LOGIN夕食は、佳苗が宿を決めるきっかけになった料理だった。
「これ見て。写真より豪華じゃない?」
「それが決め手だったんだろ」
「海も決め手だよ」
「二番目くらいか?」
「……同率一位」
雄吾が笑う。
料理が運ばれてくるたびに、佳苗は写真を撮った。
「それも母親に見せるのか?」
「これは恵かな。絶対『ずるい』って言うと思う」
「食べる前に冷めるぞ」
「あ、待って。これで最後」
慌ててスマートフォンを置き、箸を取る。
結婚してから初めての旅行。
そう考えると特別な気もするのに、雄吾と話していることは普段とあまり変わらなかった。
仕事のこと。
家のこと。
途中で見つけた変な土産物のこと。
それが佳苗には心地よかった。
◇
食事を終えて部屋へ戻ると、窓の外は
結婚してからしばらく経っても、佳苗の仕事そのものは何も変わらなかった。 朝は決まった時間に出社し、請求書を確認して、契約書類を整理する。 月末になれば忙しいし、入力を間違えれば普通に注意される。 榊原雄吾と結婚したからといって、仕事が勝手に終わってくれるわけではない。「榊原さん、これ確認お願いします」「はい」 差し出された書類を受け取り、佳苗はパソコンへ向き直った。 結婚に伴って姓が変わったため、最初こそ呼ばれるたびに反応が遅れたが、それにもようやく慣れてきた。「あ、そういえば榊原さん」「はい?」 隣の席の女性が、ふと思い出したように尋ねた。「旦那さんって、会社の社長なんですよね?」「そうですけど」「すごいですよねえ」 結婚した頃にも何度か聞かれた話だ。 佳苗は曖昧に笑って、再び画面へ目を戻そうとした。「じゃあ、別に働かなくてもいいんじゃないですか?」 手が止まった。「……え?」「だって社長夫人でしょう?」 女性に悪意があるようには見えなかった。「私だったら絶対辞めちゃうなあ。毎日働かなくても生活できるなら、仕事なんてしたくないですもん」「私は仕事を続けたいので」「へえ」 そこで会話は終わった。 佳苗も、それ以上気にしなかった。 ◇ けれど、その日の午後。「榊原さん、これお願いしてもいい?」 同じ部署の社員から、書類の束を渡された。「これ、今日中ですか?」「できれば」「分かりました」 受け取って確認すると、単純な入力作業だった。 予定していた仕事の順番を少し変えれば対応できる。 佳苗が作業を始めようとしたところで、少し離れた席から声が聞こえた。「いいなあ、余
母との関係が少しずつ落ち着いてきた頃、佳苗の仕事も忙しくなっていた。 月末の処理に加え、新しい社内システムへの移行が重なり、ここ数日は帰宅時間も遅い。「ただいま……」「おかえり。遅かったな」「疲れた」 玄関で靴を脱ぎながら、佳苗は大きく息を吐いた。「ご飯あるぞ」「雄吾が作ったの?」「買った」「ですよね」「何を期待した?」「ちょっとだけ」 リビングへ入ると、テーブルには温めるだけの惣菜とスープが並んでいた。「十分。ありがとう」 佳苗が席につく。「そういえば、来月また研修あるかもしれない」「泊まりか?」「今度は日帰り。ただ土曜日」「行きたいのか?」「うん。新しいシステムの実務研修だから、受けといた方が楽そう」「なら行けばいい」「うん」 以前なら、休日に仕事の予定を入れることへ少し罪悪感があった。 雄吾との時間が減る。 結婚したのだから、休日くらい一緒に過ごした方がいいのではないか。 そんなことを考えていたかもしれない。「雄吾、その日予定ある?」「ある」「あるんだ」「取引先とゴルフ」「じゃあちょうどいいね」「そうだな」 あっさり話が終わる。 佳苗はスープを一口飲んで、ふっと笑った。「何だ?」「いや。夫婦って、もっと何でも一緒にするものだと思ってたなって」「毎週一緒にいるだろ」「そうなんだけど」「別々の予定があったら別々に動けばいい」「うん。今はそう思う」 ◇ 翌日の昼休み。 母からメッセージが届いた。『来月、また美術館へ行くことになったの』
