LOGIN完食の余韻が漂うリビングにて。3人の男たちは、まるでサウナ上がりのようにスッキリと満足げな顔で息を吐いている。
魔王こと葛城セナさんは、高級なハンカチを丁寧に折りたたんでポケットにしまった。そして、スラックスの埃を払うような何気なさで、テーブルの上に手を伸ばす。
シュッ。
風を切る音がした。次の瞬間、テーブルの中央に鎮座していた分厚い茶封筒――推定3億円の手切れ金セット――は、神速の早業でセナさんの懐へと回収されていた。
「……検討の結果、この資金は不要と判断しました」
早っ。私の心のツッコミが追いつかないほどのスピードだった。
未練はない。ないけれど、あの大金を一瞬たりとも惜しむ素振りを見せず、秒速で回収するあたりに、彼の徹底した合理主義――オブラートに包まず言えばドケチ根性――を垣間見た気がする。推定3億円を目の前にぶら下げられて、せめてその1%でも分けて欲しかったなあと思うのは人情だろう。3億円なら1%でも300万円だよ? 300万円! 私はついつい、3億円が隠されたセナさんの懐を眺めてしまった。
「さて」
セナさんは鞄から新たなアイテムを取り出した。重厚感のある黒革のバインダーだ。彼はそれをうやうやしく開き、高級そうな万年筆と共に私の前に差し出した。
「合格です。貴女を、綺更津レンの専属シェフ兼メンタルキーパー……平たく言えば『飼育係』に認定します」
「……飼育、係」
予想外のパワーワードが出た。恐る恐る手元の書類に目を落とす。
『業務委託契約書(機密保持条項付き)』
印字された文字を見て背筋が寒くなった。手切れ金の封筒だけでなく、この契約書まで最初から用意していたのだ。
つまり私が「使える」人間かどうか、最初からテストするつもりだったということか。 さすがは国民的グループのリーダー。用意周到すぎて、もはや恐怖すら感じる。ファン解釈の腹黒メガネは大当たりだったということだ。「契約の条件は、主に3つです」
ペントハウスでの共同生活は、奇妙なバランスの上で成り立っていた。私は「専属スタッフ」として、3人の世話を焼く毎日を続けている。 ある休日のリビングでは、こんな光景が繰り広げられていた。「ねーえー、紬ちゃ~ん。爪切って~」 ソファに座る私の膝に、遊馬ハルくんが頭を乗せる勢いで甘えてきた。彼は右手を無造作に差し出してくる。「ハルくん、自分で切れますよね?」「やだ。俺、不器用だから深爪しちゃうもん。……ほら、早く」 彼は上目遣いで私の袖を引っ張る。猛獣の皮を被った甘えん坊である。私はため息をつき、仕方なく彼の手を取った。「はいはい、動かないでくださいね」 パチン、パチン。爪切りの音が響く中、ハルくんは私の肩に頭を預けて、猫のように目を細めてくつろいでいる。猫ならゴロゴロと喉を鳴らしそうな表情だ。「紬さん。出る時間なので、行ってきます」 そこへ、スーツ姿に着替えた葛城セナさんが現れた。彼は鏡の前で立ち止まり、当然のように私を呼んだ。「ネクタイが曲がっています。直してくれませんか」「あ、はい。今すぐ」 私はハルくんの手を離し、セナさんの元へ駆け寄る。襟元を整えてネクタイのノットをキュッと締め上げる。いつものルーティンだ。「やはり、君が結ぶと気合が入りますね」 セナさんは満足げに頷くと、行ってきます、と私の頭を軽く撫でて出て行った。「いってらっしゃいませ」 私が頭を下げ、ふと振り返った時のこと。 リビングの奥にある一人掛けのソファで、撮影中のドラマの台本を読んでいたはずの綺更津レンくんと目が合った。「…………」 彼は何も言わなかった。ただ、そのアイスブルーの瞳からは感情が抜け落ちていた。 背筋が凍るような冷たい視線。彼は私を――いや、私とハルくんを一瞥すると、バサリと乱暴に台本を閉じ、無言で部屋を出て行ってしまった。
