LOGIN「もう一人の俺……」「動画に映っていた玲を見せて」 玲は頭を振る。「渚には汚い俺を見せられない。あんな、性欲にまみれた俺を見せるなんて無理だ。ぶつけられない」 自分の手の上に手を重ねた渚の手の甲に、玲は額を当てた。玄関先であれほど怯えさせてしまった記憶が脳裏をよぎる。あの時のように怖がらせてしまったらと思うと、怖くてたまらなかった。 その時、頭に渚の細い指が当たる。髪を指に絡めるように、優しく撫でる渚の指。頭皮が少し引っ張られる感覚が、たまらなく心地よかった。「玲の性欲が強いこと、実は私知ってたの」 勢いよく顔を上げる玲。信じられないような顔を渚に向けた。「私が生理じゃなくて、泊まった日は必ず求めてくるから。あれって回数多いんだよね?」 玲は何も答えられなかった。 渚と一緒にいたい。けれど彼女を自分のだと認識したくて、その度に求めていた。 本当は、もっと自分を刻み込みたいとばかり思っていた。その破壊欲を堪え、渚を傷つけないよう、怖がらせないよう、必死に耐えながら。「疑問に思っていたけど聞かないでいたの」 くすっと笑う渚。「……本性を見せるとは別だ」「それも玲なんでしょう?」「でも……」「私がどう選ぶか、玲が決めないで」 玲は口を閉じ、そして静かに目を閉じる。 やがて決意したかのように、ゆっくりと目を開いた。 目の前にいる渚を見つめる。彼女の瞳には怯えはなく、ただまっすぐに自分の姿が映っていた。「……分かった」 玲は深く息を吐き出すと、声を漏らした。「俺のこと――嫌いにならないでくれ」 それは酷くか細く、切実な声だった。 渚が何かを言おうとして口を開く。しかし、彼女が言葉を紡ぐよりも速く、玲は渚の唇を塞いだ。 久し振りに触れる、渚の柔らかい唇。 重ね合わせた唇の隙間から漏れ出る彼女の吐息が、自分の口の中へと滑り込み、まるで全身の血流を巡っていくかのように熱を帯びていく。体の奥から滾るような熱さが、一気に跳ね上がった。 ふと、苦しそうに息を吐く渚の様子に気付き、玲はハッとして唇を離した。「ごめん、渚、怖がらせて」 言葉とともに、すうっと自分の熱が引いていくのが分かった。また自分勝手に押し通してしまったという罪悪感が胸を刺す。 けれど、渚は静かに首を横に振った。「違うの」 渚の小さな手が伸ばされ、玲の服を
玲はハッとした。 自分の執着心を隠し、綺麗な自分だけを見せようとしたから、破滅へ繋がったのだと思い出す。もう、嘘も誤魔化しもつかない。「……渚と結婚する計画だったから、貯金は沢山あるんだ。だから少し高くても平気」 観念して白状するように吐き出すと、玲は恐る恐る渚の顔を見つめた。気持ち悪がられ、拒絶される覚悟をしながら。 けれど――渚の瞳に、怯えや引いた色は一切なかった。 彼女はただ静かに、玲の言葉を受け止めるように見つめ返していた。「カップを捨てなかったのは、渚が戻ってくるかもと思って引っ越しのときに持ってきた。カップだけじゃなくて、食器は全部捨てていないし、カーテンも捨てずに持ってきた。俺の寝室で使っている」 渚の表情は、凪いだままだった。何を考えているのか、玲には読み取れない。ただ、視線だけは一度もそらされず、玲の言葉の一つひとつを拾い集めるように聞いていた。 沈黙が長く感じられ、玲は膝の上の拳を握りしめた。「……カーテンまで? もしかして、このソファも?」 呆れとも、愛おしさともつかない声だった。口元が、ほんの少しだけ緩んでいる。「あと渚が戻ってきてくれた場合を考えて、部屋が多いと渚が俺に嫌気が差したときに避難できる部屋があるといいかも、って思ったのも理由の一つ」 渚はなんとも言えない、曖昧な笑みを浮かべていた。 そして、小さく頭を左右に振った。「隠さずに言ってくれて、ありがとう」 渚の穏やかな声に、玲は思わず息を呑んだ。「気持ち悪くないのか? 俺、渚がいなくなった後も、戻ってきてくれるかも、ってことばかり考えてて……」「気持ち悪くなんてないよ。ただ、驚いただけ」 渚はテーブルの上の紅茶に視線を落とした。湯気が二人の間に立ち上る。「……私のこと、本当に真剣だったんだね。結婚を考えるくらい」 カップを包むように添えられた渚の指先が、微かに震えている。「でも、セフレがいて、マチアプで女の子と関係を持
