LOGIN「……離婚届?」 佳苗は思わず聞き返した。「うん。受付の人も困ってたみたい。とりあえず預かったけど、どうするかって」「私、そんなもの頼んでません」「だよねえ。そもそも、会社に持ってくるものじゃないし」 佐藤は首を傾げた。「高瀬課長に話しておく?」「はい。お願いします」 佳苗は自分の席に戻った。 悟だろうか。 けれど、悟とはとっくに離婚している。今さら離婚届を持ってくる理由などない。 直哉の嫌がらせだとしたら、何を考えているのだろう。 しばらくすると、高瀬が封筒を持ってやってきた。「朝倉さん、受付に預けられたものだけど」「すみません。お騒がせして」「いや、君が謝ることじゃないよ」 高瀬は茶封筒を机に置いた。「差出人の名前はないね。中身を確認する?」「……はい」 佳苗は封筒を開けた。 中には、確かに離婚届が入っていた。 しかも、ただの白紙ではない。 妻の欄には、榊原佳苗。 夫の欄には、榊原雄吾。 それぞれの住所まで記入されていた。「……何、これ」 佳苗の手が止まった。 当然、雄吾の筆跡ではない。 自分の名前も、誰かが勝手に書いたものだ。 高瀬が書類を覗き込み、顔をしかめた。「これは……悪質だね」「どうして、こんなものを……」 佳苗は離婚届を机に置いた。 雄吾との結婚を、直哉が快く思っていないことは知っている。 けれど、わざわざ離婚届を作り、勤務先に届けさせるなんて。「これも、例の嫌がらせですか?」 高瀬に尋ねられ、佳苗は頷いた。「おそらく&hel
「昨日、榊原さんが電話してた相手って、本当に旦那さんだったのかなって」 田中の言葉に、佐藤が首を傾げた。「え? どういうこと?」「いや、男の人と話してたからさ。旦那さんなのかなって思っただけ」「それなら普通に旦那さんじゃないの?」「まあ、そうなんだけど……」 田中は曖昧に笑った。 佳苗は二人の会話を聞きながら、胸が苦しくなった。 昨日、雄吾と電話をしたのは事実だ。 けれど、電話の相手が誰なのかも分からないまま、高瀬に報告されたのだろうか。「……田中さん」 思わず声をかけると、田中が振り返った。「あ、榊原さん」「昨日、私が電話していたのを見たんですか?」「えっ? ああ、うん。たまたまね」「夫と話していました」「あ、そうなんだ」 田中は少し気まずそうに笑った。「ごめんね。別に変な意味じゃなかったんだけど」「……はい」 佳苗はそれ以上何も言わず、自分の席に戻った。 怒りたい気持ちもあった。 けれど、田中が何かを決めつけたわけではないことも分かっている。 ただ、気になったことを口にした。 それだけで、佳苗はまた高瀬に説明しなければならなくなったのだ。 午後、佳苗は備品の発注作業を進めていた。 契約関係の書類には、まだ触れられない。 隣では佐藤が確認作業を続けている。「あー、やっと終わった」 佐藤が大きく伸びをした。「お疲れさまです」「ありがとう。こっちの分は全部確認できたよ」「何か間違いはありましたか?」「最初に見つかったところだけ。ほかは大丈夫だった」 佳苗は少しだけほっとした。「よかったです」「うん。あとは田中さんの
「……もし旦那さんの会社が取引先と競合してたら、結構まずいんじゃない?」 田中の言葉に、佳苗は思わず顔を上げた。 佐藤は困ったように笑った。「でも、そんな話、誰もしてないじゃん」「そうだけどさ。なんか、いろいろ重なってるから気になっちゃって」「まあ、変なメールが何通も来たらねえ」 二人はそれきり別の話題に移った。 佳苗はパソコンの画面に視線を戻したが、指が動かなかった。 田中は、佳苗が情報を漏らしたと決めつけたわけではない。ただ、そんな可能性もあるのではないかと口にしただけだ。 それでも、胸が痛んだ。 以前なら、そんなことを疑われることさえなかったのに。 終業時間になると、佳苗は仕事を片付け、会社を出た。 雄吾の車は、少し離れた場所に停まっていた。「お疲れ」「……ただいま」 助手席に乗り込むと、雄吾が佳苗の顔を見た。「何かあったか?」「うん。ちょっとね」 佳苗は、田中たちの会話について話した。「別に悪口じゃないんだよ。ただ、私が雄吾さんに会社の情報を話してるんじゃないかって、気になってるみたい」「そうか」「なんかね、どんどん変な方向に話が広がっていくの」 佳苗は膝の上で手を握った。「最初は、私が絢子さんを助けたことだったのに。今度は仕事のことまで疑われて……」 雄吾はしばらく黙っていた。「弁護士には、今日の件も伝えた。久世への通知は準備を進めている」「うん」「ただ、警告を出したからといって、すぐに収まるとは限らない」「……そうだよね」 佳苗は窓の外を見た。「私、会社を辞めたほうがいいのかな」 雄吾がこちらを向いた。「辞めたいのか?」
