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5.助けてと言えない

ผู้เขียน: 中岡 始
last update วันที่เผยแพร่: 2026-03-27 20:00:11

門を出てしばらく、美里はどちらへ歩けば駅へ着くのかも分からないまま足を動かしていた。

夜の空気は冷たかったが、頬を打つほどではない。ただ、肺の奥までうまく入ってこない。吸っているはずなのに足りない。別院の白い壁が背後へ遠ざかっていくたび、少しはましになるかと思ったのに、胸の狭さは消えなかった。

ようやく大通りへ出ると、車のヘッドライトが連なって流れていく。コンビニの白い看板、ファミリーレストランの窓、交差点の信号機。郊外の夜ですら、世界は普通に動いている。誰かが夕食を食べ、誰かが帰宅し、誰かが子どもを車から降ろしている。さっきまで自分の中で何かが決定的に壊れた気がしていたのに、街はそれと無関係だった。

駅へ向かう道の途中で、美里は一度だけ立ち止まった。

バッグの中のスマートフォンが重い。別院を出てから、一度も見ていない。見れば、何かが来ているかもしれない。兄から、職場から、通販の通知かもしれない。何でもない知らせのひとつひとつが、自分の壊れ方と噛み合わない気がした。

それでも取り出して画面をつける。

暗いガラスに、自分の顔が一瞬だけ映ってから、通知欄が現れる。未読のメールが一件、広告のプッシュ通知が二件。兄からは何も来ていない。ほっとしたのか、寂しかったのか、自分でも分からないまま、美里はトーク一覧を開いた。

和希。

その名前はいつも、一番上かそのすぐ近くにいる。特別頻繁にやりとりするわけではない。けれど、何でもない文のやりとりが絶えず途切れない距離に兄はいた。おつかれ、元気、今度ごはんどう、あの店まだあるかな。そういう、生活の端に置かれた言葉たち。そこへ指が伸びる。

トーク画面を開く。

最後の文面は、兄の「最近どう?」に対して自分が返した「また予定見て連絡するね」だった。淡々としている。普通だ。そこに何の異常もない。だから逆に、いまこの画面へ何かを書き込むことが、ひどく大ごとに思えた。

美里は文字入力の欄を開いた。

助けて

そこまで打って、指が止まる。

白い三文字。短い。簡単だ。このまま送ればいいだけだ。兄はきっとすぐに気づく。電話をかけてくるかもしれない。どこにいるの、と訊くかもしれない。いまから行く、と言うかもしれない。

美里はその文字列を見つめた。

助けて。

言えば、助けてくれる人がいる。

その事実は本来、救いであるはずだった。孤独の中で人を生かすのは、最後にはそこしかないのだろうと、頭のどこかでは知っている。ひとりではない。呼べば来てくれる人がいる。その事実に何度、これまで救われてきたか分からない。

なのに今は、その救いがいちばん残酷だった。

兄は来る。

来てしまう。

優しいから。放っておけない人だから。美里が本当に困っていると分かったら、たぶん全部背負おうとする。事情を聞こうとする。必要なら金も出そうとするだろう。そういう人だと知っている。知っているから、美里は助けを求められない。

白燈院の面談室で、兄の存在がああいう形で口にされた瞬間の冷たさが、また喉へ戻ってきた。ご家族に頼ることも供養のひとつです。お兄さま、東京にいらっしゃるんですよね。その声色の変わらなさ。自分が安心して話した断片が、そのまま資源として扱われる怖さ。

兄を巻き込みたくない。

ただ心配をかけたくない、ではもうなかった。巻き込めば、向こうは兄を見つけるかもしれない。兄の優しさに気づくかもしれない。金を出せる相手として目をつけるかもしれない。あるいは、美里のために兄が何かを失うかもしれない。その想像が、美里には耐えられなかった。

画面の文字を一つずつ消す。

助けて、は消えた。

代わりに、

会いたい

と打つ。

それも、しばらく見つめたあとで消した。

会えば、全部言いたくなる。

顔を見たら、たぶん泣く。兄は泣いた理由を訊くだろう。美里が何も言えなくても、何かがおかしいことだけは分かってしまう。分かれば、優しい人ほど深く入ってくる。そういう優しさに、これ以上触れたら駄目だと、美里は今夜はっきり知ってしまった。

駅のアナウンスが、少し遅れて耳に届く。ホームの変更を告げる機械的な声。人の足音。改札を通る電子音。自分の指先だけが、その流れから遅れているようだった。

美里は通話ボタンに親指を乗せた。

兄のアイコンの横にある受話器の印。押せばいいだけだ。声を聞けば、たぶん少しは楽になる。全部言わなくてもいい。いま会える、とだけ言えば。ごはん行こうって言ってたよね、でもいい。そんな遠回りでも、兄なら来てくれるだろう。

