カリナは夢の中にいた。
幸せだった時の記憶を夢の中で手繰り寄せるのが彼女の蘇生術だった。 目の前には下女に過ぎなかった自分を侍女に取り立ててくれた、エミリアーナが微笑みながら自分を見ている。『カリナ、本物を見極める力をつけるのよ』
エミリアーナが目の前に沢山の金色の宝石を並べる。『さあ、この中でイエローダイヤモンドはどれでしょう』
『えっと、こちらの石でしょうか?』 とても透明感があり、高級そうに見えた右から2番目の宝石を指差す。 『それは宝石の中で最も歴史が深いと言われる琥珀よ。摩擦によって静電気を帯びる性質を持っているから幸運の石とも呼ばれるの。イエローダイヤモンドはその隣にある石』 『どの石も、とても綺麗に見えます』彼女の言葉にエミリアーナは、「カリナらしい」と言って笑った。
『カリナ、よく聞いて。宝石の区別がつかないと貴族としては本物を知らないと馬鹿にされるわ。左からシトリン、琥珀、イエローダイヤモンド、ゴールデンベリル、トパーズ、イエローサファイア⋯⋯』 エミリアーナはその後もそれぞれの宝石の特徴を、石言葉と共に細やかにカリナに説明した。彼女は宝石の並び位置を入れ替えて、カリナに再び質問をする。『カリナ、では、琥珀はどれでしょう?』
『え、えっと⋯⋯』 カリナはエミリアーナが丁寧に時間を掛けて説明してくれたのに、ここで間違った答えを出すわけにはいかないと緊張して固まってしまった。カリナの手にエミリアーナはそっと琥珀を握らせた。
黄金に輝く見た目とは異なり驚くような軽さだ。『琥珀は宝石の中で最も軽い石。よく目を凝らしても分からないなら触れてみなさい。自分には理解できないと目を逸らしていてはダメよ』
真剣な目で語り掛けてくるエミリアーナの姿にカリナは感動を覚えた。
記憶にある限り自分にこれ程、丁寧に向き合ってくれた人はいない。『エミリアーナ様、私なんかの無知の為に貴重なお時間を割いて頂きありがとうございます』
『私なんか? 聞き捨てならないわね。あなたは私の侍女でしょ。プライドを持ちなさい。自分の価値を決めるのは他の誰でもない自分自身よ!』 カリナは「私なんか」というのが口癖だった。 『はい! 私はエミリアーナ様の侍女としてプライドを持ち、もっとお役に立てるよう努力します』 『ふふっ、素直で宜しいわ。あなたのアメシストの瞳を見ていると死んだ妹を思い出すの。だから、あなたと過ごす時間に私も癒されてるのよ』カリナはエミリアーナの妹が自殺した話を前に聞いていた。王宮で唯一の味方だったという妹の死。悲しみの中に居ただろう彼女が人質同然にスペンサー王国に嫁いできた事に心を痛める。
『⋯⋯カリナ、あなたって簡単に騙されそうね。この世界は悪意で満ちているのよ。もっと警戒心を持って生きないとやっていけないわ』
『でも、私はとても恵まれています。こうして、エミリアーナ様と出会えました』 カリナの言葉にエミリアーナは困ったように笑った。♢♢♢
夢から覚めて目を開けると、私を見下ろすランスロット様がいた。
(琥珀色の瞳⋯⋯) 説明しようもない安堵を感じる。 薄手のスリーピングカーテンを邪魔に感じ手を伸ばそうとすると、彼が捲って顔をしっかり見せてくれた。 ロバートと再会してから、目が覚めたら私はまた監禁されていた部屋にいそうだという恐怖に支配されていた。 「倒れたそうだな」 冷ややかな声が頭の上から降ってくる。 私は慌てて体を起こした。 ランスロット様はサッと枕を私の背に入れてくれた。 (優しい⋯⋯)私はアイリー侯爵邸にいた時、レベッカ様とアルベルト様とは関わったが彼とはほとんど接触していない。
とても冷たい目をしていたし、無口な上、無表情で怖い人だと思っていた。「私はレベッカ様の侍女を首になるのですか? それに、婚約者って⋯⋯」
皇太子妃の侍女になれる幸運を手放したくなかった。 王妃の侍女の経験が活かせる上に、大好きなレベッカ様のお役に立てる。「レベッカの役に立ちたいのなら、私と結婚してアイリー公爵夫人になった方が良いぞ」
まるで私の心を読んだような彼の言葉に息を呑む。 皇太子妃になる彼女を公爵夫人として支えられるという意味だろうが、私のような女に公爵夫人が務まるとは思えない。 「私なんかと本当に結婚するおつもりですか?」 「ああ、そのつもりだ。私の妻になる以上、君の全ての願いを叶えてやる。私は妻になる女性の願いは叶えると昔から決めているのだ」淡々と語るランスロット様の意図が分からない。
