LOGIN約束した土曜日、佳苗は母と二人で昼食を取った。 前回とは違い、母が選んだのは駅前の小さな和食店だった。「ここ、前に来たことあるの?」「一度だけ。ランチならそんなに高くないし、おいしかったから」「そうなんだ」 注文を済ませると、母は少し落ち着かない様子で佳苗を見た。「雄吾さん、今日は何してるの?」「仕事。午後から打ち合わせがあるって」「土曜日なのに大変ね」「その代わり、平日に休むこともあるから」「そう」 以前なら、そこから雄吾の仕事や収入について質問が続いたかもしれない。 けれど今日は、それだけだった。 ◇「そういえば、これ」 食事の途中、母がバッグから小さな紙袋を取り出した。「何?」「この前、あなたが好きそうなの見つけたから」 中に入っていたのは、焼き菓子だった。「買ってくれたの?」「大したものじゃないわよ」「ありがとう」 佳苗が笑うと、母も少し嬉しそうにした。 こういう関係ならいい。 佳苗は素直にそう思った。「お母さん」「何?」「この前言ったこと、怒ってる?」 母は箸を止めた。「……ちょっとはね」「そっか」「でも、考えたのよ。あなたももう結婚して、自分の家庭があるんだものね」「うん」「いつまでも子供じゃないって、分かってはいるのよ」 母は苦笑した。「ただ、急に何もしてあげられなくなった気がして」「何もしてくれなくていいって意味じゃないよ」「そうなの?」「今日のお菓子だって嬉しいし」 佳苗は紙袋を見る。「何か困ったとき、お母さんに相談することもあると思う」「…&he
母の家から帰る途中、佳苗は何度か今日の会話を思い返した。 言いすぎただろうか。 母を傷つけたのではないか。 そんな考えが浮かぶたび、以前の癖がまだ残っていることに気づく。 けれど、言ったことを後悔はしていなかった。 母を嫌いになったわけではない。 だからこそ、我慢を積み重ねて、いつか本当に会いたくなくなるような関係にはしたくなかった。 ◇「ただいま」「おかえり」 帰宅すると、雄吾がリビングにいた。「どうだった?」「ちゃんと話してきました」 佳苗は隣に座り、母との会話を簡単に説明した。「何でも言うことを聞く娘には戻れないって言いました」「そうか」「お母さん、黙っちゃいましたけど」「佳苗はどうした?」「私も黙ってました」 雄吾が少し笑った。「成長したな」「子供みたいに言わないでください」「前なら慌てて機嫌取ってただろ」「……そうですけど」 図星だった。「でも、難しいですね」「何が?」「お母さんのこと、大事なんです。困ってたら助けたいとも思うし」「なら助ければいい」「でも、どこまで?」 雄吾は少し考えた。「佳苗が助けたいと思えるところまででいいんじゃないか」「そんな基準でいいんですか?」「ほかに誰が決める?」 佳苗は黙った。 母親だから、ここまでしなければならない。 娘だから、これくらい当然。 そんな明確な線が、どこかに存在するような気がしていた。「自分で決めていいんですね」「佳苗の母親だろ。俺が決めることじゃない」「はい」 佳苗は少しだけ笑った。 ◇ 数日後、母から珍しく短いメッセージが届いた。『この前はごめんね』 佳苗は驚いて画面を見つめた。 続けて届く。『ちょっと寂しくなってたみたい』 佳苗はすぐには返信しなかった。 母が自分からそんなことを認めるとは思っていなかった。『うん』『寂しいなら、またご飯食べよう』 少しして返事が来る。『来週は?』 佳苗は予定を確認した。『土曜日なら空いてるよ』『雄吾さんも来る?』『聞いてみるけど、二人でもいいよ』『じゃあ二人でいい』 その返事に、佳苗は少し安心した。 雄吾を連れてくることにも、何かを期待することにもこだわらず、ただ娘と食事をする。 それなら、自分も嬉しい。 ◇ けれど、
それから母からの連絡は、ぱたりと途絶えた。 三日経っても、一週間経っても来ない。 佳苗からも連絡しなかった。「気になるのか?」 夕食を終えたあと、雄吾に尋ねられ、佳苗は少し迷ってから頷いた。「気にはなります」「連絡したい?」「……分かりません」 以前なら、母を怒らせたと思った時点で自分から謝っていただろう。 けれど今回は、謝るようなことをしたとは思っていない。「連絡したら、また私が折れたことになるのかなって」「別に連絡することと、言うことを聞くことは同じじゃないだろ」 佳苗は顔を上げた。「会いたいなら会えばいいし、話したいなら話せばいい。嫌なことを言われたら断ればいい」「……そうですね」 距離を取ることと、縁を切ることも違う。 