翌朝。 窓の外には、朝の光を反射した海が広がっていた。「雄吾、起きて。海きれい」「……何時だ」「七時」「早いな」「朝ご飯八時だよ」「なら七時半でいいだろ」 そう言いながらも、雄吾は起き上がった。 佳苗は窓辺から何枚か写真を撮る。 昨日とは違う海。 帰ったら母にも見せようと思った。 ◇ チェックアウトを済ませたあとは、昨日見つけた店へ向かった。「これがお母さん。こっちが恵で……」「美佐子には?」「今選んでる」「会社は?」「それも」「自分たちの分は?」 佳苗の手が止まる。「忘れてた」「人の分ばっかりだな」「じゃあ何か買おう」 二人で店内を見て回り、結局、自宅用には小さな瓶詰めを選んだ。「これなら朝ご飯にも使えるね」「佳苗、朝食べるのか?」「旅行から帰った直後くらいは食べるかもしれない」「期間限定か」「努力目標です」 雄吾が笑った。 ◇ 帰宅した翌日の夜。 佳苗は母へメッセージを送った。『旅行、楽しかったよ。今度写真見せるね』 返事はすぐに来た。『おかえりなさい。よかったわね』『お母さんの美術館は?』『楽しかったわ。思ったより長居しちゃった』『じゃあ、お互い話すこといっぱいあるね』 送ってから、佳苗は少し笑った。 以前は母と会えば、何を聞かれるのだろうと警戒していた。 今度は、自分から話したいことがある。『そうね。今度お茶しましょう』『来週なら土曜の午後空いてるよ』『私も大丈夫』 そこで約束は決まった。 ◇ 土曜日。 以前と同じ駅前のカフェで、佳苗は母と向かい合った。「これ、お土産」「いらないって言ったでしょう?」「私が買いたかったの」「……ありがとう」 母は小さな箱を受け取り、嬉しそうに眺めた。「それでね、部屋からの海がすごかったの」 佳苗はスマートフォンを取り出した。「ほら」「まあ、きれい」「こっちは朝」「全然違うのね」「あとこれが夕食」「すごい量ね」「これ目当てで宿決めたの」「やっぱり佳苗は食べ物なのね」「お母さんまで雄吾と同じこと言う」 二人で笑った。 今度は母が美術館のパンフレットを取り出す。「私はこれを見てきたの」「へえ。きれい」「実物はもっとよかったわよ。それでね――」 話す母の顔を見ながら
夕食は、佳苗が宿を決めるきっかけになった料理だった。「これ見て。写真より豪華じゃない?」「それが決め手だったんだろ」「海も決め手だよ」「二番目くらいか?」「……同率一位」 雄吾が笑う。 料理が運ばれてくるたびに、佳苗は写真を撮った。「それも母親に見せるのか?」「これは恵かな。絶対『ずるい』って言うと思う」「食べる前に冷めるぞ」「あ、待って。これで最後」 慌ててスマートフォンを置き、箸を取る。 結婚してから初めての旅行。 そう考えると特別な気もするのに、雄吾と話していることは普段とあまり変わらなかった。 仕事のこと。 家のこと。 途中で見つけた変な土産物のこと。 それが佳苗には心地よかった。 ◇ 食事を終えて部屋へ戻ると、窓の外はすっかり暗くなっていた。 昼間とは違い、遠くにいくつもの灯りが浮かんでいる。「きれい」 佳苗は窓際の椅子に座った。 雄吾も向かいに腰を下ろす。「また来たいな」「気に入ったのか?」「うん。でも次は違うところでもいいかも」「どっちだよ」「だって、まだ行ったことないところいっぱいあるし」 佳苗は笑ってから、ふと考えた。「雄吾は、どこか行きたいところないの?」「海外」「急に規模が大きい」「聞いたのは佳苗だろ」「そうだけど」「休み取れるならな」「じゃあ、そのうち行こうよ」「ああ」「そのうちって、いつ?」 以前なら、そこで話を終わらせていたかもしれない。 いつか。 そのうち。 できたら。 けれど今は、それでは少しもったい
旅行当日。 電車を降りると、潮の匂いがした。「海!」 駅前から遠くに見える青い水面に、佳苗は思わず声を上げた。「まだ遠いぞ」「見えたからいいの」 佳苗はスマートフォンを取り出し、さっそく一枚撮る。「それ、駅前の道路が半分入ってるけどいいのか?」「記録だからいいの」「俺の写真には厳しかっただろ」「雄吾は上手に撮るって言ったじゃん」「言ってない」 二人でそんなことを言いながら、宿へ向かった。 ◇ チェックインにはまだ早かったため、荷物だけ預けて海沿いを歩く。 観光客向けの店が並び、干物や菓子の看板が目に入った。「これ、お母さん好きそう」 佳苗が足を止める。「土産はいらないって言われてなかったか?」「言われたけど、買っちゃ駄目とは言われてない」「そういう理屈か」「小さいのならいいでしょう?」 佳苗は焼き菓子を一箱手に取った。 その隣に、別の味が並んでいる。「あ。こっちは恵が好きそう」「結局二つ買うのか」「雄吾のお母様にも買うよ?」「じゃあ三つだな」「会社にもいるかな」「増えてるぞ」 雄吾が呆れたように笑った。 佳苗も笑いながら商品を戻す。「帰る日に買おう。荷物になるし」「それがいい」 海辺まで降りると、風が強かった。「わ、髪すごい!」「写真撮るか?」「今は絶対嫌!」 そう言ったのに、雄吾がスマートフォンを向ける。「ちょっと!」「母親に見せるんだろ?」「こんなの見せないよ!」「自然でいいんじゃないか?」「雄吾も撮るからね」 佳苗はすぐに自分のスマートフォンを構えた。
