「違うわ、別にあなたを避けてるわけじゃないの。ただ、生理痛がひどかっただけなの。わざわざ来てもらって悪かったわね。せっかく時間を取らせてしまって......」若子は申し訳なさそうに言った。修がとても忙しいことを知っているので、できるだけ彼の邪魔をしないようにと心がけている。若子は普段おとなしく、物静かに振る舞っていた。結婚してからの時間はまだ短く、彼女は修に良い妻であろうと努力し、少しずつ「夫婦らしい自然な関係」を築こうとしている。けれど、どこかまだ現実感がない。修と向き合うたびに、若子は少し距離を感じるのだ。まるで普通の女の子がずっと憧れていた遠い存在の「王子様」をようやく手に入れたようで、嬉しいけれど、どう接していいのか分からずに心が揺れてしまう。些細なことで彼に嫌われたりしないかと、いつもどこかで怯えている。「何が悪いんだ?」修は少し眉を寄せ、冷ややかとも思える真剣な表情で言った。「俺たちは夫婦だ。お腹が痛いなら、俺に知らせてくれればいい」「どうして?」若子はつい本能的に問い返してしまった。生理痛なんて普通のことだし、誰かに話しても解決するわけじゃない。それに、こんなことを修に伝えたら、彼にとっては迷惑ではないだろうか。どうせ痛みを治してもらえるわけでもないのだから。「どうしてだって?」若子の問いに、修は短く笑い、少し不機嫌そうに言った。「俺は君の夫なんだ。君が痛がっているなら、それを知っていて当然だろう」若子は言葉を詰まらせ、返すことができなかった。だからって、どうして彼が夫だからって、全部教えなきゃいけないわけ?それに、もし私が甘えたらどうするつもりなの?修の視線に動揺し、黒い瞳で彼を見つめ返した。すると、修は少し肩の力を抜き、柔らかな口調で言った。「お前が教えてくれれば、俺が病院に連れて行くよ」彼は「温かいお湯でも飲め」といったありきたりな言葉は言わない。そういうところが修らしいのだ。若子は胸の奥に温かさを感じた。その言葉に、痛みが少し和らいだように思えたのだ。けれど、すぐに襲ってきた生理痛の波がその温かさを打ち消してしまった。「うぅ......」若子はお腹を押さえ、修の胸に力なく倒れ込んだ。痛みが尋常じゃない。まるでお腹の中で誰かが容赦なく引き裂いているようで、耐えることさえで
若子のぼんやりとした目には、どこか悲しげで切ない色が滲んでいた。彼女は両手でシーツをぎゅっと握りしめ、目の縁が少し赤くなっている。彼女の様子を見て、西也は、彼女が今誰を思い浮かべているのか、薄々気づいたようだった。彼はふっと伏せていたまつげをわずかに持ち上げ、一瞬だけ陰りのある表情を見せると、すぐに顔を上げて微笑みながら言った。「よし、できた」西也は立ち上がり、手を差し出して「さあ」と言った。若子ははっと我に返り、きょとんとした表情で見上げた。「何を?」「俺が支えてやるよ。もしフラついて転んだら大変だろう?」西也は軽い口調で、あくまで友人に接するように自然に言った。彼のその言葉には気遣い以外の意図は一切なかった。「あ......」若子はようやく理解し、またも無意識に修のことを思い出していた自分に気づいて少しうんざりした。彼の名前を頭から追い出すようにして、西也の手を取り、彼に支えられながら立ち上がった。西也は若子の手を取り、腕を支えてゆっくり病室を出た。二人が婦人科のエリアを出た時、鋭い視線がまっすぐに彼らに向けられていた。西也と若子は互いにかなり近く寄り添っていて、傍から見ればまるで夫婦のように見えるほどだった。やがてその視線はゆっくりと消え、二人が曲がり角を曲がって見えなくなるまで続いていた。......病室。雅子は毎日ほとんど外出もできず、ずっと病院で過ごしていた。修は彼女の世話を頼んでいたが、彼女が本当に会いたいのは修本人だった。彼が自分を毎日訪ねてきてくれることを雅子は密かに望んでいたが、ここ最近は何かと理由をつけて彼は来なくなってしまっていた。やっと顔を見せた時も、冷たい態度で説教をされたばかり。それ以来、彼からの連絡はない。その時、病室のドアが開き、黒ずくめの男が入ってきた。前回会った時と同じで、顔を覆うように黒の服で身を固め、鋭い鷹のような目だけが露わになっている。「桜井さん、また会えましたね」彼が来る前に雅子に連絡があり、彼女は面倒を見てくれている看護師を全員病室から外すようにして、密かに男と会った。彼が誰なのか、まだ彼女にはわからないが、少しでも希望があるなら何かにすがるしかないと考えている。修には期待できない。彼は「辛抱強く待て」と言うばかりで、一体いつ自分
