LOGIN白い花は、近くで見ると少しだけ冷たい。
菊も百合も、会場の照明の下ではきれいすぎるほど整っていて、触れれば水気を含んだ花弁が指にひやりと張りつきそうだった。祭壇の前には、同じ高さに揃えられた供花が並び、そこへ細い香の煙がゆっくりと上がっている。煙は真っ直ぐではなく、空調の弱い流れに押されるように揺れ、会場全体へ薄く溶けていく。
和希は遺族席の横に立ったまま、何人目か分からない会葬者へ頭を下げた。
「本日はありがとうございます」
その言葉は、もうほとんど反射だった。相手の顔を見て、会釈の角度を少し変え、香典を受け取り、係の人に渡し、また別の相手に礼を言う。会場の空気は静かだった。大声で泣く人はいない。読経は低く抑えられ、靴音も、椅子を引く音も、すべてが場に合わせて小さく削られている。整えられた悲しみの場だった。
その整い方の中にいると、和希は自分の感情がどこへ行ったのか分からなくなった。
泣いていないわけではない。昨夜も、母の小さな泣き声を聞いたとき、喉の奥が何度か熱くなった。けれど会場へ入ってからは、その熱も形にならないまま沈んでいる。弔問客が来る。礼を言う。親族に声をかける。僧侶が到着する。供花の名札の並びを確認する。どれも一つひとつは小さなことなのに、それが途切れず続くせいで、和希は泣くタイミングを失っていた。
母は黒い喪服の袖口を何度も握り、時折目元を押さえながら座っている。父は表情を固くしたまま会葬者へ頭を下げ、必要な場面だけ短く声を出す。二人とも壊れていないわけではない。壊れる寸前を、場の手順がかろうじて支えているだけだ。その不足分を埋めるように、和希は今日も動いていた。
「お兄さん、しっかりしてるわねえ」
遠縁の女が、小声でそう言った。
褒めているのだと分かる。悪意はない。だがその言葉は、和希の皮膚の上を滑っていくだけで、何も内側へ届かなかった。しっかりしているのではない。ただ、立っていないといけないから立っているだけだ。そう言い返すのも違う気がして、和希は曖昧に会釈した。
香の匂いがまた濃くなる。
会葬者の列が途切れかけたころ、受付の前で小さなざわめきがあった。誰かが特別大きな声を出したわけではない。ただ、視線の流れが一瞬だけ揃った気配がした。和希はその方向を見た。
最初に見えたのは、黒だった。
喪服ではない。だがそれに近い、無駄のない黒のスーツ。肩の線が妙に整っている。襟元も、ネクタイの結び目も、髪の流れも、何一つ乱れていない。長身というほどではないが、立ち姿に無駄な力みがないせいで、かえって輪郭だけが目につく。
その男が顔を上げた瞬間、和希の呼吸が一度浅くなった。
木下芳人だった。
懐かしい、とは思わなかった。
先に来たのは、「なんで今ここにいるんだ」という、硬い違和感だった。学生時代の記憶が、頭の奥でごく短く明滅する。講義棟の廊下。夕方のグラウンドの風。終電間際の駅前。忘れていたわけではない、だが日常の表面にはもう浮かんでこないはずの断片。それらが香の匂いと白い花の中で急に引きずり出される。
芳人も和希を見た。
視線が合ったのはほんの一瞬だったのに、相手が驚いたのか、そうでもないのか、うまく読めなかった。動揺がないわけではない。だがそれを表に出さない種類の顔だと、和希は昔から知っている。今も同じだった。会場の空気を乱さない程度に一度だけ立ち止まり、それからまっすぐこちらへ歩いてくる。
来るな、と思った。
同時に、来てくれてしまった、とも思った。
その二つの感情が、胸の中でほとんど同時に立ち上がる。こんな場所で、こんなタイミングで、会いたくなかった。会うくらいなら、もっと別の場所でよかった。何年ぶりかで顔を合わせるのが、妹の葬儀の受付前だなんて最悪だと思う。けれど一方で、この整えられた悲しみの場へ、過去を知る人間がひとり現れたことに、どうしようもなく揺れる部分もあった。
芳人は和希の前で立ち止まった。
近くで見ると、やはり昔より痩せたのか、顔の線が少し鋭くなっている。だが目元の静けさは変わっていなかった。軽々しい慰めを口にしない人間の目だった。
「……久しぶりだな」
低い声で、それだけ言った。