物心つく前に両親を亡くしている私は一般的な夫婦をよく知らない。「⋯⋯いつから、どこまで知っていたのですか? 何でも叶えてくれるというならエミリアン王子殿下に会わせてください!」
私の最低の行いが彼に露見していたのが恥ずかしくて、私は手で顔を覆いながら思わず叫んだ。
「最初から知っていた。君がカリナ・ブロアだということを⋯⋯アルベルトには今朝話したから、レベッカには自分から話すと良い」
ふと、レベッカ様の優しい笑顔が浮かんだ。
彼女に軽蔑されるかもしれないと思うと恐怖に襲われた。「どうして、私のことを?」
「スペンサー王城には密偵を10人余り配置しているからな。エミリアーナ・サマルディーの下劣な企みも随分前から知っていたさ」エミリアーナ様との時間が頭を駆け巡った。
彼女に取り立てられ侍女として2年働いた。 私なんかを妹みたいだと言って可愛がってくれて、時折感謝の言葉までくれた慈悲深い方だ。 「エミリアーナ様は優しい方です⋯⋯」 「では、ロバート・スペンサーは? 2人とも君を騙した卑劣な連中だ。エミリアン王子に会いたいと言ったな。君が望むなら、スペンサー王国を滅ぼし子を取り返してくるぞ。妻の為に何でもするのが夫だ」(妻⋯⋯夫⋯⋯そのような関係に、本当に私なんかと?)
「待ってください。そのような争いは望んでません。ただ、一目だけでもエミリアン王子殿下に会いたいのです⋯⋯」
生まれたばかりのあの子を見捨てて逃げたのだから、母親だと名乗るつもりはない。それでも、せめて一目会いたかった。そもそも、私が母親だと名乗りをあげたら世界が混乱する。その上、エミリアンに不義の子という汚名が付きまとう。 「了解した。これからも、希望を伝えてくれ。君の全ての望みを叶えるつもりだ」全ての望みと言われても、私は自分がエミリアン以外の何を望んでいるのかはっきり分からなかった。しかしながらエミリアンと会いたい気持ちはあっても、会うことで困らせるなら我慢できる。エミリアンが無事でちゃんと大切にされているかどうか知りたいだけだ。
不意に大きなヴァイオレットダイヤモンドの指輪を左手の薬指に嵌められる。その指輪の石を右手の人差し指で彼が撫でると、石から声がした。
『オギャー! オギャー!』
(エミリアン!?) 『エミリアン王子殿下、ほら窓の外に蝶が止まってますよ。殿下のお顔を見に来たのですね』 (アグネス伯爵夫人?)アグネス伯爵夫人はロバート国王の乳母をしていた方だ。
何度か面識はあるが、とても穏やかで優しい方だった。 「大切にされてる⋯⋯エミリアン⋯⋯大切にされてる⋯⋯」 私は涙が込み上げてくるのを感じた。「全く⋯⋯君のような生まれたての子犬のような女性が、似ても似つかぬ悪女の代わりに子供を産むなど⋯⋯」
「生まれたての子犬? 見たことがあるのですか」 「ない。オリタリア帝国の首都は犬を飼うのが禁じられているからな?」 「え、どうしてですか?」「景観を損なうからだ。道端に糞をしたりするだろう」
「酷いです! そのような事、人間だってするではありませんか!」「ふっ⋯⋯人間だってするって、君は公爵夫人になるのだからやめてくれよ」
右手で口を押さえながら笑いを堪えているランスロット様を見入ってしまった。 (笑った顔⋯⋯本当に綺麗⋯⋯)頬を熱いものが伝うのを感じる。
ランスロット様はスッと立ち上がった。「もうすぐ、レベッカが来る。鍵はちゃんと掛けておくのだぞ」
「は、はい。あの⋯⋯エミリアーナ様は悪女ですか?」 「少なくとも俺にとっては、君を傷つけた悪女だ」 そう言い残して部屋を去っていく彼の後ろ姿を名残惜しく思った。 (『オリタリア帝国の貴族は人前で泣いてはいけないの』) その時、いつかレベッカ様から掛けられた言葉が頭をこだました。ランスロット様は私が1人泣けるように外に出てくれたのだ。
アルベルト様のように指で涙を拭ってくれる訳でも、レベッカ様のようにハンカチを渡してくれる訳でもない。(優しい方⋯⋯)
「そうだ、鍵を閉めないと」
立ち上がり扉に近づこうとすると、不意に扉が開いた。「カリナ⋯⋯会いたかった」
監禁された部屋で、夕暮れ時に毎日のように私が待っていた男。 金髪に冷たい海のようなブルーサファイアの瞳を持つロバート・スペンサー。(怖い⋯⋯どうして、そんな恋人に会ったような顔ができるの?)