※ ※ ※ 約束の当日、玲は落ち着きなく部屋の中を行き来していた。部屋は何度も掃除し、乱れはないはずなのに、視線が定まらない。 ピンポーン、とマンションのエントランスのインターホンが鳴った。 跳ね上がる心臓を抑え込み、玲は急いで解錠ボタンを押す。「どうぞ」と声が掠れそうになりながらも応答し、通話を切った。 エレベーターが上がってくるまでの短い時間、玲は玄関前の廊下をうろうろと行き来した。足を止めてはまた歩き出し、胸の奥が張り裂けそうなほどの緊張に支配される。 玄関にある姿見の前に立ち、前髪を何度も触って整えようとするが、指先が微かに震えていてうまく決まらない。息を吸っては吐き出し、どうにか平静を装おうとしても、落ち着くことなど到底不可能だった。 渚から短いメッセージが届いたのが昨夜。 メッセージが届く前、玲は同僚たちに呑みに誘われ承諾したため居酒屋にいた。誘いに一度も首を縦に振ったことがない宮原がいる、ということで珍しさもあって大勢が参加していた飲み会だった。 家に一人でいても、渚からの連絡を待ってしまい携帯電話ばかり見てしまう。精神的に不衛生だと考えた末の行動だったが……飲み会中も携帯ばかり見ていたので、結果どこにいても同じだった。(今日もないか) ゴールデンウイーク中、どうやって時間を潰そうか。 鳴らない携帯に、やっと諦めがつこうとしていたそのタイミングで、短い通知音が喧騒の中で玲の耳にはっきりと届いた。急いで携帯の画面を開くと、そこには渚の名前があった。「腹痛いので、帰ります!」 金だけをテーブルに置いて、玲は戸惑う同僚たちの声に答えもせずに店を飛び出したのだった。 祝日前のせいで代行が見つからず、車はコインパーキングに放置してタクシーをやっと見つけて、飛び乗った。自宅に帰った玲は、部屋に何度も掃除機をかけ、トイレを磨き、必要ないにも関わらず風呂掃除をし、シンクの排水口の掃除まで終えてしまった。 ピッ――。 玄関のインターホンが鳴る。 玲はモニターで誰かを確認する余裕すらなく、鳴り終わる前に勢い任せにドアを開けた。 ガチャリ、と突然開いたドアに、外に立っていた渚は目を丸くして立っていた。「……久し振り」 渚が少し戸惑ったように、けれど静かに声をかけてくる。「うん……久し振り……」 玲も応じるのが精一杯だった。
※ ※ ※ カウンセリングルームで、渚は深くソファに腰掛けていた。「最近、男性に対する恐怖心はどうですか?」 落ち着いた問いかけに、渚は手元で自分の指先を見つめながら、言葉をひとつひとつ探すように口を開いた。「……ゼロになったわけではありません。今でも混んだ電車は乗れませんし、夜道で知らない男性とすれ違う時は、やっぱり一瞬体が強張ってしまいます」 そう前置きしてから、渚は顔を上げた。「でも……全員が怖いわけじゃないんだって、思えるようになりました。……色々な人と出会う中で、少しずつ、そう気付けたんです。過去を忘れたわけじゃないけれど、自分の中で折り合いをつけられるようになってきたんだと思います」「折り合い、ですか」「はい。あの事件の前に戻ることは、もう叶わないから……。だからせめて、あの時傷ついて、ずっと止まったままだった幼い自分を、解放してあげたいんです」 そこまで言って、渚はふっと息を吐き出した。 膝の上で重ねた手に少しだけ力を込め、静かに言葉を繋ぐ。「……それと、もう一人。