「だって、君の気持ちがよく分かるからだよ。家族全員に嫌われ、家ではまったく居場所がない。年末年始だって誰も君に帰ってこいなんて言わない。まるで追い出されたみたいなもんだろ?だから、君は必死に修にすがるしかなかったんだ。彼と結婚することが唯一の道だった。桜井家に対して少しでも仕返しをして、ようやく見返してやれる、そんな思いだろ?」その男は、雅子の心の内をすべて見透かすように話し、隠すものは何もない状態にさせた。「一体あなた、何者なの?」雅子は歯を食いしばり、一言ずつ確かめるように尋ねた。男は唇を持ち上げ、薄く笑った。「俺はお前の父親が外で作った私生児、お前の兄だ」雷に打たれたように、雅子は驚愕の表情で「何ですって?」と息を呑んだ。「そうだ、俺もお前と同じで桜井家から疎まれてるんだ。昔、あの男が外で女を作って俺を生んだはいいが、その後捨てたんだ。桜井家の子供だってのに、なんで俺が外で苦しんで生きる羽目になったんだよ?だからこそ、俺たちは同じ目標を持ってるんだ。俺はお前に心臓を手に入れてやるが、その代わり、俺が助けを求めた時にはお前も俺に協力しろ。そうすれば、俺たちはお互いの利益を手に入れられる」雅子はまだ男の言葉に頭が追いつかず、呆然としていた。「驚くことないだろう」男は続けた。「あの手の金持ちの男どもなら、外で何人か私生児がいるのも珍しくないだろう?それに俺の存在が、君の立場に何の悪影響も与えないさ。君は最初から桜井家での立場なんてないも同然だったんだから。だからこそ俺たち二人で組んでやろうって話さ」雅子はまだ信じられないといった目で男を見つめた。目の前の男はまさか父の隠し子で、今、雅子に協力を求めに来ているとは思いもしなかった。初めは彼が修の敵なのかと考えていたが、どうやら彼の狙いは桜井家そのものらしい。「どうしてあなたを信用できると思うの?」「どうして信用しないんだ?」男はさらりと返した。「私は......」雅子は、彼を信じない理由を見つけられなかった。「合う心臓なら、すでに見つけてある。あとは手術を待つだけだ」雅子の心が一瞬高鳴る。「本当?じゃあ、手術はいつできるの?」「まあ、焦るな。すぐには命の危険はないからな」「それなのに、あなたがわざわざ現れておきながら、待てだなんて、一体どういうつもり?
西也は若子を彼女の住まいまで送り届けた。若子はキッチンで水を用意し、彼に差し出した。「西也、送ってくれてありがとう」「気にするなよ」西也は軽く微笑む。「それに、君の車を運転して届けてもらうよう手配しておいた。もう少しで届くはずだ」「本当に?助かるわ、ありがとう」若子はもう一度感謝の言葉を口にした。「そんなに礼を言わないでくれ。むしろ感謝するのは俺のほうだ」西也は深い目差しで彼女を見つめた。「君がいなかったら、今日の俺はきっと病院送りだっただろう」「大したことじゃないわ」若子は控えめに言った。「いや、大したことだ」西也の視線はさらに真剣さを増した。「君は大きな労力を割いてくれた。しかも、君は妊娠中なのに、俺のために夜遅くまで動いてくれた。本当に申し訳ないよ。むしろ俺が罰を受けるべきだった」若子がもし自分のせいで体調を崩したら、一生後悔するだろう、と西也は心の中で思った。「そんな風に言わないで」若子は優しい笑みを浮かべ、落ち着いた声で言った。「私たちは友達でしょ。友達なんだから、そんなに気を遣う必要はないのよ」「何かお礼がしたい。君が望むことがあれば何でも言ってくれ」西也は熱心に申し出た。若子は笑いながら言った。「何もしてくれなくていいわ。私はただ自然にそうしただけよ。友達に何かをしてあげる時、見返りを期待するものじゃないわ。もしお返しが必要だと思うなら、それは本当の友情とは言えないもの」それから彼女は続けて、「それに、もしあなたが怪我してたら、きっと治るのに時間がかかるでしょ?その間に美咲が新しい彼氏を見つけちゃったらどうするの?早く行動を起こさないとね」「美咲......?」その名前を聞いて、西也は一瞬困惑したが、すぐに思い出した。そうだ、これは自業自得だ。「最近彼女と連絡を取った?」若子が尋ねる。西也は首を振った。「いや、まだだ」「それなら連絡してみたら?メッセージを送るだけでもいいのよ」と若子は提案した。「でも、それはちょっと......迷惑じゃないかな」「好きなんでしょ?」若子は少し真面目な顔で言った。「前に私に相談してきたじゃない。友達として自然に接するのがいいって教えたでしょ。だから、今ここで送ってみて」「今?」西也はぎこちなく笑みを浮かべた。「そうよ。例えば『友達が新しい