和希はすぐに返せなかった。周囲の空気が、一瞬だけ二人の周りで薄くなる。受付の係が香典帳をめくる音。誰かが椅子を引く小さな音。そういうものが遠くへ退いたあとで、和希はようやく口を開く。
「なんで」
出かけた問いを、そのまま飲み込む。なんでここにいる。誰から聞いた。いつ知った。どれを訊いても場違いだと思った。
芳人はその途中の言葉を拾わないまま、短く言った。
「連絡をもらった」
誰からなのかまでは言わない。その言い方に、不必要な説明をしない抑制があった。和希はそれに少しだけ救われ、同時に少しだけ苛立つ。救われる筋合いはないはずなのに、慰めの常套句で触れられなかったことが、かえって胸に残るからだ。
「そうか」
それしか返せなかった。
芳人は香典を受付へ渡し、白木の台の方へ向かう。その背中を、和希は目で追ってしまう。喪服ではない黒いスーツ姿が、この会場ではわずかに異物だった。だが目立とうとして目立つのではない。整いすぎているせいで、周囲の黒の中から輪郭だけが浮く。
焼香の列に加わった芳人は、形式に従って動きながらも、ただ手順をなぞっているようには見えなかった。祭壇、遺影、親族席、受付、そしてまた会場全体。視線がときおり静かに滑る。探るほど露骨ではない。けれど見ている。ただ参列して終わる人間の目ではないと、和希は無意識に感じ取った。
何を見ている。
何を考えてる。
警戒が先に立つ。
親族の一人が美里について囁く。「若いのにね」「仕事が忙しかったのかしら」。別の誰かが「東京で一人暮らしだったんでしょう」と小さく言う。その断片的な声を、芳人が聞いているような気がした。もちろん会場にいる以上、誰の耳にも入るだろう。だが芳人の沈黙は、聞き流している沈黙ではなかった。
焼香を終え、芳人は遺影に一礼してから戻ってくる。和希の前を通り過ぎるとき、目を合わせるでもなく、しかし何も感じていないふうでもなく、ほんのわずかに歩幅を落とした。
その小さなためらいだけで、昔の記憶がまた不意に揺れる。
大学の頃、芳人は、余計なことを言わない代わりに、言葉を選びすぎる沈黙を持っていた。何も言わないのに、見過ごしていないと分かる種類の人間だった。今の歩幅の落ち方も、それに近い。
会葬者がまた増え、和希はすぐに別の対応へ引き戻された。頭を下げ、名刺を受け取り、会社関係だという男に礼を言う。母の椅子の位置を少し直し、父へ届いた電話を代わりに受ける。そうしているあいだも、会場のどこかに芳人の気配があるのが分かった。視界の端に見えるたび、そこだけ空気の密度が違う。
ようやくひと息ついたのは、通夜ぶるまいの前の短い時間だった。会場の外へ出ると、夜気が少し鋭い。香の匂いが薄まり、代わりに冷えた外気とアスファルトの匂いが鼻に入る。和希はネクタイの結び目に無意識に触れ、それからポケットのスマートフォンを確認した。父からの短い連絡。叔父からの到着報告。仕事のメール。美里の名前は、今日はもう通知欄に上がってこない。
「和希」
声がして振り向くと、芳人が会場の自動ドアの脇に立っていた。外灯の下で見ると、黒いスーツの輪郭がいっそう硬く見える。だが顔色は会場の中より少しだけ人間らしかった。香の匂いから離れたせいかもしれない。
「……何」
和希の声は、自分で思っていたより警戒を含んでいた。
芳人はそれを気にしたふうでもなく、近づきすぎない距離で止まる。
「今じゃなくていい」
前置きのない言い方だった。
「後で少し話せるか」
その短さが、かえって不穏だった。
何の話だ、と訊き返したくなる。久しぶり、だけで済ませる気ではないのか。妹の葬儀の場で、何を話すつもりなのか。和希の中で警戒が一段濃くなる。
「なんで」
今度は飲み込まずに出た。
芳人は少しだけ黙った。言葉を選ぶ沈黙だった。
「今ここで言うことじゃない」
それだけ答える。
曖昧だった。だがはぐらかしているというより、順番を守っている言い方だった。和希はその抑制に余計いら立つ。何かあるなら言えばいい。ないならこんな場で含みを残すな。そう思うのに、声にはならない。
会場の中から、係の人間が和希を探す気配がした。誰かの靴音が近づき、戸の向こうで小さく名前を呼ばれる。