佳苗はようやく、少しだけ肩の力を抜いた。 ◇ 翌日、佳苗は母へメッセージを送った。『元気?』 返事が来たのは一時間ほど後だった。『元気よ』『ならよかった』 それだけで終わらせようとしたところで、もう一通届く。『もう私のことなんて気にしてないと思ってた』 佳苗は画面を見つめた。『そんなことないよ』『だって連絡もくれなかったでしょう』『お母さんからも来なかったよ』 既読がつく。『私が連絡しなかったら、そのままだったの?』 佳苗はため息をつきそうになった。 また試されている。『今日は私から連絡したでしょう?』 しばらくして。『そうね』 返ってきたのは、それだけだった。 ◇ その週末、佳苗は一人で母の家を訪れた。「雄吾さんは?」 玄関を開けるなり聞かれた。「今日は私だけ」「そう」 どこか残念そうだったが、母は佳苗を中へ通した。 お茶を飲みながら話していると、母がぽつりと言った。「昔の佳苗は、もっと優しかったわよね」「そう?」「私が困ってたらすぐ来てくれたし、何でも話してくれたでしょう?」 佳苗はカップを置いた。「昔は、お母さんに嫌われたくなかったから」「……何よ、それ」「怒らせたくなかったし、がっかりされたくなかった。だから嫌でも言うこと聞いてたこと、結構あったよ」 母の表情が固まる。「そんなふうに思ってたの?」「うん」「私はあなたのためを思って――」「分かってるよ」 佳苗は遮るように否定しなかった。「お母さんがわざ
母からの連絡は、翌日には何事もなかったように届いた。『昨日買ったもの、何だったの?』 佳苗は少し迷ったが、隠すほどのことでもない。『マグカップとか日用品だよ』『写真見せて』 言われるまま送る必要はないと思った。それでも、これくらいなら構わないかと、昨日撮ったマグカップの写真を送る。『かわいいじゃない』『雄吾さんと色違い?』『うん』『新婚さんって感じね』 母の機嫌はよさそうだった。 佳苗も安心しかけたところで、次のメッセージが届いた。『今度から出かけるとき、どこに行くか教えてね』 佳苗の指が止まる。『どうして?』『何かあったとき心配だから』『雄吾さんと一緒だったよ』『それでも私は母親でしょう?』 また、その言葉だった。 佳苗は少し考えてから返信した。『心配してくれるのはありがとう。でも、出かけるたびに報告はしないよ』 しばらく返事は来なかった。 ◇ その日の夜、今度は恵から電話が掛かってきた。『お姉ちゃん、お母さんに何か言った?』「昨日からいろいろ」『やっぱり』「恵にも?」『位置情報共有しないかって言われた』「位置情報?」 佳苗は思わず声を上げた。『最近物騒だから、家族で共有しておけば安心だって』「それ、断った?」『断ったよ。何で二十四時間お母さんに居場所知られなきゃいけないの』 恵らしい答えに、佳苗は苦笑する。『そしたら、やましいことがなければ困らないでしょうって』「そういう問題じゃないよね」『でしょ?』 恵はため息をついた。『お母さん、どうしちゃったんだろ』「多分、不安なんだと思う」『何が?』
日曜日、佳苗は予定通り雄吾と出かけた。 目的は、新生活に必要なものを買うことだった。 とはいえ、結婚前から一緒に暮らしていたため、大きく買い足すものはない。タオルや食器などを見ながら、気に入ったものがあれば買おうという程度だった。「これ、どうですか?」 佳苗が白いマグカップを手に取る。「同じの二つ?」「色違いもありますけど」「佳苗はどっちがいい?」「私は白かな」「じゃあ俺は黒」「即決ですね」「悩む理由がない」 そんな他愛のない会話をしながら店内を歩く。 ふと、佳苗のスマートフォンが震えた。 母からだった。『今日、本当に出かけてるの?』 佳苗は画面を見つめた。「どうした?」「お母さんです」 雄吾には画面を見せず、簡単に説明する。「この前、今日買い物に付き合ってって言われたんです。でも雄吾さんと約束があるから、別の日ならって断ったんですよ」「それで?」「本当に出かけてるのかって」 雄吾が眉を寄せた。「確認する必要あるのか?」「ないと思います」 佳苗は少し考えてから返信した。『出かけてるよ』『どこ?』 今度は答えなかった。 ◇ その頃、母は返信の来ない画面を見つめていた。「どこにいるかくらい教えてくれてもいいじゃない」 別に邪魔をするつもりなどない。 ただ、娘がどこで何をしているのか知りたいだけだ。 以前なら、佳苗はもっと話してくれた。 何を買った。 どこへ行った。 悟と何があった。 困ったことがあれば相談もしてきた。 それなのに今は、何を聞いても必要最低限しか答えない。 母は恵へメッセージを送った。
