ANMELDENランチタイムの休憩スペースは、いつも通り賑やかだった。
弁当箱を開きながら、同僚の一人が身を乗り出してくる。「ねえねえ、部長の彼氏ってイケメンよね? 惚れちゃわない?」 渚が橘の家に居候していること自体は、もう周知の事実だった。皆から理由を訊かれた時、返答に困った渚を助けてくれたのは橘だった。「彼氏がストーカー化してて、身の危険があって」 嘘ではあるが、間違いでもない。あれから玲からの連絡はないし、渚の携帯は静かなままだ。 橘の説明を聞いて、皆は驚きながらも深く詮索せず、心配して受け入れてくれた。おかげで、橘の家に住んでいることを隠す必要はなくなっている。「イケメンかどうかは分からないんですけど……でも、すごく美人で綺麗で優しいです」 橘の紹介で美容室で和樹と初めて会った時の第一印象は『綺麗』だった。渚よりも髪はサラサラ、肌もつやつや――……。「それって、イケメンってことじゃん※ ※ ※ 結局、グループカウンセリングに次の土曜日も参加していた。自分を変えないといけない、という気持ちだけがあって、答えを求めるために参加している。 輪になった椅子の並びも、座っている顔ぶれも先週と同じだった。進行役とピアサポートの昴も変わらずにいる。 次の週も、また次の週も渚は参加した。同じ顔ぶれに渚はもう慣れていたが、何も言葉を発することができなかった。自分の番が近付くと、無意識に膝の上で両手を強く握り、喉の奥に石が詰まったように重く、息苦しくなってくるのだ。 その日、渚の隣に座っていた女性が、静かに口を開いた。「昨日、元夫から連絡が来て。よりを戻そう、俺は変わった、君を傷つけない、約束するって」 彼女は、元夫から暴力と性的支配を長い間受けていた女性だった。暴力を受けた後は必ず優しくされて、それをされるたびに「私は愛されている」と確信し、元夫からの暴力を受容していた。だが、それは夫の不倫を知ったことで崩壊する。自分は愛されていなかった。ならば、暴力や性的支配を受け入れる理由などあるのか――ない。そう悟った彼女はやっと離婚を決意し、元夫から離れる決心をしたのだという。「やっと逃げ出せたんです。それなのに、メッセージを見た瞬間、『変わった』っていう彼の言葉に縋りそうになった自分がいて……。自分で自分が、たまらなく気持ち悪くて」 女性は、顔を歪めて吐き捨てるように語った。「来ないで、二度と連絡しないでって返しました。離れられたはずなのに、まだあの人に振り回されている自分が本当に嫌で堪らない」 元夫から受けた暴力や支配、そして不倫という裏切り。傷つき、ボロボロになりながらも自分を取り戻そうと抗う彼女の言葉は、恐ろしいほど渚の心に刺さった。(裏切られても、縋りそうになる……) 時間が経つほど、玲を思い出してしまう自分。玲との過去を捨てきれない自分。重なる部分が多すぎて、渚の胸は押し潰されそうになり、息が苦しくなっていく。「はい、由美さん、話してくれてありがとうございます」 進行役が優しく声をかけ
※ 案内された部屋は、想像していたよりずっと狭かった。 パイプ椅子が輪になって並べられ、すでに数人が座っている。年齢も性別もバラバラで、共通しているのは、誰もが少し俯き加減で、視線を合わせようとしないことだった。 渚は空いている椅子の中から、入口に近い席に腰を下ろした。膝の上で、指先が無意識に絡み合う。「初めまして、渚さんですね」 進行役らしき女性が、柔らかい声で名前を呼んだ。渚は小さく頷くことしかできなかった。「今日から参加される方が一人います。緊張されると思いますが、ここはお互いのプライバシーを守るため、下の名前だけで呼び合う安全な場所です。話したくないことは話さなくて大丈夫ですよ。ここにいるだけでも、十分な一歩ですから」 輪になった椅子を、渚はぐるりと見渡した。 誰も、渚の顔をじっと見つめてこない。値踏みするような視線も、同情するような視線もない。ただ、静かにそこにいる。