LOGIN入籍の日は、驚くほど普通にやって来た。
朝起きて、いつものように朝食を取り、それぞれ仕事へ向かう準備をする。
違うのは、今日の午後には二人で役所へ行くということだけだった。
「本当に今日なんですよね」
玄関で靴を履きながら佳苗が言うと、雄吾が振り返った。
「今さら確認するのか?」
「なんだか実感がなくて」
「婚姻届も書いただろ」
「書きましたけど」
必要事項を記入し、証人欄も埋まっている。何度も確認したから、不備もないはずだ。
それでも佳苗には不思議だった。
一度目の結婚とは、何もかもが違う。
あの頃は、結婚するのだからこうしなければならないと思うことばかりだった。
妻になるのだから。
夫に合わせなければ。
家事をしなければ。
家庭を守らなければ。
けれど今は、結婚したあとも仕事を続ける。住む場所も、これから二人で考える
入籍の日は、驚くほど普通にやって来た。 朝起きて、いつものように朝食を取り、それぞれ仕事へ向かう準備をする。 違うのは、今日の午後には二人で役所へ行くということだけだった。「本当に今日なんですよね」 玄関で靴を履きながら佳苗が言うと、雄吾が振り返った。「今さら確認するのか?」「なんだか実感がなくて」「婚姻届も書いただろ」「書きましたけど」 必要事項を記入し、証人欄も埋まっている。何度も確認したから、不備もないはずだ。 それでも佳苗には不思議だった。 一度目の結婚とは、何もかもが違う。 あの頃は、結婚するのだからこうしなければならないと思うことばかりだった。 妻になるのだから。 夫に合わせなければ。 家事をしなければ。 家庭を守らなければ。 けれど今は、結婚したあとも仕事を続ける。住む場所も、これから二人で考える。子供についてさえ、今すぐ答えを出さなくていいと言われた。 妻になるのに。 何か別の人間にならなくていい。「佳苗?」「はい」「遅れるぞ」「あ、すみません」「そこは謝らなくていい」「……はい」 佳苗は笑って、雄吾と一緒に家を出た。 ◇ 午後。 二人は予定通り仕事を切り上げ、役所の前で待ち合わせた。 雄吾の手には、婚姻届が入った封筒がある。「持ってきました?」「忘れたら今日来た意味がないだろ」「一応確認しただけです」「佳苗こそ必要なもの持ったか?」「大丈夫です。三回確認しました」「確認しすぎだ」「こういう日に忘れ物したくないんです」 そんな話をしながら中へ入る。 窓口で書類を提出すると、職員が内容を確認してい
◇ アクセサリーショップへ入ったとき。 恵が一つのネックレスを手に取った。「かわいい」「似合いそう」「本当?」「うん」 小さな石がついた、華奢なデザインだった。 高級品ではない。 恵でも、少し頑張れば買える金額だ。「買おうかな」「欲しいなら買えば?」「……そうする」 恵はしばらく迷ったあと、自分の財布を出した。 会計を終え、紙袋を受け取る。「なんか嬉しい」「そんなに気に入った?」「うん」 恵は袋を見ながら笑った。「自分で欲しいと思って、自分で買ったから」 佳苗が恵を見る。「今までだって買ってたでしょう?」「そうなんだけど」 恵は少し考える。「なんかね。最近、お姉ちゃん見てると、私って人のものばっかり見てたなって思って」 佳苗は何も言わなかった。「誰かが持ってると欲しくなるの。別にそれまで欲しくなかったものでも」「……うん」「悟もそうだった」 恵は苦笑した。「お姉ちゃんの旦那じゃなかったら、あんなに欲しかったか分かんない」 佳苗の胸が少し痛んだ。 けれど、逃げずに聞いた。「今は?」「いらない」 即答だった。 佳苗は思わず笑ってしまう。「そこは迷わないんだ」「絶対いらない」 恵も笑った。「だから、今度は自分が欲しいものをちゃんと見つけようかなって」「いいと思う」「でしょ?」 恵は紙袋を大切そうに持った。 ◇ そのあと、二人でカフェへ入った。「そういえば」
恵が謝ってから、姉妹のやり取りは少しずつ増えていった。 毎日連絡を取るわけではない。 面白そうな店を見つけたとき。 昔好きだったものを見かけたとき。 そんなときに、短いメッセージを送り合う程度だった。 佳苗には、そのくらいの距離が心地よかった。 何もなかった頃へ無理に戻るのではなく、今の二人で新しい関係を作っていけばいい。 そう思えるようになっていた。 ◇「入籍日、どうします?」 ある夜、夕食を終えたあとで佳苗が尋ねた。 雄吾がカレンダーを開く。「佳苗は希望あるか?」「特には。でも、あんまり先にする理由もないですよね」「ああ」「式をするかどうか決めてからじゃなくてもいいですし」「別でいいだろ」 二人で候補の日をいくつか挙げていく。 仕事の都合。 役所へ行ける時間。 