西也は、若子がこれほどまでに熱心に自分と美咲をくっつけようとしている姿を見て、思わず困惑した。彼女がここまで積極的になるのは珍しい。だが、それが「恋の応援」に使われているとは......「じゃあ、こうしない?」若子は新しいアイデアを思いついたように言った。「美咲を誘って、4人で食事をしようよ」「4人?」西也は眉を上げて聞いた。「どの4人?」「あなたと美咲、私と花よ」若子はじれったそうに彼を見ながら、「なんでそんなに鈍いの?」という表情を浮かべた。「俺たち4人で?」西也はさらに困惑した。「なんでそうなるんだ?」「だって、あなたが一人で彼女を誘うと、それってデートっぽくなるでしょ?でも、友達としてみんなで会うなら全然違うわ。それに、彼女は最近別れたばかりなんでしょ?」西也は内心冷や汗をかきながら「えっと......まぁ、そうだけど......でも、本当にそれでいいのか?」と口ごもった。そもそも美咲なんて存在しない。どうやって誘えっていうんだ?「西也、なんでそんなにぐずぐずしてるの?女の子を追いかけるなら積極的に行動しなきゃダメよ!」若子は微笑みながら断言した。「じゃあ決まりね。明日の昼に美咲を誘って。私もどんな子なのか気になるし」「えっと......」西也は内心大混乱だった。どうしてこんな展開になってるんだ......やっと若子と二人きりで過ごせるチャンスだったのに、美咲とかいう架空の人物に全部壊されるなんて。しかも俺が自分で言い出したことだ!「どうしたの?嫌なの?」西也がためらう様子を見て、若子は少し眉をひそめた。「嫌ならいいけど、前にあんなに相談してきたから、本気でアドバイスが欲しいんだと思ってたわ。でも、私が出したアイデアを聞く気がないなら......はぁ」若子はわざとらしく深いため息をついてみせた。彼女が少し寂しそうな顔をしたので、西也は慌てて否定した。「いや、そんなことはない。ただ、君に迷惑をかけたくないだけだ」「何を気にすることがあるの?私は気にしてないのに。むしろ、あなたが好きになるくらいの女の子なら、きっと素敵な人だと思うから会ってみたいのよ」若子は妙に楽しそうに言った。なぜか、彼女の中に湧き上がる衝動があった。それは、西也が早く恋愛をして、できれば結婚し、家族を築くところを見届けたいと
西也は、若子の表情がふと曇ったのを見て、何か声をかけようとした。でもその瞬間、スマホが鳴って、話が遮られてしまう。父親からだ。プロジェクトを急いで処理するようにと言われ、関係者が待っているからすぐに来いという内容だった。西也は渋々と立ち上がる。「今すぐってかよ......」と呟きながらも、若子が「お仕事なら仕方ないでしょ」と軽く微笑んで促す。そうして彼は若子の家を後にした。西也が出て行ってしばらくして、若子のスマホにメッセージが届いた。内容はたった二文字、「ごめん」。それが修からのものだと知った若子は、少し首を傾げながら返信する。「???」すぐに返事が来た。「この前の朝、お前のスマホに出た。でもその後、お前に言うの忘れてた。隠したかったわけじゃない。ただ忘れてただけだ。気分を害してたらごめん」若子は呆れたように頭を振る。この修ってば、反射神経が鈍すぎる。その時はっきり問い詰めたのに、堂々としれっとしてたくせに。「言われるまで思い出しもしなかったし、済んだことだからもういいよ」と返信する。しかし、また「ごめん」とだけ返ってきた。若子は少し眉をしかめながらメッセージを送る。「どうしてまた謝るの?さっき言ったばっかりでしょ」「さっきのはスマホの件についてだ。今のは......昔、お前を怒らせたり泣かせたりしたことについて」若子は画面を見つめたまま、少し驚いた表情になる。「えっと......どうしたの? 何でいきなり昔のことまで蒸し返して謝るわけ?」「......いや、俺って本当にクズだなって思ってさ」若子は鼻をこするようにして、小さく笑う―何よ、今日はどうしたっていうの?「まさか......末期がんとかじゃないよね?それで人に謝り倒してるとか?」と打つと、修からはバラの絵文字が送られてきた。「心配するな。俺は元気だ。ただお前の優しさには感謝してるよ。明日、健康診断に行ってくる。結果はちゃんと報告する」若子は画面を見つめたまま、短く息を吐いた。「......本当、どうしたいんだか」若子はもう分からなくなっていた。修は一体、何がしたいの?テキストでのやり取りだけなのに、今日は修の様子がいつもとまるで違う。なんだか妙に機嫌が良さそうだ。「別にいいってば。自分の健康を気にすればいいの。健康
若子は自分のメッセージを送信したあと、修が怒って反論してくるだろうと思っていた。きっと言い争いになるだろうし、その準備もできていた。反撃するセリフもいくつか頭に浮かべていたのに―予想外に、修はすぐにこう返してきた。「分かった。もし嫌なら、もう言わない。これからも嫌なことがあったら教えてくれ。俺、ちゃんと直すから」......何これ?若子は戸惑いながらカレンダーを見た。今日はエイプリルフールでもなければ、特別な日でもない。ただの普通の日だ。なのに、修の態度がこんなに......「甘々」?まるで聞き分けのいい子犬みたい。そう、甘えん坊な子犬。そのうち「お姉さん」って呼ばれるんじゃないかと思うくらいだ。さらに、修から次のメッセージが届いた。