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第541話

作者: かおる
――雅臣の初恋と息子を同時にさらうなど、正気の沙汰ではない。

これほどの相手に手を出すなら、完璧な準備をしていなければ命がいくつあっても足りない。

仁志は、そのあいだずっと黙って座っていた。

余計な口を挟むことも、立ち去る素振りも見せず、ただ静かに。

疑われる隙を一切与えないよう、慎重に振る舞っていた。

さらに二時間ほど経ったころ、ようやく電話が鳴る。

「神谷さん、金は揃ったか?」

「用意できている」

「いいだろう。

三十分以内に、元妻に金を持たせて指定の場所まで来させろ。

いいか、来るのは彼女一人だけだ。

もし、約束を守らなかったら、一人殺す。

彼女に一人で来る勇気がないなら、もう身代金を持ってくる必要もない」

室内に重い沈黙が落ちた。

星が、毅然とした声で口を開く。

「いいわ。

ただし、二人が無事かどうか、今すぐ確認させて」

「当然だ」

次の瞬間、スマホにビデオ通話が届いた。

映像の中には、椅子に縛られた翔太と清子の姿があった。

翔太の目は真っ赤に腫れており、泣きはらしたことが一目で分かる。

だが幸い、外傷は見当たらなかった。

問題は清子だった。

髪は乱れ、頬は大きく腫れ上がり、血と埃が頬を汚している。

見るも痛ましい姿だった。

「ほら、挨拶でもしてやれ」と、男の声。

翔太はまだ幼く、こんな事件など経験したことがない。

怯えに震えながら、か細い声を絞り出した。

「パパ......助けて......」

清子は顔を上げようとしたが、涙が先にこぼれた。

何かを言おうとしても、喉が詰まって言葉にならない。

雅臣の瞳が鋭く光る。

「恨みがあるなら、俺を狙え。

女や子どもを巻き込むとは、卑怯だな」

「俺だってお前を狙いたいさ」

変声機の向こうで、男が歪んだ笑いを漏らす。

「でもお前は警備が厳重すぎて手が出せねえ。

だから、まずは弱い方からだ」

「......」

雅臣は言葉を失った。

そのとき、星が立ち上がる。

「もういい。

これ以上時間を無駄にする気はないわ。

今すぐ行く」

その声を聞いた瞬間、翔太の瞳がぱっと輝いた。

涙が溢れ、声にならない嗚咽が漏れる。

「......ママ!」

生死の境にある恐怖の中で、彼の心に浮かんだのは母の顔だった。

これまで鬱陶しいと思っていた母の姿――
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コメント (6)
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桜花舞
仁志は本当は清子だけを誘拐する予定だったのかな 星に子供がいるの、知らなかったみたいだから って、仁志が黒幕だとしたら、だけど。 雅臣に、星じゃなくて清子を選ばせるつもりで計画したけど、一緒にいた子供まで拉致してしまったって感じかなぁ
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さおり
雅臣はまだ翔太のそばに清子を置いてたんだ。 いくら改心しても、結局は清子かよ…と思ってしまう。 仮病伝わってなかったのね...
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この事件の真相が清子と仁志との作戦だった方がマシだと思った。 もし雅臣らの小細工だったら雅臣、お前もう終わりだな。としか言いようが無い。
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