後ろに後ずさって転びそうになったところを抱き止められる。その温もりも男らしい香りも見知ったもの。
過去に私の心を安心させてものだったが、今は恐れしかなかった。「エミリアーナ! カリナを逃したのか?」 僕は急いでエミリアーナの部屋に向かい問い詰めた。 産婆はカリナの行方を頑なに吐かなかったが、隠し通路の方に血の跡が続いていた。 エミリアーナは赤いベロアのソファーに腰掛け足を組み、グラスを傾けながら赤ワインを飲んでいた。 随分と長い時間飲んでいるのか、彼女からむせ返るような強い酒の匂いがした。 彼女は僕の問いかけに慌てるそぶりもなく、唇の端をあげてニヤリと笑った。 「カリナを逃したのは産婆ですわ。ただ、カリナに騙された事を認識させ長い通路を抜けた先で獣の餌になる絶望を与えてみたいと考えたことはありますが⋯⋯」「⋯⋯!!」 僕は目の前の悪魔のような女の言動に絶句した。(カリナには心を許して、別れを惜しんでいるように見えたのに⋯⋯)「ロバートも私に隠れてカリナを愛でる部屋を作っていたようですね。それでは彼女は自分の不幸に気がつけませんわ。実は私は彼女が大嫌いなんです。この私に烏滸がましくも同情しているのですよ。だから、教えてやったのです。あなたの方がずっと可哀想よって!」「僕は生まれた赤子に何かあった時の為に、カリナを残して置こうと思っただけだ。僕はいつも国の為に動いている」 カリナを生かすリスクは理解していた。髪色、目の色だけでなく顔立ちも彼女に似て来たら疑惑の目を持たれないとも限らない。だから、わざわざ僕しか入れない彼女を隠す部屋を作った。「国の為? 良いでしょう、そういう事にしといてあげますわ。子も生まれた事だし、離婚しましょう。最初から男の子を産むなんてカリナは本当に良い子でしたわ」「離婚?」 エミリアーナの元からの計画には離婚も含まれたのだろう。 飲み過ぎているせいか目が座っているが、口調はしっかりしている。彼女は淡々と用意していたように言葉を紡いだ。「生まれた赤子の名はエミリアンにしましょう。私の代わりに人質として使ってくださいな。カリナを探しても無駄だと思いますよ。あの子、骨まで美味しそうだし跡形もなく獣に食べられているでしょう」 一瞬カリナに
ロバート・スペンサーは、カリナとの馴れ初めを思い出していた。 彼女は彼にとって唯一王でもない自分を求めてくれる必要な存在だった。 スペンサー王国の地下資源を狙い、いつ戦争を仕掛けてくるか分からないサマルディー王国。 2カ国は話し合いで解決できないくらい多くの問題でぶつかり合ってきた。 貴族たちからのすすめもあり、人質としてエミリアーナ・サマルディー王女を娶る事に決めた。 当時22歳のエミリアーナ・サマルディーの初対面の印象はあまり良いものではなかった。 彼女は贅沢を好み、暇さえあれば宝石を買い漁った。 臣下にはキツくあたり、スペンサー王国の貴族と友好関係を築こうともしない。 政略結婚とはいえ、彼女と夫婦を続けなければならない事を思うとため息が漏れた。 一大行事である国婚を終え、深夜に王妃の寝室に行くとエミリアーナは中が透けて見えそうな夜着を着てベッドに横たわっていた。 まだ、今日の最後の行事である初夜が残っていると思うとため息が漏れた。「ロバート、面倒に思うなら何もしなくても良いのですよ。するだけ無駄ですから⋯⋯」「するだけ無駄とは、もしかして不妊の王女をサマルディー王国は送り込んで来たのか?」「正解ですわ。勘はよろしいけれど、大切な事実に気がつくのが遅すぎますわね。その少しの遅れが命取りですわよ」 エミリアーナはベッド横の引き出しから小瓶を取り出して、ベッドに赤いサラっとした液体を垂らした。「馬の血です。初夜が滞りなく行われ、私が純潔を失った証が必要ですから。まあ、私はとっくに純潔など失ってますわ。そもそも幼い頃に受けた暴行が原因でこのような体になったのですから⋯⋯」 エミリアーナは周囲の人間を深淵に引き摺り込むような暗い瞳をしていた。 王女に暴行? 一体誰が⋯⋯何がサマルディー王国で起こっているのだろう。「なぜ、今、種明かしをしているのだ? 待てど暮らせど跡継ぎができない事で我が国が混乱することを見越して、そなたが嫁いで来たのであろう?」 サマルディー王国が一夫多妻制をとっているのに対
