ログイン樹は突然飛びかかった。強烈な蹴り一発で澄人を地面に倒すと、そのまま馬乗りになって容赦なく拳を叩き込む。日頃から栄知のもとで厳しく鍛え上げられている体だ。周りの子供たちが慌てて引き剥がそうとしたが、まったく歯が立たず、逆に殴り飛ばされて悲鳴を上げながら逃げ散った。 二人がもみ合いになり、床を転げ回る。 澄人も負けん気が強かった。必死にもがいてデタラメに拳を振り回し、樹の体にぶつけながら怒鳴り散らした。 「長谷川!お前なんか父さんも母さんもいない、誰にも要らない子だろうが! 知らないのかよ!お父さんが死ななくたって、とっくに離婚してたんだよ!誰もお前なんか欲しくないんだ! 父が言ってたぞ、お前は誰にも要らないゴミで疫病神だって。お前が生まれたからお父さんが死んだんだって――がっ!」 その言葉を聞いても、樹の顔には驚きのかけらすら浮かばなかった。一言も発することなく、底知れぬ暗い目を向けたまま、黙々と拳を振り下ろし続けた。 鮮血が飛んだ。 すぐに、澄人は抵抗を諦めてうめき声を漏らすことしかできなくなった。 駆けつけた担任が、ようやく二人を力ずくで引き離した。医務室に連行すると、担任は声を荒らげた。 「樹くん、澄人くん!二人とも親を呼びなさい!学校で殴り合いなど、どういうつもりだ!」 鼻血まみれで顔を腫らした澄人は、薬を塗られながらもわめき散らし、担任の言葉を聞くなり喚き立てた。「呼べばいいだろ!長谷川、父が来たらただじゃ済まないからな!この親なし――いっ、痛い!先生もっと優しくしてよ!」 「澄人くん!」 担任は澄人の耳をきつく引っ張り上げ、また飛びかかろうとする樹を必死に押さえつけると、二人を別々の部屋に押し込んだ。 「樹……」 なだめようとした担任だったが、樹の底の見えない暗い瞳で睨みつけられ、言葉を失った。 「先生、出ていって。一人にして」 とはいえ、担任もそのまま放っておくわけにはいかない。 部屋を出てもその場を離れず、ドアの小窓から中の様子をこっそり見張っていた。 …… 部屋の中の樹は、異様なほど静かだった。 担任がいなくなったのを確かめると、腕のスマートウォッチを外し、彰に電話をかけた。子供とは思えないほど落ち着き払った声だった。 「桐生おじさん、僕、人を殴った。先生
パシッ。 雪が、翔の後頭部を容赦なくひっぱたき、冷え切った声で言った。「その言葉、誰に向かって言ってるの」 そして、再び視線を小夜へ向ける。「高宮。うちの出来の悪い息子が、あなたのことをずいぶん慕っているそうね。暇があったら、うちに遊びにいらっしゃい。これから――長くて深い付き合いになりそうだから」 彼女は紅い唇の端を吊り上げて微笑んだ。だが、その目の中は完全に凍てついていた。 それだけ言い残し、雪は背を向けた。 傍らの若葉が、小夜にちらりと冷笑を投げかけた。目の奥の悪意が、今にも溢れ出しそうだった。彼女もすぐに雪の後を追って歩き出す。 「雪さん、待ってくれよ」 残された翔は、ひどく居心地が悪そうに頭を掻いた。こんな騒ぎになってしまい、彼自身どうしようもなかった。「姉は、完全に誤解しているんだ。あとで俺からちゃんと話して、改めて謝りに伺わせるから……」 「……」 どう説明しろというのか。 説明で済む話なら、出所してからの半年間でとっくに済んでいるはずだ。今でもこんな態度を取るということは、雪は小夜が息子をたぶらかしたと本気で思い込んでいるのだ。小夜には、もう返す言葉もなかった。星文が実の母親を認識できない理由など、これだけ時間が経てば、雪自身がいちばんよくわかっているはずではないか。 ――もう、本当に勘弁してほしい。 小夜は深く息を吸い込み、胸の奥から湧き上がる苛立ちを無理やり押し込めて、淡々と訊ねた。「星文は最近どうなの?まだ、お母さんのことがわからないの?」 翔は気まずそうに頷いた。 昨年、出所したばかりの雪から引き離すため、翔は星文を海外にいる母親のもとへ送り、精神的な治療を受けさせていた。 だが、あまり効果はなかった。 ただ、向こうの環境のおかげで精神的にはいくらか落ち着いてきてはいたのだ。 少しずつ良くなると思った、まさにその矢先だった。雪が動いたのだ。星文になど一切興味がないと思っていたのに、出所して間もなく、彼女は海外まで星文を追いかけていった。だが星文は、雪を母親だと認めなかった。 現地で大騒ぎになった。 結局、彼らの母親がその騒動にうんざりして、雪と星文の二人をまとめて国内へ送り返してきたのだ。 「あのさ」 家の重苦しい状況を思い浮かべ、翔は少し
