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31.会社の名札

ผู้เขียน: 中岡 始
last update วันที่เผยแพร่: 2026-03-30 12:42:42

昼を少し過ぎた頃、芳人の事務所の窓には、白すぎる秋の光が斜めに差し込んでいた。

夜の調査と違って、昼の光の下では、書類も端末も輪郭がはっきりしすぎる。机の上に並べたファイル、社員証、名刺入れ、スケジュール帳、会社の封筒。どれも昨日までは、ただの勤務先の持ち物に見えただろう。だが今は、その一つひとつが、美里の私生活へ続く別の入口みたいに思えた。

和希は美里の社員証を指先で持ち上げた。

細いストラップのついたプラスチックのケースに、証明写真が収まっている。少しだけ口元を引き締めた、仕事用の顔だった。私服でも、実家でも、兄と飯を食う時でもない、美里が会社で使っていた表情。名札の下には社名と部署名があり、その下にフルネームが整った活字で印字されている。

社員証ひとつで、急に「働いていた人間」になるのが嫌だった。

美里はもちろん働いていた。そんなことは分かっている。毎日会社へ行き、取引先に頭を下げ、メールを返し、会議に出ていたはずだ。だが兄として知っていたのは、その大枠だけだった。忙しい、疲れた、最近少ししんどい。そういうぼんやりした輪郭しか持っていなかった。社員証に印字された部署名や、首から下げていた名札の重さまでは、何も知らない。

「勤務先の端末は、ログインできる範囲だけ見る」

芳人が、向かいの机から言った。

ノートパソコンを開き、メモ用のファイルを立ち上げたまま、声だけが低く届く。

「私用と業務の境目が曖昧になってるところを拾う。最初から私的な男を探すんじゃなくて、仕事の流れの中で浮く相手を見る」

和希は社員証を机の上へ戻した。

「分かってる」

そう返しながらも、胃の奥は少しだけ硬かった。白燈院までは、まだ「苦しんだ妹」と「搾取した側」という構図で見られた。けれど勤務先を辿れば、その手前にいるもっと俗な現実が出てくる。会社、取引先、担当者。そこにただの男がいる気配がする。それが、和希には妙に嫌だった。

美里の私用ノートパソコンの中には、会社用メールを確認するためのウェブ画面の履歴が残っていた。完全な社内端末ではないが、業務を家に持ち帰る時に使っていたのだろう。ログイン状態が切れていなかったのは、幸運なのかどうか分からない。ただ、いまはそれに頼るしかない。

芳人がテーブルの中央へメモ帳を寄せる。

「得意先ごとに分ける」

和希は頷き、メールの送受信一覧を開いた。

最初は、本当にただの仕事だった。見積依頼、納期調整、来客のお礼、資料送付、会議日程の確認。件名も文面もどこにでもある。営業補佐か、取引先窓口に近い役割をしていたのだろう。やり取りの相手は複数いて、文面も丁寧で、特に崩れているものはない。

その普通さが、かえって息苦しい。

美里はちゃんと働いていた。少なくともメールの中では、誰にも迷惑をかけず、必要なことを先回りして処理する人間としてそこにいる。要点は短く、気遣いは控えめで、余計な感情を挟まない。兄として見ていた曖昧な「忙しい」ではなく、具体的に忙しい人の文面だった。

「この会社」

芳人が一社の名前を指で示した。

「頻度が多い」

和希は一覧を目で追った。たしかに多い。週一ではない。二日に一度、多いときは一日に数通。件名だけ見れば普通だ。打合せ日程、資料修正、追加確認。だが、その会社だけ返信の速度も早い。就業時間外に動いているものまである。

「担当者名、拾えるか」

和希はメールを開いた。署名欄を追う。会社名、部署、役職。その下に、名前があった。

倉田健介。

和希はそこで止まった。

文字そのものは何でもない。よくある男の名前だ。だが、その名前が出た瞬間、部屋の温度が少し変わった気がした。嫌な予感、というほどまだ形はない。ただ、ノートにあった「好きになってはいけない人」が、突然もう少し現実に寄ってくる。