「若子、ちゃんとご飯食べて、ちゃんと休んで、自分を大事にしろよ。それと、ありがとう」若子はますます混乱した。「......何をありがとうなの?」と返信すると、修は悪戯っぽいスタンプを添えてこう返してきた。「お前が俺のためにしてくれたこと、全部さ」―何のこと?若子はスマホを見つめたまま眉をひそめる。彼が言っているのは、自分が修をずっと好きだったこと?彼に尽くして、良い妻であろうと努力したこと?それを感謝してるってこと?でも、修の様子からして、そういう話ではない気がする。そもそも、彼は自分が彼を愛しているなんて知らないはずだ。まるで彼の中で、若子が何か特別なことをしたと確信しているかのようだ。しかし、最近の若子は彼のために何もしていない気がする。むしろ、離婚問題で散々揉めて、喧嘩ばかりしていたくらいだ。「私、あなたのために何をしたの?」と若子が訊くと、修はこう返してきた。「俺たちの間の話だろ?それで分かるだろう、ありがとう」若子は画面を見つめたまま絶句する。......本気で訊いてるのに、何をかわしてるのよ。さらに困ったことに、修が送ってくるメッセージのたびに、小さな黄色い顔文字が添えられている。微笑んだり、手を振ったり、悪戯っぽい表情だったりーその顔文字がことごとく「おじさん感」全開だ。彼が本当に笑顔を送っているつもりでも、今やそのスタンプは「ふーん」とか「へぇ」といった皮肉を意味するのが常識だ。しかもバラや太陽の絵文字まで送られてきた。漂ってくるこの
送信する前に、突然スマホが鳴った。表示されたのは見知らぬ番号。若子は躊躇しながらも通話ボタンを押した。「もしもし」スマホ越しに聞こえたのは、落ち着いた中年男性の声だった。「松本さん、だ」その声はどこか聞き覚えがある。―今日、ついさっき聞いたばかりの声。間違いない、西也の父親の声だ。若子の頭が一瞬混乱する。「遠藤社長......ですか?」「さっきまで遠藤さんと呼んでいたのに、今度は社長か?」高峯の声は穏やかで、西也に話している時の冷淡さとはまるで違う。若子は思わず黙り込んだ。もしかして聞き間違い?いや、こんな穏やかな声を彼から聞くなんて信じられない。高峯は、彼女の驚きを察したようだった。「心配するな。この電話はお前を叱るためのものじゃない」若子は疑いながら訊ねる。「それで、何かご用ですか?」「西也はまだお前と一緒にいるのか?」「いえ、もう帰りました。遠藤社長からの電話を受けてすぐ、仕事に向かいましたよ」と答え、少し間をおいて付け加えた。「彼、本当に努力家で、とても優秀です」「随分と評価しているようだな」高峯の声には皮肉も怒りもなく、むしろ少し笑みを含んでいるようだった。「ええ」と若子は率直に答えた。「彼は尊敬に値する男性です。社長はとても素晴らしい息子をお持ちですね」「ふふ」爽やかな笑い声がスマホ越しに響いた。その笑い声を聞いて、若子はしばらく前に見た彼の凶暴な姿を思い出す―息子に手を上げようとする、激高した姿。あの時の姿とはまるで違うこの雰囲気。―これは気分屋というだけの問題?それとも何か別の理由?「お前はうちの息子が好きなんだろう?」高峯がそう言うと、若子は心臓が跳ねるように一瞬止まった。「そ、それは違います!」慌てて言葉を重ねる。「私と西也はただの友達です。友情だけです」「本当にそうか?俺の息子が最近、女のせいで仕事に身が入らないときがあった。叱った時も、その女の名前を絶対に教えなかった。その女って、お前だろう?」「遠藤社長、それは誤解です」若子は必死に否定する。「その女って、私じゃありません。私と西也は本当にただの友達です。どうか誤解しないでください」「ほう?どうしてお前にそんなことが分かる?」「だって、西也本人が好きな人がいるって、私に言いましたから」「ほう、その相手の名前は?」「すみません。それはお答
若子はその場を追いかけたくてたまらなかった。けれど、足はまるで鉛を詰められたように重くて、動くことができなかった。 ―ダメだ。私はもう、修を追いかけちゃいけない。 彼との関係は、もう終わったんだから。 彼には山田さんがいる。もう自分とは終わっている。だったら、いっそ嫌われて、憎まれたままでもいい。 その方が、きっと彼のためになる。 そんな思いで立ち尽くしていた若子の背後から、ふわりと誰かが彼女を抱きしめた。 「若子......信じてくれてありがとう。俺を信じてくれて、本当に......ありがとう」 西也の声だった。 最終的に、若子は彼の言葉を選んだ。それだけで彼の中に、確かな勝利の実感が湧いてきた。 その口元には、ふっと得意げな笑みが浮かんでいた。 ―藤沢、お前は俺に勝てない。 俺は若子を傷つけたりしなかった。ずっと彼女のそばにいて、支えてきたんだ。暗闇の中で手を差し伸べてきたのは、この俺だ。 それに比べて、お前はずっと彼女を泣かせてきたじゃないか。 