縁起を気にするかどうか。「雄吾さん、こういうの気にします?」「全く」「私もあんまり」「じゃあ、大安は条件から外すか」「はい」 そんな話をしながら決めていくことが、佳苗には楽しかった。 誰かから指定された日ではない。 家族が決めたわけでもない。 二人で相談し、二人で選ぶ。「この日なら、二人とも午後空けられそうですね」「じゃあ、ここにするか」「いいんですか?」「佳苗は?」「私はいいです」「なら決まりだな」 あまりにもあっさり決まって、佳苗は笑った。「もっと特別な決め方するのかと思ってました」「例えば?」「記念日とか」「作ればその日が記念日になるだろ」「……確かに」 雄吾らしい。 佳苗はカレン
恵と会った翌朝。 佳苗は出勤の支度をしながら、昨日のことを思い返していた。 大きな問題はなかった。 恵も雄吾に失礼なことは言わなかったし、金を無心したわけでもない。最後には「お姉ちゃんのこと、よろしくお願いします」とまで言っていた。 それなのに、何となく引っかかっている。「どうした?」 ネクタイを締めていた雄吾が、鏡越しに佳苗を見た。「昨日のこと考えてました」「妹?」「はい」「何か気になることでもあったか?」「分からないんです」 佳苗は正直に答えた。「何もされてないのに疑うのも嫌だし。でも、前のことがあるから……」 恵と悟の関係を知ったときのことを思い出す。 あのときも、最初から疑っていたわけではなかった。「無理に信用する必要も、疑う必要もないだろ」 雄吾が言った。「今は何も起きてない。それでいいんじゃないか」「……そうですね」「何かあったら、そのとき考えればいい」 佳苗は頷いた。 未来のことまで怖がっていても仕方がない。 ただし、自分の嫌なことまで我慢する必要もない。 その二つを混同しないようにしようと思った。 ◇ 一方、恵は昨日から何度も雄吾のことを思い出していた。 顔が好みだったから、というだけではない。 もちろん、実際に会えば魅力的な男性だとは思った。 けれど、それ以上に引っかかったのは、雄吾が佳苗を見るときの態度だった。 佳苗が席を立つとき。 戻ってきたとき。 話しているとき。 特別に甘い言葉を口にするわけでもないのに、自然と佳苗を気に掛けているのが分かった。「……悟と全然違う」 悟と一緒にいた頃の佳苗は、いつも悟の様子を見ていた。 機嫌は悪くないか。 何か必要ではないか。 自分が何か失敗していないか。 恵には、それがひどくつまらない女に見えていた。 もっと好きなことをすればいいのに。 言いたいことを言えばいいのに。 そう思っていたはずなのに。 いざ佳苗がそうなれば、それも面白くない。「何なの、私」 恵は自嘲するように笑った。 佳苗が不幸なら、勝ったような気がする。 佳苗が幸せなら、負けたような気がする。 そんな勝負など、最初から誰もしていないのに。 スマートフォンが鳴った。 母親からだった。 ◇『この前、雄吾さんに会ったんでしょう?
恵と雄吾が会うことになったのは、翌週の日曜日だった。 場所は佳苗が選んだ。 駅から近いレストランで、昼間は家族連れも多い。個室ではなく、周囲にほかの客もいる店だ。「わざわざ付き合わせてすみません」 店へ向かう途中、佳苗が言うと、雄吾は隣で眉を上げた。「何で謝る?」「だって、私の妹に会うために休日を使ってもらってるので」「結婚するなら、いずれ会う可能性はあるだろ」「そうですけど」「それに、嫌なら最初から断ってる」「……はい」 また謝るところだった。 佳苗は小さく笑った。「何だ?」「いえ。雄吾さんといると、私、謝る回数が減ったなって」「まだ多いけどな」「減ってはいます」「じゃあ、そのうちゼロを目指せ」「それは無理です。悪いことしたら謝ります」「それでいい」 そんな話をしているうちに、店へ着いた。 ◇「お姉ちゃん!」 恵はすでに店の前で待っていた。 佳苗に手を振ったあと、その視線が隣の雄吾へ移る。 一瞬。 恵の顔が止まった。「初めまして」 雄吾が先に声を掛ける。「榊原雄吾です」「あ……初めまして。佳苗の妹の恵です」 恵は慌てて頭を下げた。「今日はすみません。私が会ってみたいって言ったから」「いや」 雄吾はそれだけ答えた。 写真では何度も見た。 けれど実際に会うと、印象が違う。 恵は店へ入ってからも、何度か雄吾を見てしまった。「恵?」「え?」「メニュー」「ああ、ごめん」 佳苗に声を掛けられ、慌てて視線を落とす。「何にしようかな」
