LOGINパーティーがお開きとなり、招待客たちが次々と帰路につく。
「今日はありがとうございました」
佳苗も一人ひとりに頭を下げながら、会場を後にしようとしていた。
「朝倉さん」
後ろから声を掛けられる。
振り返ると、西園寺が笑顔で立っていた。
「今日はお疲れ様でした」
「西園寺さんも、お疲れ様でした」
「少しお話しできて嬉しかったです」
「私もです」
西園寺は名刺を一枚差し出した。
「もし何か困ったことがあれば、いつでもご連絡ください」
「えっ?」
佳苗は驚いて目を丸くする。
「私にですか?」
「はい」
西園寺は柔らかく微笑んだ。
「社長は仕事になると周りが見えなくなることがありますから」
「そんなときは、朝倉さんにお伝えした方が早い気がして」
佳苗は思わず笑ってしまった。
「分かりました」
『佳苗に、お金を貸してもらえないか聞いてもらえませんか』 電話の向こうで、母親はしばらく黙っていた。『……お金?』「はい」『どれくらい?』「とりあえず、三十万くらいあれば」『三十万?』 思っていたより大きな声が返ってきて、悟は慌てて言葉を足した。「もちろん、ずっと借りるつもりじゃありません。仕事が決まったら返します」『でも、あなた……会社からもお金を請求されてるんでしょう?』「それは別です」『別って言ってもねえ』「今、本当に厳しいんです」 悟は声を落とした。「家賃もありますし、生活費も必要で。再就職だって探してます。でも、前の会社を辞めた理由を聞かれると、なかなか……」 正確には、辞めたのではない。 懲戒解雇された。 それを母親も知っているはずだったが、あえて言い直してはこなかった。『ご実家は?』「頼れません」『恵は?』 その名前に、悟の顔が歪んだ。「もう連絡取ってません」『……そう』「佳苗なら、三十万くらい何とかなるでしょう?」『それはまあ……』 母親の声が曖昧になる。 悟はそこに望みを見つけた。「貸してくれるだけでいいんです。返しますから」『でも、あの子、この前あれだけ嫌がってたでしょう』「だから、お義母さんから言ってほしいんです」『また私が?』「俺からはもう連絡できないんです。ブロックされてるから」 悟は少し間を置いてから続けた。「俺たち、夫婦だったんですよ。今ちょっと困ってるときくらい、助けてくれてもいいと思うんです」『元夫婦でしょう』「&helli
『絢子ちゃん……それ、本当なの?』 長い沈黙のあと、美佐子がようやく口を開いた。「うん」『佳苗さんの元旦那さんを、自分で調べたの?』「……うん」『どうしてそんなこと……』 責めるというより、信じられないという声だった。 絢子は唇を噛んだ。「佳苗さんのことを知りたかったの。雄吾さんが、どうしてあんなに佳苗さんを大切にするのか……分からなくて」『だからって、元旦那さんに?』「分かってる。おかしいことしたって」 雄吾にも、佳苗にも同じことを言った。二人はもう知っているのだと説明すると、美佐子はさらに驚いた。『雄吾も知ってるの?』「うん。私から話した」『……そう』「もう二度としないって約束したし、藤倉さんにも佳苗さんへ無理に連絡しない方がいいって言ったの。本当よ」『でも、その人は会社まで来たのよね』「……うん」 そこだけは、絢子にもどうしようもなかった。「私が連絡したから、佳苗さんと雄吾さんが今付き合ってることも知った。雄吾さんの名前だって……私が出したの」『絢子ちゃん』「だから、私が余計なことをしなかったらって思って」 絢子は目元を押さえた。 嫉妬した。 佳苗の過去を知れば、何かが分かると思った。 もしかしたら、雄吾の気持ちを揺らす材料が見つかるかもしれないと、心のどこかでは期待していたのかもしれない。 