ・MK in東京ってのもありですね?」

三雲は御子柴グループ関連のホテルをつらつらと挙げ連ねる。

しかし、それでも弥一が黙ったままなことなのにさすがに痺れを切らして口を開きくかけた、その時だった。

勢いよく部屋のドアが開けられると、

「見つけた!もう逃げられないからね?半年も家に帰らない様抜かして、こんなところで飲めもしないお酒飲んで…今のお兄、最高にダサいんですけどっ!」

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