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28.覚えていないわけでは

Author: 中岡 始
last update publish date: 2026-05-17 16:40:20

照明を落としてから、部屋の空気は少しだけ変わった。

天井の主照明を消し、ベッド脇のスタンドだけにすると、さっきまでただのビジネスホテルだった空間が急に近くなる。狭いわけではない。机もあるし、ベッドも二つきちんと離れている。けれど、光が届かない壁際や、窓の端の曇り方や、暖房の乾いた唸りまでが妙に意識へ触るようになって、外へ逃がせるものが少なくなった。

窓の向こうでは、雪がまだ降っていた。

ガラスに近づかなければ音は聞こえない。ただ、白い反射だけが室内へうっすら返ってきて、スタンドの色の薄い明かりと混ざっている。雪の夜は静かなはずなのに、静かすぎるせいで、相手が動く気配ばかりがよく分かった。

陸斗は机の上に出していた資料を閉じたあとも、すぐにはベッドへ行けなかった。

使い終わった紙の角を揃える。ペンをケースに戻す。財布を鞄の横へ寄せ、充電器のコードがねじれないように整える。ペットボトルの位置を少しだけ机の端へ寄せる。自分では無意識のつもりだった。けれど、手を止めた瞬間、今の動きが落ち着くための時間稼ぎだったことくら

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  • 地方支社で、元セフレの部下になりました   29.越えないまま熱になる

    灯りを落としたあと、部屋は妙に広く見えた。さっきまで机の上に広げていた資料も、飲みかけのペットボトルも、ベッド脇の小さなスタンドの灯りの外へ押しやられると、輪郭だけがぼんやり残る。ツインのベッドはきちんと離れている。間に小さなテーブルがあり、荷物もそれぞれの側に置かれている。境界はある。線は、むしろ昼間よりはっきりしているはずだった。なのに、暗くなった途端、その線の内側へ逃げ込む場所がない気がした。暖房の乾いた音が低く続いている。窓の外は雪の反射で白く、完全な闇にはならない。シーツの白さまで夜の中で浮いて見えて、目を閉じても部屋の輪郭が消えきらない。陸斗はベッドへ入ってから何度か寝返りを打ったが、身体のどこにも落ち着く場所が見つからなかった。寝ればいいだけだ、と頭では思う。明日は早い。雪がどうなっているかも分からないし、朝比奈への確認も残っている。変に意識している場合ではない。そんなことは分かっているのに、同じ部屋のどこかに征司がいると分かってしまうだけで、神経が薄く張ったまま弛まない。見なくても、気配は拾える。少し遅れて、向こうのベッドで布が擦れる音がした。寝返りだろうと思う。間を置いて、ペットボトルのキャップが開く小さな音がする。水を飲む気配。喉を鳴らすような、ごく短い沈黙。暗い部屋の中では、それだけで十分近い。たぶん、自分のほうの気配も向こうに伝わっている。そう思うと余計に動きづらくなって、陸斗は薄く息を吐いた。布団の中で手を握る。暖房のせいで頬と耳のあたりだけが熱く、指先はまだ少し冷えている。眠れないのは寒さのせいではない。そう分かっていることが、さらに腹立たしかった。白いシーツが、過去の夜を勝手に呼ぶ。同じホテルでも、同じ部屋でもない。あの夜とは違う。今は名前も立場もあって、隣にいるのは上司で、自分は部下だ。違うことのほうが多いはずなのに、条件だけがあまりにも似ている。白い寝具。閉じた空間。明け方の冷えを予感させる雪の夜。低い声。名前を知らないまま近づきすぎた距離。そこまで思って、陸斗は眉を寄せた。思い出したいわけではない。むしろ逆だった。忘れら

  • 地方支社で、元セフレの部下になりました   28.覚えていないわけでは

    照明を落としてから、部屋の空気は少しだけ変わった。天井の主照明を消し、ベッド脇のスタンドだけにすると、さっきまでただのビジネスホテルだった空間が急に近くなる。狭いわけではない。机もあるし、ベッドも二つきちんと離れている。けれど、光が届かない壁際や、窓の端の曇り方や、暖房の乾いた唸りまでが妙に意識へ触るようになって、外へ逃がせるものが少なくなった。窓の向こうでは、雪がまだ降っていた。ガラスに近づかなければ音は聞こえない。ただ、白い反射だけが室内へうっすら返ってきて、スタンドの色の薄い明かりと混ざっている。雪の夜は静かなはずなのに、静かすぎるせいで、相手が動く気配ばかりがよく分かった。陸斗は机の上に出していた資料を閉じたあとも、すぐにはベッドへ行けなかった。使い終わった紙の角を揃える。ペンをケースに戻す。財布を鞄の横へ寄せ、充電器のコードがねじれないように整える。ペットボトルの位置を少しだけ机の端へ寄せる。自分では無意識のつもりだった。けれど、手を止めた瞬間、今の動きが落ち着くための時間稼ぎだったことくらいは分かる。神経が、まだ落ちていない。仕事の話は終わった。明朝の確認も、先方への連絡も、もう済んでいる。今さら資料を見返しても、今夜のうちに変えられることはほとんどない。それでも、何かを整えていないと、この部屋の静けさをそのまま受けるしかなくなる。「そうやって整えないと落ち着かないか」不意に落ちた声に、陸斗の指先が止まった。振り返ると、征司は自分のベッドの端に腰を下ろしたところだった。眼鏡を外し、手元のスマートフォンを伏せる。その仕草のついでみたいな顔でこちらを見ている。咎めるでも、笑うでもない。ただ事実を口にしただけの声だった。陸斗は一拍遅れて、視線を机へ戻した。「別に」口から出たのは、そんな短い言葉だった。別に、で済むはずがない。今、自分は明らかに落ち着かないから整えていた。それを言い当てられたことへの動揺を隠すために、余計にぶっきらぼうになる。けれど胸の奥では、その一言が別の形で引っかかっていた。そうやって