けれど、こんなことになるとは思わなかった。『……雄吾には、私からも話しておくわ』「待って」『でも』「私が話す」 絢子はすぐに言った。「藤倉さんから連絡が続いてたことも、今日ブロックしたことも、私から雄吾さんに言う」『大丈夫?』「大丈夫じゃなくても、言わなきゃ」 ここで美佐子の後ろに隠れれば、また同じことになる。 絢子はそう思った。 ◇ 翌日。『少しだけ、お時間をいただけますか』 絢子から連絡を受けた雄吾は、仕事が終わったあとならと返した。 指定された時間に絢子は会社へやって来た。 以前のような親しげな笑顔はない。「何だ?」「藤倉さんのこと」 雄吾の表情が険しくなる。「連絡したのか?」「してない。向こうから来たの」 絢子はスマートフォンを取り出し、悟から届いたメッセージを雄吾に見せた。『今日、佳苗に会いました』『会社まで行ったんです』『でも榊原が迎えに来て』『結
『今日、佳苗に会いました』 絢子は、そのメッセージをしばらく見つめていた。 会った。佳苗に。 胸の奥に嫌な予感が広がったが、返信はしなかった。自分はもう悟に関わらない。そう決めたのだから。 数分後、またメッセージが届いた。『会社まで行ったんです』『でも榊原が迎えに来て』『結局まともに話せませんでした』 絢子の指が止まった。 会社まで行ったのか。『あいつ、いつも邪魔するんですよ』 続けて届いた言葉に、絢子は眉を寄せた。 以前、悟と話したときにも感じていたことだった。 この男は、佳苗自身の意思を認めようとしない。佳苗が自分を拒絶しているのではなく、雄吾が邪魔をしているのだと思い込んでいる。『一条さんなら分かるでしょう?』『あんただって榊原と話したいのに、佳苗のせいで距離置かれてるんだから』「……違う」 思わず声が漏れた。 確かに、佳苗さえいなければと思ったことは何度もある。今だって佳苗が羨ましい。雄吾に選ばれた佳苗が、どうしようもなく妬ましい。 けれど、だからといって嫌がる佳苗の会社まで押しかけていいとは思わない。 絢子は画面を閉じた。 返事をするつもりはなかった。 ◇ 翌朝。「今日は送る」 朝食を終えた雄吾が言った。「会社までですか?」「ああ」「大丈夫ですよ」「昨日の今日だ」「でも、悟もさすがに――」 言いかけて、佳苗は口をつぐんだ。 ――さすがに。 その言葉はもう、悟には使えない気がした。「……お願いします」「ああ」 以前なら、雄吾に迷惑を掛けたくないと断っていたかもしれない。けれど今は、一人で何もかも抱えることだけが自立ではないと
翌朝。「本当に会社へ連絡するんですか?」「ああ」 雄吾は迷わなかった。「悟が来ると決まったわけじゃないです」「来てからじゃ遅い」「……」「大げさだと思うか?」「少しだけ」「佳苗」 雄吾が真っ直ぐ佳苗を見る。「連絡するなと言われて、普通は母親に連絡しない」「……はい」「しかも母親を使って会わせようともしない」 そう言われると、何も返せなかった。「会社には、元夫が来ても取り次がないでほしいと伝えるだけでいい」「分かりました」「帰りも、しばらく気をつけろ」「はい」「迎えが必要なら言え」「そこまでは大丈夫です」「そうか」 雄吾はそれ以上言わなかった。 佳苗も、自分の会社へ事情を伝えた。 離婚した元夫から繰り返し連絡を受けていること。 今後、訪ねてくる可能性があること。 もし来ても、自分を呼び出さないでほしいこと。 少し恥ずかしかった。 けれど。 伝え終わると、不思議と安心した。 ◇ その日の夕方。「朝倉さん」 退勤の準備をしていた佳苗に、同僚が声を掛けた。「はい?」「受付から連絡」 胸がざわつく。