三人で食事をした日の夜、佳苗は雄吾に母とのやり取りを話した。「お正月か」「まだだいぶ先ですけどね」「今から決めたいんだろうな」「多分」 佳苗はソファに座り、少し考える。「お母さん、前はここまでじゃなかった気がするんです」「佳苗が結婚したからじゃないか?」「やっぱりそう思います?」「ああ。結婚したことで、自分から離れたって感じてるんだろ」 雄吾の言葉は、美佐子から聞いた話とも重なった。「でも、別に会わないって言ってるわけじゃないんですよ。恵も、たまには帰るって言ってるし」「それじゃ足りないんだろ」「何が欲しいんでしょう」「優先されたいんじゃないか」 佳苗は黙った。 今日の母の言葉を思い出す。『家族なのに、予定が空いてたらなの?』 確かに、母が気にしていたのは会えるかどうかではなかった。「私、冷たいですか?」「俺に聞くな」「どうしてです?」「佳苗が母親とどれだけ会うかは、佳苗が決めることだから」 雄吾は当然のように言った。「俺が『もっと会ってやれ』って言ったら、会うのか?」「……嫌です」「なら答え出てるだろ」 佳苗は思わず笑った。「そうですね」 ◇ 一方、母は一人で食事から帰り、静かな部屋を見回していた。 佳苗は雄吾のところへ帰った。 恵も自分の部屋へ帰った。 当然のことなのに、取り残されたような気がする。 スマートフォンを開くと、三人で撮った写真があった。 今日、恵が「せっかくだから」と撮ったものだ。 三人とも笑っている。 楽しかった。 娘たちも楽しそうだった。 それなのに。「どうして&helli
ホテルへ入る佳苗と雄吾。 暗い夜道で撮られたはずなのに、驚くほど鮮明だった。「……どうして」 佳苗の指先が震える。 まるで誰かに見張られていたみたいだった。『ねぇお姉ちゃん』『その人、誰?』『もしかして浮気?』 次々届くメッセージ。 佳苗は顔を青ざめさせた。 浮気。 その言葉に胸が痛む。 裏切っていたのは悟たちの方なのに、なぜ自分が責められなければいけないのだろう。「見せろ」 雄吾が静かにスマホを受け取る。 メッセージ画面を見た瞬間、その目が冷えた。「……なるほど」「先輩」「撮られていたな」 低い声。 感情を押し殺したような響き。「どうしよう……」
「俺は昔から、お前しか欲しくない」 低い声が耳元で響く。 佳苗は息を呑んだ。 車内の空気が熱い。 逃げ場がない。 雄吾の視線は真っ直ぐで、冗談の気配なんて微塵もなかった。「……先輩」 喉が震える。 理解が追いつかない。 昔から? ずっと? そんなはずない。 自分は特別な人間じゃない。 妹みたいに愛嬌があるわけでも、美人なわけでもない。 ただ都合よく利用されるだけの女だった。「信じられないか」 雄吾が静かに言う。 佳苗は答えられなかった。 すると雄吾は小さく息を吐き、身体を離す。「まあいい」「え……」「今すぐ答えを求める気はない」 その言葉に、佳苗は
もう二度と、お前をあいつらのところへ戻したりしない。 その言葉が、佳苗の胸に重く落ちる。「……どうして」 気づけば口にしていた。 雄吾が視線を向ける。「どうして、そこまでしてくれるんですか」 本当に分からなかった。 大学時代、少し関わりがあっただけ。 卒業後は一度も会っていない。 それなのに、この男は突然現れて、自分を助けると言う。 しかも、まるで最初から全部知っていたみたいに。「昔世話になった」 雄吾は短く答えた。「レポート、覚えてるか」 佳苗は目を瞬く。 大学二年の頃。 雄吾が長期入院していた時期があった。 単位が危ないと聞いて、佳苗は講義ノートをまと
「やっと捕まえた」 耳元で囁かれた低い声に、佳苗の心臓が大きく跳ねた。 捕まえた。 その言葉は、優しいのにどこか危険だった。「榊原、先輩……?」 佳苗が戸惑う中、雄吾は佳苗の手首を掴んだまま、ゆっくり顔を上げる。 その視線の先には、こちらへ歩いてくる悟がいた。「佳苗!」 苛立った声。 悟は佳苗を見るなり、露骨に顔をしかめた。「何やってんだよ」 だが次の瞬間、雄吾の姿に気づき、動きが止まる。「……誰?」 警戒した声音。 雄吾は答えない。 ただ静かに佳苗の前へ立った。 庇うように。 その背中の広さに、佳苗は息を呑む。「佳苗、こっち来い」 悟が手を伸ばす。