翌朝、佳苗が目を覚ますと、雄吾はすでに身支度を整えていた。「おはよう。早いね」「ああ。弁護士に連絡を入れておきたいからな」「昨日の件?」「そうだ。まずは相談してみる」 雄吾は佳苗の顔を覗き込んだ。「少しは眠れたか?」「うん。昨日はありがとう」「気にするな」 佳苗は微笑んだ。 雄吾に話を聞いてもらっただけで、ずいぶん気持ちが楽になっていた。 会社に着くと、佐藤と田中はすでに書類の確認を始めていた。「おはようございます」「あ、おはよう、榊原さん」 佐藤はいつもどおり挨拶を返した。 田中も軽く会釈する。 佳苗は自分の席に着き、今日の業務を確認した。 契約関係の仕事は、まだ任されていない。 それでも、今できることをきちんと進めようと思った。 午前中、高瀬に声をかけられた。「朝倉さん、例のメールの件なんだけど」「はい」「ご主人が弁護士に相談されるんだったね。会社に届いたものについては、必要な記録を残してあるよ」「ありがとうございます」「ただ、外部に出す資料については、こちらでも確認させてもらいたい」「もちろんです」 佳苗は頭を下げた。 高瀬が協力してくれることがありがたかった。 昼休みになる頃には、少し落ち着いて仕事ができるようになっていた。 ところが、午後二時を過ぎた頃だった。 高瀬の電話が鳴った。「はい、高瀬です」 いつもの調子で応じた高瀬だったが、相手の話を聞くうちに表情が変わった。「……それは、いつ届いたものですか?」 佳苗は思わず顔を上げた。「分かりました。確認して、折り返しご連絡します」 電話を切った高瀬は、しばらく考え込んでいた。 そして、佳苗の
帰宅した佳苗を、雄吾はいつものように迎えてくれた。「おかえり。今日は早かったな」「うん。ただいま」 佳苗は笑顔を作り、バッグを置いた。 リビングのテーブルには、雄吾が買ってきた夕食が並んでいる。「お寿司だ。おいしそう」「好きだっただろう?」「うん。ありがとう」 向かい合って食事を始めたものの、佳苗はなかなか箸が進まなかった。「……何かあったのか?」 雄吾に尋ねられ、佳苗は顔を上げた。「ううん。ちょっと疲れただけ」「そうか」 雄吾はそれ以上聞かなかった。 その気遣いが、かえって胸に染みた。「……あのね」「うん?」「今日も、会社で書類の確認をしてたの」 佳苗は箸を置いた。「また小さな間違いが見つかって。それで、確認する書類も増えちゃった」「そうか」「私が間違えたのは本当なの。だから、確認されるのは仕方ないと思う」 話しているうちに、声が小さくなった。「でも、佐藤さんも田中さんも、普段の仕事があるのに、私の書類まで調べなきゃいけなくなって……」 雄吾は黙って聞いていた。「二人とも、私を責めたりはしないんだよ。ただ、仕事が増えて困ってるだけで」「……ああ」「それが分かるから、余計につらくて」 佳苗は膝の上で手を握った。「最近、会社にいると、誰かが話してるだけで私のことかなって思っちゃうの。前はそんなことなかったのに」 声が震えた。「私、ちゃんと仕事をしたかっただけなのにな……」 最後まで言い終わる前に、涙がこぼれた。「あ、ごめん。泣くつもりじゃなかったのに」 慌てて目元を拭うと、雄吾が隣に移動し
「……私、仕事を外されるんですか?」 佳苗の問いに、高瀬は少し考えてから答えた。「しばらく契約関係の書類は、ほかの人に任せようと思っている」「……はい」「今回の件で、先方も神経質になっているからね。ただ、ずっとというわけじゃないよ」 高瀬は穏やかに続けた。「まずは、これまでの書類を確認しよう。何も問題がなければ、それで終わりだ」「分かりました」 佳苗は頭を下げた。 会議室を出て席に戻ると、作成途中の契約書類が画面に表示されたままだった。 昨日までは当たり前に任されていた仕事だ。 佳苗は保存を済ませ、静かにファイルを閉じた。 翌朝、高瀬は佐藤と田中に書類の確認作業を頼んだ。