だが― 若子はその腕を、ギュッと掴んで無理やりほどいた。 「西也......本当に......本当にボディーガードを連れて、銃まで持って修のところに行ったの?本当に......傷つけるつもりだったの?正直に話して」 さっき、修にあんなふうに言ったのも、完全に信じてなかったわけじゃない。 もう修を信じるか信じないかは、正直どうでもよくなっていた。彼には侑子がいて、子どもまでいる。今さら自分が何を言ったところで、どうにもならない。 西也の呼吸が乱れた。肩がわずかに震え、若子の肩を強く掴む。 「若子、俺のこと信じてないのか?......まさか、あいつの方を信じてるのか?」 さっきまで自分を選んでくれたと思っていたのに、まるで手のひらを返されたような気がして、胸の奥がずきりと痛んだ。 「西也......お願いだから、本当のことを言って。本当に銃を持って行ったの?」 二人のうち、どちらかが嘘をついている。でも、どっちなのか、若子にはもうわからなかった。考えれば考えるほど、混乱するだけだった。 「......銃は、持って行った。けど、それは俺のボディーガードが持ってたやつで、護身用なんだ。アメリカじゃ銃の携帯は普通だし、もし危険な目に遭った
若子はしばらく黙って考え込んだ。そして、ゆっくり顔を上げて修を見つめた。 「でも......あのとき、あなたは本気で西也が死ねばいいって思ってた。私に、西也の心臓を桜井さんにあげるようにって、同意を求めたよね」 西也の口元がぐいっと吊り上がる。得意げな笑みを浮かべて、ほっと息をついた。 ―若子は俺のことを信じてくれたんだ。 藤沢修、お前なんかに勝ち目あると思った? 前には桜井雅子、今度は山田侑子。お前がこれまでやってきたこと、どれを取っても正当化できないし、言い逃れもできない。 その一方で、俺は若子にとっての理想の男だ。お前が俺に勝てる要素、どこにある? 若子の言葉は、修の胸を鋭く突き刺した。 「若子......それは......昔のことだ。もう何年も前の話だよ。それと今は別だ。あれはあれ、これはこれなんだ」 「でも、あなたは確かにそうした。確かに―あのとき、あなたは西也に死んでほしいと思ってた。これは事実でしょ?」 修は口をつぐむ。否定できるはずもなかった。あの頃、西也のことを心の底から憎んでいた。そして、雅子が心臓移植を必要としていたタイミングで、西也が倒れた。 これは「チャンス」だと思ってしまった。雅子を助けるには、西也の心臓を......その考えが頭をよぎったことを、否定なんてできない。 ―自分の中の醜い部分。もし誰もがそれを晒されたら、きっと誰も「人間らしく」なんて言えなくなる。 「若子......あれは、あのときの話だ。彼の命が消えかけてたから、俺は......ああ言った。けど、俺は手を下してない。殺してもないし、傷つけてもない。常識的に、そうするのが正しいと思っただけなんだ」 「常識、ね......」 若子はその言葉を聞いて、吐き気がしそうになった。 「修......あなたにとって、西也の治療を諦めることが『常識』なの? だったらもう、これ以上言わなくていいよ。きっと、あなたの心のどこかが後ろめたかったんでしょ?だから西也があなたの元を訪ねてきたとき、勝手に『殺しに来た』って思ったんじゃない?」 「......」 修はふらりと数歩、後ろに下がった。 何もかもが空っぽになったようだった。胸の中から、心臓ごと引き抜かれたかのように。 若子からの言葉。何度も、何度も突き刺さっ
若子のその言葉は、どちらにも肩入れしない「中立」なものだった。 誰が正しいのか、彼女にはわからなかった。だって、その場にいなかったから。修の言い分も、西也の言い分も、どちらも聞いてみれば筋が通っているように思える。 ただ、どちらも誤解していただけだったら―そう願わずにはいられなかった。 西也は修のことを誤解していて、修も西也の護衛が武器を持っていたことで、逆に西也を疑った。ふたりの関係はもともと悪くて、敵意に満ちていた。だから、極端な判断をしてしまったとしても不思議じゃない。 「こいつは本当にやったんだ。侑子まで捕まえて、あと少しで殺されるところだったんだぞ」 修の声には怒りと悔しさが滲んでいた。 だけど、若子の中でその言葉は、ただの「誤解」に聞こえてしまった。 彼女にとっては、現場にいなかった以上、どちらかを一方的に信じることはできなかった。 それでも―自分の命をかけてくれた修の言葉を、疑ってしまっている自分に、彼はきっと傷ついている。 離婚してしまった今、彼女はもう修の味方ではない。 かつてなら、迷わず彼を信じていたはずなのに。 「濡れ衣だ!」西也が激しく声を上げた。「若子、こいつの言うこと信じるな!こいつは嘘をついてる!それに、もし俺が本当に殺すつもりだったら、こいつなんて今こうして立ってられないだろ?