「あなたが、高宮小夜よね?」 低く鋭い、ひどく圧の強い声だった。小夜は一歩後ずさり、軽くぶつけた額をさすりながら顔を上げた。目尻にうっすらと赤みを差した、刃物のように鋭い目と視線が絡み合う。 女だった。 この華やかなレセプションの席で、口に細いタバコを咥えている異端の女。 背が高い。身にまとった深紅のパンツスーツが、寄せつけがたい冷気を放っている。鋭い目が値踏みするように、小夜を頭からつま先までゆっくりとなぞった。真紅のネイルを施した指に細いタバコを挟み、紫煙をくゆらせながら、ふっと顔を近づけてくる。息が詰まるような圧。彼女はもう一度訊いた。 「高宮小夜でしょう?」 「……ええ」 ふっと顔に煙が吹きかかった。決して不快な臭いではない。むしろ冷涼な薄荷の香りがする。それでも小夜は不快げに眉をひそめ、さらにもう一歩退いた。 タバコの匂いは嫌いだ。 どんなタバコであろうと。 「あなたは?」 この女に見覚えはない。今まで一度も会ったことがないはずだ。さきほど若葉が口にした「落ちぶれる姿を見に来た」という言葉が頭をよぎり、小夜の眉が寄る。 この尋常ではない気迫を持った女は、若葉の差し金か。 また面倒事か。 そう思った時、傍らから若葉が歩み寄り、女の深紅のスーツの袖を引いて、親しげに声をかけた。 「雪さん、いらしてたのね」 「ええ」 女は若葉をちらりと一瞥して短く応じると、すぐに視線を小夜へと戻した。その眉間に、うっすらと霜が降りる。タバコを挟んだままの右手が、小夜に向かってすっと差し出された。ごく静かで、凍りつくような声。 「初めまして。柏木雪。星文の母親よ」 小夜の思考が、一瞬ピタリと止まった。 ――星文の母親。夫の不倫に激怒し、ためらうことなく夫を殺害して、六年間服役していたあの女。 すでに出所していたのか。 いや――去年の時点で、もう外へ出ていたはずだ。自分が国内外を慌ただしく飛び回っていたから、会わなかっただけだ。まさか今日、こんな場所で出くわすとは。 小夜は無意識のうちに、さらにもう一歩下がった。 気のせいだろうか。冷たい薄荷の香りが鼻先を満たしているはずなのに、その奥に、どうしても拭い去れないねっとりとした血の匂いが漂っている気がした。 はっきりと確信した。
小夜が本気で怒っているわけではないと気づき、奈々は背後でようやくほっと息をついた。 けれど、その胸のうちは好奇心でいっぱいだった。 秘書として小夜のそばにつくようになってしばらく経つが、奈々から見れば、彰という男は絵に描いたような完璧な右腕だった。細かい指示を出さずとも、必要な時に必要な資料を先回りで揃え、代替案まで常に何パターンも用意してある。 あれだけ完璧に仕事をこなせる男がいるなら、自分のような若手の秘書をわざわざもう一人雇う意味などないはずだ。 実際、奈々の仕事は小夜と彰の間の「橋渡し」に過ぎなかった。 自分の秘書としての能力を活かす場面などほぼなく、たいていはただの伝言役だ。それなのに小夜は、明らかに彰を意図的に遠ざけている。 奈々に言わせれば、彰ほど優秀で、かつ忠実な部下はどこを探してもいない。 しかも、とんでもなく顔がいい。 オフィスに黙って立っているだけで目の保養になるというのに、小夜は彰を目の敵のように扱い、国内での社長室まで彼とは完全に分けているのだ。二人の間に過去に何があったのかは知らないが、そこまで彼を毛嫌いしているのなら、いっそ辞めさせてしまえばいいのに。 ――まあ、いいか。 大財閥には、大財閥の複雑な事情があるのだろう。 一介の会社員である自分が、深く首を突っ込む話ではない。 