カリナは夢の中にいた。 幸せだった時の記憶を夢の中で手繰り寄せるのが彼女の蘇生術だった。 目の前には下女に過ぎなかった自分を侍女に取り立ててくれた、エミリアーナが微笑みながら自分を見ている。 『カリナ、本物を見極める力をつけるのよ』 エミリアーナが目の前に沢山の金色の宝石を並べる。 『さあ、この中でイエローダイヤモンドはどれでしょう』 『えっと、こちらの石でしょうか?』 とても透明感があり、高級そうに見えた右から2番目の宝石を指差す。 『それは宝石の中で最も歴史が深いと言われる琥珀よ。摩擦によって静電気を帯びる性質を持っているから幸運の石とも呼ばれるの。イエローダイヤモンドはその隣にある石』 『どの石も、とても綺麗に見えます』 彼女の言葉にエミリアーナは、「カリナらしい」と言って笑った。『カリナ、よく聞いて。宝石の区別がつかないと貴族としては本物を知らないと馬鹿にされるわ。左からシトリン、琥珀、イエローダイヤモンド、ゴールデンベリル、トパーズ、イエローサファイア⋯⋯』 エミリアーナはその後もそれぞれの宝石の特徴を、石言葉と共に細やかにカリナに説明した。彼女は宝石の並び位置を入れ替えて、カリナに再び質問をする。『カリナ、では、琥珀はどれでしょう?』『え、えっと⋯⋯』 カリナはエミリアーナが丁寧に時間を掛けて説明してくれたのに、ここで間違った答えを出すわけにはいかないと緊張して固まってしまった。 カリナの手にエミリアーナはそっと琥珀を握らせた。 黄金に輝く見た目とは異なり驚くような軽さだ。『琥珀は宝石の中で最も軽い石。よく目を凝らしても分からないなら触れてみなさい。自分には理解できないと目を逸らしていてはダメよ』 真剣な目で語り掛けてくるエミリアーナの姿にカリナは感動を覚えた。 記憶にある限り自分にこれ程、丁寧に向き合ってくれた人はいない。『エミリアーナ様、私なんかの無知の為に貴重なお時間を割いて頂きありがとうございます』『私なんか? 聞き捨てならないわね。あなたは私の侍
「ただ、名門アイリー公爵家ともなると、結婚相手の選定は難しくなるはずだと余計なお節介を口にしてしまいました」 私は初めて人間らしく狼狽えるロバートを見た。 彼はいつも何を考えているか分からなくて私を不安にさせた。 そのせいで私は彼を逆らえない巨大な存在のように感じていた。(自分の失言に狼狽える、普通の男だわ⋯⋯)「選定? 家の為の結婚をしなければならないと考えた事はありません。アイリー公爵家と縁を持ちたい家門は多いですが、こちらは必要としてませんので。将来的に我が妹がオリタリア帝国の皇后になりますが、ロバート国王は我が家門の心配を? それともオリタリア帝国の行く末を心配なさってるのでしょうか」 淡々と語るランスロット様の言葉の通りだ。 アイリー公爵家はオリタリア帝国の皇家より歴史が深い伝統のある名家だ。 その上、レベッカ様は次期皇太子妃に内定している。 カイゼル・オリタリア皇帝陛下は近々譲位する事を考えているともっぱらの噂だから、レベッカ様が帝国の女性最高地位である皇后に即位する日も近い。 富と権力を持ち平和と安寧を築いているオリタリア帝国のアイリー公爵家に対して、ロバートの物言いは的外れで失礼だ。「し、支度金を用意できないのではないかと心配しているのです。カリナの両親は亡くなっていて、預けられた親戚の叔母の家は貧しく借金まみれです。カリナも王宮での給与は全て借金返済に回してました」 私は自分のプライベートな事情をロバートに知られていることに驚いた。「支度金? お金の話をするのは下品だというのが父上からの教えなのです。オリタリア帝国とスペンサー王国では常識が違うのでしょうか?」 ランスロット様がほくそ笑む。 威圧感、飄々とした態度。 彼を前にするとロバートが私を自由にできる国王ではなく、どこにでもいる男に見える。「いえ⋯⋯ただ、カリナはその⋯⋯僕と⋯⋯」「いい加減、私の妻になる女性を恋人のように呼ぶのはやめて頂けませんでしょうか。辛抱強いと自負しておりましたが、流石に我慢の限界かもしれません」 瞬間、