あの時、屋敷に彼は一人だった。俺が殺そうと思えば、簡単にできた。でも、やらなかった!」 「それは、お前が油断してたからだ。俺が隙を見て銃を奪い返して、逆転したから助かっただけだ。あのままじゃ、俺も侑子も、確実に殺されてた。お前が死体を処理してしまえば、誰にもバレなかったはずだ」 「お前、よくもそんなでたらめ言いやがって!」 西也は怒りを抑えきれず、若子に向き直った。「若子、お願いだ、信じてくれ。俺がどんな人間か、お前ならわかってるだろ?こいつこそ、俺を殺そうとした張本人だ!」 「お前、忘れたのか?前に俺が事故に遭った時、こいつも含めて全員が、お前に俺の臓器を提供しろって迫ったんだぞ?こいつなんて、俺に早く死ねって言ってたようなもんじゃないか!」 西也は、思い出という武器で切り込んできた。 彼の言葉は、若子の心に鋭く突き刺さる。 あの時―病院で、全員が彼女に迫っていた。西也の命を見捨てて、誰か
修の声は驚くほど冷静だった。西也のように感情をむき出しにすることもなく、彼の言葉には一分の隙もなかった。 どこか、堂々として見えた。 その落ち着いた姿を見て、若子はふと、疲れを覚えた。 修と西也の喧嘩なんて、これが初めてじゃない。もう何度もあった。前なんて、レストランで暴れて警察沙汰になったことすらある。 どちらの肩を持とうと、結局ふたりの間の確執は終わらない。今回の乱闘だって、どうせこれが最後にはならない。 「修、西也、あなたたちもう大人でしょ?自分の行動には自分で責任持ちなよ」 若子の声には、明らかに苛立ちが混じっていた。 「また喧嘩して、これで何回目?私はもう知らない。どっちが先に手を出したとか、正直もうどうでもいい。やりたきゃ好きに殴り合えば?先に殴った方が、もう一発食らう。それでチャラにしなよ。私はあなたたちの母親じゃないの。毎回毎回、警察に駆けつけて後始末して......そんなの、もうごめんだから!」 西也は口を開けかけたが、若子の鋭い一言でぐっと黙り込んだ。 なにか言いたそうな顔をしていたけれど、その勢いはすっかり削がれてしまった。 彼の視線は自然と修に向き、そこに溜まった怒りの矛先をぶつけるように、じろりとにらみつけた。 ―でも、今回、若子は西也をかばわなかった。 修はそれを見逃さなかった。彼にとっては、これが逃せないチャンスだった。 「若子」 修が一歩前に出て、静かに言った。 「なんで俺の話は聞かない?どうして俺が西也を殴ったのか、その理由を考えてくれたことある?」 「藤沢、また話を捏造するつもりか?」 西也がすかさず口を挟んだ。 「捏造?お前、ビビってるのか?若子に話されるのが、そんなに怖いか?」 修は口元だけで笑って、続けた。 「お前、若子には言わないつもりだったんだろ?......あの夜、お前がどんな風に俺の家に乗り込んできたか。銃を持った連中を引き連れて、俺のこめかみに銃口突きつけたよな」 「な―」 若子が目を見開いた。 「西也......それ、本当なの?」 西也は眉をひそめて、必死に否定する。 「若子、違う!誤解だ、そんなことするわけない。確かに何人か連れて行ったけど、それは俺のボディーガードだよ。あくまで護衛で、武力を使うつもりなんてなか
修にとって、若子が西也を責める姿を見るのは、これが初めてだった。 彼は腕を組みながら二人を見つめ、目の奥に一瞬だけ安堵の色を浮かべた。 ―もしこれが昔だったら、若子は絶対に真っ先に西也をかばってた。 でも、今は違う。彼女は西也を守らなかった。 それだけで、少しだけ救われた気がした。 だけど同時に、不安の方が大きかった。 若子が西也をかばわなかったのは、ヴィンセントの存在があったからだ。 11年も一緒に過ごしてきた自分との関係すら壊して、西也をかばった若子が―たった数日で、ヴィンセントのために西也すら突き放すようになった。 それが、何より恐ろしかった。 ヴィンセントはまるで強引に入り込んでくる侵略者のように、既存の人間関係を簡単に壊してしまう。 「若子、お前......俺のこと、責めてるのか?」 西也の声は震え、目を見開いて彼女を見た。 「責めてるかって?ええ、そうよ。責めてるわ」 若子は疲れた表情で言った。ほんとは、こんなこと言いたくなかった。 でも、どうしても感情を抑えきれなかった。 物事がここまでぐちゃぐちゃになって、それでも「全部お前のためだ」なんて顔して、どんどん余計なことをして、混乱ばかりで、結局一番迷惑を被るのは若子だった。 「若子、あのときはお前が危ないって思って......電話で問い詰めるわけにはいかないだろ?もしそばに誰かいたらって思ったら......だから俺は、こっそり探しに行っただけで......俺だって、お前が心配だったんだ。理解してくれよ......それに、お前が夜に出かけたとき、俺には行き先がわからなかった。考えられるのは藤沢だけだった。そして実際、お前は彼に会ってた。お前の失踪は直接彼のせいじゃないかもしれないけど、彼と会ってなければ、そんなことにはならなかったんだ!」 「あなたが心配してくれてたのはわかってる。でも、自分のミスを正当化しないでよ!」 若子の声が一段と強くなった。 「西也......あなたといると、ほんと疲れる」 「......っ」 その一言が、西也の胸に深く突き刺さった。 「ミス」とか「疲れる」なんて―若子の口から、そんな言葉が自分に向けて出てくるなんて、思ってもいなかった。 彼は信じられないような表情で、ただ彼女を見つめるしか