レンくんは私を大事にしてくれる。 そりゃあわがままで、リクエストが多くて、昨日も充電と称して寝かせてくれなかったけど。 まだまだ不安定なところがあって、支えてあげないといけないけど。 それでも彼の気持ちは伝わってくる。 だから私も応えたかった。「私に何ができるかなぁ……」 夕食の料理をしながら、私はぼんやりと考えた。 なお、今日のメニューはブリのショウガ煮である。てりやきベースのタレにショウガをたっぷり入れて、ピリリとした味わい。 ショウガは体を温める効果がある。体を酷使するみんなにはいい食材だ。 ここしばらくハンバーグやらの重いメニューが続いたので、ここらで胃をリセットしなければ。 それはともかく、私はレンくんに何をしてあげられるだろうか。 料理は仕事だから、ノーカウント。 他には何だろう。 男性付き合いをほとんどしてこなかったせいで、何をすればいいのかちっとも分からない。 あと、実は。 彼の重い愛は嫌じゃない。嫌じゃないけど、一方的なのがちょっと悔しい。 以前レンくんに、愛用の香水をもらった。お互いの香りを交換するという条件で。 私は彼の香水。彼は私が当時使っていた、安物の柔軟剤の香り。 でも今はメンバー全員で同居しているので、ちょっとお高い柔軟剤になってしまった。特にセナさんが余計な香りを嫌うから、無臭のやつがメインになっている。 レンくんは最初文句を言っていたものの、ハルくんが「いいじゃん。紬ちゃんのいる家に毎日帰ってくるんだから、匂いがなくても平気でしょ」と丸め込まれて納得していた。ちょっとチョロかった。 なので彼の香水――『CielBlue(シエル・ブルー)』は、使いかけでふたをされたまま私の部屋に置かれている。 一方的なプレゼントになっている。「私も何か贈り物をしようかな……」 独占欲むき出しなのはあなただけじゃないんだよ、と教えてやりたい。 私だってあなたが好きで、
「ハルが結婚とか言うから。……紬がどっかに行っちゃいそうで、怖い」「…………」「顔見せてくれるだけでいい。……充電させて」 震える声に、私の長年の「ファン心」と無駄にある「母性」が刺激されてしまった。こんな声を出されて無視できるわけがない。「……はぁ」 私は大きくため息をつき、ベッドから降りた。重たいソファをズズズと退かし、バリケードを解体してドアを開ける。 そこには、自分の枕を抱えたレンくんが立っていた。「どうぞ」 私が招き入れると、彼は無言で部屋に入ってベッドに腰掛けた。そして隣に座った私に、くたりともたれかかってきた。「……ん」 押し倒されるのかと身構えたが、違う。彼は私の膝に頭を乗せる。私の腰に腕を回して、大きく深呼吸をしただけだった。「紬の匂いがする」 別に夜這いをしに来たわけではないらしい。ただ私に体を預けて、体温を確認するように目を閉じた。「俺、お前がいないと本当にダメみたいだ」 その言葉は愛の告白というよりは、生存本能に近い切実さを持っている。 私が彼のさらさらとした髪をそっと撫でると、彼は心地よさそうに吐息を漏らし、数分もしないうちに安らかな寝息を立て始めた。 安らかな横顔は彫刻のように整っているようで、どこか幼さを感じさせる。彼が安心しきっているのが分かった。「レンくん?」 返事はない。完全に寝落ちている。 結局、私は重たいトップアイドルの頭を膝に乗せたまま、朝まで身動きが取れなくなった。◇ 翌朝。すっかり充電完了してスッキリした顔のレンくんが、私の部屋から出ていった。ちょうど廊下を通りかかったセナさんと鉢合わせる。「…………」 セナさんは私の部屋
23時。気を取り直して眠ろうとした、その時。 ピッ。ウィィィン。 電子音がしてスマートロックが解除された。今度はピッキングではない。正規の手順で解錠された音だ。「紬さん、起きていますか」 現れたのは、シルクのバスローブを優雅に着こなした葛城セナさんだった。片手にはタブレットを持っている。「明日のスケジュールの共有です。朝食の時間に変更があります」「……セナさん。ノックしてください。あと、なんで開くんですか」 私がジト目で睨むと、彼は「愚問ですね」と言わんばかりに薄く笑った。「僕の家ですから。全室のマスターキー(電子制御)を持っています」「プライバシーという言葉をご存知ですか!?」「管理官の体調管理も僕の仕事です。……部屋の湿度が低いですね。加湿器を入れなさい。喉がやられますよ」 彼は業務連絡と小言だけを淡々と伝え、「おやすみなさい」と去っていった。私は枕に顔を埋めて叫んだ。「ここには……人権もプライバシーもない……!!」