奈々はこっそり振り返り、風を切るように歩く長身の美男の姿をたっぷりと鑑賞してから、上機嫌で小夜の後を追った。 高い給料をもらえて、おまけにタダで極上のイケメンまで拝めるのだ。 文句なし、十分すぎる待遇だった。 …… レセプション会場。 会場に入った小夜は、グループと取引の多い重役たちとそつなく二言三言言葉を交わし、紹介された若手起業家にも型通りの挨拶を済ませると、適当な理由をつけて早々にその輪から抜け出した。 ウェイターから受け取ったシャンパンをひと口含み、何気なく視線を巡らせたところで、彼女の動きがぴたりと止まった。 ――まったく、いつまでも執着してつきまとう女だ。 「高宮さん。久しぶりね」金のフリンジが揺れる華やかなドレスをまとった若葉が、完璧な笑みを浮かべてゆっくりと近づいてきた。 「……」 小夜は素っ気なく返した。「昨日、電話で話したばかりでしょう」 「…
「勉強の方はどう?」 小夜がさりげなく話題を変えた。 「もちろん一番だよ!」 この話題になると樹はたちまち得意げに胸を張り、最近のテストや成績表を机の上にずらりと並べてみせた。小夜は驚かなかった。樹はもともと地頭が良く、勉強に身が入っていなかった頃でさえ成績は悪くなかったのだ。この一年は、まるで目覚めたように学力が伸びている。 やる気さえ出せば、大人があれこれ口出しする必要のない子なのだ。小夜も素直にその頑張りを褒めてやった。 「ママ。ひいおじいちゃんの言うこと聞いて、ちゃんとご飯食べて背も伸びたし、成績だって一番だよ。ママが言った条件、全部クリアしたよ。いつになったら、海外に行ってママと一緒に暮らせるの?」 樹はすかさず本題に切り込んできた。 小夜は困惑した。 これらを達成したら一緒に海外へ連れて行くなんて、いつ約束しただろうか。それにしても、最近周りの人間が揃いも揃って海外に行きたがるのは、一体どういうわけなのだ。 今の状況で連れて行くことなど、絶対にできるわけがない。 「樹、まだ早いわ。高校を卒業したら、そのときは留学の手配をしてあげる。約束するわ」 樹が十八歳になるまでに、コルシオの件を片付けられないはずがない。 「えー、そんなの先すぎるよ!」 樹はあからさまに不満そうだった。 いつもこうだ。海外の話を出すたびに、ママはあれこれ理由をつけて断ろうとする。同い年の子たちの中には、親が移住の手続きをしたり、年齢なんか気にせず幼いうちから海外の学校に入れたりする家だってあるのに。 うちの方がずっとお金持ちなのに、なんで駄目なんだ。 国内で勉強なんてしたくない。ずっとママに会えないのも嫌だ。ずっとそばにいたいのに。 「樹。ママは今、どうしても手が離せない仕事があるの。でも約束するわ。共通テストが終わって、ちゃんと結果を出せたら、必ず留学させてあげるから」 コルシオの件さえ、完全に片付けば…… 樹は小夜の目をじっと見つめた。それが嘘ではないと確かめるように。それからようやく、すがりつくように彼女の胸に顔を埋めた。くぐもった声が漏れる。 「ママのこと、信じるからね。 だからママ、今度こそ約束を守ってね。もう、パパのときみたいなのは嫌だから」 …… その夜は一緒に宿題をやり、ゲ
また一回り背が伸びた樹を前に、小夜は腰をさすりながら黙って腰を下ろした。力もずいぶん強くなっている。さすが特務機関の出身である栄知に鍛えられているだけのことはある。 まあ、いいことだ。 体が丈夫なら、将来いじめられる心配もない。 「ママ、全然会いに来てくれなかった」 亮介の手から逃れた樹が、不満そうに口を尖らせて小夜の手を掴んだ。 「少し忙しくてね」 小夜はそっと手を引いた。 樹の父親はもういない。自分しかいないのだから、そばにいてやる責任があることは頭ではわかっている。けれど、心の奥深くに刺さった棘はどうしても抜けない。この一年、小夜はわざと仕事に没頭し、樹との時間をあまり取ろうとしなかった。 圭介にますます似ていくその顔を見るたび、どうしても身構えてしまい、無意識に距離を取ってしまうのだ。 人は死ねばすべて終わると言う。 