LOGIN週末。 佳苗は雄吾と並んで銀行を訪れていた。 案内された先は、普段利用する窓口とは違う静かな一角だった。受付を済ませ、雄吾が必要な手続きをすると、二人は貸金庫のある場所へ案内される。「何だか緊張します」「何でだ?」「貸金庫なんて初めてなので」「俺も毎週来るような場所じゃない」「それはそうでしょうけど……」 佳苗は手の中の鍵を見た。 先日、雄吾から渡されたものだ。 やがて取り出された箱を前にして、雄吾は中からいくつかの書類を取り出した。佳苗には見慣れないものも多い。「全部、説明する」「はい」「分からなかったら、その場で聞け」「……本当に全部ですか?」「ああ」 雄吾は当然のように答えた。 保有している資産や、会社に関係するもの。そのほかにも、結婚したあとで佳苗の生活に関係する可能性のあることを、一つずつ説明していく。 佳苗は途中から、金額そのものよりも雄吾の態度に驚いていた。 隠さない。 曖昧にもしない。 佳苗には分からないだろうと、勝手に省略することもなかった。「……こんなことまで私が知っていいんですか?」「知っていいから見せてる」「でも、まだ結婚したわけじゃありませんよ?」「だから今見せるんだろ」 佳苗は首を傾げた。「結婚してから、実はこうでしたって言われても困るだろ」「それは……そうですけど」「結婚するかどうか決めるために必要なことなら、結婚する前に知ってないと意味がない」 あまりにも当たり前のように言われて、佳苗は言葉を失った。 以前の結婚では、こんなふうに考えたことさえなかった。 結婚する。 夫婦になる。 だ
雄吾から悟が会社へ来たことを聞いたのは、その日の夜だった。「……三十万円を借りに?」「ああ」「本当に雄吾さんのところまで行ったんですね」 佳苗は呆れたように息を吐いた。 自分に断られ、母親にも取り次いでもらえなくなったから、今度は雄吾へ。そこまでして誰かに助けてもらおうとする悟の考えが、佳苗にはもう理解できなかった。「すみませんでした」「また謝る」「あ……」「藤倉が勝手に来たんだ。佳苗が謝ることじゃない」「そうでした」 佳苗は苦笑する。 分かっているつもりでも、長年の癖はなかなか抜けないらしい。「何を話したんですか?」「金は貸さない。それから、佳苗にもう関わるなって言った」「悟、何て?」「俺にも責任があるらしい」「責任?」 思いがけない言葉に、佳苗は眉を寄せた。「俺が佳苗に近づかなければ、離婚してなかったかもしれないって」「……そんな」「だから言っておいた。離婚したのは佳苗が決めたことだって」 佳苗は黙った。 その通りだった。 雄吾に出会ったからではない。 雄吾に言われたからでもない。 あの結婚生活へ戻りたくないと、自分で決めたのだ。「悟は、そう思ってるんですね」「俺に奪われたと思ってるみたいだな」「……違うのに」「ああ」 佳苗は膝の上で両手を組んだ。「私、悟と結婚していた頃……自分で何かを決めることが、ほとんどなかったんです」 雄吾は黙って聞いている。「夕飯は何にするかとか、そういう小さなことは決めてました。でも、大事なことはいつも悟に合わせてた。嫌だと思っても、夫婦なんだから仕方ない
翌日の午後。 雄吾の会社に、一件の電話が入った。「榊原社長にお話があるんですが」 悟はできるだけ落ち着いた声を作っていた。『お名前とご用件をお伺いしてもよろしいでしょうか』「藤倉悟です。榊原さんとは面識があります」『ご用件は?』「個人的な話です。榊原さんに直接話します」『恐れ入りますが、ご用件を確認できない場合はお取り次ぎできません』 悟は苛立った。「朝倉佳苗のことで、と言えば分かります」 少しの沈黙。 やがて、受付の声が返ってきた。『少々お待ちください』 ようやく話が通じた。 悟は椅子に深く座り直す。 ところが。『お待たせいたしました』「はい」『榊原はお話しすることはないとのことです』「……は?」『申し訳ございません』「ちょっと待ってください。本人に伝えたんですよね?」『はい』「佳苗のことだって?」『お伝えしております』「だったら――」『失礼いたします』 電話が切れた。 悟はしばらくスマートフォンを耳に当てたまま固まっていた。「……何なんだよ」 佳苗だけではない。 雄吾まで。 自分の話を聞こうともしない。 ◇「藤倉から?」「ああ」 その夜、雄吾から話を聞いた佳苗は驚いた。「今度は雄吾さんの会社に……」「受付で断った」「すみません」「何で佳苗が謝る?」「だって、私のことで」「佳苗が電話させたわけじゃないだろ」 雄吾に言われ、佳苗は口を閉じた。 まただ。