「……何でしょう」「藤倉悟って人、知ってる?」 身体が固まった。「……元夫です」「やっぱり」 同僚の表情が曇る。「来てるみたい」「……」「でも朝言ってたから、受付で断ってくれてるって」 来た。 本当に。「ありがとうございます」「大丈夫?」「はい」 そう答えたものの。 指先が冷たかった。 ◇「佳苗に会わせてください」 悟は受付で苛立っていた。「申し訳ございません。お取り次ぎできません」「何でですか?」「本人から、そのように申しつかっておりますので」「俺、元夫なんですよ」「存じ上げております」「だったら少しくらい――」「お取り次ぎできません」 同じ答えしか返ってこない。「話すだけなんです」「申し訳ございません」「じゃあ、ここで待ちます」「業務の妨げになりますので、お引き取りください」 悟の顔が歪む。「……佳苗がそう言ったんですか?」「お答えできません」「本人に聞くだけでも――」「できません」 周囲から視線を感じる。 悟は舌打ちした。「分かりましたよ」 仕方なく、建物を出た。 だが。 帰るつもりはなかった。
佳苗の母親の連絡先は、まだ悟のスマートフォンに残っていた。 離婚してから、一度も連絡していない。 さすがに気まずさはある。 だが。 悟はしばらく迷った末、電話を掛けた。 数回の呼び出し音。『……もしもし?』「ご無沙汰しています。藤倉です」『藤倉……悟さん?』「はい」 母親の声が明らかに変わった。『どうしたの、突然』「佳苗のことで、少しお話ししたくて」『佳苗?』「俺、佳苗に連絡してるんですけど、全部無視されてて」『……』「とうとうブロックまでされたみたいなんです」『そうなの?』「はい」 悟は少し声を落とした。「俺も、悪かったと思ってます」『……』「離婚のときは色々ありましたけど、今は反省してるんです」『そう……』「だから、一度ちゃんと話したいだけなんです」 嘘ではない。 少なくとも悟自身は、そう思っていた。「でも、佳苗が話も聞いてくれなくて」『あの子、昔から頑固なところがあるからねえ』 その言葉に。 悟の顔が少し明るくなる。 やはり。 この人なら分かってくれる。「そうなんですよ」『一度こうって決めたら、人の話を聞かないところがあるのよ』「はい」『私にも最近、ずいぶん冷たいし』「……そうなんですか?」『そうなのよ』 母親の声に、不満が混じる。『雄吾さんと暮らすようになってからかしらねえ。何だかすっかり変わっちゃって』 悟の眉が動いた。「や
『佳苗にどうしても話したいことがある』 絢子は画面を見つめた。 返信するつもりはなかった。 雄吾にも佳苗にも、もう悟とは関わらないと約束した。 それに。 佳苗が今どこにいるかなど、自分も知らない。 美佐子から聞いたのは、二人で旅行に行っているということだけだ。『知りません』 それだけ送った。 すぐに返信が来る。『旅行行ってるんですよね?』 絢子の指が止まった。『何で知ってるんですか』『一条さんが前に榊原の母親と仲いいって言ってたから』『知ってるかと思っただけです』 悟は知らない。 探りを入れただけ。 絢子は小さく息を吐いた。『場所は知りません』『知っていても教えません』『もう私に連絡しないでください』 送信する。 今度こそ。 これで終わり。 そう思った。 ◇ 一方。「……使えねえな」 悟は舌打ちした。 絢子なら何か知っていると思った。 だが。 佳苗が旅行に行っていることだけは分かった。 榊原と。 二人きりで。「何なんだよ……」 自分はこんな状態なのに。 仕事を失って。 金にも困って。 毎日どうするか考えているのに。 佳苗は金持ちの男と旅行。 あまりにも不公平ではないか。 自分と結婚していた頃。 