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夕暮れの山に隠された夢
夕暮れの山に隠された夢
Author: 鳳あん

第1話

Author: 鳳あん
切迫流産で救急搬送されたその日、医師は牧原圭吾(まきはら けいご)に何度も電話をかけたが、始終つながらなかった。

外では土砂降りの雨が降りしきる。朝倉恵梨(あさくら えり)は血に染まったベッドに横たわり、痛みに喉を裂くような悲鳴を上げた。医師と看護師がベッドを押し、慌ただしく手術室へと運び込む。

「もう待てません。すぐに手術を始めます。これ以上遅れれば、母子ともに命がもちません!奥様に何かあったら、牧原様に殺されかねません!」

分厚い手術室の扉が勢いよく閉じられた。けれど、手術が終わるまで、圭吾は現れなかった。

そして、恵梨の腹の中で四か月目まで育った双子は、光を見ることなく、その命を閉じた。

恵梨が目を覚ましたとき、医師はまだ圭吾に電話をかけ続けている。

「牧原様、どうなさったんでしょう……奥様のお子さんはお二人とも助かりませんでしたのに、どうしてお電話がずっとつながらないんでしょう?それに、今は電源まで切られているようです!」

恵梨はぼんやりと天井を見つめたまま、身じろぎひとつしない。圭吾がどこにいるのか、彼女は知っている。帰国したばかりの初恋の女と、いま絡み合っている。

お腹の子を死なせたのは、彼だ。

昨日は二人の結婚五周年の記念日だった。恵梨はテーブルいっぱいに料理を並べ、圭吾の帰りを待っていた。

けれど料理がすっかり冷めても、圭吾は帰ってこなかった。

会社で残業しているのだと思い、恵梨は土砂降りの中、会社へと足を向けた。だが、社長室のドアを押し開けたその瞬間、彼のスマホの中で何度も見たあの女が、そこにいた。

白石詩月(しらいし しづき)――圭吾の初恋。

五年前、二人は深く愛し合っていた。けれど詩月は、圭吾がどん底にいた時期に、自分の将来のため迷いなく彼のもとを去って、海外へ渡った。

それからの五年間、誰かが詩月の名を出すたび、圭吾は平然と答えた。

「彼女のことはもう忘れた。覚えているとしても、憎しみしかない」と。

忘れた証拠だと言って、圭吾はかつて二人で撮った写真を破り、詩月にまつわるものをすべて処分した。

だから恵梨も、彼がもうとっくに彼女のことを忘れたのだと信じていた。

けれど結局、彼は皆を欺き、自分すら欺いていたのだ。

「何してるの、圭吾!離して!」

突如、大きな物音が響き、恵梨の思考の思考が一瞬で断ち切られた。顔を上げると、圭吾が片手で詩月の腰を引き寄せて机に腰掛けさせ、もう片方の手で荒々しく彼女のブラウスのボタンを外していた。

「何って?」

圭吾は身を屈め、荒々しく詩月の唇を噛みつぶした。

「償うために戻ってきたんだろ?五年前、俺を置き去りにして、あんなに苦しませておいて……いいか、償いたいなら、体で払え。いつか飽きたら、放してやる」

「……っ!」

痛みに顔を歪めながらも、詩月は圭吾の首に腕を回した。甘い声が唇の隙間から漏れた。

「この方法で償えるなら、私はそれでいい。でも、圭吾……私たちの間には、もう憎しみしかないの?」

「何を期待してる?俺はもう結婚してるんだ。どうした、後悔でもしたか? 今さら俺と一緒になりたい?もう遅い」

そのまま彼は詩月の細い腰を掴み、身を屈めて唇を塞いだ。掠れた声が、抑え込んだ熱を帯びていた。

「ごめんなさい、圭吾。あの時、わざとあなたを置いていったわけじゃないの。私のことを許して。もう一度、やり直せない?ねえ、朝倉さんと離婚して……」

「何様のつもりだ。恵梨と離婚しろだと?俺は彼女を愛している。一生離婚なんてしない」

「じゃあ、放して。行かせてください!」

詩月は彼を押しのけようとしたが、圭吾は微動だにせず、放すはずもなかった。

「行かせる?詩月、覚えておけ。これはお前の負い目だ。返しきるまで、どこにも行かせない」

詩月は目を閉じ、涙がひと筋、こめかみを伝った。

彼女が海外へ出なければ、圭吾と結婚したのは本来、彼女だったのに。

熱を帯びた息遣いと、机を打つ鈍い衝撃音が、波のように鼓膜を打つ。

恵梨は扉の外に立ち尽くし、圭吾の恍惚とした表情を見つめていた。

胸の奥が裂かれるように痛い。

――この何年、自分はいったい何だったのだろう。

思考がぐちゃぐちゃに絡まりながら、恵梨は彼らが何度も重なり合うのをただ見つめていた。そして、抜け殻のようにエレベーターに乗り、会社を後にした。

だが、車に乗り込んだ瞬間、あまりの悲しみに腹部が激しく痛み、出血が始まった。

すぐに病院へ運ばれたものの、子どもは助からなかった。
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