和希は外気を吸い込み、それでも息が浅いまま言った。
「今は無理だ」
「分かってる」
芳人はすぐに引いた。その引き方が早すぎて、和希は逆に面食らう。押してこない。慰めない。追わない。ただ、必要な分だけ言って下がる。その距離感が、昔から一番扱いづらかったことを思い出す。
「終わったあとでいい」
芳人はそれだけ残して、また会場の中へ戻っていく。
和希はその背中を見送った。来るなと思った相手が、来てしまった。しかも、ただ懐かしいだけの顔ではなく、何かを見ている目をしたまま。妹の死の周囲にあるものを、会場の空気ごと拾い上げるような気配を持ったまま。
通夜の場へ戻ると、焼香を終えた参列者たちが一人また一人と帰っていくところだった。受付前で軽く頭を下げる人、親族へ挨拶を残していく人、無言のまま会釈だけして去る人。黒い背中が順に会場の外へ吸い込まれていく。香の匂いはまだそこにあるのに、人が減るごとに空間だけが広がっていくようだった。
和希は遺族席の横に立ち直し、去っていく背中へまた頭を下げた。
その動作をしながらも、胸のどこかに別の重さが加わっている。
妹の葬儀で、いちばん再会したくない相手と再会してしまった。
その事実だけが、焼香を終えて帰っていく参列者たちの黒い列の向こうで、ゆっくりと重くなっていった。
目を開けた時、部屋の中にはもう朝の気配が満ちていた。カーテンは半分だけ開いていて、その隙間から入る白い光が、床とテーブルの縁を静かに照らしている。夜の名残はまだ完全には消えていないのに、空気だけは確かに朝へ傾いていた。和希はしばらく動かず、その薄い明るさを見ていた。隣の気配はもう起きているらしい。シーツの皺の向こうに残る体温だけが、夜がたしかにここにあったことを示していた。小さな音がする。キッチンでカップが触れ合う音。湯が細く落ちる音。床を踏む足音。どれもごく小さいのに、不思議なくらい自然に耳へ入ってきた。以前なら、こういう朝の静けさはどこか居心地が悪かったかもしれない。体温の残り方も、カップの音も、窓から入る光も、どこか自分には早すぎるもののように思えただろう。けれど今は、強い違和感がない。ただ、朝が来ていて、自分はその朝の中にいるのだと、静かに分かる。和希は上半身を起こした。テーブルの上には、飲み終えたカップが二つ置かれている。どちらも底に少しだけコーヒーの色を残したまま、もう役目を終えた顔をしていた。特別な幸福の朝という感じではない。誰かの部屋で、ただ一日が始まりかけているだけの光景だった。芳人は背を向けてネクタイを締めていた。白いシャツの襟元に指を入れ、いつもの手つきで結び目を整える。その横顔は落ち着いていて、夜の余韻をわざわざ確かめようとはしない。和希はその背中を見ながら、胸の奥にある静かな重さを意識した。窓の外の光が、少しだけ強くなる。美里は、こういう朝をもう見ない。その事実が、不意に胸へ落ちた。痛くないわけではない。むしろ、いつでも少しは痛いのだろうと思う。けれど今の和希は、その痛みから目を逸らさなかった。逸らさずに、そのまま胸の内へ置いておける。もういない。それでも朝は来る。そして自分は、その朝をちゃんと生きるしかない。言葉にしたわけではない。けれど気持ちは、自然にその方向へ向いていた。芳人が時計を見て、ジャケットを手に取った。鍵の触れ合う小さな音がする。振り向いたが、長い確認はしない。
ドアが開いたとき、芳人は何も聞かなかった。深夜に近い時間だった。廊下の白い灯りを背に立つ和希を一目見て、ただ身体を半歩だけ引き、入れるための隙間を作る。それだけだった。どうしたとも、何があったとも言わない。和希もまた、言い訳のような前置きはしなかった。靴を脱ぎ、部屋へ入る。芳人の部屋は、前と同じ静けさを持っていた。けれど今夜、その静けさは和希を追い詰めなかった。整いすぎた家具の輪郭、低い灯り、窓の向こうの夜の薄い気配。どれも知っている。知っているまま、前とは違う場所のように見える。芳人はキッチンへ向かった。湯を沸かす、小さな音がする。和希はソファの端に座り、テーブルの木目を見た。自分から来たくせに、喉の奥だけが少し乾いている。ここに来るまでの道で、何度も引き返すことはできた。