  • 地方支社で、元セフレの部下になりました   27.曇った窓の内側

    先方への連絡と、朝の確認事項を一通り片づけたところで、会話がふっと切れた。それまで口にしていた内容は全部仕事だった。朝比奈への連絡は征司が入れた。包装会社にも、冷凍倉庫にも、朝の時間を少しずらす旨は伝わっている。明日持っていく資料は陸斗が今夜のうちに見直す。そこまでを短く確認し終えた途端、もう続けて話すべきことがなくなった。急に、部屋の静けさだけが前へ出る。暖房の低い作動音。窓へ当たる雪の、音にしづらい白さ。濡れたコートからまだ少しずつ落ちる水気。ロビーの明るさや廊下の足音に紛れていたものが、ドア一枚隔てただけで妙に近い。陸斗は机の上に置いたノートパソコンを閉じるでも開くでもなく、そのまま指先で縁をなぞった。仕事の話をしている間は、この部屋もただの一時的な作業場所みたいに扱えたのに、話が切れた瞬間、ツインのベッドが二つあることも、照明の色も、窓の外がもう完全に白いことも、全部がいっぺんに現実になる。「風呂、どうする」征司がジャケットを椅子の背に掛けながら言った。ほんの何でもない確認だ。先に入るか、後にするか。それだけの話のはずなのに、陸斗は返事が一拍遅れた。「……どちらでも」またそんな答え方になる。征司は少しだけこちらを見たが、何も言わずにタオルの束へ手を伸ばした。「濡れてるだろ。先に入れ」「いえ、大丈夫です」反射的に返してから、自分で少し嫌になる。何が大丈夫なのか、自分でもよく分からない。ただ、先に風呂へ入るという私的な順番を決めること自体が、仕事よりずっと落ち着かなかった。征司はそれ以上勧めず、短く言った。「じゃあ先にもらう」「はい」そのやり取りの内容自体は何でもない。なのに、朝比奈の進行表を確認するときより、よほど私的に感じる。職場の会話ではなく、同じ部屋で夜を過ごす人間同士の確認だと、言葉の形だけで分かってしまう。浴室の扉が閉まり、水音がしばらくして聞こえ始めた。陸斗は一人、窓際へ寄った。ガラスはすでに薄く曇っている。指先で触

  • 地方支社で、元セフレの部下になりました   26.一室だけ

    雪の中に浮いたホテルの灯りは、妙に現実味があった。もっと洒落た外観か、あるいは逆に古びた安宿みたいなものを想像していたわけでもないのに、目の前の建物があまりにも“必要なものだけある場所”の顔をしているせいで、陸斗は一瞬だけ息の置き場をなくした。郊外の幹線道路沿いに建つ、どこにでもありそうなビジネスホテル。四角い看板、明るすぎないロビーの灯り、雪を被り始めた植え込み。色気の欠片もない。だからこそ、ここへ来たのが仕事と天候の延長でしかないことを、容赦なく突きつけてくる。車のドアを開けた瞬間、風が横から吹き込んだ。湿りを含んだ雪が頬に当たり、首筋からコートの襟へ入り込む。粒は大きく、雨より鈍い重さで肩口に落ちて、すぐに溶ける。その次の粒がまた同じ場所へ重なる。駐車場の白線はもう半分ほど見えなくなりかけていて、さっきまで見えていた向かいの店の看板も、今は雪の向こうで滲んでいた。ここへ来たのは、仕事の延長だ。そう思うのに、その言い聞かせが少し遅い。陸斗はドアを閉め、鞄を持ち直した。濡れた革の感触が指先に冷たい。征司はすでに運転席側から回り込んでいて、片手でジャケットの前を押さえながらホテルの自動ドアへ向かっていた。振り返りもしない。だが、急ぎすぎてもいない。歩幅は一定で、雪の降り方も、路面の濡れ具合も、その場にある条件として静かに受け入れているみたいだった。ロビーへ入った瞬間、空気が一変した。暖房の乾いた熱が、冷えた頬と耳へ一度に触れる。ガラス扉の内側で、濡れたコートや靴から落ちる水気だけが急に生々しくなる。足元のマットはもう何人分もの雪を吸っていて、靴底の下でわずかに沈んだ。フロントの上には柔らかい色の照明が落ち、壁際には観光案内のパンフレットが整然と並んでいる。必要な明るさ、必要な音量、必要な清潔さ。全部が過不足なく、事務的だった。征司はフロントへまっすぐ向かった。会社名、予約の確認、領収書の宛名、朝の出発時間。事務的なやり取りが短く交わされる。陸斗は少し離れた場所で待っていた。手伝えることは特にない。濡れた袖口が妙に気になり、コートの裾から落ちた水滴が床へ小さく丸い跡を作っているのを