「倉田健介」

芳人がそのまま読み上げた。

和希は黙って、次のメールを開く。別の日付。送り主は同じ。文面は業務だ。会議資料ありがとうございます。先方への共有は明朝行います。引き続きよろしくお願いいたします。何もおかしくない。

だが、その下へスクロールすると、夜の九時過ぎに送られた短いメールがある。

今日は助かりました。遅くまでありがとう。

署名はない。会社名もない。社外に送る正式な文面というより、やり取りの流れの中で打った一通に見える。

美里の返信は、それに対してさらに短い。

こちらこそありがとうございました。お気をつけて。

和希は眉を寄せた。

「業務の範囲、ではあるな」

自分に言い聞かせるように呟くと、芳人は否定しなかった。

「現時点ではな」

そう返しながら、別の履歴を開く。

美里のスケジュール帳には、取引先ごとの外出予定が書き込まれていた。手帳は薄く、実務用に徹した書き方だ。社名の略称、駅名、時間。色分けも最小限。そこに、倉田の会社の略称だけが月に何度か出てくる。特別多すぎるとまでは言えない。だが他の取引先に比べると、妙に細かい追記がある。会食の可能性。資料持参。直帰。来客後フォロー。

「これ」

芳人がひとつの週を指差した。

「この日だけ予定が伸びてる」

和希はその日のメールと照らし合わせた。夕方までの打合せ予定だったものが、夜の九時近くまで続いている。その後に来ているのは、倉田からの「今日は助かりました」のメールだ。

「会食か」

「かもしれない」

芳人の返しは断定ではない。そこが少し救いでもあり、いら立ちでもある。いまの段階で決めつけないのは正しい。だが正しくあるぶんだけ、和希は余計に想像してしまう。仕事の延長で食事をしたのか。駅の近くで軽く飲んだのか。そこから何がずれ始めたのか。

メール一覧をさらに遡る。

最初は、やはり完全に業務だった。資料送付。訪問のお礼。納期の確認。だがある時期から、倉田の文面だけがほんの少し変わる。句読点が減る。署名が消える。件名がなくなる。外から見れば些細な変化だ。だが仕事のメールという前提で見ると、たしかに崩れ始めている。

お疲れさまです。のあとに、今日は大丈夫だった? が続く。

先方対応ありがとうございます。のあとに、無理してない? がつく。

業務の皮をかぶった私信が、薄く混ざり始めている。

和希はその一文を見て、無意識に奥歯を噛んだ。

大丈夫だった?

無理してない?

一見すると気遣いだ。しかも、働いている人間にとっては、ごく自然な気遣いにも見える。会議で疲れていたのかもしれないし、美里の顔色が悪かったのかもしれない。取引先として親しくなれば、こういう一言が入ることも、ゼロではない。

けれどその「ゼロではない」が、妙に気持ち悪い。

ノートを読んだあとだから、そう見えるだけかもしれない。そう思いたい一方で、そうではないとも感じる。白燈院の入口が「相談」に見えたのと同じで、こっちもまた「普通の男」に見えるまま、少しずつ越えてくる感じがある。

「勤務時間外、多いな」

芳人が画面を見ながら言う。

和希は無言でスクロールした。たしかに多い。夜の九時。十時。休日の午前。最初は資料の件だが、だんだん本文が短くなる。美里の返信もまた、最初は丁寧で、途中から少しだけやわらかくなる。絵文字はない。だが文末の硬さが取れていく。

一通だけ、画面を見た和希の手が止まったメールがあった。

件名はなし。

今日はありがとう。ちゃんと休んで。

送信時刻は日曜の夜だった。

美里の返信は十分後。

ありがとうございます。倉田さんも。

そのやり取りの下で、会話は終わっている。

たったそれだけだ。たったそれだけなのに、和希の中で嫌な予感が一段濃くなる。仕事の担当者と部下の関係にも見える。けれど、そうでない方向へも簡単に転がる温度を持っている。