『佳苗に、お金を貸してもらえないか聞いてもらえませんか』 電話の向こうで、母親はしばらく黙っていた。『……お金?』「はい」『どれくらい?』「とりあえず、三十万くらいあれば」『三十万?』 思っていたより大きな声が返ってきて、悟は慌てて言葉を足した。「もちろん、ずっと借りるつもりじゃありません。仕事が決まったら返します」『でも、あなた……会社からもお金を請求されてるんでしょう?』「それは別です」『別って言ってもねえ』「今、本当に厳しいんです」 悟は声を落とした。「家賃もありますし、生活費も必要で。再就職だって探してます。でも、前の会社を辞めた理由を聞かれると、なかなか……」 正確には、辞めたのではない。 懲戒解雇された。 それを母親も知っているはずだったが、あえて言い直してはこなかった。『ご実家は?』「頼れません」『恵は?』 その名前に、悟の顔が歪んだ。「もう連絡取ってません」『……そう』「佳苗なら、三十万くらい何とかなるでしょう?」『それはまあ……』 母親の声が曖昧になる。 悟はそこに望みを見つけた。「貸してくれるだけでいいんです。返しますから」『でも、あの子、この前あれだけ嫌がってたでしょう』「だから、お義母さんから言ってほしいんです」『また私が?』「俺からはもう連絡できないんです。ブロックされてるから」 悟は少し間を置いてから続けた。「俺たち、夫婦だったんですよ。今ちょっと困ってるときくらい、助けてくれてもいいと思うんです」『元夫婦でしょう』「&helli
『絢子ちゃん……それ、本当なの?』 長い沈黙のあと、美佐子がようやく口を開いた。「うん」『佳苗さんの元旦那さんを、自分で調べたの?』「……うん」『どうしてそんなこと……』 責めるというより、信じられないという声だった。 絢子は唇を噛んだ。「佳苗さんのことを知りたかったの。雄吾さんが、どうしてあんなに佳苗さんを大切にするのか……分からなくて」『だからって、元旦那さんに?』「分かってる。おかしいことしたって」 雄吾にも、佳苗にも同じことを言った。二人はもう知っているのだと説明すると、美佐子はさらに驚いた。『雄吾も知ってるの?』「うん。私から話した」『……そう』「もう二度としないって約束したし、藤倉さんにも佳苗さんへ無理に連絡しない方がいいって言ったの。本当よ」『でも、その人は会社まで来たのよね』「……うん」 そこだけは、絢子にもどうしようもなかった。「私が連絡したから、佳苗さんと雄吾さんが今付き合ってることも知った。雄吾さんの名前だって……私が出したの」『絢子ちゃん』「だから、私が余計なことをしなかったらって思って」 絢子は目元を押さえた。 嫉妬した。 佳苗の過去を知れば、何かが分かると思った。 もしかしたら、雄吾の気持ちを揺らす材料が見つかるかもしれないと、心のどこかでは期待していたのかもしれない。 けれど、こんなことになるとは思わなかった。『……雄吾には、私からも話しておくわ』「待って」『でも』「私が話す」 絢子はすぐに言った。「藤倉さんから連絡が続いてたことも、今日ブロックしたことも、私から雄吾さんに言う」『大丈夫?』「大丈夫じゃなくても、言わなきゃ」 ここで美佐子の後ろに隠れれば、また同じことになる。 絢子はそう思った。 ◇ 翌日。『少しだけ、お時間をいただけますか』 絢子から連絡を受けた雄吾は、仕事が終わったあとならと返した。 指定された時間に絢子は会社へやって来た。 以前のような親しげな笑顔はない。「何だ?」「藤倉さんのこと」 雄吾の表情が険しくなる。「連絡したのか?」「してない。向こうから来たの」 絢子はスマートフォンを取り出し、悟から届いたメッセージを雄吾に見せた。『今日、佳苗に会いました』『会社まで行ったんです』『でも榊原が迎えに来て』『結