  • 地方支社で、元セフレの部下になりました   25.帰れない道

    包装会社の玄関を出た瞬間、空気はもう朝とは別のものになっていた。白いだけだった空が、いつの間にか厚みを持って近づいている。風が真正面から吹きつけ、頬に当たるものが冷たい雨ではなく、もっと粒のある湿りに変わっていた。最初の一つは、ただの氷の粒かと思った。次の瞬間には、それがいくつも、横から叩きつけるように飛んできた。雪だ、と陸斗は思った。まだ積もってはいない。アスファルトも、駐車場の白線も見えている。だが、車の屋根に当たる音が、雨より鈍く重い。コートの肩に落ちた粒はすぐに溶けるのに、その次がもう上から重なってくる。視界の向こうで、さっきまで見えていた道路標識の輪郭が少しだけ曖昧になっていた。「……降ってきましたね」思わず口から出る。征司は車のロックを外しながら、空を一度見上げただけだった。「乗れ」その一言に促され、陸斗は助手席へ滑り込む。ドアを閉めた瞬間、外の音が一段遠くなった。だが静かにはならない。屋根を打つ雪の音と、フロントガラスへ細かく当たる粒の連続が、閉じた車内にまで響いてくる。エンジンがかかり、ワイパーが動いた。一度、前を切る。二度目で、もう白い筋が増えている。ヘッドライトをつけた対向車が、昼間なのにどこか夜の中を走るみたいな鈍い色で流れていった。陸斗は腕時計へ視線を落とした。まだ、どうにかなる時間のはずだった。包装会社を出るのが多少遅れたとはいえ、ここから高速の入口まではそれほど遠くない。雪が強くても、少し時間を見れば支社までは戻れるかもしれない。そこから駅に出るのが難しくても、最悪、会社で何とかなる余地もある。そういう計算が、半ば反射で頭の中に立ち上がる。立ち上がるのに、その計算のどこかへ自分でうまく乗れない。征司は車を出すと、すぐにダッシュボードのスマートフォンを一度だけ確認した。道路情報の画面らしいものが光っている。すぐに戻した表情は変わらない。何もなかったみたいな横顔だった。その平静さが、陸斗にはかえって不安を呼ぶ。慌てていない。つまり、慌てる前に判断を切り替え始

  • 地方支社で、元セフレの部下になりました   24.雪になる前の空

    朝、部屋を出た瞬間に、空の低さで今日は違うと分かった。晴れていないわけではない。光はある。だが青さが見えず、街全体の上に白い蓋をかぶせたみたいな空だった。風は冷たい。十一月の終わりから十二月へ入るころの、新潟特有の、水を含んだような冷え方だ。まだ雪はないのに、頬へ当たる空気の質だけが先に冬になっている。陸斗はマフラーを首元へ少し引き寄せ、駅へ向かう人の流れに混じった。春にここへ来たばかりのころは、この土地の寒さにも、空の色にも、毎朝いちいち身構えていた気がする。今はそこまでではない。驚かないだけで、好きになったわけでも、慣れきったわけでもない。ただ、この白い空が、何かを予告する色だということくらいは、身体が先に覚え始めている。支社へ入ると、外の湿った冷気とは別の、乾いた暖かさが迎えた。暖房は強すぎず、紙とインクと、朝いちばんのコーヒーの匂いが薄く混じっている。電話はもう何本か鳴っていて、コピー機が低い音を立てて紙を吐き出し、誰かが総務の席のほうで短く在庫確認をしていた。人の声はあるのに、夏や秋の初めのようなせわしなさは少し引いている。冬の前は、支社の音まで少し硬くなるのかもしれないと、陸斗はぼんやり思った。「三沢さん、朝比奈の件、倉庫側の更新来てます」水沢がファイルを一冊持ってきて、机の上へ置いた。「ありがとうございます」「包装会社のほう、午後から来るそうです。部長、今朝もう一本入れてました」そう言って彼女はすぐ別の書類を抱え直した。説明はそれだけだが、それで十分通じる。春のころなら、その短さに置いていかれる感じがしただろう。今は、今日の動きが頭の中でほぼ同じ線に乗る。包装会社、冷凍倉庫、出荷導線の最終確認。朝比奈フーズ本体だけでは足りない部分を、関連先ごと見て回る日だ。朝比奈のリニューアル案件が実際に走るなら、見せ方だけではなく、包材の納まり方も、倉庫から出るときの温度帯も、出荷便の組み方も、全部一度きちんと潰しておかなければならない。だから征司が行く意味があり、陸斗が同行する意味もある。机に座り、今日必要になる資料を確認する。包装仕様の最終案、朝比奈側

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