「通常業務もあるから、手分けして進めてほしい。急ぎの仕事があれば、そちらを優先して構わないよ」「分かりました」 佐藤は頷いたが、田中は書類の一覧を見て目を丸くした。「結構ありますね、これ」「申し訳ないね。私も一部は確認するから」 佳苗はその会話を聞きながら、申し訳ない気持ちになった。 自分のミスがきっかけで、同僚たちの仕事まで増えてしまった。 午前中、佳苗は備品の発注や社内資料の整理を進めた。 普段から担当している業務だが、契約書類に触れられないだけで、妙に手持ち無沙汰に感じる。 昼前になると、田中が小さな声を上げた。「あれ、ここも違う」「どうしたの?」 佐藤が隣から画面を覗き込む。「この書類、会社名の漢字が一文字違ってる」「あ、本当だ」「でも、別紙のほうは合ってるんだよね」「入力するときに間違えたんじゃない?」「そうだと思う。内容には影響なさそうだけど」 田中はため息をついた。「また修正かあ」 佳苗は思わず顔を上げた。「すみません。それ、私が作った書類ですよね」「あ、うん。でも、直せば済むところだから」「確認不足でした。申し訳ありません」「いや、榊原さんに謝られても……」 田中は少し困った顔をした。「こっちも確認するように言われてるから、見つけたところは報告するよ」「はい。お願いします」 佳苗は頭を下げ、自分の席に戻った。 二つ目のミス。 どちらも単純な間違いだった。 けれど、普段なら訂正して終わるものが、今は一つ見つかるたびに記録されていく。 午後、給湯室へ向かう途中で、田中と佐藤の会話が聞こえた。「し
「……っ、はぁ……ぁっ……!」 全身を引き裂かれるような痛みに、藤倉佳苗は汗で濡れたシーツを握り締めた。 眩しい手術灯。鼻を刺す消毒液の匂い。何度も響く機械音。 苦しい。 息ができない。「もう少しです! 頑張ってください!」 医師の声が遠い。 お腹の奥が裂けるように熱い。 それでも佳苗は必死に意識を繋いだ。(赤ちゃん……) やっと会える。 悟との子供。 愛する夫との、大切な命。 その一心だけで耐えていた。 けれど次の瞬間、医師たちの声色が変わった。「血圧低下!」「出血が止まりません!」「急げ!」 視界がぐらりと揺れる。 寒い。 急激に体温が奪われていく。
ホテルへ入る佳苗と雄吾。 暗い夜道で撮られたはずなのに、驚くほど鮮明だった。「……どうして」 佳苗の指先が震える。 まるで誰かに見張られていたみたいだった。『ねぇお姉ちゃん』『その人、誰?』『もしかして浮気?』 次々届くメッセージ。 佳苗は顔を青ざめさせた。 浮気。 その言葉に胸が痛む。 裏切っていたのは悟たちの方なのに、なぜ自分が責められなければいけないのだろう。「見せろ」 雄吾が静かにスマホを受け取る。 メッセージ画面を見た瞬間、その目が冷えた。「……なるほど」「先輩」「撮られていたな」 低い声。 感情を押し殺したような響き。「どうしよう……」
「俺は昔から、お前しか欲しくない」 低い声が耳元で響く。 佳苗は息を呑んだ。 車内の空気が熱い。 逃げ場がない。 雄吾の視線は真っ直ぐで、冗談の気配なんて微塵もなかった。「……先輩」 喉が震える。 理解が追いつかない。 昔から? ずっと? そんなはずない。 自分は特別な人間じゃない。 妹みたいに愛嬌があるわけでも、美人なわけでもない。 ただ都合よく利用されるだけの女だった。「信じられないか」 雄吾が静かに言う。 佳苗は答えられなかった。 すると雄吾は小さく息を吐き、身体を離す。「まあいい」「え……」「今すぐ答えを求める気はない」 その言葉に、佳苗は
もう二度と、お前をあいつらのところへ戻したりしない。 その言葉が、佳苗の胸に重く落ちる。「……どうして」 気づけば口にしていた。 雄吾が視線を向ける。「どうして、そこまでしてくれるんですか」 本当に分からなかった。 大学時代、少し関わりがあっただけ。 卒業後は一度も会っていない。 それなのに、この男は突然現れて、自分を助けると言う。 しかも、まるで最初から全部知っていたみたいに。「昔世話になった」 雄吾は短く答えた。「レポート、覚えてるか」 佳苗は目を瞬く。 大学二年の頃。 雄吾が長期入院していた時期があった。 単位が危ないと聞いて、佳苗は講義ノートをまと