「昴くん、今日もよろしくね」 進行役の声に、渚の視線が動いた。 斜め向かいに座っていたのは、思いのほか若く見える男性だった。丸みのある輪郭、大きな瞳、あどけなさの残る顔立ち――男性、という言葉から連想する威圧感が、まるでなかった。むしろ、女の子と見間違えそうなほど柔らかい印象だった。「はい、よろしくお願いします」 昴と呼ばれたその人は、軽く笑って会釈した。人懐っこい、屈託のない笑顔だった。 渚の身体は、強張らなかった。(あれ……) 自分でも意外だった。橘や和樹のように「安全だと確信できる理由」があらかじめ開示されているわけでもないのに、目の前の彼には、不思議と恐怖や警戒心が湧いてこない。 昴が渚の視線に気付き、にこりと笑いかけてきた。「初参加なんですね。緊張しますよね、僕も最初はそうでした」「……はい」 声が、思ったより自然に出た。 進行役が場を整え、輪の中で一人ずつ、今週あったことや胸の内を話し始める。 誰かが、震える声で職場
玲は紙カップをゴミ箱に投げ捨てると、人混みの中を歩く渚を追いかけた。視線は道路の向こう側を歩く彼女だけに固定されている。すれ違う通行人に強くぶつかっても、玲は気にせず前へ進んだ。 横断歩道の信号が赤になり、玲は足を止められる。早く青になれと心の中で必死に祈り、青に変わった瞬間に走り出した。寒い季節だというのに全身から汗が噴き出し、コートの中が湿っていく。 渚は前しか見ておらず、道路を挟んで追いかけている玲には全く気付いていない。 道路を挟んだ向こうに、彼女がいる。今、この時間に、このタイミングで同じ時間を共有している。掛け違ったボタンが、正しい位置に戻ろうとしている。(やっぱり、渚は俺と一緒にいるべきなんだ――!)「渚……! 渚ーーっ!」 声の限りに名を叫んだが、その瞬間、二人の間の車道をトレーラーが走り抜け、視界と声を遮ってしまった。 目の前をトレーラーが横切るのを見て、玲はハッと息を飲んだ。 名前を呼んだところで、渚が自分に気付いたらどうするつもりなのだろう。怯えた目で見つめられるのだろうか。それとも――。 今すぐにでも道路を渡り、彼女の手を掴んでしまいたい。けれど、脳裏を掠めたのは職場の隣の席に座る市田の言葉だった。『駄目ですよ、会いに行かせたら。余計に嫌われますよ。……お友達は待つことを覚えるべきです』 玲と渚を知らない、部外者の言葉だからこそ重い言葉だった。(俺と一緒にいるべきだなんて、どの口が言うんだ) 数秒前に頭に浮かんだ自分の言葉を、玲は自分で切り捨てた。 玲は、トレーラーが通り過ぎる前にゆっくりと踵を返した。 通りを歩いていた渚は、どこか前よりも元気そうに見えた。ほんの少しだけ頬のあたりがふっくらと膨らんだ気がする。健康そうに思えて、胸の奥がふっと安堵で温かくなった。自分がいない場所で、彼女がちゃんと食べて健やかに過ごせていることに安心した。 以前よりも、俯き加減ではあっても堂々と人混みの中を歩いていた。彼女は自分がいないところで、しっかりと成長し、前を向こうとしている
※ ※ ※ 土曜日の朝。寒空の下、玲はカフェのテラス席で一人、スリーブのついた紙カップを指先で弄びながら、ぼんやりと通りを眺めていた。 暖かい室内を選ばなかった理由は単純だった。待ち合わせのカップルがいて、自分たちの世界に浸る楽しげな二人の姿を視界に入れたくなかったからだ。仲睦まじく笑い合う男女を見るたび、渚を待つだけのあの時間は幸せだったと思い出してしまう。 コーヒーで体内を温めながら、玲は指先で携帯電話の画面をスクロールする。表示されているのは賃貸物件の検索サイトだった。「会社ではどんな仕事をしてるの?」「女の人、いる? 仲はいいの?」「お昼、作ろうか?」「このドラマ、面白いんだよ」 ――玲を束縛し、時間を共有してその上会話をしようとしてくる真央に嫌気が差して、部屋を抜け出してきたものの、行き場などどこにもなかった。