連休が近づいた金曜日。 仕事を終えた佳苗が駅へ向かっていると、母から電話が掛かってきた。「もしもし?」『佳苗、今大丈夫?』「うん。仕事終わったところ」『旅行、来週だったわよね』「そうだよ」『楽しみね』「うん。宿も予約したし、あとは行くだけ」『そう』 母の声は明るかった。『私もね、ちょっと出かけることにしたの』「そうなの?」『昔の友達に連絡してみたら、ちょうど連休の一日が空いてるっていうから、美術館に行くことになったのよ』「いいじゃん」『そのあと食事もするの』「楽しそう」『ええ。久しぶりだから楽しみよ』 佳苗は自然に笑った。「よかったね」『……うん』 少しだけ間が空く。『この前、友達を誘ってみたらって言ってくれたでしょう?』「言ったね」『最初は、今さら連絡するのもどうかと思ったんだけど』「でも誘ってみたんだ」『そう。向こうも久しぶりに会いたかったって』「じゃあ、本当にちょうどよかったね」『ええ』 母はそこで笑った。 佳苗が最近聞いていた、どこか寂しさを含んだものとは違う声だった。 ◇ 帰宅してからその話をすると、雄吾は夕食の支度をしながら頷いた。「よかったな」「うん。なんか、ちょっと安心した」「何が?」「お母さんにも、お母さんの生活があるんだなって」「そりゃあるだろ」「そうなんだけどね」 佳苗は食器を並べながら笑う。「ずっと、私か恵が相手しなきゃいけないみたいになってたから」「それで全部満たそうとしたら、お互いしんどいだろ」「うん」 母が友達と出かけ
ホテルへ入る佳苗と雄吾。 暗い夜道で撮られたはずなのに、驚くほど鮮明だった。「……どうして」 佳苗の指先が震える。 まるで誰かに見張られていたみたいだった。『ねぇお姉ちゃん』『その人、誰?』『もしかして浮気?』 次々届くメッセージ。 佳苗は顔を青ざめさせた。 浮気。 その言葉に胸が痛む。 裏切っていたのは悟たちの方なのに、なぜ自分が責められなければいけないのだろう。「見せろ」 雄吾が静かにスマホを受け取る。 メッセージ画面を見た瞬間、その目が冷えた。「……なるほど」「先輩」「撮られていたな」 低い声。 感情を押し殺したような響き。「どうしよう……」
「俺は昔から、お前しか欲しくない」 低い声が耳元で響く。 佳苗は息を呑んだ。 車内の空気が熱い。 逃げ場がない。 雄吾の視線は真っ直ぐで、冗談の気配なんて微塵もなかった。「……先輩」 喉が震える。 理解が追いつかない。 昔から? ずっと? そんなはずない。 自分は特別な人間じゃない。 妹みたいに愛嬌があるわけでも、美人なわけでもない。 ただ都合よく利用されるだけの女だった。「信じられないか」 雄吾が静かに言う。 佳苗は答えられなかった。 すると雄吾は小さく息を吐き、身体を離す。「まあいい」「え……」「今すぐ答えを求める気はない」 その言葉に、佳苗は
もう二度と、お前をあいつらのところへ戻したりしない。 その言葉が、佳苗の胸に重く落ちる。「……どうして」 気づけば口にしていた。 雄吾が視線を向ける。「どうして、そこまでしてくれるんですか」 本当に分からなかった。 大学時代、少し関わりがあっただけ。 卒業後は一度も会っていない。 それなのに、この男は突然現れて、自分を助けると言う。 しかも、まるで最初から全部知っていたみたいに。「昔世話になった」 雄吾は短く答えた。「レポート、覚えてるか」 佳苗は目を瞬く。 大学二年の頃。 雄吾が長期入院していた時期があった。 単位が危ないと聞いて、佳苗は講義ノートをまと
「やっと捕まえた」 耳元で囁かれた低い声に、佳苗の心臓が大きく跳ねた。 捕まえた。 その言葉は、優しいのにどこか危険だった。「榊原、先輩……?」 佳苗が戸惑う中、雄吾は佳苗の手首を掴んだまま、ゆっくり顔を上げる。 その視線の先には、こちらへ歩いてくる悟がいた。「佳苗!」 苛立った声。 悟は佳苗を見るなり、露骨に顔をしかめた。「何やってんだよ」 だが次の瞬間、雄吾の姿に気づき、動きが止まる。「……誰?」 警戒した声音。 雄吾は答えない。 ただ静かに佳苗の前へ立った。 庇うように。 その背中の広さに、佳苗は息を呑む。「佳苗、こっち来い」 悟が手を伸ばす。