「既婚かどうか、調べる」

芳人がパソコンを引き寄せた。

会社サイト、業界名簿、異動情報、登記。検索語を短く打ち込み、結果を拾っていく。その手際は速い。感情を挟まない。法の外で怒る前に、事実の骨を固める。芳人のそういう仕事モードは、いまの和希にとって必要だと分かる。分かるが、少し嫌でもある。

「そんなにすぐ出るのか」

和希が低く言うと、芳人は視線を上げずに答えた。

「会社名と役職があればだいたい出る」

数分後、芳人が画面を少し回した。

会社の営業部紹介らしき古いページ。写真は小さいが、男が一人映っている。三十代後半か四十手前。整ってはいるが、印象の薄い顔だ。スーツ姿で笑っている。その下に、倉田健介、営業二課、主任。さらに別のページでは、社外セミナーの登壇記録。異動履歴。そして、業界紙のインタビュー記事の末尾に「妻と娘がいるため休日は家族と過ごすことが多い」といった短い紹介文まであった。

和希はその一文を見た瞬間、視界が少し狭くなった。

妻と娘がいる。

ノートに書かれていた「家庭がありました」という文が、そのまま現実の会社情報として目の前に現れる。抽象だった男が、一気に具体になる。取引先の担当者。既婚。営業。外から見れば普通の社会人。怪物ではない。教団でもない。ただの、どこにでもいそうな男だ。

それが逆に寒かった。

白燈院は異常な構造を持つ敵として見られる。だが、その手前には、もっと凡庸な顔をした男がいる。特別な悪人の顔ではない。会社の名札をつけ、定時を過ぎたら家に帰り、娘の話をして、仕事の延長で他人の人生に入り込んでくるような、そういう普通の男だ。

「……嫌な感じしかしないな」

和希はやっとそう言った。

芳人は「そうだな」とも「まだ分からない」とも言わなかった。代わりに、倉田の名前と会社、役職、既婚の情報を箇条書きでメモに落とす。その冷静さが、和希にはやはり少し苛立たしい。こっちはその名前だけで胃が重くなるのに、芳人はすでに「情報」にしている。

だが、そうしなければ追えないのだとも分かる。

和希は美里の名刺入れを開いた。中に何枚か、自社の名刺と取引先の名刺が入っている。そのうち一枚に、倉田健介の名刺があった。白地に紺の線が一本入っただけの、真面目なデザインだ。電話番号、会社の住所、メールアドレス。表面を見ても何も異常はない。だが裏を返すと、走り書きで駅名と時間が書いてある。美里の字だ。

○○駅 18:30

たぶん、待ち合わせのメモだろう。業務の一環かもしれない。そう思おうとして、和希はやめた。思おうとすること自体が、もう不自然だった。

「これ、スケジュール帳と合わせる」

芳人が言う。

和希は名刺を渡した。紙一枚、厚さも重さもほとんどない。だが、その名刺が渡る瞬間、事件線が一段「現実の社会」へ踏み出した気がした。白燈院や相談所の向こうに、会社名と役職を持った男がいる。しかもその男は、美里の苦しみのはるか手前から、働く日常の延長線上で関わっていた。

「勤務先の近く、行ってみるか」

芳人がノートパソコンを閉じながら言った。

和希はすぐには答えなかった。

窓の外は、もう夕方に近づいている。事務所の白い光の中で、机の上の社員証と名刺だけが妙にはっきりして見えた。会社の名札。担当者の名刺。どこにでもある社会の道具だ。その普通さの中から、これからもっと嫌なものが出てくるのだろうと思う。

和希は倉田の名刺から目を離せなかった。

白燈院の前に、こいつがいたのかもしれない。

その予感が、まだ断定ではないまま、じわじわと胸を冷やしていった。

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