解放してあげたい人がいるんです。でも、どうやって解放すべきか分からなくて」 あの病室で涙を流し、血を吐くように叫んでいた玲の姿が脳裏に焼き付いて離れない。 彼はあの日からずっと、自分のせいで渚が事件に巻き込まれたのだと罪悪感に苛まれ続けていた。自分と同じように、ずっと過去の呪縛の中で苦しんでいたのだ。 だからと言って、自分に隠れてセフレを作り、性欲を満たしていた事実が消えるわけではないし、簡単に許せることでもない。 でも、その起爆剤となったのは自分ではないだろうか。 違和感に気付いていながらも、口を閉ざし続けた渚。 だけど、行動を起こしたのは玲自身。 渚に嫌われないために、執着を隠した玲。(どうやって解放してあげるのが、一番いいんだろう……) 別れることが、彼を縛りか
※ ※ ※ オフィス内にカタカタとキーボードの打鍵音が響く中、玲はPCの画面に向かいながらも、デスクの脇に置いた携帯電話へ何度も視線を落としていた。 画面を点灯させてみても、通知の表示はない。味気ない時刻が白く浮かび上がるだけだった。 渚と病院で別れてから、一週間は経過している。 このまま何の進展もないまま、世間が浮き立つゴールデンウィークに突入してしまいそうだった。 携帯を手に取り、何度も連絡をしたくなる。声を聞きたい、今どうしているのか知りたいという焦燥感が胸の奥を焼き尽くしそうになる。 ――しかし、待つと言ったのだ。『待つ。どれだけでも』 あの日、病室で渚に向かって放った自分の言葉が脳裏をよぎる。 これまでの自分は、自分の不安を打ち消すためだけに答えを急かし、選択肢を奪い続けてきた。だからこそ、今は耐えなければならない。焦って追いかけるだけの愚かさを捨て、待てる男だと行動で証明して、まずは渚に信頼して貰うのが先なのだから。 分かってはいても、募る想いと焦りは簡単に抑え込めるものではなかった。実は、一度だけ終業間近に渚の会社へ行ってしまった。彼女がビルから出てくるのを物陰に隠れて見ていたのだが――途中、自身で「これは不味い」と自覚して、その場から立ち去った。(立ち去ることができただけでも……進歩だよな) そう自分に言い聞かせながらも、あの日の自分を思い返すと苦笑しか出てこない。物陰から渚の会社を見上げている時点で、普通なら十分に異常なのだろう。 それでも、会いたいと思えばそのまま接触し、知りたいと思ったことを勝手に調べていた以前の自分とは違う。少なくとも今は、「してはいけない」と自分で止まることができた。 少し前の自分なら、何時間も待っていただろう。そして、ビルから出てきた会社の人間に持ち前の愛想の良さで近付いて、「相良さんはいますか?」とか、普通に訊いていたはずだ。(高校時代の俺……似たようなことをしたな……) 渚に会いたい一心だったから、あの時は異様さを自覚していなかった。 胸の内に溜まった重苦しい空気を押し殺すように、玲は深く溜息を吐く。「溜息吐くの何回目ですか?」 隣のデスクから投げかけられた市田の辛辣な声に、玲は眉間を掻きながら言った。「ごめんごめん」「知ってます? 同じ言葉を二回繰り返すのって、だいた
渚の瞳が、真央のお腹へと吸い寄せられた。 病室で玲が必死に叫んでいた姿が脳裏をよぎる。『妊娠は絶対にしていない』――そう言い切っていた彼の声と、目の前で愛おしそうにお腹を擦る真央の姿。 渚は真央のお腹をじっと見つめ、そして、テーブルの上のグラスに視線を戻した。「……妊婦さんがカフェイン取っていいんですか?」 真央の表情がぴきりと固まった。 一瞬の動揺。そして泳いだ視線。 別に、その問いだけで妊娠を否定できるわけではない。渚もそれくらいは分かっていた。 ただ――真央の反応を見るには十分だった。(……やっぱり、嘘なんだ) 病室で玲が必死な顔で「絶対にしていない」と叫んでいた言葉は、真実だったのだと悟る。