メッセージだって、送らずに済ませることはできた。それでも来た。今夜は、それで十分だった。マグカップが目の前に置かれる。湯気がかすかに立っている。芳人は向かいではなく、少し離れた位置へ腰を下ろした。近づきすぎない。手も伸ばさない。その待ち方だけで、以前と違うのだと分かる。和希はカップに口をつけた。熱が舌に触れ、喉を落ちる。そのあいだ、芳人は何も言わなかった。沈黙は長かったが、重くはなかった。言葉を急かされないことが、今夜はむしろ必要だった。和希はしばらく視線を落としていた。手の中の熱、部屋の静けさ、芳人の気配。どれも近いのに、奪うような圧がない。そのことに、少しずつ呼吸が整っていくのを感じる。前は違った。最初の夜、自分は払う側だった。妹のため、復讐のため、自分を罰するため、そういう理由を重ねて、自分を差し出した。芳人に触れることも、その熱に沈むことも、全部どこかで代価の形をしていた。苦しい夜には麻酔として使い、壊れそうなときには自分を罰するために求めた。好きだからではない、と何度も言い聞かせながら、結局はその言い訳ごと芳人の方へ落ちていった。今夜は違う。その違いをどう言えばいいのか、さっきまでうまく分からなかった。だが、いまこうして黙って向かい合っていると、その言葉だけは、ようやく形になった。
部屋に戻ると、最初に聞こえたのは冷蔵庫の低い音だった。靴を脱ぎ、鍵を置き、ネクタイを緩める。どれも毎日の終わりに繰り返している動作なのに、今夜はそのひとつひとつが、少しだけ軽かった。軽いと言っても、何かが消えたわけではない。美里のことも、白燈院のことも、鳴海の乾いた声も、まだ身体のどこかに残っている。ただ、前のように、扉を閉めた瞬間に全部がいっせいに胸へ押し寄せてくる感じではなかった。部屋は静かだった。以前なら、その静けさはすぐに別のものへ変わった。何も音がしないだけで、自分の頭の中の声ばかり大きくなる。遅かった、救えなかった、もっと早く気づいていれば、という同じ場所を、何度でも思考が巡っていた。静かさは休まるためのものではなく、罪悪感が形を持つための器みたいなものだった。今夜も、静かではある。けれど、その静けさの底が少し違う。和希は上着を椅子の背にかけ、キッチンで水を飲んだ。冷たい水が喉を落ちる。窓の外では、遠くで車が一台通り過ぎた。部屋の中はそれきりまた静かになったが、息が詰まる感じは来なかった。代わりに、もっと別の感覚がじわじわと浮いてくる。何だろうと考えるより先に、ひとつの気配が頭に差した。芳人だった。会っていたときの顔ではない。給湯室で告げられた重すぎる言葉でも、訴状の前に座る弁護士の横顔でもない。もっとどうでもいい断片だった。駅前で紙カップを二つ持って待っていたこと。砂糖は入れないだろうと、当然みたいに無糖のコーヒーを渡した手つき。何も話さないまま、歩幅だけを合わせて隣を歩いた帰り道。別れ際の短い「またな」。その程度のことが、妙にはっきり胸に残っている。和希は流しの縁に片手をついたまま、少しだけ目を閉じた。今までの自分なら、こういう夜に誰かを思い出す理由は、もっと切迫していたはずだった。考えたくないから。眠れないから。壊れそうだから。埋めてもらわないと持たないから。そういう理由が先にあって、その先に芳人がいた。今は違う。今日、誰かに追い詰められたわけではない。録音を聞いた夜みたいに息が壊れているわけでもない。白燈院の文書を読
仕事を終えたあと、和希は駅前の小さなコーヒースタンドで芳人と落ち合った。約束らしい約束はなかった。昼過ぎに、仕事が終わったら少し顔を見るか、と短いメッセージが来て、それに和希が、遅くなるかもしれない、とだけ返した。結局、少し遅れて着いたときにも、芳人は何も言わなかった。ただ、紙のカップを二つ持って店先の脇に立っていた。「こっち、熱いから気をつけろ」差し出されたカップを受け取る。砂糖もミルクも入っていない匂いがして、和希はそれだけで少しだけ息をついた。以前なら、そういうことに気づかれるのが嫌だったかもしれない。今は違う。気づかれていること自体より、それをわざわざ言葉にしないまま置かれる方が、胸に静かに残る。駅前はまだ人が多かった。