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第3話

Author: 風待
ゆいは何も言わなかった。

ただ、彼の温かい腕の中に包まれながら、その胸の中で渦巻くのは、皮肉と苦しみだった。

――ほんと、よくやるよね……

もし、あの夜の光景を目にしていなかったら――

もし、あのマイバッハの中で誠士がすみれと絡み合っている姿を知らなかったら――

彼がこれだけ手間をかけて用意した「証明」に、きっと信じてしまっていたに違いない。

でも、この世界に「もしも」なんて存在しない。

一度裏切った男は、もう信じない。

――誠士、一度の裏切りは、一生の不信なんだよ。

彼女の微細な変化に、彼も何かを感じたのかもしれない。

それからの数日間、誠士はすべての仕事をキャンセルし、ずっと家にいて彼女に寄り添った。

機嫌をとるように、ブランド物やファッションショーの最新アイテムが、毎日のように屋敷へ届けられた。

けれど、彼女の顔に笑顔が戻ることはなかった。

そんなある日――

「目、閉じて」

そう言って彼は彼女の目を優しく覆い、どこかへ連れて行った。

着いたのは、街のど真ん中にある超高層ビルの最上階。

目隠しが解かれたとき、そこにはロマンチックなキャンドルディナーが用意されていた。

……昔だったら、きっと心から感動していた。

だけど今は、ただ黙って彼の引いた椅子に腰を下ろし、淡々とナイフとフォークを動かすだけ。

向かい側の彼は、思い出話を語り始めた。

「なあ、ゆい。覚えてる?オレがここでプロポーズしたこと。この結婚式の準備、半年かけて完璧にしたんだ。世界中に配信されてさ……君が『はい』って言った瞬間、オレ、何したと思う?」

ナイフでステーキを切っていたゆいの手が、ピタリと止まった。

「……泣いたんでしょ」

その一言に、誠士は微笑んだ。

「そうだよ。泣いたんだ。嬉しすぎて、もうどうしようもなかった」

どれほど深く愛していたら、男は――

最愛の彼女と結ばれたその瞬間、世界中のカメラの前で涙を流せるんだろう。

彼の思い出話を聞いて、何も感じなかったわけじゃない。

きっと、あの頃の彼は、本当に自分を愛してくれていた。

でも――

今はもう違う。

過去は過去。

目の前の誠士は、あの日「一生、君だけを愛す」と言った彼じゃない。

思考の深みに沈んでいたゆいの視界に、ふと何かが現れた。

それは、淡い翡翠色のペンダント。

どこかで見たことがある……と思った瞬間、彼女の脳裏に浮かんだのは――

つい最近、サザビーズのオークションで億単位で落札された、あの伝説のジュエリー。

目を上げると、彼の目が真っ直ぐこちらを見ていた。

「このネックレス、名前は『結糸』って言うんだ。初めて見た時、まっ先に君を思い出したよ。似合うって思った。

名前の中には「ゆい」があるし、『結糸』、つまり、糸はふたりを繋ぐものだと思ってる。

だから……この先ずっと、君と繋がっていたいんだ」

まっすぐに愛を込めたその瞳に、ゆいは一瞬、思考を止めてしまった。

――そのときだった。

「奥様、こんばんは」

軽やかで朗らかな声が響いた。

すみれが、笑顔を浮かべながら歩み寄ってきた。

「社長、ご依頼のもの、すべて準備が整いました」

そう彼に報告し、彼は満足げに頷くと、指をパチンと鳴らした。

「パン!」

「パン!」

「パン!」

直後、夜空を裂くようにいくつもの花火が打ち上がった。

音を立てて咲く無数の光の花。

「この花火、一日中続くんですよ。奥様が花火好きなの、社長が覚えていて……サプライズだそうです」

すみれは、羨ましそうに微笑んだ。

夜空に咲く花火は確かに綺麗だった。

彼女は、花火が好きだ。間違いなく、好きだった。

――でも。

花火はすぐに消える。

愛も、そうだった。

一陣の風が吹き抜けた。

テーブルの上に置かれていた紙ナプキンが、ふわりと舞い上がり、ゆいの足元へと落ちた。

彼女は反射的に身をかがめ、それを拾おうとした――そのとき。

ふと目に入ったのは、風に煽られたテーブルクロスの隙間から見えた「異物」。

スーツのスラックスに、黒いナイロンストッキングの脚が、そっと、でも確かに、擦り寄せられていた。

この場にいるのは、誠士とゆいと、藤崎すみれの三人だけ。

そして、その脚は――自分のものじゃない。

息が詰まる。

誠士は、その脚を払いのけることなく――むしろ、逃げるように引こうとしたそれを、突然、力強く掴んだ。

まるで所有者のように。

その手は、すらりとしたストッキング越しの足首を撫で回し、ゆっくりと、ぞわりと這い上がっていく。

まるで愛撫するように。

そして、指先がスカートの奥へと滑り込もうとしたその瞬間――

誠士が立ち上がった。

何事もなかったように、愛しげな微笑みを浮かべたまま。

「ゆい、ちょっと電話かけてくる。すぐ戻るから、ここで待ってて」

言い残し、席を離れた。

そのすぐ後――すみれも、彼の後を追うように立ち上がった。

二人の背中が並んで遠ざかっていくのを、ゆいはただ見つめていた。

――待てるわけがない。

彼の言葉を聞き流し、彼女も静かに立ち上がった。

そして、彼らの後を追い、屋上へ続く階段の途中で――立ち止まる。

わずかに開いた扉の隙間から、見えたものは――

誠士が、すみれをその腕に抱きしめ、情熱的にキスを交わしている姿だった。

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