親指に力が入る。

けれど、そのまま押せなかった。

来てくれたらどうするの。

心の中で、自分の声が問う。

来てくれたあと、どう説明するの。何に金を使ったのか。なぜ黙っていたのか。どうしてこんなになるまでひとりで抱えていたのか。何より、自分が何をしたのか。自分の中にあったものを、自分がどうしたのか。その恥と罪を、兄に見せるのか。

兄は責めないだろう。

その確信が、逆に美里を追い詰める。

責めない人に見せるほうが、残酷だ。軽蔑されるならまだ耐えられる。だが優しい目で見られたら、自分はたぶん立っていられない。兄の中に、自分のしてしまったことの重さを置いてしまう。それが嫌だった。

通話画面を閉じる。

スマートフォンを握ったまま、改札を抜けた。

ホームには帰宅途中の人が並んでいる。スーツ姿の男、トートバッグを提げた女、制服の高校生、眠そうな顔の子どもを抱いた母親。みんなそれぞれの夜を持っていて、自分の足で家へ戻っていく。美里も同じようにその列に立つが、どこか薄くなっている気がした。世界の中にちゃんと輪郭を持って立っている人たちのあいだで、自分だけが少し透けている。

電車が来て、押されるように乗る。つり革につかまり、窓に映る自分を見る。淡く揺れる顔は、自分なのに自分ではないみたいだった。疲れている女がいる。目元が乾いていて、頬が少しこけている。息をしているのに、何かが止まりかけている顔。

都心へ近づくにつれて、車内は少し混み始めた。隣の席では誰かが動画を見て小さく笑い、向かいのサラリーマンは目を閉じている。吊り広告には新しいドラマや旅行のキャンペーンが並び、どれもひどく遠い。明日の予定を考えている人たちの中で、自分だけが明日までたどりつけるか分からないみたいだった。

それでも、美里の中にはまだ生きたい側が残っていた。

はっきりと分かるほどに。

兄に会いたいと思う。

一度だけでいいから、顔を見たいと思う。

怒られてもいいから、全部言ってしまいたいと思う。

その思いは嘘ではない。むしろ、そちらのほうが本音に近い。死にたいわけではない。ただ、このままではもう支えきれない何かがある。重すぎて、恥ずかしすぎて、誰かに渡せばその人まで沈む気がする。その相手が兄だと思うと、どうしても渡せないだけだ。

駅に着き、改札を出る。都心の夜はまだ明るかった。コンビニの前で立ち話をする若い男たち。ドラッグストアの店頭に積まれたティッシュ。ラーメン屋の外に伸びる列。信号待ちの人たちの顔には、それぞれの疲れや苛立ちがあるのに、誰も自分のようには見えない。もちろん、そんなことはないのだろう。誰だって見えないものを抱えている。でも今夜の美里には、世界全体が自分のいないところで正常に回っているようにしか感じられなかった。

コンビニに寄るか迷って、寄らなかった。財布の中身が先に頭をよぎる。けれど、それ以上に、明るすぎる店内へ入る気力がなかった。何気ない商品棚の前で、今夜の自分があまりに場違いに思えそうだった。

アパートへ向かう道は、いつもと同じだった。細い路地、駐輪場の並んだマンション、誰かの部屋から漏れるテレビの音。エレベーターはなく、外階段を上る。足音が小さく響く。鍵を取り出し、開ける。部屋の空気は冷えきってはいなかったが、人のいない時間の匂いがした。

玄関を閉めた瞬間、外の世界とのつながりがひとつ切れる。

ワンルームの静けさが、耳に痛いほど近い。

床には脱ぎっぱなしのカーディガンが落ちていた。ソファの端にバッグを置くと、クッションが少し潰れる。テーブルの上にはレシートが二枚と、開封したままの郵便物。流しには洗っていないコップと、昨日使った小皿。洗面所には残り少ないハンドソープ。棚のティッシュ箱は軽くなっている。生きてきた痕跡が、ちゃんと部屋のあちこちに残っている。

その生活感が、美里の胸を刺した。

ここで暮らしてきたのだ。

朝起きて、顔を洗って、適当に髪をまとめて、会社へ行って、疲れて帰って、コンビニのごはんを食べて、たまに兄から来た連絡に返事をして。たいしたことのない、普通の暮らし。ひどく幸せとは言えなくても、ちゃんと続いていた毎日。流しのコップも、脱ぎっぱなしの服も、その続きの中にある。

だからこそ、今この部屋で途切れるかもしれないことが、やけに現実味を帯びる。

美里は靴も脱ぎきらないまま床に座り込んだ。背中を壁に預けると、冷たさがじわりと伝わる。スマートフォンを握ったまま、ただぼんやりと天井を見る。

助けて、と言えばいい。

その声はまだ消えていない。

兄にだけではない。会社を休むでもいい。病院へ行くでもいい。警察に相談するでもいい。何か別の道があるのかもしれない。そういう考えが、完全になくなったわけではない。

けれどそのどの道も、結局は兄へつながる気がした。

何かがあれば、兄に連絡がいくかもしれない。

兄は来るかもしれない。

事情を知るかもしれない。

白燈院のことを知ったら、兄は黙っていないだろう。自分のために怒るだろう。動くだろう。金を出そうとするかもしれないし、直接話をつけようとするかもしれない。その結果、兄まであの場所の視界に入るかもしれない。兄の優しさが、向こうにとっての入口になるかもしれない。