会社帰りの流れが途切れず、信号のたびに小さな塊ができてはほどけていく。二人はそのまま歩き出した。行き先を先に決めるでもなく、ただ大通りを外れて、少し静かな裏道へ入る。芳人は、必要なことしか聞かなかった。「今日、佐伯から連絡はあったか」「来た」「鳴海は」「来週、また出るらしい」それだけで会話は途切れる。途切れても、埋める必要がない。以前の二人なら、その沈黙の裏にはいつも別のものがあった。緊張だったり、欲だったり、どちらかがどこまで踏み込むかを測る気配だったり。今はそういう棘が薄い。和希は歩きながら、横の芳人を見た。相変わらず、表情は大きく変わらない。ネクタイを少し緩め、上着のポケットに片手を入れたまま、歩幅だけを和希に合わせている。無理に近づいてくることもなければ、妙に気を遣った言葉を足すこともない。ただ、隣にいる。それが前と違うのだと、和希にも分かった。以前の芳人は、もっと分かりやすく引き寄せようとしていた。和希が崩れそうになれば、その重さごと自分の側へ寄せようとしたし、和希もまた、考えずに済むための熱としてそれに触れた。今は違う。芳人はもう、抱えて片づけようとしない。慰めの形へ誘導もしない。欲しがっている気配が消えたわけではないのだろうが、それを前へ出してこない。和希の方も、それを完全には言葉にでき
しゃがみ込んだまま、和希はしばらく動けなかった。スマートフォンの画面はまだ明るく、短いやり取りだけが白く残っている。今度ごはん行こう。忙しい。じゃあまた今度。その四文字の軽さが、逆に息を詰まらせた。約束ですらない、いつでも作り直せるはずだった予定の断片。だからこそ、その先が永遠に来ないことが、容赦なく分かってしまう。部屋は静かだった。窓の外の光はもうほとんどなく、棚の輪郭も少しずつ暗さへ溶けていく。和希はようやく画面を伏せ、床に落ちていた小さなポーチへ視線をやった。前にも見たことのある、何でもない布のポーチだった。淡い色で、端が少し擦れている。化粧品か、目薬か、飴でも入れていたのだろうと、いつもそれくらいにしか思っていなかった。手を伸ばして拾い上げる。軽い。中には細いリップクリームと、小さな包み紙の切れ端、それから丸めたレシートが一枚入っていた。レシートの店名はコンビニで、甘いパンとカフェラテの文字が読める。日付はもう数か月前だった。そのとき、和希の頭に、ごく小さな場面が不意に戻った。美里は甘いものを選ぶとき、少しだけ迷う顔をした。大げさに悩むわけではない。棚の前で数秒だけ立ち止まり、結局、いちばん無難そうなものを手に取る。派手な新商品ではなく、何度も買ったことのある、安い焼き菓子とか、クリームの入ったパンとか、そういうものを選ぶ。そのくせ一口目だけは、いつも少しだけ嬉しそうだった。どうでもいい記憶のはずなのに、その顔だけが妙にはっきり浮かぶ。白燈院とは何の関係もない。不倫とも、中絶とも、録音とも関係ない。ただコンビニで甘いものを選ぶ、美里の顔だった。和希はポーチを膝の上へ置いたまま、静かに息を吐いた。胸の奥にあった硬いものが、少しだけ違う形へ変わる。痛みが消えるわけではない。ただ、同じ痛みの中に、別の温度が混じり始める。スマートフォンの履歴に残っていた他愛ないスタンプも、ふと頭に浮かんだ。返事が面倒なときに美里がよく送ってきた、やる気のない猫のスタンプ。笑っているのか眠いのか分からない、微妙な顔のやつで、あれが来ると、ああ今は深く話したくないんだなと、何となく分かった。気を遣わせないように、け
夕方の光が薄く傾くころ、和希はまた美里の部屋へ来ていた。この部屋へ入るたび、最初に感じるのは静けさではなく、音のなさの不自然さだった。人が住んでいればあるはずの、ごく細かな生活の気配がない。冷蔵庫の開閉も、水道の一瞬の音も、床を踏む体重の揺れもない。そのくせ、目に入るものはどれも、いまでもここで暮らしが続いているみたいな顔をしている。カーテンの端。棚の上の雑誌。ヘアゴムの置き方。小さなゴミ箱の脇に立てかけられた紙袋。そういうものが、主を失った部屋のくせに、まだ生活の途中みたいに見える。和希は玄関を閉め、しばらくそこに立っていた。訴訟が始まり、会見が終わり、白燈院は崩れ始めた。