私はヘンゼル皇太子とレベッカ様と共にオリタリア帝国の皇宮に向かった。 ここが世界の中心であると、遠くスペンサー王国内でしか生きていない私でも知っている。「ここが、皇宮⋯⋯」 世界中の富と権力が集結しているのが一目で分かる。 オリタリア帝国はその領土だけでもスペンサー王国の10倍以上の規模だ。 その上、世界のリーダーと言っても過言ではない程、政治経済の中心になっていた。 アイリー公爵邸もスペンサー王国の王宮並みに豪華で驚いたが、皇宮の豪華絢爛とした荘厳さと建築技術の繊細さに私は見入ってしまった。 皇宮の内部に入ると全面大理石の床には埃1つ落ちていなかった。(私なんかが歩いても良いのかしら⋯⋯)「レベッカ、今から父上に挨拶に行こう」 ヘンゼル皇太子はレベッカ様に微笑みながら語りかける。 彼の全身から彼女が好きで堪らないという気持ちが伝わってくる。「はい。カイゼル皇帝陛下とお会いするのは久しぶりで少し緊張しますわ」 レベッカ様はヘンゼル皇太子の前では演技をしているように見えた。 彼女は緊張など全くしていないのに、ヘンゼル皇太子が喜ぶ言葉を選んでいる。 庭師のケント様といる時の彼女は、心臓の音がこちらまで聞こえそうなくらい緊張して昂っていた。「ふふっ、父上は恐ろしい逸話を沢山持った方だからな。でも、父上もそなたを気に入っているし、余もいるから緊張などしなくても大丈夫だ」 周囲の目も憚らず、ヘンゼル皇太子はレベッカ様を抱き寄せた。 レベッカ様は感情を失ったような琥珀色の瞳を、そっとまつ毛を伏せて隠すように目を閉じた。「セーラ、中庭で待っていてくれる? あなたに付く下女を後で紹介するから」「はい。畏まりました」 2人は仲睦まじそうに話しながら去っていった。 オリタリア帝国では侍女になる私の世話をする下女までつくらしい。(いいご身分ねカリナ⋯⋯) 産んだ子の世話もせず、逃げてきた先で厚遇を受ける自分に呆れた。
レベッカ様の結婚式があと1週間と迫り、今日、式の準備もあると言うことで皇宮入りすることになった。 アイリー公爵家は昨年23歳になるランスロット様が爵位を継承し、お父様は首都の邸宅を離れ領地経営に専念しているらしい。 ランスロット様、レベッカ様とアルベルト様の3人はとても仲が良く、私を家族のように受け入れてくれた。 私は幼い時、感染症で両親を亡くし親戚の叔母に預けられた。 14歳の時、王宮で住み込みの下女の仕事を得た。 16歳で、王妃エミリアーナ様の侍女に取り立てられた。 そして、19歳、死にかけのところをレベッカ様に助けられた。 沢山の出会いに支えられてきたが、今、この空間にいる人たちとの出会いは神が与えてくれた奇跡のように思える。 毎日のように会話をしながら朝食を食べるのは私にとって記憶に残っている限り初めての経験だった。 幸せ過ぎて胸がいっぱいで、とても美味しい食事なのに喉を通らない。「姉上も、とうとう結婚か⋯⋯スペンサー国王も離婚したようだし、あまりお転婆が過ぎてヘンゼル皇太子殿下に愛想尽かされないようにした方が良いんじゃないのか?」 珍しくレベッカ様に突っかかるような物言いをするアルベルト様が可愛らしい。ずっと一緒に暮らしていた彼女と離れるのが寂しいのだろう。 スープを飲む手を止めて、先ほどからレベッカ様の方ばかり見ている。(えっ? スペンサー国王? ロバート・スペンサー? 離婚?)「スペンサー王国のエミリアーナ王妃は生きているのですか?」「突然どうしたのだ? エミリアーナ王妃は先月王子を出産したばかりだ。ようやっと誕生した王子にスペンサー王国ではお祭り騒ぎだったらしいぞ。それなのに離婚とは⋯⋯」 アルベルト様が目を丸くしながら説明してくれたスペンサー王国の事情。 私もその可能性を考えたことがなかった訳ではない⋯⋯ただ、耳を塞ぎ、目を閉じて考えるのをやめていただけだ。 『エミリアーナ王妃は生きている』 結婚して2年、子供ができなかった彼女は周囲から不妊ではないかと陰口を叩