一刻も早く真央のもとを出ていこうと考え、こうして物件を探しているが、作業は一向に進まない。(……俺が渚にしていたことと同じだな) 自分がされてみると、いい気持ちはしないな――玲は失笑した。 画面から目を離し、ぼんやりと通りを行き交う人々を眺める。厚手のコートを着込んだ通行人たちは、皆それぞれ帰るべき場所へ向かって足早に過ぎ去っていく。 新しい部屋を契約する前に、まず渚と暮らしていたあの家を解約しなければならない。だが、指がどうしてもその手続きに進まなかった。家賃と光熱費だけ支払っている状況だ。(……もし、渚とやり直せたら) もし奇跡が起きて、渚が自分を許してくれたなら、またあの部屋に戻ることがあるかもしれない。そんな淡い期待が、頭の片隅を離れなかった。「……ふっ」 自分でも呆れるほど身勝手な思考に、玲の口から乾いた笑い声が漏れた。 嫌な思い出しか詰まっていないあの場所に、渚が戻ってくるわけがない。あの部屋には、渚を傷つけ、追い詰めてしまった最悪の記憶しか残っていないのだ。トラウマを再び植え付けられた恐怖の場所に、彼女が再び足を踏み入れるはずなどない。 手の中で冷え切った携帯の画面に、虚しく冬の街並みが映り込んでいる。どれだけ自分に都合の良い幻想を抱いても、失ったものの大きさと自分の犯した過ちの深さが、冷たい風のように玲の心を酷く痛めつけるだけだった。 このまま、どこで時間を潰せばいいのだろう。 自分には
※ ※ ※ 金曜日の夕食後、リビングで温かいお茶を飲んでいた時だった。渚は手元のお茶を見つめたまま、意を決して口を開いた。「橘さん、和樹さん。……あの、明日の土曜日、行きたい場所があるんです」 ソファでくつろいでいた橘と、キッチンで片付けをしていた和樹が同時に渚を見た。橘は少しだけ目を細め、すぐにいつもの柔らかい声音で言った。「そう? どこか行くのなら車で送迎するわよ」「ありがとうございます。でも……今回は一人で行ってみたいんです。このまま二人にお世話になりっぱなしで甘え続けるのも申し訳ないですし……それに、自分一人で悩んでいても、どうしても答えが出ないことがあるんです。あの場所に行けば、何か答えが出るかもしれないと思いまして」 あの場所――グループカウンセリングのことだ。 玲のことを思い出してしまう。玲の裏切りを知り、心は傷ついているはずなのに、彼を思い出すと許そうと思ってしまう自分がいる。それは、彼をまだ愛しているのか、それとも、その愛に縋ろうとしているのか。玲に対する罪悪感から、許そうとしているだけなのか。ただ、彼を許したところで、真央という存在がいる。自分が何を知ろうとしているのか、はっきり分からない。玲と話したいのか、そうでないのか――……。(……私は、一体どうしたいんだろう) 真央のお腹には、玲の子供がいる――少なくとも、渚はそう受け取っている。お腹を擦っていた真央の姿が、今もなお鮮明に残っている。玲を選べば、一生その影に苛まれ続けることになる。逆に拒絶したところで、彼のいない未来に何を見出せばいいのかも分からない。壊れた日常を取り戻したいのか、それとも過去を全て捨て去りたいのか――問いかけるほどに、思考の渦へ深く沈み込んでいく。「前に進もうとしているのね」 静かに渚の葛藤を見守っていた橘が、暖かな眼差しを向けながら口を開いた。「どうなんでしょうか……」 渚は首を傾げた。前に進んでいる実感など、どこにもな
