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6.兄さんへ

작가: 中岡 始
last update 게시일: 2026-03-28 20:00:40

ペン先が紙に触れる直前で、美里はまた手を止めた。

白い罫線の上に、まだ何もない。さっき書いた「兄さんへ」の四文字だけが、別の紙の上で乾いている。封筒の表にも、もう同じ宛名を書いた。逃げ道を自分でひとつずつ塞いでいるみたいだった。

部屋は静かだった。

冷蔵庫の低い音。流しに残ったコップの縁に、天井の光が薄く反射している。テーブルの端には、途中まで読んだ文庫本と、口紅の蓋、レシートが二枚。どれも今日の前までの生活の続きみたいに置かれているのに、その中心にあるノートだけが、この部屋の空気を別のものへ変えていた。

何を書けばいいのか分からない、と思う時間は、もう過ぎていた。

本当は、書かなければならないことが多すぎるのだと、美里は知っていた。

ごめん、だけでは足りない。

助けてほしかった、だけでも足りない。

兄がこの先、自分の残したものと向き合うとき、何も知らないままではもっと苦しむ。けれど全部をまっすぐ書けば、兄はたぶん調べる。あの場所へ行く。怒る。自分の代わりに何かを背負おうとする。だから書かなければならないのに、書けば兄を巻き込む。その矛盾のまま、紙の前に座るしかなかった。

美里はゆっくり息を吸い、ようやく最初の一行を書いた。

兄さんへ。

ごめんなさい。

その下に、しばらく何も続かなかった。

兄の顔が浮かぶ。スマートフォン越しの短い文ではなく、もっと古い記憶のほうから先に来る。小さいころ、転びそうになったときに手を引いてくれたこと。大学へ入って一人暮らしを始めたあとも、季節が変わるころに必ず連絡をくれたこと。仕事が忙しくて会えない時期でも、食べてる、ちゃんと寝てる、と訊く声が、押しつけがましくなく優しかったこと。

そういう人に向かって、何を書くのか。

謝るだけでは足りないし、真実だけでも足りない。

美里はペン先を紙に戻した。

たぶん、兄さんが思っているより、ずっと前から苦しかったです。

こうして文章にすると、ひどく平凡だった。苦しかった。そんな言葉で済ませていいのかと思う。けれど、あの重さを他の言葉に置き換えることもできない。夜になると息が詰まり、仕事中だけ何とか普通の顔をして、帰り道の電車で急に涙が出そうになる。朝起きた瞬間から、自分の中に沈んだものがもうそこにある感覚。それを全部細かく書き始めたら、兄は最後まで読めなくなるかもしれなかった。

書いて、消す。

スマートフォンのメモアプリにも同じ文を打ってみて、やはり消す。

どちらに残すべきか決められないまま、結局、紙へ戻る。インクがあるほうが、嘘の逃げ場がない気がした。

言えなかったことがあります。

最低だと思われるのが怖かったです。

でも、本当はずっと誰かに言いたかったです。

そこまで書いてから、美里は目を閉じた。

最低だと思われるのが怖かった。その感情の輪郭は、書いてみると自分で思っていたより幼かった。もっと高尚な理由がある気がしていたのに、実際はそんな単純な恐れでもあったのだと分かる。兄はたぶん、自分を最低だとは言わない。だからこそ言えなかった。責められるのが怖かったのではない。責めない人に見せるのが怖かった。

ペンを持つ手に少し力を入れ、美里は次の行へ進んだ。

好きになってはいけない人を好きになりました。

書いた瞬間、胸の奥が冷えた。

この一文だけで、兄にはかなりのことが伝わるだろう。誰かがいたこと。良くない関係だったこと。自分がそれを恥だと思っていること。けれど、それ以上の具体をここで書くべきかどうか、また迷う。

美里は止まったまま、流しのほうを見た。洗っていないコップの底に、わずかに水が残っている。こんな時間にそれが妙に現実的で、かえって気持ちが定まる。

現実のほうが、いつも先にある。

病院の匂いも、診察券も、白いシーツも、相手が自分に向けた言葉も、全部、抽象ではなく現実だった。なら、遺書だけが曖昧なままではいけない。兄が後で自分を探すとき、少なくとも、何があったのかだけは分かるようにしなければならない。

美里はまた書き始めた。

その人には家庭がありました。

私は妊娠しました。

産みたいと思った気持ちが、少しだけありました。

でも、だめでした。

その四行は、どれも短いのに、書くたびに息が詰まった。

産みたいと思った気持ちが、少しだけありました。

そこだけ、インクがわずかに滲んだ。手が震えたのかもしれないし、気づかないうちに落ちた涙が触れたのかもしれない。自分でも分からなかった。ただ、その一行だけが他より少しだけ濃く、歪んで見えた。