それが嫌だった。

何よりも嫌だった。

美里はようやく靴を脱ぎ、立ち上がって水を飲んだ。コップは流しにあるものを軽くすすいで使う。水道水は冷たく、喉を通っても心臓の速さは変わらない。テーブルに置いたスマートフォンが、沈黙のままこちらを見ている気がする。

兄のトーク画面をまた開く。

今度は文字を打たずに、そのまま通話履歴のところまで指を滑らせる。前に話したのはいつだっただろう。季節の話をして、忙しいねと言って、それでも近いうちにごはん行こうと笑って切った。あのとき、兄は何も知らなかった。美里も、まだここまで壊れていなかった。

指先が震える。

電話しかけて、切る。

一度呼び出し音が鳴る前に閉じた。心臓がどくどくうるさくなる。画面を見つめたまま、今のは誤タップだと思われるだろうか、とどうでもいいことを考える。そんなことを考えられる自分がまだどこかに残っているのが、妙に悲しかった。

会いたい。

助けて。

ごめん。

いくつもの言葉が頭の中で行き来して、どれも送れない。

美里はベッドの端に腰を下ろした。スプリングが小さくきしむ。枕元には読みかけの文庫本が伏せてあり、しおり代わりにレシートが挟まっている。先月まで使っていたリップクリームも転がっている。こんな些細なものたちが、まだ明日の自分を前提にそこにある。文庫本の続きはもう読まないのかもしれない、と思った瞬間、美里は顔を覆った。

泣き声は出なかった。

ただ、手のひらの中で呼吸だけが崩れる。

死にたいのではない。

その思いは、何度考えても変わらなかった。

生きたい側は、まだある。兄に会いたい。普通にごはんを食べたい。美容院へ行って、ちゃんとした服を着て、何もなかった顔で働きたい。そういう未来を、美里はまだ捨てきれていない。

でも、それを守るために誰かを呼べば、その誰かを壊すかもしれない。

兄を巻き込みたくない。

兄に自分の恥を見せたくない。

兄の優しさを、あの場所に触れさせたくない。

その三つが、何度考えてもほどけない。

助けを拒んでいるのではなかった。助けてくれる人を知っているからこそ、呼べないのだ。呼んだ先に起こることを、想像できてしまうから。もし兄が来て、もし兄が自分を抱き起こして、もし全部を知って、それでも助けようとしたら。その優しさを、自分のせいで危険へ向かわせるくらいなら、自分ひとりで終わったほうがいい。

その論理が、ゆっくりと、けれど確実に形を持っていく。

最初はただの恐怖だった。次に、恥が混ざった。そこへ兄への愛情が絡み、最後に、諦めみたいな静けさが沈んでくる。自分が苦しいから終わりたいのではない。これ以上、兄に向かう道を残したくない。ただそれだけだと、自分に言い聞かせるように思う。

美里は顔を上げた。

部屋は静かだった。冷蔵庫の低い音。遠くで走る車の気配。隣の部屋のテレビ音が壁越しにかすかに響く。誰かはまだ起きていて、誰かはもう眠っている。世界は続いている。その中で自分の部屋だけが、少しずつ深い夜の底へ沈んでいく。

テーブルの上に、会社でもらったメモ帳があった。白い便箋ではなく、無地のノートでもなく、罫線の入った普通のものだ。ペン立てには黒いボールペンが一本刺さっている。スマートフォンのメモアプリでも書ける。どちらがいいのか、一瞬だけ迷う。

手紙なんて、何を書けばいいのだろう。

謝ることばかりだ。

ごめんなさい、と書いて、それで済むはずがない。兄にはもっと別のことを伝えたかったはずなのに、最後に残るのが謝罪だけなのが嫌だった。それでも、何も残さないまま消えるよりはいいのかもしれない。せめて、兄が自分のせいではないと分かるように。兄だけは巻き込まれないように。兄が自分を探してあの場所へ行かないように。

そのためには、書かなければならない。

書くしかない。

美里はゆっくりと立ち上がり、テーブルへ行った。ノートを開く。ペンを手に取る。指先が少し震えている。スマートフォンも隣へ置き、メモアプリの画面も開く。どちらにするかまだ決められないまま、白い空白だけが目の前に広がる。

しばらくそのまま動けずにいたあと、美里は、最初の一行をどこに置くべきか考えた。

兄さんへ、と書けば、それで全部が本当になってしまう気がした。まだ戻れるものが、そこでなくなる気がした。けれど逆に、その一言を書かなければ何も始められないことも分かっていた。

美里は息をひとつだけ吸い、ペン先を白い紙の上へ近づけた。

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