若子の眉がピクリと動く。 「......彼が殴ったの?」 彼女はゆっくりと修に視線を向けた。 「またやったのね?」 「また」―その一言が、なんとも言えない絶妙な皮肉だった。 正直、ふたりの喧嘩なんて何度目か分からない。もう若子自身も慣れてしまっていた。修が西也を殴って顔を腫らしたとしても、正直、そんなに驚きはなかった。 修は、黙って若子の目を見つめ返す。彼女が自分を責めるつもりだと、わかっていた。 「......ああ、殴ったよ。でも、理由がある」 「理由?」 と、割り込むように西也が口を開いた。 「若子、俺はただ......お前が心配だったんだ。電話はもらってたけど、どうしても不安で......それで、こいつが何かしたんじゃないかって疑って、会いに行った。そしたら、いきなり殴られたんだ」 彼は言葉巧みに語る―が、もちろん真相は違う。 武装した連中を引き連れて、銃を突きつけながら修の家に押し入ったのは、まぎれもなく西也の方だった。 だが、それを言うはずもない。 たとえ修が暴露したところで、「証拠は?」としらを切れば済む話だ。 修は黙ってその顔を見ていた。黒を白と言いくるめるその口ぶりに、内心では呆れていた。 若子は黙ってそのやり取りを聞いていたが、眉間に深いしわを刻みながら、口を開いた。 「......西也。私、電話で『無事だから』ってちゃんと言ったわよね?どうして修のところに行ったの?」 西也の胸に、ひやりと冷たいものが走った。 ......若子、どうしたんだ? これはおかしい。こんなの、彼女らしくない。 本来なら、修に殴られたと聞いて真っ先に怒るはずだ。 「なんでそんなことするのよ!」って修に怒鳴って、もしかしたらビンタの一つも飛ばしてたかもしれない。 なのに―どうして、こんなにも冷静に俺を問い詰める? 修もまた、想定外の反応に言葉を失っていた。 まさか、若子の第一声がそれだなんて、思ってもみなかったのだ。 若子はじっと西也を見つめながら、続けた。 「電話で、ちゃんと伝えたよね?一週間後には帰るって。はっきりそう言ったはずなのに、口では『わかった』って言っておいて、その足で修に連絡して、修まで私が何かあったって思い込んで......それでふたりしてヴィンセン
「若子......もし、もし俺が言いたいことが―」 「若子!」 そのとき、西也が風のように走ってきた。まるで矢のような勢いで。 「若子、大丈夫か!?怪我は!?無事か!?」 修はぐっと息を飲み込み、握りしめた拳に力が入った。 また―またか。なぜこいつは、どこにでも現れるんだ。まるで悪夢のように。 「私は平気よ、心配しないで」 若子はそう言うと、ふたりの男を順番に見つめた。 「ちょうどよかった。ふたりとも揃ったところで、はっきり言っておくわ。ヴィンセントさんは、私の命の恩人よ。だから、どちらも彼を傷つけることは絶対に許さない。もし彼に何かしたら、私は......絶対に許さない」 その声には、これまでにないほどの強さが宿っていた。 ふたりの男は、一瞬言葉を失った。 今までは、何をしても若子は怒らなかった。なのに、いま彼女は、明確に「NO」を突きつけてきた。それも、他の男のために― 修と西也がいがみ合っている間に、彼女の心には、冴島千景という新たな存在が入り込んでいた。 こんなこと―あり得るのか? だが、西也はすぐに切り替えた。彼は、こういうとき、反射的に「正解」を選べる男だ。 「わかった、若子。俺はもう絶対に彼を傷つけたりしない。彼がお前の命を救ってくれたなら、それは俺の恩人でもある。だってお前は、俺の妻であり、俺の子の母親なんだから」 その言葉を聞いて、若子の視線が修の方へと移る。 修は静かに息を吐いて言った。 「......もし俺が彼を殺したかったなら、あの手術は成功してなかったさ。そこは信じてくれ」 ふたりの男が、揃って約束を口にする。 その場に、不思議な静寂が流れた。 若子は修と西也の顔を順に見つめた。 ......昨夜のあの怒りが、ふと胸に蘇る。 このふたりには、本当に怒り狂いそうだった。彼らが無理やりに踏み込んできて、ヴィンセントに銃を向けたあの瞬間を思い出すだけで、胸がギュッと締めつけられる。 あのときは―文句のひとつやふたつじゃ済まさないって、本気で思った。 手術が終わったら、きっちり叱り飛ばしてやろうと。 ......でも。 今こうして、目の前にいるふたりの男は、どちらも申し訳なさそうに頭を垂れていた。 昨夜のことが嘘のように、静かに彼女の前で