産みたいと思った気持ちは、たしかにあった。

大きな希望でも、覚悟でもなかった。ほんの一瞬、ほんのわずかに、自分の中の何かを守りたいと思った。それを認めてしまうことが、いちばん苦しかった。認めた瞬間、自分が失ったものの形がはっきりしてしまうからだ。だから今までずっと、そこを曖昧にしてきた。なかったことのように扱おうとしてきた。けれど兄へ残す言葉の中でまで、その気持ちを消してしまうのは違うと思った。

続きを書く。

自分で決めたのに、ずっと終わりませんでした。

誰にも言えませんでした。

悲しいと思う資格もないと思っていました。

そこから先は、兄にというより、自分の中の整理に近くなった。

美里は二枚目の紙を引き寄せた。思っていたより書くことが多い。最初は数行で終えるつもりだったのに、いざ書き始めると、どこも端折れなかった。いや、本当は端折っている。それでも、兄が何を知らないままでいてはいけないかを考えると、紙はすぐに埋まっていく。

相談できる場所があると知って行きました。

最初は、ただ話を聞いてくれるところだと思っていました。

責められなくて、少しだけ楽になってしまいました。

その「少しだけ楽」が、いちばん危なかったです。

書きながら、美里は秋山の声を思い出していた。

責めません。無理に話さなくて大丈夫です。ひとりで抱えてこられたんですね。どれもその瞬間には救いだった。だから信じた。信じたから、二度目も行った。三度目も行った。都内の相談室から郊外の別院へ案内され、祈りの手順を覚え、少しだけ軽くなる感覚に縋った。

それを兄へどう伝えるべきか、美里は少し考えた。

白燈院、という名前を書くべきかどうか。

ぼかしたい気持ちはまだあった。名前を書けば兄は探す。自分で止められないところまで行く。けれど、ここだけを曖昧にすれば、兄はきっと何も分からないまま苦しむ。あるいは別のところへ問い合わせて、もっと遠回りな痛み方をするかもしれない。

美里は、少し迷ってから、名前を書いた。

白燈院というところに行きました。

相談室から別院に行くようになって、供養や祈りを続ければ少し楽になると言われました。

一回ずつは払える額でした。

でも、続けると生活が苦しくなりました。

財布の中身を気にするようになって、食べるものを減らして、美容院も先に延ばして、それでもやめるのが怖くなりました。

文章が、少しずつ説明に近づいていく。感情の圧縮だけで済ませたかったはずなのに、兄へ届くことを思うと、どうしても具体が必要になる。なぜ黙っていたのか。何が自分をここまで追い込んだのか。その輪郭だけは残さなければならない。

美里は一度ペンを置いて、スマートフォンを見た。

画面は暗い。兄とのトーク画面は閉じたままだ。今ここで、遺書ではなくメッセージを送ることもまだできる。兄さん、助けて。今からでもその一文を送れば、何かは変わるかもしれない。

その可能性に、胸が揺れる。

助けてほしかった。

その思いは消えない。書きながら、むしろ濃くなっていく。兄へ向かう文章を書けば書くほど、今すぐ会いたい気持ちが強まる。顔を見たい。声を聞きたい。全部言ってしまいたい。こんな紙ではなく、もっとみっともない言葉で泣きながら縋りたい。

でも、それができない。

その理由を、今度ははっきり書かなければならない。

美里は紙へ向き直り、手を少しだけ強く握り直した。

やめたいと言ったとき、兄さんに頼ることも供養だと言われました。

同じように苦しんでいる人を紹介してとも言われました。

そのとき、もう私は相談されている人じゃなくて、何かに使われるものだったんだと分かりました。

兄さんのことを話したのは、安心したくて、家族がいると言いたかったからです。

差し出したかったわけじゃありません。

その一文を書いたとき、美里は初めて大きく息を吐いた。

ずっと喉に引っかかっていたものが、少しだけ外へ出た気がした。兄の存在が、向こうにとって支えではなく支払い元として浮上した瞬間の気持ち悪さ。それをようやく言葉にできた。けれど、その言葉にした事実がまた、自分を追い詰める。ここまで書けば、兄はもう放っておかないだろう。なおさら全部を書いてはいけない気もするし、ここまで書いたならもっと書かなければとも思う。