『今日、佳苗に会いました』 絢子は、そのメッセージをしばらく見つめていた。 会った。佳苗に。 胸の奥に嫌な予感が広がったが、返信はしなかった。自分はもう悟に関わらない。そう決めたのだから。 数分後、またメッセージが届いた。『会社まで行ったんです』『でも榊原が迎えに来て』『結局まともに話せませんでした』 絢子の指が止まった。 会社まで行ったのか。『あいつ、いつも邪魔するんですよ』 続けて届いた言葉に、絢子は眉を寄せた。 以前、悟と話したときにも感じていたことだった。 この男は、佳苗自身の意思を認めようとしない。佳苗が自分を拒絶しているのではなく、雄吾が邪魔をしているのだと思い込んでいる。『一条さんなら分かるでしょう?』『あんただって榊原と話したいのに、佳苗のせいで距離置かれてるんだから』「……違う」 思わず声が漏れた。 確かに、佳苗さえいなければと思ったことは何度もある。今だって佳苗が羨ましい。雄吾に選ばれた佳苗が、どうしようもなく妬ましい。 けれど、だからといって嫌がる佳苗の会社まで押しかけていいとは思わない。 絢子は画面を閉じた。 返事をするつもりはなかった。 ◇ 翌朝。「今日は送る」 朝食を終えた雄吾が言った。「会社までですか?」「ああ」「大丈夫ですよ」「昨日の今日だ」「でも、悟もさすがに――」 言いかけて、佳苗は口をつぐんだ。 ――さすがに。 その言葉はもう、悟には使えない気がした。「……お願いします」「ああ」 以前なら、雄吾に迷惑を掛けたくないと断っていたかもしれない。けれど今は、一人で何もかも抱えることだけが自立ではないと
恵が帰ったあとも、佳苗はしばらく動けなかった。 心臓が嫌なほど脈打っている。 あの目。 一瞬だけ見せた、冷たい視線。 前世では最後まで気づかなかった。 恵はずっと、自分から奪うことを楽しんでいたのだ。「……っ」 佳苗は唇を噛み締める。 怖い。 けれど、それ以上に悔しかった。 どうして自分は、あんな人たちのために命まで懸けてしまったのだろう。 テーブルの上に置かれた結婚写真が目に入る。 幸せそうに笑う自分。 悟の腕に寄り添って、未来を信じ切っていた頃の自分。 ――滑稽。 佳苗は震える手で写真立てを伏せた。 もう戻れない。 戻りたくもない。 今度こそ終わらせ
「……今、泣いてるのか?」 低く静かな声が耳に落ちる。 その一言だけで、張り詰めていた感情が崩れそうになった。 佳苗は慌てて口元を押さえた。「な、泣いてません」『嘘が下手だな、お前は昔から』 昔から。 その言葉に、大学時代の記憶が蘇る。 榊原雄吾。 成績優秀、容姿端麗、誰にも媚びない孤高の男。 学生の頃から有名だった。 近寄りがたい人だったのに、なぜか佳苗にはよく話しかけてきた。『また他人の仕事押し付けられてるのか』『断れないのか、お前は』 呆れたように言いながら、結局いつも助けてくれた。 けれど卒業後は一度も会っていない。 それなのに、どうして今。「どうし
「佳苗? 本当にどうしたんだよ」 怪訝そうな顔で、悟がこちらを見る。 その優しげな声に、佳苗は思わず身を強張らせた。 前世でも、この男はこんな顔をしていた。 穏やかで、頼れて、優しくて。 だから信じてしまったのだ。 まさか裏で妹と不倫し、自分を“代理母”として利用していたなんて、夢にも思わなかった。「顔色悪いぞ。熱でもある?」 悟が立ち上がり、額に触れようと手を伸ばしてくる。「っ……!」 佳苗は反射的にその手を振り払った。 ぱしん、と乾いた音が響く。 悟が目を見開いた。「……佳苗?」 しまった、と思った。 前世の記憶が蘇ったとはいえ、今の悟はまだ“何も知らない夫
「……っ、はぁ……ぁっ……!」 全身を引き裂かれるような痛みに、藤倉佳苗は汗で濡れたシーツを握り締めた。 眩しい手術灯。鼻を刺す消毒液の匂い。何度も響く機械音。 苦しい。 息ができない。「もう少しです! 頑張ってください!」 医師の声が遠い。 お腹の奥が裂けるように熱い。 それでも佳苗は必死に意識を繋いだ。(赤ちゃん……) やっと会える。 悟との子供。 愛する夫との、大切な命。 その一心だけで耐えていた。 けれど次の瞬間、医師たちの声色が変わった。「血圧低下!」「出血が止まりません!」「急げ!」 視界がぐらりと揺れる。 寒い。 急激に体温が奪われていく。