恵と会うことになったのは、次の日曜日だった。 待ち合わせに選んだのは駅近くのカフェだ。人通りも多く、食事を終えればそのまま別れられる。 約束の時間より少し早く着いた佳苗は、店の前で恵を待った。「お姉ちゃん!」 声に振り向くと、恵が手を振りながら歩いてくる。「久しぶり」「うん。待った?」「今来たところ」「よかった」 思っていたより、普通だった。 以前のような険悪な空気もない。 二人で店へ入り、向かい合って座る。「お姉ちゃん、何にする?」「私はこれかな」「じゃあ私もそれにしようかな」 注文を済ませると、恵は佳苗の顔をじっと見た。「何?」「なんか変わったなって」「そう?」「うん。前より明るくなった」 悪意のない言い方だった。「そうかも」「幸せ?」 佳苗は少し驚いた。 けれど、迷わず頷く。「うん」「そっか」 恵は笑った。「よかったね」「……ありがとう」 本当に。 ただ祝ってくれるだけなのかもしれない。 佳苗の警戒心が、ほんの少し緩んだ。 ◇ 料理が運ばれてくると、話題は自然と近況へ移った。 佳苗は仕事を続けていることを話し、恵も今の生活について簡単に話した。「仕事は?」「今ちょっと探してる」「そうなんだ」「お母さんとも喧嘩しちゃったしね」 恵は苦笑した。「この前は家に行ったみたいだけど」「聞いた?」「お母さんからじゃないよ。結婚のことを聞いたって言ってたから」「ああ」 恵は肩をすくめる。「まあ、ずっと喧嘩してるわけにもいかないし」「そうだね」「でも、一緒に暮らすのは無理かな」「それは二人で決めたらいいと思う」 以前なら、母親と仲直りするよう勧めていたかもしれない。 あるいは、恵が困っているなら自分が何とかしなければと思ったかもしれない。 けれど今は、それぞれの問題だと思える。 恵はそんな佳苗を少し不思議そうに見た。「お姉ちゃん、本当に変わったね」「最近よく言われる」「榊原さんのおかげ?」 その言葉に、佳苗は少しだけ笑った。「違うよ」「違うの?」「雄吾さんにはたくさん助けてもらったけど、私が変わろうって決めたのは私だから」「……ふうん」 恵はストローを指で弄んだ。「お母さんも言ってた。お姉ちゃん、前と違うって」「そう」「悟もそう思ってる
もう二度と、お前をあいつらのところへ戻したりしない。 その言葉が、佳苗の胸に重く落ちる。「……どうして」 気づけば口にしていた。 雄吾が視線を向ける。「どうして、そこまでしてくれるんですか」 本当に分からなかった。 大学時代、少し関わりがあっただけ。 卒業後は一度も会っていない。 それなのに、この男は突然現れて、自分を助けると言う。 しかも、まるで最初から全部知っていたみたいに。「昔世話になった」 雄吾は短く答えた。「レポート、覚えてるか」 佳苗は目を瞬く。 大学二年の頃。 雄吾が長期入院していた時期があった。 単位が危ないと聞いて、佳苗は講義ノートをまと
「やっと捕まえた」 耳元で囁かれた低い声に、佳苗の心臓が大きく跳ねた。 捕まえた。 その言葉は、優しいのにどこか危険だった。「榊原、先輩……?」 佳苗が戸惑う中、雄吾は佳苗の手首を掴んだまま、ゆっくり顔を上げる。 その視線の先には、こちらへ歩いてくる悟がいた。「佳苗!」 苛立った声。 悟は佳苗を見るなり、露骨に顔をしかめた。「何やってんだよ」 だが次の瞬間、雄吾の姿に気づき、動きが止まる。「……誰?」 警戒した声音。 雄吾は答えない。 ただ静かに佳苗の前へ立った。 庇うように。 その背中の広さに、佳苗は息を呑む。「佳苗、こっち来い」 悟が手を伸ばす。
恵が帰ったあとも、佳苗はしばらく動けなかった。 心臓が嫌なほど脈打っている。 あの目。 一瞬だけ見せた、冷たい視線。 前世では最後まで気づかなかった。 恵はずっと、自分から奪うことを楽しんでいたのだ。「……っ」 佳苗は唇を噛み締める。 怖い。 けれど、それ以上に悔しかった。 どうして自分は、あんな人たちのために命まで懸けてしまったのだろう。 テーブルの上に置かれた結婚写真が目に入る。 幸せそうに笑う自分。 悟の腕に寄り添って、未来を信じ切っていた頃の自分。 ――滑稽。 佳苗は震える手で写真立てを伏せた。 もう戻れない。 戻りたくもない。 今度こそ終わらせ
「……今、泣いてるのか?」 低く静かな声が耳に落ちる。 その一言だけで、張り詰めていた感情が崩れそうになった。 佳苗は慌てて口元を押さえた。「な、泣いてません」『嘘が下手だな、お前は昔から』 昔から。 その言葉に、大学時代の記憶が蘇る。 榊原雄吾。 成績優秀、容姿端麗、誰にも媚びない孤高の男。 学生の頃から有名だった。 近寄りがたい人だったのに、なぜか佳苗にはよく話しかけてきた。『また他人の仕事押し付けられてるのか』『断れないのか、お前は』 呆れたように言いながら、結局いつも助けてくれた。 けれど卒業後は一度も会っていない。 それなのに、どうして今。「どうし