謝罪だけでは足りず、真実だけでも足りない。

その感覚は、最後まで変わらなかった。

美里は三枚目の紙を引き寄せた。もう文字はかなり埋まっている。兄が封筒を開けば、思っていたより分厚いと感じるはずだ。それでよかった。軽い数行だけを残して消えるのではない。自分はちゃんと、説明しようとしたのだと、せめてその形だけは残したかった。

本当は、会いたかったです。

何度も連絡しようとしました。

助けてと打って消しました。

会いたいと書いて閉じました。

電話もかけられませんでした。

兄さんなら助けてくれると分かっていたからです。

ここで、インクがまた少し滲んだ。

兄さんなら助けてくれると分かっていたからです。

それは愛情の証明でもあり、いちばん残酷な告白でもあった。助けてくれる人がいるのに、呼べなかった。呼べば来てくれると知っていたからこそ、呼べなかった。その矛盾を、兄はきっと理解しきれないだろう。理解しきれないまま、一生考えるかもしれない。それでも、ここだけは嘘を書けなかった。

兄さんを巻き込みたくありませんでした。

兄さんの優しさを、あの場所に近づけたくありませんでした。

私のしたことを知られて、苦しませたくありませんでした。

でも、本当は助けてほしかったです。

ごめんなさい。

そこまで書いて、美里はペンを置いた。

部屋が、急に広く感じられた。冷蔵庫の音が遠い。窓の外で、また車がひとつ通り過ぎる。夜の底が少しだけ持ち上がって、未明の薄さが部屋の輪郭へ滲み始めていた。

まだ足りない気もする。

もっと詳しく書けることはある。相手のこと。病院で交わした会話。財布の中身が減っていったこと。どの祈りにいくら払ったか。都内の相談室から郊外の別院へ行く送迎車のこと。兄との最後のメッセージ。全部書こうと思えば書ける。実際、頭の中にはまだいくらでも残っている。

けれど、これ以上書けば、兄の中に自分の最後の夜を流し込みすぎてしまう気もした。

このくらいで止めるのは卑怯かもしれない。足りない説明のせいで、兄は後から苦しむだろう。それでも、全部を置いていくこともまた別の残酷さだと思った。どこまで書いても、きっと足りないのだ。生きて話さないかぎり。

そのことを思うと、胸の奥でまた微かに揺れるものがある。

いまからでも遅くないのではないか、という、あまりに弱い希望だ。

スマートフォンに手を伸ばす。

画面をつける。兄とのトーク画面を開く。入力欄は空白のままだ。白いカーソルが点滅している。その光を見ていると、何度でも最初からやり直せるような気がする。助けて、と打てる。兄さん、とだけでも送れる。

美里は指を置いた。

そこまで打って、止まる。

次の一文字が出てこない。

兄、と打っただけで、胸がいっぱいになる。そこから先へ進めば、本当に兄へ届いてしまう。届けば、兄は来る。来たら、きっと全部変わる。その変わり方の先に、兄の苦しみまで見えてしまう。自分はそこから逃れられない。

一文字だけ残して、結局それも消した。

白い入力欄がまた空になる。

美里は静かに画面を伏せた。

ノートの上には、書き終えた紙が三枚並んでいる。ごめんなさい、から始まり、言えなかったこと、好きになってはいけない人、妊娠したこと、中絶したこと、白燈院、金、兄に頼れと言われたこと、紹介しろと言われたこと、助けてほしかったこと。詳細のすべてではない。けれど、兄が後で読めば、何があったかは分かるだけの重さがそこにある。

美里は一枚ずつ順番を整え、ゆっくり封筒へ入れた。

紙の擦れる音が小さく響く。

封筒は少しだけ膨らんだ。数行ではない厚みが、そこにある。兄が受け取ったとき、その重さを手のひらで感じるだろうと思うと、胸が痛んだ。

表には、もう「兄さんへ」と書いてある。

その宛名を指先で一度なぞる。インクはもう乾いていた。

部屋の中は、相変わらず静かだった。流しのコップも、脱ぎっぱなしの服も、読みかけの文庫本も、まだそこにある。生活は途中の形のまま残っている。その途中のままの感じが、どうしようもなく痛い。

スマートフォンの画面が、また暗くなる。

黒いガラスの向こうで、自分の顔がぼんやり映る。泣き腫らした顔ではなかった。泣きすぎて、もう乾いてしまったような顔だった。

外で、車の音が遠くひとつ過ぎる。

窓の向こうの夜は、ほんの少しだけ白み始めていた。

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