※ ※ ※ ランチタイムの休憩スペースは、いつも通り賑やかだった。 弁当箱を開きながら、同僚の一人が身を乗り出してくる。「ねえねえ、部長の彼氏ってイケメンよね? 惚れちゃわない?」 渚が橘の家に居候していること自体は、もう周知の事実だった。皆から理由を訊かれた時、返答に困った渚を助けてくれたのは橘だった。「彼氏がストーカー化してて、身の危険があって」 嘘ではあるが、間違いでもない。あれから玲からの連絡はないし、渚の携帯は静かなままだ。 橘の説明を聞いて、皆は驚きながらも深く詮索せず、心配して受け入れてくれた。おかげで、橘の家に住んでいることを隠す必要はなくなっている。「イケメンかどうかは分からないんですけど……でも、すごく美人で綺麗で優しいです」 橘の紹介で美容室で和樹と初めて会った時の第一印象は『綺麗』だった。渚よりも髪はサラサラ、肌もつやつや――……。「それって、イケメンってことじゃん!」「イケメンなんですかね? 人の顔あまり見ないから……」 渚が小さく答えると、向かいに座る同僚が目を輝かせた。「だから同居できるんじゃない? 顔面偏差値が高い男の顔を見ないから平気なんだ」「いや、それか元々メンクイでイケメンを見慣れてるんじゃない?」「どうですかね……?」 勢いに圧倒され、渚は曖昧に笑うことしかできなかった。 箸を止め、ふと考える。(玲は……爽やかな好青年、だった) 彼はイケメンの部類に入るのだろうか。今まで、そんなことを考えたこともなかった。 顔が好きで一緒にいたわけではない。優しい声、触れる手、名前を呼ぶ時の響き――それらが好きだった。「相良さん? 聞いてます?」「あ……すみません、なんでしたっけ」 同僚たちの笑い声が、休憩スペースに小さく響いた。「もう、どこまで上の空なのよ。やっぱりイケ
※ ※ ※ 別に渚を疑っている訳じゃない。 社会人にでもなれば、残業は増えるものだ。 ここ最近になって、残業が増えたのは事業部長が変わったから、と言うのも納得は出来る。 だが――相手は海外から赴任してきた人物だ。 そんな人間が日本の悪しき風習である残業を部下にさせるだろうか。しかも、決まって毎週金曜日。金曜は渚に手料理を振る舞って、その後は配信ドラマや映画を観て、ベッドに入るという流れが今では夕食の時間が遅れ、ドラマと映画を見る時間が削られてしまっていた。 「橘部長がね、アメリカ本社のパーティで」 (橘) 「橘部長が、アメリカのカフェで」 (橘) 「橘部長が、今日の会議
「してないよ」 すぐに返ってきた。でも一瞬の間があった。 渚は何も言わなかった。 「……何か、あった?」 不安そうに訊ねた玲に、「なんでもない」と答えて首を振る。そして、玲の胸に顔を埋めた。 髪を撫でる手が、また動き始める。 (してる) 渚には分かった。 玲が渚のペースに合わせていること。怖がらせないように、壊さないように、触れていること。 それが嬉しくないわけじゃない。 でも。 (玲に、ずっと我慢させてる) 渚のせいで。渚が怖がるから。渚が、普通じゃないから。 玲は優しい。 怖がれば止まってくれる。 無理をさせない。 急かさない。 渚が泣きそうになれば、
「……え?」 顔を上げる。 思考が止まる。 「パートナーいるし、女性に何かする気はないから安心して」 あっさりと言われた。 あまりにも自然で、冗談にすら聞こえない。 暫くして、橘が携帯を取り出した。何かを操作して、それを渚の方に向けた。 画面には、二人の男性が並んで笑っている写真があった。 (二人とも、幸せそう……) いい写真だった。 「俺のパートナー。十年になる」 渚は、その写真をじっと見た。 「だから」と橘は言った。「怖がらなくていい」 渚はまだ写真を見ていた。 胸の中で何かがゆっくりと解けていくのを、渚は感じていた。 「それと」と橘が小声で、教
※ドアをノックすると、「どうぞ」という低い声が返ってきた。一歩踏み出せば胸に圧がかかる。渚は息を浅くしたまま、ドアを開けた。橘 涼は書類から顔を上げた。 「相良さん、座って」 手で示された椅子に、渚は背筋を伸ばして腰を下ろした。渚は、目の前のガタイがいい男――橘の放つ威圧感に圧されていた。――やっぱり、苦手なタイプの男だった。背が高い。肩幅が広い。腕も太い。スーツの上からでも分かる体格の良さ。「楽にしていいから」と橘は手元の書類を捲った。(楽に……無理……)橘の声は近くで聞くと余計に低く、男らしさを感じさせるものだった。唯一の救