けれど、骨の髄まで刻み込まれた痛みと恐怖は、どれほど折り合いをつけようと努めても、癒えるまでに途方もない時間がかかる。 たった一年では、到底足りなかった。 書斎の奥で、栄知はすべてを静かに見透かしていた。小夜の心がまだ過去を乗り越えられていないことも。彼は声を出さずに小さく首を振り、言った。 「久しぶりの親子だろう。わしの前で騒がんでいい。どこかへ行って遊んでこい」 そう言って、また筆に向かった。 小夜ははっとした。「お爺様、私にご用があったのでは」 言ってから、気づいた。 樹が栄知の屋敷にいるのを知っていながら、ここの堅苦しさや栄知との距離感を理由にして、小夜は帰国してもここから足が遠のいていた。だから栄知は、「用がある」とわざわざ口実を作って彼女を呼び出してくれたのだ。小夜がうまく隠しているつもりだったが、栄知の目には何もかもお見通しだったらしい。 見透かされていて、ひどくバツが悪かった。 「ひいおじいちゃん、今日は休みにしてくれるって約束だからね!」樹は大人たちの気まずさなどお構いなしに栄知に向かって叫ぶと、小夜の手をぐいと引っ張った。「ママ、早く! 見せたいものがいっぱいあるんだから!」 「ちょっと待って」 小夜は咄嗟に書斎の戸枠を掴み、踏みとどまった。身を乗り出して、部屋の中へ声をかける。さっき外で聞こえた言葉が、どうしても引っかか
あの晩、圭介は電話を受けると、何も言わず、部屋に戻ることもなく、そのまま去っていった。小夜を大学まで送ったのは、彰だった。その後何日も、圭介は姿を見せず、大学で会うこともなかった。彰さえも大学から姿を消し、二人の消息はぷっつりと途絶えた。当時の小夜は、心配するよりもむしろ安堵していた。圭介が忙しいなら、それに越したことはない。あの男と渡り合うには、かなりのエネルギーと精神力を消耗するからだ。来ないなら、その方がいい。契約恋愛の期限も、刻一刻と終わりに近づいていた。彼女はプロジェクトの学習に没頭した。そして、契約期間終了の一週間前。青山率いるチームのプロジェクトに
夕暮れ時、寮の建物の曲がり角。小夜は顔を上げ、目の前に立つ背の高い圭介を見つめた。驚きはあったが、それ以上に困惑が勝った。一年ぶりの再会だ。近くで見ると、圭介の顔には憔悴の色が濃く、その端整な顔立ちには、どこか壊れそうな脆さが漂っていた。何かあったのだろうか?だが、彼女には関係のないことだ。二人は赤の他人以下の関係なのだから。圭介が待ち伏せしていたこと自体、彼女にとっては予想外だった。小夜は数歩後ずさりし、距離を取った。表情を冷たく引き締め、一言も発さずに立ち去ろうとした。彼と話すことなど、何もない。しかし、腕を掴まれた。強い力で引かれ、背中が壁にぶつかる。圭介
小夜は、頭が割れるように痛かった。耳に入ってくる言葉は遠く、視界も霞んでいる。全身が火のように熱く、指一本動かせないほど力が入らない。彼女が意識も朦朧と、顔を真っ赤にして黙り込んでいるのを見て、航は額に手を当てた。彼は「熱っ!」と叫ぶと、慌てて外へ飛び出し、この家の女主人を呼びに行った。小夜は高熱を出していた。ひとしきり大騒ぎして薬を飲ませると、彼女はようやく泥のように眠りについた。その眠りは苦しいものだった。混濁した意識の中で、小夜は夢を見た。ずっと昔に戻る夢だ。それは、彼女が圭介と初めて出会った時のこと。七年前よりも、もっと前のことだ。まだ大学に通ってい
小夜は、まだ状況がよく飲み込めていなかった。雨の中に飛び出したことまでは覚えているが、その後の記憶が曖昧だ。見知らぬ部屋の造り、着替えさせられた服を見て、当然ながら戸惑っていた。不思議に思っていると、突然ドアが開き、六、七歳くらいの少女が走り込んできた。二人は無言で見つめ合った。少女は声を張り上げた。「ママ、ママ!綺麗なお姉ちゃんが目を覚ましたよ!」少女は叫んだ後も出て行かず、駆け寄ってきて、物珍しそうに小夜を見上げた。黒目がちの瞳がくるくると動き、とても愛らしい。子供を見て、小夜は思わず笑みをこぼした。「お嬢ちゃん、ここはどこ?」「私の家だよ」少女は小首をかし