御影の顔も、黒瀬の数字も、前のようには人を飲み込めないところまで来ている。それは確かなことだった。崩せたものはある。奪い返せたものもある。理屈では、そう言える。けれどこの部屋の前に立つと、その理屈はひどく遠かった。ここには、白燈院を崩すための証拠だけが残っているわけではない。むしろ逆だった。役に立たないものの方が多い。使いかけのハンドクリーム。裏が少しだけ破れた菓子の箱。付録つきの雑誌。洗面所の隅に残った細いヘアピン。そういう何でもないものばかりが、かえってこの部屋を美里のものとして強く残している。和希は部屋の奥へ入り、テーブルの前で立ち止まった。前に来たときは、ノートや履歴や予約メールや、読むべきものばかり見ていた。そこに残る意味を探して、繋がる線だけを追っていた。今は違う。今日は最初から、何かを調べに来たわけではない。それでも足がここへ向いたのは、静かになったあとにだけ戻ってくる現実が、この部屋に一番濃く残っている気がしたからだった。テーブルの端に、小さく折られたレシートがあった。買い物の途中で財布にしまいそびれたまま置いたのだろう。ドラッグストアの印字は少し薄れ、日付だけがかろうじて読める。洗剤、ヘアオイル、ティッシュ、ミネラルウォーター。どれも生活そのものみたいな品目だった。白燈院とも、供養とも、裁判とも、何の関係もない。なのに、そういうものの方が、和希には胸の奥へまっすぐ刺さる。美里はその日、確かにここで暮
芳人はしばらく和希を見ていた。顔を背け、肩だけを固くして、早くしろと投げるように言った和希を、そのまま飲み込むような視線では見なかった。むしろ、ひどく冷静に観察していた。ここへ来た理由が欲望ではないことも、差し出しているつもりで実際には自分を切り離そうとしていることも、全部見抜いている目だった。「立て」低い声で言われ、和希は一瞬だけ動かなかった。命令されること自体は想定していたはずなのに、その短い一言がひどく現実味を持った。和希は舌打ちしたい気分のまま、ソファから腰を浮かせる。立ち上がった瞬間、部屋の広さが変わる。整いすぎた
実家へ着いたときには、夜がすでに深くなっていた。駅からタクシーで十分ほどの住宅街は、見慣れているはずなのに、その夜はどこか色を失って見えた。街灯の白さが道路の端に細く落ち、並んだ家々の窓には、それぞれの生活の灯りがともっている。誰かが風呂に入り、誰かが夕飯の片づけをし、誰かがテレビを見ている。そういう普通の夜の中に、和希の実家だけが急に別の用途の家になってしまった気がした。玄関の灯りはついていた。インターホンを押す前に、鍵は開いた。父だった。ネクタイを外していないワイシャツ姿のまま、顔だけがひどく疲れている。泣いた顔ではない。むしろ逆だった
昼を少し過ぎた頃、芳人の事務所の窓には、白すぎる秋の光が斜めに差し込んでいた。夜の調査と違って、昼の光の下では、書類も端末も輪郭がはっきりしすぎる。机の上に並べたファイル、社員証、名刺入れ、スケジュール帳、会社の封筒。どれも昨日までは、ただの勤務先の持ち物に見えただろう。だが今は、その一つひとつが、美里の私生活へ続く別の入口みたいに思えた。和希は美里の社員証を指先で持ち上げた。細いストラップのついたプラスチックのケースに、証明写真が収まっている。少しだけ口元を引き締めた、仕事用の顔だった。私服でも、実家でも、兄と飯を食う時でもない、美里が会社で使っていた表情。名札の下には社名と部署名が
十月の終わりにしては、空が妙に白い夕方だった。和希は営業企画部の島で、ようやく今日最後の修正ファイルを閉じた。画面の右下に表示された時刻は、十八時四十分を少し回っている。会議用の資料を先方へ送り直し、上司から返ってきた確認メールに短く返信し、デスクの隅に寄せてあったマグカップを手に取る。コーヒーはもう冷え切っていて、表面に薄い膜が張っていた。オフィスには、まだ人が残っていた。電話を終えた誰かの椅子が軋み、少し離れた席ではキーボードを打つ音が細かく続いている。天井の蛍光灯は均一に白く、窓の向こうの夕方の色をほとんど消していた。ガラスの反射には、向かいの席の男