渚は静かに真央を見つめ返した。「……玲とよりを戻すの?」 動揺を隠すように、真央は先ほどと同じ問いを繰り返した。その声にはどこか余裕がなく、縋るような焦燥が滲んでいる。「それは分かりません」 渚は包み隠さず、正直に答えた。 許せるのかも、これからどうしたいのかも、自分自身まだ答えは出ていない。だからこそ、偽りのない自分のいまの気持ちをそのまま口にした。「話したいことはこれだけですか?」 真央は口を半開きにしたまま、何も言えずに黙り込んだ。 渚は自分の注文したオレンジジュース代の現金をテーブルの上にそっと置くと、鞄を抱えて静かに席を立った。 背を向け、カフェの出口へと歩き出そうとした、その時。「……無理だよ」 低く絞り出すような真央の声が、背中に突き刺さった。 渚は足を踏み止め、肩越しにゆっくりと振り返る。真央の顔を直視した。「玲の性欲に、あんたがついていけるわけない」 歪んだ執着と嫉妬を撒き散らす真央の言葉に対しても、渚の心はざわつかなかった。かつてのように怯えて俯く渚は、もうどこにもいない。「……知っ
「どうぞ」 無害そうな笑みを浮かべ、隣りを促すと女は恐る恐る玲の隣りに座った。 Barの高い椅子も不慣れなのか何度も座り直す。その度にスカートが捲れそうになり、慌てて手で押さえていた。 ようやく、思ったように座った彼女はマスターに「同じのを下さい」と伝えた。度が強いウイスキーだということを玲は教えなかった。 ――案の定、二杯で酔ってしまっていた。 「わたし、今日が二十歳のたんじょうび、なんれす」 「おめでとう」 心のこもらない言葉を、グラスで隠す。 女は愚痴を喋り続けている。 玲はそれを聞き流しながら、別のことを思い出していた。 (あの時) ――怖かった、と震える声で
※ ※ ※ 別に渚を疑っている訳じゃない。 社会人にでもなれば、残業は増えるものだ。 ここ最近になって、残業が増えたのは事業部長が変わったから、と言うのも納得は出来る。 だが――相手は海外から赴任してきた人物だ。 そんな人間が日本の悪しき風習である残業を部下にさせるだろうか。しかも、決まって毎週金曜日。金曜は渚に手料理を振る舞って、その後は配信ドラマや映画を観て、ベッドに入るという流れが今では夕食の時間が遅れ、ドラマと映画を見る時間が削られてしまっていた。 「橘部長がね、アメリカ本社のパーティで」 (橘) 「橘部長が、アメリカのカフェで」 (橘) 「橘部長が、今日の会議
「してないよ」 すぐに返ってきた。でも一瞬の間があった。 渚は何も言わなかった。 「……何か、あった?」 不安そうに訊ねた玲に、「なんでもない」と答えて首を振る。そして、玲の胸に顔を埋めた。 髪を撫でる手が、また動き始める。 (してる) 渚には分かった。 玲が渚のペースに合わせていること。怖がらせないように、壊さないように、触れていること。 それが嬉しくないわけじゃない。 でも。 (玲に、ずっと我慢させてる) 渚のせいで。渚が怖がるから。渚が、普通じゃないから。 玲は優しい。 怖がれば止まってくれる。 無理をさせない。 急かさない。 渚が泣きそうになれば、
「……え?」 顔を上げる。 思考が止まる。 「パートナーいるし、女性に何かする気はないから安心して」 あっさりと言われた。 あまりにも自然で、冗談にすら聞こえない。 暫くして、橘が携帯を取り出した。何かを操作して、それを渚の方に向けた。 画面には、二人の男性が並んで笑っている写真があった。 (二人とも、幸せそう……) いい写真だった。 「俺のパートナー。十年になる」 渚は、その写真をじっと見た。 「だから」と橘は言った。「怖がらなくていい」 渚はまだ写真を見ていた。 胸の中で何かがゆっくりと解けていくのを、渚は感じていた。 「それと」と橘が小声で、教