若子は、ついにうんざりしたようにため息をついた。 修は視線を落とし、どこか寂しげに呟く。 「......わかった。じゃあ、言ってみて。お前の言葉、ちゃんと聞くよ」 あいつがまともな男だとは思えない。でも、若子がそこまで言うなら―せめて聞いてみたくなった。 「彼は......一週間だけ一緒にいてほしいって言ったの。ただ、ご飯を作ったり、掃除をしたり......それだけ。それ以上のことは何もなかったの。彼は私に何もしてない。傷つけたりなんて、絶対に......ただ、すごく寂しかっただけ。誰かに、そばにいてほしかったんだと思う」 若子はゆっくりとガラスの向こう―病室の冴島千景に目を向けて、静かに続けた。 「彼、昔......妹さんがいたの。でも、その子を亡くしてしまって......だから私を、妹のように見てた。それだけ。あなたが考えてるようなことじゃないの」 その言葉を聞いた修は、ようやく少し肩の力を抜いた。 ―少なくとも、若子が傷つけられたわけじゃない。それだけで、少しだけ安心できた。 「......じゃあ、あいつが目を覚ましたら?お前はどうするつもりなんだ」 「当然、看病するわ。命を救ってくれた人だもん。絶対に回復させてあげたい。どんな形であれ、私は......彼に恩を返したい」 その言葉に、修の胸にチクリとした痛みが走る。 「彼をそんなに心配して......じゃあ俺はどうなんだよ、若子」 思わず、彼女の腕を掴む。 「この前、お前が誘拐されたとき、俺だって命懸けで助けに行った。死にかけたんだ。それなのに、お前は遠藤を選んだ。あの時、俺がどんな思いで―!」 「......あなたが私に、その選択の余地を与えたの?」 若子の声が鋭く割り込む。 「確かに、私は西也を選んだ。でもそれは、選ばなければ誰も助からなかったから。あの時、どっちかを選べって言われたの。選ばなきゃ、ふたりとも死ぬって言われたのよ。 私は、何度も言ったよ。どっちを選んでも苦しかったって。本当は、私が死ねればよかった。でもそれは許されなかった。だから、あなたを傷つけたこと......謝りたかった。だから、あなたを探して、何度も会おうとした。 だけど、あなた......絶対に会おうとしなかったじゃない。私がどれだけ探しても、避け続けた。
若子は慌てて自分の体を見下ろした。 服は―ちゃんと着ていた。乱れもなく、整っている。修の方も、ちゃんと服を着ていた。 「......昨日の夜、私に......何かあった?」 「倒れたからさ、ここで休ませたんだ。すごくぐっすり眠ってたよ」 修は、彼女が不安がらないように、穏やかに説明した。 若子は自分の服を見つめた。どこもおかしくない。きちんとしてる。 「この服......着替えさせたの、あなた?」 修の表情が一瞬止まる。昨夜、自分がしてしまいかけたことが脳裏に浮かび、胸がきしんだ。あの時のことを思い出すだけで、後悔と罪悪感に押しつぶされそうになる。 彼は若子の目をまっすぐに見られず、少し目をそらして答えた。 「......女の看護師に頼んだ」 若子はほっと息をついた。 やっぱり昨夜感じたあの感覚―誰かがキスしてきたような、全身が包まれたような、あれは......夢だったのかもしれない。 「......昨日の夜、ずっと一緒にいたの?」 「うん。お前の様子が心配だったから、ここにいた」 修の返事は短く、でもどこか優しかった。 若子は少し不思議そうな顔をした。何か聞こうとした瞬間、ふと思い出す。 「―そうだ、ヴィンセントさん!彼は無事なの?!」 「......一命は取り留めた。今はICUにいる」 その言葉を聞いた瞬間、若子は深く息を吐き、すぐにベッドから降りようとシーツをめくった。 「会いに行く。今すぐ」 彼女が部屋を出ようとすると、修もすぐに追いかけてきて、手を伸ばす。 「若子!」 彼女の腕を掴んだ。 振り向いた若子が問う。 「......なに?」 「今の状態じゃ、会えるわけない」 「外から見るだけでもいいの」 そのまま修の手を振りほどき、若子は病室を出ていった。 ICUに着いた若子は、硝子越しに千景の姿を見つけた。 彼はベッドに横たわり、身体中に医療機器が繋がれていた。心電図のモニターが、規則正しく音を立てている。 若子はそっと硝子に手を当て、ため息を漏らした。 「......ごめんね。私のせいで、こんなひどいケガをさせちゃって。ちゃんと治ってね......まだ、1万ドル返してないんだから......」 その呟きに反応したのか、後ろから修の声