◇ 猛獣のピッキング技術と魔王の管理者権限。通常の鍵が役に立たないと悟った私は、最終手段に出ることにした。「よいしょ……っ、うーっ!」 私は部屋にある重たい一人掛けソファを引きずり、ドアの前に移動させた。さらにその上にキャリーケースを積み上げる。即席バリケードの完成だ。物理的にドアが開かないようにしてしまえば、どんな鍵も無意味だ。「これで……やっと眠れる」 私はやっと安心してベッドに沈んだ。◇ 午前1時(25時)。寝静まった深夜、ドアノブが静かに慎重に回される音で目が覚めた。 ガチャ。……ガチャガチャ。ピッ、ウィィィン(電子ロック解除音)。ガンッ。 ドアが数
ペントハウスで国宝級イケメン3人と暮らす、夢のような――いや、戦場のような生活にも少し慣れてきた頃。 私には広くて豪華な客室が与えられている。 ふかふかのダブルサイズベッド、広々としたウォークインクローゼット、専用のバスルーム付き。 至れり尽くせりの環境だが、私は毎晩、深刻な顔でドアノブを見つめるのが日課になっていた。 夜、寝る前。「……鍵、かけたよね?」 ガチャリ。金属音を確認し、さらにチェーンロックをかける。 ここは男3人と女1人のシェアハウスだ。しかも相手は距離感のバグったアイドルたち。私はただのスタッフで、いわば寮母さんみたいな立場である。仕事が終わればただの一個人だ。 レンくんとは……もしかしたら、恋人未満くらいの関係と言えるかもしれないけれど。いややっぱり言えないかもしれない。 とにかくプライベートという聖域は、何としても死守しなければならないのだ。「よし。これで誰も入れない」 明日も早くから朝食を作らねばならない。 私は安心してベッドに潜り込んだ。◇ 22時。うとうとし始めた頃、ドアノブがガチャガチャと回る音がした。当然、鍵がかかっているから開かない。(ふふん、残念でした。もう営業時間外ですよ) 私が勝ち誇った気分で布団をかぶり直した時。カチャカチャという何かが擦れる音がして、コトン。解錠される音が響いた。「え?」 私の思考が追いつく前にドアが開く。オレンジ色の頭が入ってきた。「おーい紬ちゃん、高級アイスあるけど食う?」「なんで開くんですか!?」 私は飛び起きて叫んだ。ハルくんは悪びれもなく、片手にアイス、片手に細いヘアピンを持っている。「え? 鍵かかってたから、リビングにあったヘアピンでちょいちょいってやったら開いた。俺、手先器用だからさ」「器用の使い方が間違ってます! 不法侵入です!」「固いこと言うなってー。
「んん~ッ!!」 テーブルをバンバンと叩く。「やばい! 下手な店よりよっぽど旨い。肉汁で溺れる! ご飯が進みすぎて怖い!」 猛獣のような食欲で、ガーリックライスと共にハンバーグをお腹に収めていく。「……これは確かに、抗いがたい暴力的な味ですね」 セナさんも、「ジャンクフードは敵」と言いたげな顔をしつつ、ナイフとフォークが止まらないようだった。 あらかた食べ終えて満腹になったハルくんが、うっとりとした目で私を見上げた。「あー幸せ……。胃袋掴まれるってこういうことかぁ」 彼は頬杖をつき、とろけるような笑顔を向けた。「ねえ紬ちゃん、俺のお嫁さんになってよ」「……はい?」 あまりに唐突な言葉に私がきょとんとしていると、ハルくんは悪びれもせずに続けた。「毎日こういうの食わせてくれるなら、俺、浮気しない自信あるよ? 一生大事にする」 軽いノリだ。いつもの冗談だろう。けれどキラキラした瞳の奥は、妙に据わっているように見えた。 ガタンッ!! 乾いた音が響いた。レンくんが勢いよく椅子を蹴って立ち上がっていた。「……てめぇ」 レンくんがハルくんのTシャツ(食事前にようやく着た)の胸ぐらを掴み上げる。「冗談でも殺すぞ」 アイスブルーの瞳孔が開いている。本気で殺気立っていた。 ハルくんはケラケラと笑い、両手を挙げて降参のポーズをする。「冗談だよ、怖いなー。……ま、レンくんがボサっとしてたら、本当に奪っちゃうけどね?」「……ッ!」 一触即発。ハルくん特有の食えない笑顔は単なる挑発なのか、それとも本音が混じっているのか。「やめなさい、2人とも」 セナさんが冷静に仲裁に入り、その場はどうにか収まった。◇