佳苗はそんな女ではなかった。 贅沢などほとんど言わなかった。 自分のために金を使うことも少なかった。「榊原に変えられたんだ」 悟はそう呟いた。 自分が知っている佳苗なら。 こんな自分を放っておくはずがない。 困っていると言えば心配した。 頼めば助けた。 それが。 今は連絡すら無視する。「一回、ちゃんと会えば……」 話せば分かる。 そう思っていた。 ◇ 温泉地の朝。 佳苗は目を覚ますと、しばらく布団の中でぼんやりしていた。 昨夜。 雄吾と話したことを思い出す。『俺は、佳苗との先を考えてる』『ちゃんと俺たちの始まりにする』「……」 思い出すだけで顔が熱くなった。 プロポーズではなかった。 けれど。 いつか結婚する。 それを二人で確かめられた。 佳苗にとっては、それだけで十分だった。「起きたか?」「……はい」 隣の部屋から雄吾の声がする。 この旅館でも、寝室は別にしてもらっていた。 雄吾は急かさない。 何も。 佳苗
「……っ、はぁ……ぁっ……!」 全身を引き裂かれるような痛みに、藤倉佳苗は汗で濡れたシーツを握り締めた。 眩しい手術灯。鼻を刺す消毒液の匂い。何度も響く機械音。 苦しい。 息ができない。「もう少しです! 頑張ってください!」 医師の声が遠い。 お腹の奥が裂けるように熱い。 それでも佳苗は必死に意識を繋いだ。(赤ちゃん……) やっと会える。 悟との子供。 愛する夫との、大切な命。 その一心だけで耐えていた。 けれど次の瞬間、医師たちの声色が変わった。「血圧低下!」「出血が止まりません!」「急げ!」 視界がぐらりと揺れる。 寒い。 急激に体温が奪われていく。
ホテルへ入る佳苗と雄吾。 暗い夜道で撮られたはずなのに、驚くほど鮮明だった。「……どうして」 佳苗の指先が震える。 まるで誰かに見張られていたみたいだった。『ねぇお姉ちゃん』『その人、誰?』『もしかして浮気?』 次々届くメッセージ。 佳苗は顔を青ざめさせた。 浮気。 その言葉に胸が痛む。 裏切っていたのは悟たちの方なのに、なぜ自分が責められなければいけないのだろう。「見せろ」 雄吾が静かにスマホを受け取る。 メッセージ画面を見た瞬間、その目が冷えた。「……なるほど」「先輩」「撮られていたな」 低い声。 感情を押し殺したような響き。「どうしよう……」
「俺は昔から、お前しか欲しくない」 低い声が耳元で響く。 佳苗は息を呑んだ。 車内の空気が熱い。 逃げ場がない。 雄吾の視線は真っ直ぐで、冗談の気配なんて微塵もなかった。「……先輩」 喉が震える。 理解が追いつかない。 昔から? ずっと? そんなはずない。 自分は特別な人間じゃない。 妹みたいに愛嬌があるわけでも、美人なわけでもない。 ただ都合よく利用されるだけの女だった。「信じられないか」 雄吾が静かに言う。 佳苗は答えられなかった。 すると雄吾は小さく息を吐き、身体を離す。「まあいい」「え……」「今すぐ答えを求める気はない」 その言葉に、佳苗は
「佳苗? 本当にどうしたんだよ」 怪訝そうな顔で、悟がこちらを見る。 その優しげな声に、佳苗は思わず身を強張らせた。 前世でも、この男はこんな顔をしていた。 穏やかで、頼れて、優しくて。 だから信じてしまったのだ。 まさか裏で妹と不倫し、自分を“代理母”として利用していたなんて、夢にも思わなかった。「顔色悪いぞ。熱でもある?」 悟が立ち上がり、額に触れようと手を伸ばしてくる。「っ……!」 佳苗は反射的にその手を振り払った。 ぱしん、と乾いた音が響く。 悟が目を見開いた。「……佳苗?」 しまった、と思った。 前世の記憶が蘇ったとはいえ、今の悟はまだ“何も知らない夫







